ロシアのプーチン大統領による「ウクライナ侵攻」に対し、
ゼレンスキー大統領率いるウクライナは、今、必死の抵抗を見せている。
アメリカやEU諸国、NATO(北大西洋条約機構)は、「核兵器」の使用をチラつかせるプーチンに対し、及び腰であり、ウクライナへの軍事的支援は出来ない状態である。
だが、ロシアの「暴挙」に対し、アメリカとEU諸国、そして日本も,「SWIFT」(「国際銀行間通信協会」)からの、ロシアの排除を決定し、ロシアへの強力な「経済制裁」で、足並みを揃えようとしている。
ロシアへの「経済制裁」により、事態がどうなって行くのかは、まだまだ不透明だが、ロシアの「暴挙」は絶対に許される物ではないという事だけは、間違い無い。
私は、現在このブログで、ロシアの「ウクライナ侵攻」について、「ロシア・ソ連」と「ウクライナ」の歴史的背景から読み解こうと試みており、その歴史について書いているが、
前回は「日清戦争・日露戦争編」を書いた。
今回は、「ロシア帝国・衰亡編」として、ロシア帝国(ロマノフ王朝)が衰退の一途を辿って行く過程を描く。
それでは、ご覧頂こう。
<1901(明治34)年1月22日…「大英帝国」のヴィクトリア女王が享年82歳で死去~ロンドン留学中の夏目漱石が、ヴィクトリア女王の葬列を目撃~ヨーロッパの「ゴッド・マザー」の死去で、ヨーロッパ列強のパワーバランスは…?>
1901(明治34)年1月22日、「大英帝国」の女王の座に、実に64年間も君臨していたヴィクトリア女王が、享年82歳で死去した。
前回の記事でも書いた通り、ヴィクトリア女王は、夫・アルバート公との間に、9人の子供(4男5女)を生み、その子供たちが皆、ヨーロッパ各国の王室と姻戚関係を結ぶという、言わばヨーロッパの「ゴッド・マザー」的存在であった。
そのヴィクトリア女王の死去は、まさに当時のヨーロッパにとっては重大事件だったが、この時、ロンドン留学中の夏目漱石が、ヴィクトリア女王の葬列を目撃している。
そして、夏目漱石は、ヴィクトリア女王の死去を受けて、沿道の人が、
「20世紀の幕開け、甚(はなは)だ幸先(さいさき)悪し」
と嘆いていたと、日記に書き残している。
なお、1901(明治34)年2月2日に行われた、ヴィクトリア女王の葬儀には、
ドイツ皇帝・ヴィルヘルム2世と、後の英国王・ジョージ5世が参列しているが、
ヴィルヘルム2世(ドイツ)・ジョージ5世(英国)は、共にヴィクトリア女王の孫である。
しかし、そのヴィクトリア女王の孫同士が、10数年後、「第一次世界大戦」で戦う運命にあるとは、この時、彼らは知る由も無かった。
ヴィクトリア女王の死去により、ヨーロッパ列強のパワーバランスは、大きく変わろうとしていた。
<ロシアで政党が誕生~「ロシア社会民主労働党」(1898)、「社会革命党(エス・エル)」(1901)、「立憲民主党(カデット)」(1905)etc~「ロシア社会民主労働党」は「ボリシェヴィキ(多数派)」と「メンシェヴィキ(少数派)」に分裂~レーニンとスターリンが、歴史の表舞台に登場>
さて、ニコライ2世(在位:1894~1917)の時代、ロシアは国内外で様々な激震に見舞われ、
ロシア国内では、ロシアの「近代化」を求め、様々な政党が結成されるようになっていた。
「ロシア社会民主労働党」(1898)、「社会革命党(エス・エル)」(1901)、「立憲民主党(カデット)」(1905)などが、その主な政党であるが、
これらの政党が、以後、ロシア社会を大きく動かして行く事となる。
1898(明治31)年に結成された、「ロシア社会民主労働党」は、マルクス主義政党として結成され、
マルクスが唱えた「社会主義思想」を根幹にしていた。
この「ロシア社会民主労働党」が、やがて2つの派に分裂するのだが、その話については、後述する。
1901(明治34)年、「ナロードニキ」の流れを汲む、「社会革命党(エス・エル)」が結成された。
