1978(昭和53)年4月4日、後楽園球場で「キャンディーズ」解散コンサートが行われ、
同日(1978/4/4)横浜スタジアムで横浜大洋ホエールズの本拠地開幕戦が行われた。
そこに至るまでの「キャンディーズと大洋ホエールズの物語」を連載中であるが、
前回は、1976(昭和51)年3月1日にリリースされた、「キャンディーズ」9枚目のシングル『春一番』が大ヒットした所までを描いた。
1976(昭和51)年春に、「キャンディーズ」は『春一番』という大ヒット曲を出したが、
同年(1976年)夏、「キャンディーズ」はその勢いに乗り、『夏が来た!』という曲を大ヒットさせる事となる。
という事で、今回は1976(昭和51)年夏の「キャンディーズと大洋ホエールズの物語」を描く。
それでは、ご覧頂こう。
<1976(昭和51)年3月27日…「キャンディーズ」がTBSラジオ電リク29時マラソンDJに挑戦>
1976(昭和51)年3月27日、「キャンディーズ」は、
TBSラジオの電リク29時マラソンに挑戦した。
「キャンディーズ」は、午前1時~5時まで、生放送のラジオDJに挑戦し、見事に大役を果たしたが、
この年(1976年)の「キャンディーズ」は、活躍の舞台を「ラジオ」にも広げる事となる。
電リク29時マラソンDJは、そのキッカケとなる出来事であった。
<1976(昭和51)年3月~4月…「キャンディーズ」は全国5ヶ所で、初の長期公演ミュージカル「スタンバイOK」に主演~1976(昭和51)年4月8日の九州・小倉での公演で、スー(田中好子)が20歳の誕生日を迎える>
1976(昭和51)年3月29~31日、東京・日劇にて、
「キャンディーズ」主演のミュージカル「スタンバイOK」が開催された。
この公演は、「キャンディーズ」主演による、初の本格的なミュージカルであり、
第一部が「キャンディーズ」主演のミュージカル、第二部が「キャンディーズ」によるコンサートという構成となった。
「キャンディーズ」は、プロの俳優達と共演し、初めて演技を本格的に学ぶ事となった。
東京・日劇での「スタンバイOK」の舞台は大成功となったが、
これを皮切りに、「キャンディーズ」は全国5ヶ所を縦断する、「スタンバイOK」の長期公演を開催した。
そして、1976(昭和51)年4月6日、九州・小倉市民会館での「スタンバイOK」の舞台の日、
スー(田中好子)が20歳の誕生日を迎え、ラン(伊藤蘭)・ミキ(藤村美樹)やファン達から盛大に誕生日をお祝いしてもらったスー(田中好子)は、感激の涙を流した。
そして、スー(田中好子)が20歳になった事により、「キャンディーズ」は全員20代となった。
<1976(昭和51)年4月1日…「キャンディーズ」10枚目のアルバム『春一番』リリース>
1976(昭和51)年4月1日、「キャンディーズ」は10枚目のアルバム『春一番』をリリースした。
大ヒット曲『春一番』など、全12曲が収録されたアルバムであるが、
「『春一番』のLPだけあって、何となく全体的に春をイメージした曲が多いLPです。確か、このレコーディングの時は時間が無く、私達が大阪フェスでショーを開いた時、わざわざ東京からレコーディング・スタッフが来て、大阪でレコーディングした事を思い出します」
…と、後にミキ(藤村美樹)は回想している。
そう、この頃になると、「超売れっ子」となった「キャンディーズ」は、コンサートや舞台で忙しく、
レコーディングの時間を確保するのも大変という状況であった。
<1976(昭和51)年5月31日…「キャンディーズ」10枚目のシングル『夏が来た!』リリース>
1976(昭和51)年5月31日、「キャンディーズ」は10枚目のシングル、
『夏が来た!』をリリースした。
