「ロシア・ソ連」と「ウクライナ」の歴史⑤ ~「ロシア帝国・衰亡編」~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

ロシアプーチン大統領による「ウクライナ侵攻」に対し、

ゼレンスキー大統領率いるウクライナは、今、必死の抵抗を見せている。

アメリカやEU諸国、NATO(北大西洋条約機構)は、「核兵器」の使用をチラつかせるプーチンに対し、及び腰であり、ウクライナへの軍事的支援は出来ない状態である。

だが、ロシアの「暴挙」に対し、アメリカとEU諸国、そして日本も,「SWIFT」(「国際銀行間通信協会」)からの、ロシアの排除を決定し、ロシアへの強力な「経済制裁」で、足並みを揃えようとしている。

ロシアへの「経済制裁」により、事態がどうなって行くのかは、まだまだ不透明だが、ロシアの「暴挙」は絶対に許される物ではないという事だけは、間違い無い。

 

 

私は、現在このブログで、ロシアの「ウクライナ侵攻」について、「ロシア・ソ連」と「ウクライナ」の歴史的背景から読み解こうと試みており、その歴史について書いているが、

前回は「日清戦争・日露戦争編」を書いた。

今回は、「ロシア帝国・衰亡編」として、ロシア帝国(ロマノフ王朝)が衰退の一途を辿って行く過程を描く。

それでは、ご覧頂こう。

 

<1901(明治34)年1月22日…「大英帝国」のヴィクトリア女王が享年82歳で死去~ロンドン留学中の夏目漱石が、ヴィクトリア女王の葬列を目撃~ヨーロッパの「ゴッド・マザー」の死去で、ヨーロッパ列強のパワーバランスは…?>

 

 

 

 

1901(明治34)年1月22日、「大英帝国」の女王の座に、実に64年間も君臨していたヴィクトリア女王が、享年82歳で死去した。

前回の記事でも書いた通り、ヴィクトリア女王は、夫・アルバート公との間に、9人の子供(4男5女)を生み、その子供たちが皆、ヨーロッパ各国の王室と姻戚関係を結ぶという、言わばヨーロッパの「ゴッド・マザー」的存在であった。

そのヴィクトリア女王の死去は、まさに当時のヨーロッパにとっては重大事件だったが、この時、ロンドン留学中の夏目漱石が、ヴィクトリア女王の葬列を目撃している。

そして、夏目漱石は、ヴィクトリア女王の死去を受けて、沿道の人が、

「20世紀の幕開け、甚(はなは)だ幸先(さいさき)悪し」

と嘆いていたと、日記に書き残している。

 

 

 

 

なお、1901(明治34)年2月2日に行われた、ヴィクトリア女王の葬儀には、

ドイツ皇帝・ヴィルヘルム2世と、後の英国王・ジョージ5世が参列しているが、

ヴィルヘルム2世(ドイツ)・ジョージ5世(英国)は、共にヴィクトリア女王の孫である。

しかし、そのヴィクトリア女王の孫同士が、10数年後、「第一次世界大戦」で戦う運命にあるとは、この時、彼らは知る由も無かった。

ヴィクトリア女王の死去により、ヨーロッパ列強のパワーバランスは、大きく変わろうとしていた。

 

<ロシアで政党が誕生~「ロシア社会民主労働党」(1898)、「社会革命党(エス・エル)」(1901)、「立憲民主党(カデット)」(1905)etc~「ロシア社会民主労働党」は「ボリシェヴィキ(多数派)」と「メンシェヴィキ(少数派)」に分裂~レーニンとスターリンが、歴史の表舞台に登場>

 

 

さて、ニコライ2世(在位:1894~1917)の時代、ロシアは国内外で様々な激震に見舞われ、

ロシア国内では、ロシアの「近代化」を求め、様々な政党が結成されるようになっていた。

「ロシア社会民主労働党」(1898)、「社会革命党(エス・エル)」(1901)、「立憲民主党(カデット)」(1905)などが、その主な政党であるが、

これらの政党が、以後、ロシア社会を大きく動かして行く事となる。

 

 

1898(明治31)年に結成された、「ロシア社会民主労働党」は、マルクス主義政党として結成され、

マルクスが唱えた「社会主義思想」を根幹にしていた。

この「ロシア社会民主労働党」が、やがて2つの派に分裂するのだが、その話については、後述する。

 

 

1901(明治34)年、「ナロードニキ」の流れを汲む、「社会革命党(エス・エル)」が結成された。

「社会革命党(エス・エル)」は、農民を支持基盤としており、農民が中心となって、社会革命を行なおうとしていた。

前述の「ロシア社会民主労働党」が、都市労働者を支持基盤にしていたのに対し、

農民が人口の大部分を占めるロシア社会において、「社会革命党(エス・エル)」こそが、「社会革命」のトップ・ランナーだと思われていた。

「社会革命党(エス・エル)」が主張していたのは、「ツァーリズム(皇帝専制政治)打倒」、「農民への土地分配」である。

 

 

 

 

1903(明治36)年、「ロシア社会民主労働党」は、革命の方針を巡り、2つの派に分裂した。

それが、「ボリシェヴィキ(多数派)」「メンシェヴィキ(少数派)」であるが、

「ボリシェヴィキ(多数派)」は、「少数の革命家により、厳格な党組織運営を行ない、ブルジョワ民主主義革命⇒社会主義革命を、一気に達成する」という事を目指し、

「メンシェヴィキ(少数派)」は、「まずはブルジョワ民主主義革命を達成⇒その後、条件を整備しながら、徐々に社会主義化を図る」というものである。

今にして見ると、「ボリシェヴィキ(多数派)」は「過激派」であり、「メンシェヴィキ(少数派)」は「穏健派」のように思われるが、

重要なのは、この時、「ボリシェヴィキ(多数派)」の中心人物として、レーニンスターリンが、歴史の表舞台に登場して来た事である。

という事で、レーニン・スターリン・トロツキーらの、ロシアの革命家達の登場については、別途、後述する。

 

