今回の投稿は、このブログの「通算868投稿目」の記事である。
「868」という数字で連想されるのは、「世界のホームラン王」王貞治の「通算868本塁打」という、大記録である。
このブログを書いて来て、曲がりなりにも、投稿数が「868」という数字まで到達したというのは、私としても嬉しい限りである。
私は、このブログで色々な記事を書いて来ているが、
折に触れて、王貞治に関する記事も、いくつか書いて来た。
私が、王貞治という人物に惹かれるのは、その圧倒的な実績もさる事ながら、
毎年毎年、弛まぬの努力で、あの「一本足打法」で沢山のホームランを打ち続けて来たという、「積み重ねの美学」が、私の琴線に触れているから、という事からかもしれない。
という事で、今回は「通算868投稿」を記念して、王貞治の「通算868号」ホームランへの歩みを書かせて頂ければと思うが、
2020(令和2)年8月30日に、私はこのブログで、王貞治の「通算800号」ホームランについての記事を書いているので、今回は、その「続編」という形で、書かせて頂きたい。
それでは、ご覧頂こう。
<1976(昭和51)年の王貞治~「通算700号」「通算715号」を達成し、2年振り14度目のホームラン王を獲得>
1975(昭和50)年、王貞治は開幕前に怪我をしてしまった事もあり、
「128試合 393打数112安打 33本塁打 96打点 打率.285」という成績に終わり、長嶋茂雄監督の就任1年目の巨人は、球団史上初の屈辱である、「最下位」に終わった。
王は、それまで「13年連続ホームラン王」を獲り続けていたものの、この年(1975年)はホームラン王の座を田淵幸一(阪神)に明け渡した(※王は「打点王」(※6年連続10度目)は獲得している)。
そんな屈辱の1975(昭和50)年の「リベンジ」を果たそうと、長嶋巨人は、翌1976(昭和51)年、日本ハムファイターズから張本勲をトレードで獲得し、王貞治・張本勲の「OH砲」を組む事となった。
そして、1976(昭和51)年は、王貞治の打棒も復活し、
王は、プロ野球史上初の「通算700号」ホームラン、更には、ベーブ・ルースの記録を破る「通算715号」ホームランを達成するなど、この年(1976年)の王は「122試合 400打数130安打 49本塁打 123打点 打率.325」という成績を残し、
王は2年振りの「本塁打王」(※2年振り14度目)、そして「打点王」(※7年連続11度目)のタイトルを獲得した。
「OH砲」が打ちまくったお陰で、長嶋巨人は「V奪回」を果たし、長嶋巨人は前年最下位からの優勝を達成、
長嶋監督・王貞治・張本勲らも、思いっきり「勝利の美酒」に酔っていた。
2年振りに「ホームラン王」の座を奪還した王貞治は、この年(1976年)終了時点で、通算本塁打数は「716本」となり、
ハンク・アーロンの通算「755本塁打」の数字を、いよいよ視界に捉えていた。
「ホームラン世界記録」まで、あと「39本」である。
<1977(昭和52)年の王貞治~ハンク・アーロンの記録を破る「通算756号」ホームランの「世界新記録」を達成~王は「国民栄誉賞」第1号を受賞>
1977(昭和52)年、王貞治は、ハンク・アーロンが持つ「ホームラン世界記録」である、通算「755本塁打」まで、あと「39本」に迫り、開幕を迎えた。
王は、日本全国のプロ野球ファンの期待を一身に集め、この年(1977年)の開幕を迎えたが、王は最高のスタートを切る事となった。
1977(昭和52)年4月2日、後楽園球場での開幕戦(巨人-中日戦)で、
王貞治は、松本幸行(中日)から、第1号の満塁ホームランを放ったのである。
「開幕戦の満塁ホームラン」という、幸先良いスタートを切った王は、この後、少し調子を落としたものの、
夏場にかけて復調し、順調にホームラン数を積み重ねて行った。
そして、王は8月末の時点で「38本塁打」を放ち、これで通算「754本塁打」として、ハンク・アーロンが持つ「755本塁打」の記録に、遂に王手をかけた。