大ヒット曲『春一番』に続き、穂口雄右が作詞・作曲を手掛けたが、
『夏が来た!』について、後にラン(伊藤蘭)は、こう振り返っている。
「夏らしさを出そうという事で、肌を小麦色にするために、わざわざグァム島に行って、陽にやけて来ました。髪も短くして、この曲にかけました。楽しい思い出のある曲です…」
ラン(伊藤蘭)が振り返っている通り、
「キャンディーズ」は、『夏が来た!』のリリースに合わせて、グァム島に行っていたが、
これは、「キャンディーズ」が出演する、サンヨーカラーテレビのCM撮影を兼ねての物であった。
今や「超売れっ子」となった「キャンディーズ」を、企業が放っておく筈もなく、「キャンディーズ」は沢山のCMに出演をする事となる。
なお、「キャンディーズ」がグァム島ロケを行なった、サンヨーカラーテレビのCMは、1976(昭和51)年5月~に放送されている。
という事で、「キャンディーズ」の歌手としての魅力を知り尽くしている穂口雄右が作詞・作曲した『夏が来た!』は、「キャンディーズ」にピッタリの、爽快で素晴らしい曲であるが、その『夏が来た!』の歌詞を、ご紹介させて頂こう。
『夏が来た!』
作詞・作曲:穂口雄右
唄:キャンディーズ
緑が空の青さに輝いて
部屋のカーテンと同じ色になっても
少しどこかがちがうのは
きっと生きてるからだろうなんて考えて
なぜか君に会いたい
※砂の上に髪をひろげて
ねころんで夢を見て
こんな不思議な出来事が
あっていいものかと思うぐらい
幸せな雲が風におどるよ※
季節が僕の背中にやきついて
白いサンダルが似合うようになったら
今日はそうだよ少しだけ
大人のふりしてみようなんて考えて
君に電話をかけるよ
波の上にからだうかべて
おもいきり背のびして
こんな不思議な出来事が
あっていいものかと思うぐらい
爽やかな雲が空におどるよ
※~※くりかえし
…という事で、『夏が来た!』という曲は、
歌詞をお読み頂ければわかる通り、「夏」という言葉は、タイトル以外には全く出て来ないが、
それでも、この曲は紛れもなく、夏の明るさを存分に表現しており、曲を聴けば一発で、
「ああ、これは夏の曲だな」
という事が、すぐにわかる。
穂口雄右は『春一番』に続き、『夏が来た!』で、「キャンディーズ」の歌に仮託して、季節の移ろいを見事に表現して見せた。
やはり、穂口雄右という人は、誠に素晴らしいクリエイターである。
<1976(昭和51)年夏~「キャンディーズ」10枚目のシングル『夏が来た!』は、オリコン最高「5位」の大ヒット!!~「キャンディーズ旋風」は止まらず>
という事で、大ヒット曲『春一番』に続き、「季節シリーズ」としてリリースされた『夏が来た!』は、オリコン最高「5位」という大ヒットを記録し、
「キャンディーズ」は『春一番』に続き、『夏が来た!』で「キャンディーズ旋風」を巻き起こした。
『夏が来た!』は、「キャンディーズ」が爽やかな衣装を着て歌っていたが、先程も書いた通り、「キャンディーズ」のイメージにもピッタリであった。
そして、「キャンディーズ旋風」は、まだまだ続いて行くのである。
<1976(昭和51)年6月20日…「キャンディーズ」が第5回・東京音楽祭・国内ゴールデン・スター賞を受賞>
1976(昭和51)年6月20日、「キャンディーズ」は第5回・東京音楽祭りで、
「国内ゴールデン・スター賞」を受賞したが、
この大会のグランプリである「ゴールデン・カナリー賞」受賞者が、メイン・イベントである世界大会へ出場する事となり、「キャンディーズ」は「次点」であった。
惜しくも、世界大会への出場を逃した「キャンディーズ」であるが、歌手としての実力は高く評価されており、「国内ゴールデン・スター賞」は、その証左となった。
