「ロシア・ソ連」と「ウクライナ」の歴史⑥ ~「第一次世界大戦編」~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

ロシアプーチン大統領が、突如「ウクライナ侵攻」を開始してから、4日が経過した。

ロシア軍の「ウクライナ侵攻」は、依然として続いているが、ゼレンスキー大統領率いるウクライナも、ロシア軍に対し、必死に抵抗している。

本日(2022/2/28)、ロシアとウクライナによる停戦交渉が行われているが、事態はどうなるのか、まだまだ不透明である。

 

 

私は、現在、ロシアによる「ウクライナ侵攻」について、その歴史的背景から読み解く事を試みているが、

現在は、20世紀初頭、ロシアも含めたヨーロッパ列強諸国による、「帝国主義」の覇権争いが激化し、

「ヨーロッパの火薬庫」と称されていたバルカン半島で、「第1次バルカン戦争」(1912)、「第2次バルカン戦争」(1913)が勃発した所までを描いた。

という事で、今回は列強諸国の争いが「第一次世界大戦」(1914~1918)に発展した、その経緯を描く。

それでは、「第一次世界大戦編」を、ご覧頂こう。

 

<「第一次世界大戦」前夜、一触即発のヨーロッパ情勢>

 

 

 

 

前回の記事で、詳しく書いたが、1913(大正2)年頃までに、ヨーロッパは列強諸国の思惑が入り乱れ、

お互いの主張が交錯し、時には局地戦に発展するという、危険極まりない状態にあった。

当時のヨーロッパは、「三国同盟」(ドイツ・オーストリア・イタリア)と、「三国協商」(英国・フランス・ロシア)という、2つの陣営に分かれて、睨み合いが続いていた。

だが、「三国同盟」の内部を見ると、オーストリアとイタリアは、「未回収のイタリア」と称された地域の、領有権を巡って対立があり、決して一枚岩ではなかった。

そこに、「3B政策」(ドイツ)VS「3C政策」(英国)という争いも絡んで来ていた。

 

 

 

 

そして、バルカン半島の方に目を移すと、

こちらは、「汎スラヴ主義」(ロシア中心)と、「汎ゲルマン主義」(ドイツ中心)が対立し、

しかも、バルカン半島には、多種多様な民族が住んでおり、それらの民族紛争が絶えない状態にあった。

当時のバルカン半島の情勢を、ざっくりまとめると、「オーストリアを中心とした、汎ゲルマン主義」と、「反オーストリアの汎スラヴ主義」が対立している状態だったと言って良い。

特に、バルカン半島では、オーストリアは「嫌われ者」だったが、そのオーストリアを支援していたのが、ロシアである。

まさに、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」だったが、1914(大正3)年、遂に、あの大事件が発生する。

 

<1914(大正3)年6月28日…「サラエボ事件」が発生~オーストリア皇太子、フランツ・フェルディナント夫妻が、サラエボでオーストリアのテロリストに暗殺される>

 

 

 

前述の通り、1914(大正3)年頃のバルカン半島は、各国、各民族が激しく対立し、一触即発の状態にあった。

そんな中、「オーストリア・ハンガリー帝国」の皇太子、フランツ・フェルディナントと、その妻のゾフィー・ホテクは、1914(大正3)年6月28日、軍事演習視察のため、「オーストリア・ハンガリー帝国」が併合したばかりの、ボスニア・ヘルツェゴビナの都市・サラエボを訪問した。

前回の記事でも書いたが、ボスニア・ヘルツェゴビナという地域は、セルビアも併合を狙っていたが、

それをオーストリアが一方的に併合してしまったため、セルビア人の間では、「反オーストリア」の感情が渦巻いていた。

そういう危険な地域ではあったが、フランツ・フェルディナントゾフィーは、少しでも「反オーストリア」感情を和らげようという思惑も有って、敢えて、ここを訪れたのかもしれない。

 

 

 

 