1977(昭和52)年8月31日、後楽園球場の巨人-大洋戦で、
王貞治は、三浦道男(大洋)からライトスタンドへ「39号」ホームランを放った。
王は、遂に通算「755号」ホームランでハンク・アーロンの記録に肩を並べ、「世界タイ記録」を達成したのである。
「夏休み最後の日」という事もあり、後楽園球場には沢山の少年ファンが詰めかけていたが、王は、その子供達の期待に見事に応えてみせた。
そして、通算「755号」ホームランを達成した3日後の、1977(昭和52)年9月3日、後楽園球場の巨人-ヤクルト戦で、
王貞治は、鈴木康二朗(ヤクルト)から「40号」ホームラン、即ち通算「756号」ホームランを放ち、遂に王はハンク・アーロンの記録を破り、「ホームラン世界新記録」を達成した。
遂に飛び出した、王の「通算756号」は、日本中を熱狂させたが、試合後のセレモニーでは、王の両親がグラウンドに下りて来て、王から「通算756号」のフラワープレートを受け取り、超満員の観客から万雷の拍手を浴びるという一幕もあった。
という事で、王が「755号」「756号」を達成するまでの経緯については、以前このブログで詳しく書いたので、宜しければ、そちらもお読み頂きたい。
王の「通算756号」ホームラン達成から2日後、
福田赳夫首相により、王貞治は「国民栄誉賞」を受賞し、王は「国民栄誉賞」第1号となった。
というより、そもそも「国民栄誉賞」なるものは、王のために作られた賞だったのである。
それだけ、王の「偉業」は、それこそ日本国民を元気付け、勇気と希望を与えたと評価されたという事であろう。
この年(1977年)王貞治は、「130試合 432打数140安打 50本塁打 124打点 打率.324」の成績を残し、
王は「本塁打王」(※2年連続15度目)、「打点王」(※8年連続12度目)のタイトルを獲得した。
王の「シーズン50本塁打」は、通算3度目(※1964・1973・1977)であるが、結果として見れば、王が「本塁打王」のタイトルを獲得したのは、この年(1977年)が最後となった。
なお、1977(昭和52)年終了時点での、王の通算ホームラン数は「766本」である。
そして、この年(1977年)も長嶋巨人は優勝し、「V2」を果たした。
<1978(昭和53)年の王貞治~「通算800号」ホームランを達成、「打点王」(※9年連続13度目)で、最後の打撃タイトルを獲得>
1978(昭和53)年、王貞治はプロ入り20年目のシーズンを迎えた。
そのシーズン開幕戦である、1978(昭和53)年4月1日の、後楽園球場での巨人-阪神戦で、
王貞治は、江本孟紀(阪神)から満塁ホームランを放ち、王は「2年連続開幕戦満塁ホームラン」を達成した。
前年(1977年)に続き、幸先良いスタートを切った王だが、この年(1978年)38歳となる王が、果たして、どれだけホームラン数を積み重ねて行くのかという事に、ファンの注目が集まっていた。
4月8日、王貞治は中日-巨人戦(中日球場)で「1試合2本塁打」を放ち、
6月14日の巨人-阪神戦(後楽園球場)では、野村克也の日本記録を破る「通算1949打点」となる、「20号」ホームランを放つ。
この年(1978年)も、王はホームランを快調に放って行ったが、王は更なる「金字塔」を打ち立てて行く。
1978(昭和53)年8月18日、王貞治は後楽園球場での巨人-ヤクルト戦で、安田猛(ヤクルト)から「30号」ホームランを放った。
これで、王貞治は「17年連続30本塁打」という大記録を達成したが、勿論、こんな凄い記録を打ち立てているのは、後にも先にも、王だけである。
安田猛は「王キラー」と言われ、王も苦手にしていたが、「ここぞ!」という所で、王はその安田の投球をも打ち砕いて見せた。
1978(昭和53)年8月30日、後楽園球場の巨人-大洋戦で、
王貞治は、大川浩(大洋)から「34号」ホームランを放ち、遂に通算「800号」ホームランを達成した。