<ラジオと「キャンディーズ」①~1976(昭和51)年6月20日…文化放送「GO!GO!キャンディーズ 花嫁修業中」が放送開始>
1976(昭和51)年6月20日、ラジオの文化放送で、「キャンディーズ」がパーソナリティーを務める、
「GO!GO!キャンディーズ 花嫁修業中」が放送開始された。
第1回目の放送で、「キャンディーズ」の各メンバーの第一声は、下記の通りである。
・「ランです。今は水色の季節。朝霧の中で、貴方が来るのを待っています」(ラン(伊藤蘭))
・「ミキです。今は恋の季節。新しい恋が夏に向かって大きく羽ばたいてくれるでしょう」(ミキ(藤村美樹))
・「スーです。今は食欲の季節。一年中、食欲と闘っています…って、何言わせんのよ!!」(スー(田中好子))
…という事で、思わず笑ってしまうようなやり取りであるが、
「GO!GO!キャンディーズ」での、ラン(伊藤蘭)・スー(田中好子)・ミキ(藤村美樹)の掛け合いは抜群に面白く、「キャンディーズ」は、ラジオという場で、新たな魅力を発揮して行った。
ラジオというメディアは、タレントの「素」に近い部分が出されるので、リスナーにとっては、タレントをより身近に感じられる場であるが、「キャンディーズ」とラジオの相性は抜群に良かった。
「GO!GO!キャンディーズ」(略称:「ゴーキャン」)は、以後、「キャンディーズ」の解散まで続く、超人気番組として定着した。
<ラジオと「キャンディーズ」②~1976(昭和51)年7月2日…日本短波放送「キャンディーズ情報局」放送開始>
1976(昭和51)年7月2日、「キャンディーズ」は、新たなラジオ番組のパーソナリティーを務める事となる。
それが、ラジオの日本短波放送で放送開始された、「キャンディーズ情報局」という番組であるが、
「キャンディーズ情報局」では、「キャンディーズ」と、日本短波放送の大橋照子アナウンサーが、共にパーソナリティーを務めた。
「キャンディーズ」と大橋照子アナウンサーとの相性も抜群であり、彼女達は、軽妙なやり取りを繰り広げていた。
「キャンディーズ情報局」では、
番組独自の企画(?)として、「エグレの会」「餃子の会」「鳩胸出っ尻の会」「焼肉の会」…などなど、
「キャンディーズ」と大橋照子アナウンサーによって、様々な会(?)が作られるなど、番組は常に和気藹々とした雰囲気であった。
ラジオは、こういう「内輪ノリ」が非常に大きな魅力であるが、やはり「キャンディーズ」とラジオの相性は抜群だったのである。
そして、「キャンディーズ情報局」は、その名の通り、「キャンディーズ」の活動について、様々な情報が発信されたが、
この番組で、1976(昭和51)年夏の「キャンディーズ」の全国縦断コンサートのタイトルが、
「サマージャック'76」と命名されるという、重要な出来事も有った。
そう、「キャンディーズ」は1976(昭和51)年夏、遂に大規模な全国縦断コンサートを開催する事となるのである。
<1976(昭和51)年7月~8月…「キャンディーズ」が日本全国24ヶ所50公演の「サマージャック'76」開催~日本全国で述べ「10万人」の観客を動員>
1976(昭和51)年夏、「キャンディーズ」は日本全国を縦断する、大規模なコンサート・ツアー、
「サマージャック'76」を開催する事となった。
その「サマージャック'76」は、1976(昭和51)年7月18日、札幌・中の島公園の会場からスタートしたが、
「キャンディーズ」のファンクラブの250人の会員が、「キャンディーズ」と共に、飛行機で一緒に札幌へと向かうという特別企画も有った。
「キャンディーズ」は、常にファンを大切にするグループだったが、「サマージャック'76」は、そんな「キャンディーズ」の姿勢の真骨頂となった。