1914(大正3)年6月28日の朝、フランツ・フェルディナント皇太子夫妻は、サラエボに到着した。

そして、サラエボ市庁舎で予定されていた、歓迎式典へと向かった。

しかし、サラエボの街には、「反オーストリア」を掲げる、セルビア人の民族主義者が集まるテロ組織が有り、

テロ組織は、フランツ・フェルディナントを暗殺しようと、サラエボの街の至る所で、待ち構えていた。

フランツ・フェルディナント夫妻が乗った車は、そのテロ組織に狙われ、車に向かって爆弾が投げ付けられたが、その爆弾は車に当たって跳ね返り、路上で爆発した。

そのため、フランツ・フェルディナント夫妻は、危うく難を逃れたが、その爆発音は夫妻にもハッキリと聞こえており、フランツ・フェルディナントゾフィーは、青ざめていた。

最初は、テロ組織による、爆弾での暗殺は失敗に終わったのである。

その後、午前10時頃、車は市庁舎に到着し、予定どおりに歓迎式典は行われた。

そこで、サラエボ市長の歓迎のスピーチが行なわれたが、

フランツ・フェルディナントは、「市長殿、ここに来る途中、私は爆弾による歓迎を受けたぞ。一体、どうなってるんだ!?」と、詰め寄ったが、

その時、妻のゾフィーが、何事かを夫に囁くと、彼も落ち着きを取り戻し、「もう良い、続けなさい」と言って、スピーチを続けさせた。

午前10時45分頃、歓迎式典が終わり、夫妻は市庁舎を出て、再び車に乗り込んだが、この後、「悲劇」が待っていた。

 

 

 

 

フランツ・フェルディナント夫妻を乗せた車は、急遽、予定を変更し、

先程の暗殺未遂で負傷した人を見舞うため、サラエボ病院へと向かう事となったが、

その途中、ボスニア系セルビア人で、テロ組織のメンバーだった、ガヴリロ・プリンツィプが待ち構えていた。

その時、車は走行ルートを間違え、たまたま停車していたが、そこへ、プリンツィプが車に向かって近付くと、

フランツ・フェルディナントゾフィーに向かって、至近距離で発砲した。

ゾフィーは、その場で絶命し、フランツ・フェルディナントも、撃たれた当初は、息は有ったものの、既に致命傷を負っており、

「ゾフィー、ゾフィー!死んでは駄目だ。子供たちのために生きてくれ」

という言葉を遺し、亡くなってしまった(※犯人のプリンツィプは、その場で逮捕された)。

こうして、フランツ・フェルディナント夫妻は、サラエボで暗殺されてしまったが、

これが、「サラエボ事件」の顛末である。

そして、この「サラエボ事件」が、「第一次世界大戦」の引き金となったのである。

 

<1914(大正3)年7月28日…「第一次世界大戦」の勃発~オーストリアがセルビアに宣戦布告し、その後、各国が連鎖反応的に参戦し、あっという間に「欧州大戦」へと発展>

 

 

 

 

「サラエボ事件」で、オーストリア皇太子、フランツ・フェルディナント夫妻が暗殺されたという事は、ヨーロッパ各国に衝撃を与えた。

そして、「サラエボ事件」から1ヶ月後、1914(大正3)年7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦布告すると、

セルビアを支援していたロシアも、その2日後の7月30日、ロシア軍に「総動員令」を出し、戦争に備えた。

すると、8月1日、オーストリアの同盟国・ドイツが、ロシアに宣戦布告すると、ドイツの「東部戦線」で戦う事となったロシア「三国協商」の同盟国・フランスに支援を要請した。

フランスは、「普仏戦争」(1870)で、ドイツに敗れたという恨みが有り、反ドイツ感情が根強く有った事もあり、8月1日にフランス軍に「総動員令」を発令すると、8月3日、ドイツはフランスにも宣戦布告した。