前年(1977年)8月末に、通算「755号」ホームランを放っていたが、それから僅か1年で、王の通算ホームラン数は遂に「800本」に到達したのである。
この世には、王よりもホームランを多く打った人は、もはや誰も居ない。
ハンク・アーロンの記録も抜き去った王としては、後は「自分との戦い」である。
1978(昭和53)年の王貞治は、
「130試合 440打数132安打 39本塁打 118打点 打率.300」という成績を残し、
王は「打点王」(※8年連続13度目)のタイトルを獲得したが、王の打撃タイトルは、これで最後となった。
そして、王のシーズン「打率3割」も、この年(1978年)が最後である。
流石の王にも、少しずつ「衰え」が見え始めて来ていた。
そして、この年(1978年)はヤクルトスワローズが初優勝を果たし、長嶋巨人は「2位」に終わり、「V3」を逃してしまった。
なお、1978(昭和53)年終了時点での王の通算ホームラン数は「805本」である。
<1979(昭和54)年の王貞治~「18年連続30本塁打」を達成するも、「江川事件」の余波で長嶋巨人は「5位」に沈み、王も「無冠」に終わる>
ところで、長嶋巨人には、小林繁という大エースが居た。
小林繁は、1976(昭和51)~1977(昭和52)年に、2年連続「18勝」を挙げ、長嶋巨人の「V2」に大きく貢献していた。
だが、この小林繁が、1978(昭和53)年シーズンオフ~翌1979(昭和54)年にかけて、プロ野球界を揺るがす大騒動の「当事者」となってしまうのである。
1978(昭和53)年11月20日、巨人は「空白の一日」という屁理屈で、「ドラフト破り」をして、
法政大学出身の江川卓と強引に選手契約を結ぶと発表し、世間を震撼させた(※その翌日、阪神タイガースが江川をドラフト1位で指名)。
その後、色々有ったが、江川の選手契約は一旦はプロ野球機構に却下された後、
江川は一旦、阪神タイガースに入団した後、小林繁とのトレードで巨人に移籍するという形で、一応の決着を見た。
この「江川事件」の顛末については、今までこのブログでも何度か書いているので、詳細は割愛するが、
小林繁は、江川の「人身御供」により、阪神に移籍させられる形となってしまった。
だが、小林繁は「同情は、されたくありません」と、キッパリと言い切っていた。
小林は、この年(1979年)「結果で見返してやる」とばかり、巨人に対し、牙を剥いて全力で立ち向かって来る事となる。
さて、日本中が大騒ぎとなった「江川事件」で、巨人の威信もすっかり地に墜ちてしまったが、
そんな騒然とした雰囲気の中で、王貞治は1979(昭和54)年の、プロ21年目のシーズンを迎えた。
江川卓は、騒動の責任を取らされる形で、謹慎処分を受け、開幕から2ヶ月経った1979(昭和54)年6月2日、後楽園球場での巨人-阪神戦で、ようやくプロ初登板を迎えた。
この頃、江川は日本中の「嫌われ者」「ヒール」だったが、王貞治は「人格者」と見られ、
江川の初登板の時も「江川君、王さんをお手本に!!」という横断幕が、巨人ファンから掲げられる程であった。
だが、本当の王は、下町のラーメン屋の倅(せがれ)であり、本来は気さくな人柄だった。
従って、「人格者」扱いされるのは非常に困ると、後に語っていたという。
1979(昭和54)年5月20日、王貞治は39歳の誕生日を迎えたが、
この日(1979/5/20)後楽園球場での巨人-広島戦で、王貞治は、高橋里志(広島)から、自身3度目(1962・1976・1979年)となる、「バースデー本塁打」を放った。
前述の、江川の初登板は、王の「バースデー本塁打」の20日後である。
6月12日の巨人-ヤクルト戦では、王は1試合2本塁打を放ち、史上初の「通算5500塁打」も達成している。
6月21日、横浜スタジアムでの大洋-巨人戦で、王貞治は平松政次(大洋)から二塁打を放ち、
これで王は史上初の「通算5000出塁」も達成している。