「キャンディーズ」は、1976(昭和51)年7月18日の札幌でのコンサートを皮切りに、
1976(昭和51)年7月~8月にかけて、「サマージャック'76」で、何と日本全国24ヶ所50公演を行なった。
日本の芸能史上、アイドル・グループが、そんな大規模なコンサート・ツアーを行なったというのは、勿論、前例が無かったが、「キャンディーズ」は、それをやってのけた。
「キャンディーズ」はデビュー以来、地道に歌を歌い続け、どんな小さなステージも一生懸命に行っていたが、その地道な活動で鍛え上げられた、歌手としての実力が、遺憾なく発揮されたと言って良い。
そして、「サマージャック'76」では、「キャンディーズ」は、ファン達から「宇宙服」と称された、ド派手な衣装で登場し、ファンを驚かせたが、一つのコンサートで、沢山の「衣装変え」をするなど、「キャンディーズ」は歌だけでなく、目でもファンを楽しませた。
この頃になると、日本全国で「キャンディーズ」の「追っかけ」をする若者達も急増し、「キャンディーズ」の人気ぶりは、まさに鰻上りであった。
<1976(昭和51)年6月~7月…「キャンディーズ」は2枚のアルバム『ベスト・オブ・ベスト/キャンディーズのすべて』(1976/6/21)&『夏が来た!』(1976/7/21)をリリース>
1976(昭和51)年夏、各方面で大活躍の「キャンディーズ」は大忙しだったが、
その間も、「キャンディーズ」は着実に歌手としての活動を続けていた。
1976(昭和51)年6月21日、「キャンディーズ」は通算11枚目のアルバム『ベスト・オブ・ベスト/キャンディーズのすべて』をリリースしたが、「キャンディーズ」は驚くほど短いスパンで「ベスト盤」を出していた。
それだけ、「キャンディーズ」は大ヒット曲を連発していたのは確かだが、これらのレコードを買うファンも、大変だったかもしれない。
1976(昭和51)年7月21日、「キャンディーズ」は、通算12枚目のアルバム『夏が来た!』をリリースした。
大ヒット曲『夏が来た!』も収録されている、オリジナル・アルバムであるが、
「ムーンライダーズの方達が曲を作って下さって、今までのLPとはちょっぴり違った、ニューミュージックっぽい雰囲気が感じられるLPです。夏らしい曲も多く入れる事ができ、ミキ(※藤村美樹)は、『めぐり逢い』のレコーディングの時、息を吸った途端、小さい虫を一緒に飲み込んでしまったというエピソードもありました」
…と、後にスー(田中好子)は『夏が来た!』のアルバムについて、振り返っている。
ムーンライダーズが「キャンディーズ」に楽曲提供したという事は、注目に値する。
それは、「キャンディーズ」には、様々なアーティストが楽曲を提供したいと願うような、歌手としての魅力が有ったという事に他ならない。
<1976(昭和51)年の「長嶋巨人」~前年(1975年)最下位に沈んだ「長嶋巨人」は、張本勲・加藤初らを「大補強」し、開幕から首位を快走>
さて、前年(1975年)に屈辱の「最下位」に終わった「長嶋巨人」であるが、
「最下位」からの巻き返しを図る「長嶋巨人」は、1976(昭和51)年に「大補強」を敢行した。
まず、「長嶋巨人」は、日本ハムファイターズから張本勲をトレードで獲得すると、
太平洋クラブライオンズから加藤初投手もトレードで獲得し、
「長嶋巨人」は、加藤初・張本勲を、新たな投打の軸に据える事を試みた。
すると、加藤初は開幕早々、ノーヒットノーランを達成するなど、「長嶋巨人」のエース格として活躍し、
張本勲も大活躍し、王貞治・張本勲のコンビで、強力な「OH砲」を形成するなど、打線の中核となった。
そして、移籍組の活躍に刺激を受けた生え抜き組も活躍するという相乗効果が有り、「長嶋巨人」は、開幕から首位を快走した。