こうして、ドイツとフランスの間で戦端が開かれ、ドイツが中立国のベルギーに侵攻し、ベルギー経由でフランスに侵攻すると、8月4日には、英国がドイツに宣戦布告した。

8月23日、「日英同盟」を締結していた日本も、ドイツに宣戦布告した。

こうして、当時の各国の同盟関係に基づき、連鎖反応的に戦線は拡大し、あっという間に「欧州大戦」に発展してしまった。

 

 

 

こうして、「サラエボ事件」から、僅か1ヶ月余りにして、「欧州大戦」に発展してしまったが、

この戦いは、後に「第一次世界大戦」と称される事となった。

まさに、「サラエボの銃声」が、世界史上初の「大戦争」に繋がってしまったのであるが、

当時のヨーロッパ情勢を見ると、たとえ「サラエボ事件」が無かったとしても、遅かれ早かれ、何らかのキッカケで、「大戦争」は起こっていたかもしれない。

 

<「第1次世界大戦」開戦当初~「戦争は数週間で終わる」「クリスマスまでには帰れる」と、誰もが思っていたが…?>

 

 

 

 

 

さて、こうして始まってしまった「第一次世界大戦」(1914~1918)であるが、

開戦当初は、国家の指導者から、出征兵士に至るまで、誰もが、

「戦争は数週間で終わる」「クリスマスまでには帰れる」と、信じて疑わなかったという。

「第一次世界大戦」に従軍した、オーストリア人作家のシュテファン・ツヴァイクは、後に、「第一次世界大戦」について、こう書き残している。

 

「あの頃、人々は疑う事を知らなかった。『戦争は、数週間。出征したと思ったら、息も付かせずに、すぐに終わる』と、誰もが思っていた。『ロマンに溢れた遠足』、『荒々しい、男らしい冒険』…。私達は、1914年の戦争を、そんな風に、単純に思い描いていた。ある若い兵士は、出征間際、母親に向かって、笑いながら、叫んでいた。『クリスマスに、また!!』」

 

…当時、ヨーロッパでは、半世紀以上にわたり、大きな戦争は起こっておらず、

「戦争を知らない世代」ばかりになっており、誰もが「戦争」を甘く見ており、その行方を楽観視していた。

当時の映像を見ると、出征間際の兵士は、誰もが笑顔を浮かべ、まるで本当に「遠足」にでも行くような雰囲気に見える。

だが、実際には、その思惑は外れ、「第一次世界大戦」は、4年間も続き、その間、まさに地獄のような日々が続く事となる。

 

<「第一次世界大戦」で、地上戦⇒機関銃の登場⇒塹壕戦⇒戦車の登場⇒毒ガス兵器の登場⇒空中戦…と、大量殺戮兵器が続々と誕生し、史上初の「総力戦」に発展し、悲惨な戦いに…>

 

 

 

 

「第一次世界大戦」の大きな特徴は、4年間という間に、新兵器が次々に開発され、

地上戦⇒機関銃の登場⇒塹壕戦⇒戦車の登場⇒毒ガス兵器の登場⇒空中戦…

と、大量殺戮兵器が続々と誕生して行った事が挙げられる。

以下、NHK「映像の世紀」でも描かれた、「大量殺戮の完成」の経緯をご紹介させて頂く。

 

 

 

 

「第一次世界大戦」当初は、準備万端、戦争の準備を整えていたドイツ軍が、快進撃を見せる。

前述の通り、ドイツは西はフランス、東はロシアと、東西両面の敵と戦っていたが、

ドイツは「電撃戦」を想定しており、まずは一気に「西部戦線」に全力を注ぎ、フランスに攻め込み、フランスを屈服させた後に、

改めて、「東部戦線」で、ロシアとじっくりと戦おうという作戦であった。

そのため、前述の通り、ドイツは中立国のベルギーに侵攻し、ベルギーからフランスに攻め込んだ。

これに対し、英国がドイツに宣戦布告したというのは、既に述べた。

ドイツは、「普仏戦争」(1870)で、既にフランスに勝利した経験が有り、

ハッキリ言って、「フランスは弱い」と、ドイツはフランスを舐め切っていたのかもしれない。

そして、ドイツの想定どおり、当初、フランス軍はドイツ軍に押しまくられ、後退するばかりであった。

 