「社会革命党(エス・エル)」は、農民を支持基盤としており、農民が中心となって、社会革命を行なおうとしていた。
前述の「ロシア社会民主労働党」が、都市労働者を支持基盤にしていたのに対し、
農民が人口の大部分を占めるロシア社会において、「社会革命党(エス・エル)」こそが、「社会革命」のトップ・ランナーだと思われていた。
「社会革命党(エス・エル)」が主張していたのは、「ツァーリズム(皇帝専制政治)打倒」、「農民への土地分配」である。
1903(明治36)年、「ロシア社会民主労働党」は、革命の方針を巡り、2つの派に分裂した。
それが、「ボリシェヴィキ(多数派)」「メンシェヴィキ(少数派)」であるが、
「ボリシェヴィキ(多数派)」は、「少数の革命家により、厳格な党組織運営を行ない、ブルジョワ民主主義革命⇒社会主義革命を、一気に達成する」という事を目指し、
「メンシェヴィキ(少数派)」は、「まずはブルジョワ民主主義革命を達成⇒その後、条件を整備しながら、徐々に社会主義化を図る」というものである。
今にして見ると、「ボリシェヴィキ(多数派)」は「過激派」であり、「メンシェヴィキ(少数派)」は「穏健派」のように思われるが、
重要なのは、この時、「ボリシェヴィキ(多数派)」の中心人物として、レーニンとスターリンが、歴史の表舞台に登場して来た事である。
という事で、レーニン・スターリン・トロツキーらの、ロシアの革命家達の登場については、別途、後述する。
1905(明治38)年には、「立憲民主党(カデット)」が結成された。
「立憲民主党(カデット)」は、資本家・進歩的地主などを支持基盤として、
「議会開設と、言論・集会の自由の獲得」を目指していた。
そう言えば、今の日本にも、同じような名前の政党が有るが、「立憲民主党(カデット)」は、最も「穏健派」の政党であると言えよう。
ともあれ、これらの政党が、ロシア社会で、存在感を示して行く時代が到来しようとしていた。
<1905(明治38)年1月22日…「血の日曜日事件」勃発~世界的ダンサー、イサドラ・ダンカンが「血の日曜日事件」の葬列を目撃~1905(明治38)年の「第1次ロシア革命」で、「ソビエト(「会議」「評議会」)」結成⇒「戦艦ポチョムキン号の反乱」⇒「日露戦争」の敗北⇒ニコライ2世は「10月詔書」で「議会(ドゥーマ)」開設を認める>
1905(明治38)年アメリカ人のダンサー、イサドラ・ダンカンは、ロシアのサンクトペテルブルクを訪れていた。
その時、イサドラ・ダンカンは、奇妙な光景を目にした。
彼女は、後に、この時に自分が目撃した事を、こう語っている。
「私が見た物は、まるでエドガー・アラン・ポーが書きそうな、何とも気味の悪い光景でした…。それは、深い悲しみに満ちた、無言の行列でした」
イサドラ・ダンカンが見た物は、沢山の人達が、いくつもの棺(ひつぎ)を持って歩いている、何とも不気味で奇妙な光景であった。
1905(明治38)年1月22日、サンクトペテルブルクで、ガポン司祭に率いられた民衆が、デモ行進を行なっていた。
ガポン司祭は、当時、独自の労働者組織を結成しており、民衆達から、カリスマ的な人気が有ったが、
そのガポン司祭に先導され、民衆はパンの値上がりに抗議し、デモを起こしたのである。
これは、平和的なデモだったのにも関わらず、何と、軍隊はこのデモに対して、無差別に発砲し、2000人以上の死傷者が出てしまった。
所謂「血の日曜日事件」であるが、これにより、民衆の政府に対する怒りは、頂点に達した。
(※なお、「血の日曜日事件」には、実写映像は存在せず、後世、ソ連時代にプロパガンダ映画として再現された)
つまり、イサドラ・ダンカンが目撃した葬列は、「血の日曜日事件」の犠牲者の棺を運ぶ葬列だったのである。
政府当局に動員された軍隊が、自国民に対して、無差別に発砲したとい「血の日曜日事件」は、ロシア国民に大きな衝撃を与えた。