まさに「大補強」は効果覿面だったが、その「長嶋巨人」に食らい付いたのが、阪神タイガースであった。
<1976(昭和51)年の阪神タイガース~ブリーデン・ラインバック・田淵幸一・掛布雅之らの超強力打線の阪神が、「長嶋巨人」に食らい付く>
一方、その「長嶋巨人」に食らい付いて行ったのが、吉田義男監督率いる阪神タイガースである。
この年(1976年)の阪神には、ブリーデン・ラインバックという、強力な外国人選手のコンビが揃って入団したが、
ブリーデン・ラインバックが加わった事により、阪神打線はリーグでも随一の破壊力を誇るようになった。
なお、ブリーデンは「赤鬼」というニックネームからもわかる通り、迫力満点だったが、
ラインバックは、どちからかと言えば物静かな雰囲気の選手であった。
1976(昭和51)年の阪神タイガースは、
投手陣では、江本孟紀・上田二朗・古沢憲司…らが力投し、
打線は、ブリーデン・ラインバック・田淵幸一・掛布雅之…などなど、強力メンバーがズラリと顔を揃えた。
前述の「長嶋巨人」に負けない豪華メンバーを誇った阪神は、開幕から「長嶋巨人」に食らい付き、
この年(1976年)は巨人と阪神が、終始、激しい首位争いを繰り広げていた。
<1976(昭和51)年6月8日…後楽園球場の「巨人VS阪神」の首位攻防戦で、末次利光が劇的な逆転サヨナラ満塁ホームランを放つ>
そんな「巨人VS阪神」の激しい首位争いを象徴する試合となったのが、
1976(昭和51)年6月8日の、後楽園球場での「巨人VS阪神」の首位攻防戦となった。
この試合、巨人は9回2死まで0-2と阪神にリードされていたが、
9回裏2死満塁という土壇場で、末次利光(巨人)が起死回生の逆転満塁サヨナラホームランを放ち、「長嶋巨人」が劇的な逆転サヨナラ勝ちを収めた。
この時、長嶋茂雄監督が、殊勲の一打を放った末次を出迎える、有名な写真が有るが、殊勲者の末次よりも、長嶋監督の方が目立っているというのが印象的(?)である。
<1976(昭和51)年の大洋ホエールズ~期待の新人、田村政雄・岩井隆之は主力に定着出来ず、開幕から「最下位」に低迷~1976(昭和51)年7月23日…川崎球場の「大洋VS巨人」の試合で、鵜沢達雄(大洋)が王貞治(巨人)に「通算700号」ホームランを打たれる>
さて、1976(昭和51)年の大洋ホエールズであるが、
期待の新人、田村政雄・岩井隆之は、残念ながら主力には定着する事が出来ず、
大洋も開幕から「最下位」に低迷してしまう。
やはり、当時の大洋はどうしてもチームとしての総合力が低く、なかなか浮上する事は難しかった。
そんな中、低迷する大洋ホエールズに追い打ちをかけるような出来事が有った。
1976(昭和51)年7月23日、川崎球場で「大洋VS巨人」の試合が行われたが、
この試合で、鵜沢達雄(大洋)が王貞治(巨人)に、プロ野球史上初となる、
「通算700号ホームラン」
を打たれてしまったのである。
王の「700号」が出た瞬間、超満員の川崎球場の観客席は、大騒ぎとなったが、
当時の川崎球場は大洋の本拠地でありながら、大半は巨人ファンに占拠されていた。
王貞治は、「通算700号」に王手を掛けてから、20日間もホームランが打てず、ファンをヤキモキさせていたが、
長いトンネルを抜けた後の、待望の「通算700号」とあって、ファンもマスコミも大喜びであり、世間は大騒ぎとなった。
この辺りから、王の「ホームラン狂騒曲」が始まって行くのであるが、
王に「通算700号」を打たれてしまった大洋ホエールズは、完全に王の「引き立て役」になってしまった。
なお、川崎球場では、王の「通算700号」を記念するモニュメントも作られたが、大洋ファンは、それを見る度に、複雑な心境になっていたのであった。
(つづく)