 

ところで、「第一次世界大戦」開戦当初は、騎兵と歩兵が、敵に向かって突撃して行くという、

19世紀の「ナポレオン戦争」の頃と変わらない戦術が主流であった。

前世紀以来の「地上戦」であり、この「地上戦」に、ドイツ軍は滅法、強かったのである。

 

 

 

 

 

 

だが、ドイツ軍に推されていた、フランスと英国の連合軍も、反撃に転じた。

それは、英国のビッカース社と、フランスのホッチキス社が開発した新兵器、「機関銃」である。

「機関銃」に弾を込め、引き鉄を引くと、1分間に何百発もの銃弾が発射される。

従って、機関銃を突撃して来る兵士達に向かって撃つと、狙いを付けなくても、勝手に機関銃が撃ちまくってくれるというわけである。

この「機関銃」に撃たれ、敵軍は何十人、何百人単位で、バタバタと死んで行った。

英仏両軍の新兵器「機関銃」によって、ドイツ軍の進撃は、阻まれたのである。

 

 

「第一次世界大戦」開戦当初、兵士達は、皮の帽子を被っていたが、

機関銃から身を守るため、鉄製のヘルメットが開発され、兵士達はヘルメットを被るようになった。

だが、いくらヘルメットを被っていても、「機関銃」に撃たれてしまえば、ひとたまりも無い。

そこで、ドイツ軍は新たな戦術を考案せざるを得なくなった。

 

 

 

 

「機関銃」からの攻撃を避けるため、「塹壕」が掘られる事となった。

まず、相手の兵士が来られないよう、鉄条網を張り巡らせた後、

戦場に「塹壕」をジグザグに堀り、「機関銃」からの攻撃や、敵軍からの攻撃から身を守る戦術が取られたのである。

「塹壕」は、ドイツ軍も、英仏を中心とした連合国軍の、両軍共に掘り進めて行った。

所謂「塹壕戦」の始まりであった。

 

 

 

 

 

「塹壕戦」が始まると、戦争のやり方そのものが、大きく変わった。

まず、大砲を敵軍の塹壕に向かって、絶え間なく撃ち続け、相手を疲弊させ、相手を怯ませた所に、一斉に突撃して行く作戦が取られた。

そのため、全員が同じ時間に突撃して行くという作戦の必要上から、「腕時計」が開発された。

 

 

そうこうしている内に、「西部戦線」は膠着状態に陥ってしまった。

ドイツ軍と、英仏の連合軍は、「塹壕」を掘り続け、とうとう「塹壕」は、北海にまで達してしまったのである。

「戦争は、数週間で終わる」

という、当初の目論見は、完全に外れてしまい、「長期戦」の様相を呈して来た。

 

 

 

 

「塹壕戦」の膠着状態を破るため、ドイツ軍と英国・フランス軍は、

競って「戦車」という新兵器を開発し、「戦車」を使って、一気に「塹壕」を踏み越えようとした。

「塹壕」に居た兵士達は、初めて「戦車」を見た時は、恐怖で震え上がったという。

「戦車」などに来られたら、人間など、ひとたまりも無いではないか…。

その後、「戦車」を攻撃するため、戦闘機から爆弾を落とす「空中戦」まで始まり、都市への「空襲」も始まった。

また、ドイツ軍は、「悪魔の兵器」と非難された、「毒ガス兵器」まで開発してしまった。

こうして、1914(大正3)年の開戦当初、馬と歩兵が突撃していた「第一次世界大戦」は、あっという間に「空中戦」にまで、エスカレートしてしまったのである。

勿論、その間、激しい戦いを繰り広げる両軍には、夥しい数の戦死者が出た。

それにしても、戦争という物は、始まってしまえば、人間の命など、本当に紙のように軽い物であるという事実に、改めて慄然としてしまう。

 

 