そして、民衆の怒りは政府へと向かい、これが1905(明治38)年の「第1次ロシア革命」へと発展した。
同年(1905年)、ロシアは「日露戦争」での苦戦も、民衆の政府に対する不信感を更に高め、
同年(1905年)5月、ロシア史上初の、労働者や兵士達による権力機関「ソビエト」が結成された。
そして、同年(1905年)6月、後にエイゼンシュテイン監督の映画として描かれた、「戦艦ポチョムキン号の反乱」(※「戦艦ポチョムキン号」の水兵達が、政府に対して起こした反乱)も起こった。
「戦艦ポチョムキン号の反乱」が、ロシア政府に対して与えた衝撃は大きかった。
そこで、ロシアは「日露戦争」の講和条約締結を急ぎ、1905(明治36)年9月5日に、「ポーツマス条約」が締結された。
つまり、「第1次ロシア革命」とは、「日露戦争」でロシアが苦戦したために起こったという側面もあり、
「第1次ロシア革命」の勃発のお陰で、日本は有利な条件で「ポーツマス条約」を締結出来たという面も有った。
そして、1905(明治38)年10月30日、ニコライ2世は「10月詔書」に署名して、遂に「議会(ドゥーマ)」開設を認めたのである。
こうして、「第1次ロシア革命」で、民衆が政府に勝利し、「議会開設」を勝ち取るという成果を得たが、この革命の模様を、後にレーピンが絵画として描いている。
<ストルイピン首相(在任:1906~1911)の時代~徹底した「反動政治」と、英露のアフガニスタンを巡る「グレート・ゲーム」の決着~「三国協商」(1907)の成立>
「議会(ドゥーマ)」開設を受け、政府側は、ストルイピンを首相に任じた。
このストルイピン首相時代(1906~1911)に、彼は徹底した「反動政治」を行ない、
ストルイピンは、革命家達を大量に逮捕し、裁判無しで、次々に処刑して行った。
従って、革命家達から、ストルイピンは、まるで悪魔の化身のように恐れられたが、
彼としては、革命家達に、いつまでも好き勝手にさせておく事は許せなかったのであろう。
そして、何とストルイピンは、「議会(ドゥーマ)」も解散してしまい、「ミール(農村共同体)」も解体するなど、その剛腕で、強引な政治を行なったため、民衆の恨みを買った。
ストルイピン首相時代には、英国とロシアが、長年、アフガニスタンを巡って争った、「グレート・ゲーム」が決着し、
アフガニスタンで、英露両国の勢力圏が定めれるという出来事も有った。
ロシアはイラン北部、英国はイラン南東部とアフガニスタンを、それぞれ勢力圏として、イラン南西部は、英露の緩衝地帯となった。
…という事であるが、「グレート・ゲーム」などと言って、英国とロシアはアフガニスタンに手を出し、大変な目に遭っていたのだが、
そもそも、アフガニスタンは多民族が入り乱れる、非常に複雑な地域であり、しかも山岳地帯も多く、攻撃を仕掛けても、攻略は非常に難しい。従って、その後もアフガニスタンに手を出す国は皆、酷い目に遭っている。
遥か後年、ソ連時代にも、アフガニスタンでソ連が悲惨な敗北を喫した事も有った。
言わば、アフガニスタンは、下手に手を出してはいけない、「魔境」であると、私は思う。
話をストルイピン首相時代に戻すと、「英露協商」(1907)の成立という出来事も有った。
これにより、「露仏同盟」(1891)⇒「英仏協商」(1904)⇒「英露協商」(1907)の締結で、英・仏・露の「三国協商」が完成した、という事となった。
ロシアとしては、英国・フランスと友好関係を結ぶという事は、大いにメリットが有った。
という事で、色々と成果を挙げたストルイピンだったが、やはり、強引な手法は、多方面から反感を買っていた。
そして、1911(明治44)年9月18日、ストルイピンは、ニコライ2世の、キエフ(※あのウクライナのキエフである)への行幸に同行していたが、
そのキエフで、アナーキスト(無政府主義者)のドミトリー・ポグロフによって、ストルイピンは暗殺されてしまった。