「5500塁打」「5000出塁」という数字も、口では簡単に言えるが、これは、とんでもない数字である。
王は、最終的には通算出塁数を「5290」まで伸ばしているが、通算2位は張本勲の「4437」であり、約800以上も数が違う。
「史上最強打者」である王は、ホームラン数や安打数もさる事ながら、四死球数も非常に多く、まともに勝負してもらえない事も多かった。
だから、出塁数がとんでもない数になってしまっているのである。
9月に入り、王は右足骨折により、戦列離脱を余儀なくされたが、
戦列復帰後の9月12日、巨人-阪神戦(後楽園)で、王貞治は代打で登場すると、王は池内豊(阪神)からシーズン「26号」ホームランとなる、「代打ホームラン」を放った。
そして、これは王の現役生活において、「最初で最後の代打ホームラン」となった。
そもそも、王が代打で登場するというのも非常に珍しいので、「王の代打ホームラン」というのは、超レアである。
従って、もし、これを球場で見ていた方は、物凄く貴重な光景を目にしたという事となる。
1979(昭和54)年10月10日、後楽園球場の巨人-ヤクルト戦で、
王貞治は鈴木康二朗(ヤクルト)から「30号」ホームランを放ったが、
これで王は「18年連続30本塁打」という大記録を達成した。
もはや前人未到の領域を独り行く王であるが、また一つ、王に「勲章」が加わった。
さて、この年(1979年)のプロ野球の主役は、何と言っても小林繁であった。
前述の通り、小林繁は、江川の「人身御供」によって、阪神に移籍させられてしまったが、
小林は「打倒巨人」に並々ならぬ敵愾心を燃やし、この年(1979年)小林繁は、巨人戦で無傷の「8勝0敗」という成績を残し、
シーズンでも「22勝9敗1セーブ 防御率2.89」で、最多勝・沢村賞を獲得し、「男の意地」を見せた。
王も、小林の気迫にはタジタジであり、小林との対決の時は、王の代名詞である「一本足打法」を捨てて、「二本足」で打席に立って、なりふり構わず打ちに行っていたほどである。
この年(1979年)王は「120試合 407打数116安打 33本塁打 81打点 打率.285」という成績に終わり、遂に打撃タイトル「無冠」に終わった。
そして、「江川事件」のゴタゴタにより、チームがガタガタになった長嶋巨人は「5位」に低迷してしまう。
なお、1979(昭和54)年終了時点での王貞治の通算ホームラン数は「838本」である。
<1980(昭和55)年の王貞治~王は「19年連続30本塁打」を達成、通算「868本塁打」の偉大な記録を残し、遂に現役引退>
1979(昭和54)年、長嶋巨人は「5位」に沈んでしまったが、
巨人の球団創設以来の低迷ぶりに危機感を覚えた長嶋茂雄監督は、同年(1979年)シーズンオフ、
今も語り草となっている「地獄の伊東キャンプ」を行ない、江川卓・西本聖・山倉和博・河埜和正・中畑清・篠塚利夫・松本匡史ら、巨人の若手選手達を徹底的に鍛え上げた。
だが、そのメンバーの中に、王貞治の姿は無かった。
王は、当時、既に39歳になっておいたので、「次代の巨人を担う選手を育てる」というコンセプトが有った、若手中心の「地獄の伊東キャンプ」に選ばれる筈も無かったが、王もあと10歳若ければ、ここに参加していたかもしれない。
だが、王の選手生活は、間違いなく晩年に差し掛かっていた。
1980(昭和55)年、王貞治はプロ22年目のシーズンを迎えた。
この年(1980年)王貞治は、開幕戦となった横浜スタジアムでの大洋-巨人戦で、平松政次からホームランを放ち、
自身通算6度目(1964・1968・1972・1977・1978・1980年)となる、「開幕戦ホームラン」を放った。
このホームランは、王貞治にとって、公式戦や日本シリーズ、オープン戦や日米野球などの非公式戦などを含めると、通算「1000号」のホームランだったが、巨人は大洋に3-4でサヨナラ負けを喫してしまい、王の表情も冴えなかった。