また、戦っているのは、戦場の兵士達だけではなかった。

交戦国は、「銃後」の市民達、女性や子供達も、武器や弾薬を作ったりして、「後方支援」を行なったため、

国中が戦争に巻き込まれるという、史上初の「総力戦」となったのである。

19世紀までの戦争は、「戦争は、軍人が行なう物」だったのだが、

20世紀の戦争は、一旦、始まってしまえば、国家が総力を結集して戦う、「総力戦」に変わったと言って良い。

 

<「第一次世界大戦」の推移~日本も「火事場泥棒」的に参戦(1914)⇒イタリアが「同盟国」から離脱(1915)⇒アメリカの参戦(1917)で戦況は一気に連合国が優位に>

 

 

 

 

 

という事で、次に「第一次世界大戦」の推移を書く。

前述の通り、日本は「日英同盟」を理由に、ドイツに対して宣戦布告したが、

j実は、日本としては、別に参戦義務は無かった。

だが、日本は「第一次世界大戦」「日本を一等国に押し上げるための、千載一遇の好機」と捉え、参戦に踏み切ったのである。

「第一次世界大戦」の主戦場はヨーロッパだったため、日本は大して傷を受ける事も無く、中国大陸や、ドイツ領の南洋諸島を、次々に占領して行った。

こうした日本の行動は、「火事場泥棒」と非難されたが、日本は「第一次世界大戦」で、武器や弾薬を大量に輸出したため、大儲けする事となり、日本には沢山の「成金」が現れた。

このように、いつの時代も、戦争によって、儲かる人間も居るという事である。

 

 

 

 

 

 

 

「第1次世界大戦」勃発の経緯は、既にこれまで述べて来た通りであるが、大まかに言えば、

「三国同盟」(ドイツ・オーストリア・イタリア)陣営の「同盟国」と、

「三国協商」(英国・フランス・ロシア)陣営の「連合国」が、

それぞれ、周辺諸国も味方に付けて戦ったのが、「第一次世界大戦」である。

なお、日本は「連合国」の陣営という事になる。

ちなみに、オスマン帝国は「同盟国」側に付いた。

 

 

 

 

だが、「同盟国」側は、イタリアとオーストリアが、「未回収のイタリア」を巡り、非常に関係が悪かったため、

イタリアは、開戦2年目の1915(大正4)年、早々に「同盟国」側を離脱し、「連合国」側に寝返ってしまった。

そして、当初は中立を守っていたアメリカは、ドイツ海軍の潜水艦「Uボート」で、アメリカ客船が撃沈された事で、世論が一気に参戦に傾き、1917(大正6)年、アメリカが「連合国」側で参戦した。

アメリカが「連合国」側で参戦した事により、「第一次世界大戦」の大勢は決したと言って良い。

戦いは、「連合国」側が大きく勝利に前進した。

 

<一方、「第一次世界大戦」の「東部戦線」のロシアは…?>

 

 

 

 

一方、「第一次世界大戦」「東部戦線」で、ドイツと戦っている、ロシアはどうだったのかと言えば、

ロシア軍の士気は全く上がらず、ロシア軍は、全くやる気が無かった。

それというのも、当時のロシアは、まだまだ「近代化」の途上で、貧しい国であり、開戦から1ヶ月ぐらいで、早くも武器や弾薬が、底を尽き始めたという。

その上、ロシアは友好国のセルビアを支援するために、参戦したものの、そもそも、ロシア軍の兵士達にしてみれば、

「一体、俺達は何のために戦っているんだろう…」

という気持ちだったのではないだろうか。

「何で、俺達がこんな戦争をしなければいけないのか!?」

次第に、ロシア軍の兵士達の不満は、高まって行った。

もしかしたら、この状態は、今、ウクライナに侵攻しているロシア軍も、似たような気持ちなのかもしれない。

という事で、ロシアは一気に不穏な状態となっていた。

(※なお、この連載記事は、私が大好きな、NHK「映像の世紀」シリーズを、だいぶ参考にさせて頂いている事を、お断りさせて頂く)。

 

(つづく)