ストルイピンを失った事は、ニコライ2世やロシア政府にとっては、非常に痛手であった。
以後、ロシアの皇帝権力側には、有能な政治家は現れず、ロシア帝国は崩壊へと向かって行く事となるのである。
<対立の火種が燻る、20世紀初頭のヨーロッパ~ドイツの「3B政策」VS英国の「3C政策」の対立~「三国協商」VS「三国同盟」の対立~「ヨーロッパの火薬庫」バルカン半島~「汎スラヴ主義」VS「汎ゲルマン主義」が激突し、「第1次バルカン戦争」(1912)⇒「第2次バルカン戦争」(1913)が勃発>
ロシアが「日露戦争」に敗れ、「第1次ロシア革命」の動乱に見舞われていた頃、
当時のヨーロッパは、列強諸国の利害関係が複雑に絡み合い、緊張状態にあった。
まず、ドイツの「3B政策」(ベルリン・ビザンティウム(イスタンブール)・バグダッド)と、英国の「3C政策」(カイロ・ケープタウン・カルカッタ)の対立が有った。
英国とドイツは、それぞれの勢力拡大のため、自らの植民地の3都市を軸に考えていたが、「3B政策」と「3C政策」は、非常に勢力圏が近く、英独両国は、常に緊張状態にあった。
その「3B政策」(ドイツ)VS「3C政策」(英国)の対立に、
「三国同盟」(ドイツ・オーストリア・イタリア)と、「三国協商」(英国・フランス・ロシア)の対立も絡んで来ていた。
「三国同盟」陣営と、「三国協商」陣営も、お互いに睨み合いをしている状態であり、牽制し合っていた。
当時のヨーロッパ列強は、バチバチとお互いに火花を散らしている状態だったのである。
ここに、「バルカン問題」というのも絡んで来るのだから、更に、話はややこしくなる。
ヨーロッパのバルカン半島というのは、今でもご覧の通り、様々な民族が入り乱れ、沢山の国が有るが、
それだけ、この辺というのは、非常に複雑に、それぞれの民族の思惑が渦巻いていた。
そこへ、「汎スラヴ主義」VS「汎ゲルマン主義」の対立という物も有った。
バルカン半島は、元々はオスマン帝国の支配下にあり、
オスマン帝国の最盛期には、オスマン帝国が、一応はバルカン半島全域を統一していた。
だが、オスマン帝国が衰えると、バルカン半島の諸民族は、一斉に「独立」を目指す事となった。
そこへ、「汎スラヴ主義」VS「汎ゲルマン主義」という対立も絡んで来ていた。
「汎スラヴ主義」とは、「共通の文化を持つ、全スラヴ民族の統一を目指す」という考え方であり、これをロシアが支援していた。
「汎ゲルマン主義」とは、「ドイツ民族居住地を、ドイツに結合させようという考え方」であり、これをドイツ・オーストリアが支援していた。
アフガニスタンが「魔境」なら、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」であり、いつ戦争が起こってもおかしくない、緊張状態にあった。
1907(明治40)年、衰退が著しかったオスマン帝国で、
「青年トルコ革命」が勃発すると、オーストリアが、この機に乗じて、バルカン半島のボスニア・ヘルツェゴビナを、一方的に併合してしまった。
オーストリアは、かつての「ベルリン会議」(1878)で、ボスニア・ヘルツェゴビナの行政管理権だけを認められていた筈だったが、
オーストリアは、列強が使う常套句である、
「自国民の保護」
を名目に、ボスニア・ヘルツェゴビナを、強引に併合してしまったのである。
一見、これは「汎ゲルマン主義」の勝利のように思われた。
だが、そうなると、ボスニア・ヘルツェゴビナの隣国・セルビアも黙ってはいなかった。
ボスニア・ヘルツェゴビナは、確かにゲルマン民族が多数派だったが、南スラヴ系民族も多く住んでおり、
セルビアは、「大セルビア主義」を掲げ、ボスニア・ヘルツェゴビナの併合を狙っていたのである。
それを、オーストリアに勝手に併合されてしまい、セルビアは激怒していた。
そのセルビアを、ロシアが支援していたため、ここに「オーストリア」VS「セルビア・ロシア」という対立構図が生まれた。