4月18日、王貞治は小林繁(阪神)から「5号」ホームラン、
更に5月17日にも、王貞治は小林繁(阪神)から「10号」ホームランを放ち、
前年(1979年)には抑え込まれた小林繁を攻略して見せた。
なお、王はこれで「21年連続2桁ホームラン」も達成している。
1980(昭和55)年6月12日、後楽園球場の巨人-広島戦で、
王貞治は金田留広(広島)から「12号」ホームランを放ち、
これで王貞治は通算「850号」ホームランを達成した。
前述の通り、非公式戦を合わせると、王の通算ホームラン数は既に「1000本」に到達していたが、
公式戦だけで、王は「850本」もホームランを放って来たのである。
改めて、偉大な記録であるが、王は自らの限界が近い事も意識するようになっていた。
この後も、王は順調にホームランを積み重ねて行っているように見えた。
6月14日の阪神-巨人戦では、「14号」ホームランを放ち、これで「全球団から150本塁打以上」を達成、7月14日のヤクルト-巨人戦(神宮)では、通算5度目の「1試合3本塁打」となる「18号」ホームラン、9月20日の広島-巨人戦では通算95度目の「1試合2本塁打」を放ち、「27号」ホームランとなったが、
この頃、王は打席で「相手投手の球が、速すぎて見えない」と思うようになっていたという。
王の気力・体力は、まだまだ充実していたが、いよいよ王の「動体視力」が、完全に衰えて来てしまっていたのである。
そして、王の打率は急降下し、規定打席到達者では「最下位」になっていた。
「俺も、そろそろ限界かな…」
王は、ハッキリと「現役引退」を意識するようになっていた。
この年(1980年)王貞治はオールスターゲームに21年連続21度目の選出を果たしたが、
野村克也(西武)ともども、結果として、これが王にとって最後のオールスター出場となったのである。
1980(昭和55)年10月12日、後楽園球場の巨人-ヤクルト戦で、
王貞治は神部年男(ヤクルト)から「30号」ホームランを放ち、
これで、王は遂に「19年連続30本塁打」という、大記録を打ち立てた。
そして、これで王貞治の通算本塁打数は「868本」となったが、これが不世出の大打者・王貞治が放った、「最後のホームラン」となったのである。
プロ22年目の1980(昭和55)年、王貞治の成績は、
「129試合 444打数105安打 30本塁打 84打点 打率.236」という物であった。
「打率.236」は、セリーグの規定打席到達者の「30位」であり、これは「最下位」である。
王にとっては、誠に不本意な成績であった。
そして、前述の通り、王貞治の通算ホームラン数は「868本」となった。
王貞治は、この年(1980年)限りでの「現役引退」を決めていた。
だが、王が「現役引退」を発表しようとしていた時、青天の霹靂が起こる。
1980(昭和55)年10月21日、長嶋茂雄監督が、突然、巨人の監督を「解任」されてしまったのである。
この年(1980年)長嶋巨人は「3位」に終わったが、若手選手が育ち、「さあ、これから」という時だっただけに、長嶋監督は非常に無念そうな表情をしていた。
そして、1980(昭和55)年11月4日、王貞治は遂に「現役引退」を表明した。
詰めかけた報道陣に、「現役引退」の理由を問われた王は、
「口幅ったい言い方ですけれども…。王貞治のバッティングが出来なくなった、という事です」
と答えた。
王は、当時40歳になっていたが、まだまだ、あと数年は出来る体力は有ったと、後に語っているが、
「このままでは、巨人の4番打者としての責任は果たせない」
と思い、引退を決意したという。
こうして、「通算868本塁打」という不滅の大記録を残した王貞治は、グラウンドを去って行ったのである。
王貞治の通算成績:
「2831試合 11866打席 9250打数2786安打 868本塁打 2170打点 2390四球 114死球 1319三振 84盗塁 打率.301」