これが、後の大戦争の伏線となるのである。
その後、イタリアが、すっかり弱体化していたオスマン帝国に戦争を仕掛け、
ここに「イタリア・トルコ戦争」(1911~1912)が勃発した。
イタリアは、オスマン帝国から、北アフリカのトリポリ、キレナイカを獲得し、イタリアもアフリカ大陸進出の足掛かりを得た。
そして、「オスマン帝国は弱い」という事を確信した、
ブルガリア・セルビア・モンテネグロ・ギリシアの、反オーストリア陣営の4ヶ国は「バルカン同盟」を結び、
ロシアの支援も受けた「バルカン同盟」は、オスマン帝国に宣戦布告した。
オーストリアは、「敵の敵は味方」の論理で、オスマン帝国を支援したが、
これが「第1次バルカン戦争」(1912)である。
そして、「バルカン同盟」がオスマン帝国に勝利し、イスタンブール周辺以外のバルカンの領土を獲得した。
この敗北で、オスマン帝国の命運は、殆んど、風前の灯となった。
ところが、「第1次バルカン戦争」(1912)に勝利した後、
「バルカン同盟」(ブルガリア・セルビア・モンテネグロ・ギリシア)の内部で、仲間割れが起こった。
ブルガリアの、マケドニア領有を巡って、対立が起こり、ブルガリアは、「バルカン同盟」から排除されてしまった。
孤立したブルガリアと、セルビア・モンテネグロ・ギリシアが戦い、更に、ブルガリアはルーマニアとオスマン帝国にも戦いを仕掛けられた。
ここに、四面楚歌のブルガリアが「フルボッコ」にされる(?)という構図で、「第2次バルカン戦争」(1913)が勃発した。
なお、「セルビア・モンテネグロ・ギリシア」はロシアが支援し、
孤立無援だったブルガリアは、「敵の敵は味方」の論理で、唯一、オーストリアが支援してくれたものの、
結局、ブルガリアは敗れ、大きく領土を縮小されてしまった。
…というわけで、以上が「第1次バルカン戦争」(1912)、「第2次バルカン戦争」(1913)の顛末であるが、
年がら年中、自分達の権益を求めて、戦ってばかりの、この連中を見て、
「あんたら、一体、何やってんの??」
と、今更ながら呆れてしまうのは、私だけであろうか?
それはともかく、当時のヨーロッパは、このように火種だらけであったが、
これが「第一次世界大戦」前夜のヨーロッパの状況である。
<1913(大正2)年…「ロマノフ家300年祭」が盛大に開催されたが…?~ニコライ2世一家の運命や、如何に!?>
ニコライ2世は、このように、国内外で色々と本当に大変な時期に、ロシア皇帝になってしまったわけであるが、
ニコライ2世としては、彼なりに、ロシアという国の舵取りを、懸命に行なっていたと思われる。
だが、ロシア帝国の命運は、徐々に衰亡へと向かって行っていた。
その歴史の大きな流れは、ニコライ2世としても、どうしても抗えなかったであろう。
そんな中、ニコライ2世と、アレクサンドラ皇后の夫妻の間には、5人の子供(1男4女)が生まれ、ニコライ2世は幸せな家庭を築いていた。
そんな中、1913(大正2)年は、ロマノフ王朝が誕生してから、ちょうど300年という節目の年であった。
「内憂外患」で、大変な事になっていたロシアであったが、ロシア大国とロマノフ家は、国家の威信を懸けて、
1913(大正2)年3月、豪華絢爛な「ロマノフ家300年式典」を、盛大に執り行った。
「ロマノフ家300年式典」は、ニコライ2世とアレクサンドラ皇后夫妻、そして長男で皇太子のアレクセイが先導し、続いて、ニコライ2世・アレクサンドラ皇后夫妻の、4人の王女(オリガ・タチアナ・マリア・アナスタシア)が続いた。
このニコライ2世一家の運命は、この4年後に暗転してしまうが、この時は、そんな事は誰一人、思っていなかった。
ちなみに、4女・アナスタシアは、後に色々と「伝説」となった人である。
という事で、この後、ニコライ2世一家には、どんな運命が待ち受けているのであろうか?
(つづく)