 

1905(明治38)年には、「立憲民主党(カデット)」が結成された。

「立憲民主党(カデット)」は、資本家・進歩的地主などを支持基盤として、

「議会開設と、言論・集会の自由の獲得」を目指していた。

そう言えば、今の日本にも、同じような名前の政党が有るが、「立憲民主党(カデット)」は、最も「穏健派」の政党であると言えよう。

ともあれ、これらの政党が、ロシア社会で、存在感を示して行く時代が到来しようとしていた。

 

<1905(明治38)年1月22日…「血の日曜日事件」勃発~世界的ダンサー、イサドラ・ダンカンが「血の日曜日事件」の葬列を目撃~1905(明治38)年の「第1次ロシア革命」で、「ソビエト(「会議」「評議会」)」結成⇒「戦艦ポチョムキン号の反乱」⇒「日露戦争」の敗北⇒ニコライ2世は「10月詔書」で「議会(ドゥーマ)」開設を認める>

 

 

 

 

1905(明治38)年アメリカ人のダンサー、イサドラ・ダンカンは、ロシアのサンクトペテルブルクを訪れていた。

その時、イサドラ・ダンカンは、奇妙な光景を目にした。

彼女は、後に、この時に自分が目撃した事を、こう語っている。

「私が見た物は、まるでエドガー・アラン・ポーが書きそうな、何とも気味の悪い光景でした…。それは、深い悲しみに満ちた、無言の行列でした」

イサドラ・ダンカンが見た物は、沢山の人達が、いくつもの棺(ひつぎ)を持って歩いている、何とも不気味で奇妙な光景であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

1905(明治38)年1月22日、サンクトペテルブルクで、ガポン司祭に率いられた民衆が、デモ行進を行なっていた。

ガポン司祭は、当時、独自の労働者組織を結成しており、民衆達から、カリスマ的な人気が有ったが、

そのガポン司祭に先導され、民衆はパンの値上がりに抗議し、デモを起こしたのである。

これは、平和的なデモだったのにも関わらず、何と、軍隊はこのデモに対して、無差別に発砲し、2000人以上の死傷者が出てしまった。

所謂「血の日曜日事件」であるが、これにより、民衆の政府に対する怒りは、頂点に達した。

(※なお、「血の日曜日事件」には、実写映像は存在せず、後世、ソ連時代にプロパガンダ映画として再現された)

つまり、イサドラ・ダンカンが目撃した葬列は、「血の日曜日事件」の犠牲者の棺を運ぶ葬列だったのである。

 

 

 

 

 

政府当局に動員された軍隊が、自国民に対して、無差別に発砲したとい「血の日曜日事件」は、ロシア国民に大きな衝撃を与えた。

そして、民衆の怒りは政府へと向かい、これが1905(明治38)年の「第1次ロシア革命」へと発展した。

同年(1905年)、ロシアは「日露戦争」での苦戦も、民衆の政府に対する不信感を更に高め、

同年(1905年)5月、ロシア史上初の、労働者や兵士達による権力機関「ソビエト」が結成された。

そして、同年(1905年)6月、後にエイゼンシュテイン監督の映画として描かれた、「戦艦ポチョムキン号の反乱」(※「戦艦ポチョムキン号」の水兵達が、政府に対して起こした反乱)も起こった。

 

 

 

 

 

「戦艦ポチョムキン号の反乱」が、ロシア政府に対して与えた衝撃は大きかった。

そこで、ロシアは「日露戦争」の講和条約締結を急ぎ、1905(明治36)年9月5日に、「ポーツマス条約」が締結された。

つまり、「第1次ロシア革命」とは、「日露戦争」でロシアが苦戦したために起こったという側面もあり、

「第1次ロシア革命」の勃発のお陰で、日本は有利な条件で「ポーツマス条約」を締結出来たという面も有った。

そして、1905(明治38)年10月30日、ニコライ2世「10月詔書」に署名して、遂に「議会(ドゥーマ)」開設を認めたのである。

こうして、「第1次ロシア革命」で、民衆が政府に勝利し、「議会開設」を勝ち取るという成果を得たが、この革命の模様を、後にレーピンが絵画として描いている。

 

<ストルイピン首相(在任:1906~1911)の時代~徹底した「反動政治」と、英露のアフガニスタンを巡る「グレート・ゲーム」の決着~「三国協商」(1907)の成立>

 

 

「議会(ドゥーマ)」開設を受け、政府側は、ストルイピンを首相に任じた。

このストルイピン首相時代(1906~1911)に、彼は徹底した「反動政治」を行ない、

ストルイピンは、革命家達を大量に逮捕し、裁判無しで、次々に処刑して行った。

従って、革命家達から、ストルイピンは、まるで悪魔の化身のように恐れられたが、

彼としては、革命家達に、いつまでも好き勝手にさせておく事は許せなかったのであろう。

そして、何とストルイピンは、「議会(ドゥーマ)」も解散してしまい、「ミール(農村共同体)」も解体するなど、その剛腕で、強引な政治を行なったため、民衆の恨みを買った。

 

 

 

 

 

ストルイピン首相時代には、英国とロシアが、長年、アフガニスタンを巡って争った、「グレート・ゲーム」が決着し、

アフガニスタンで、英露両国の勢力圏が定めれるという出来事も有った。

ロシアはイラン北部、英国はイラン南東部とアフガニスタンを、それぞれ勢力圏として、イラン南西部は、英露の緩衝地帯となった。

…という事であるが、「グレート・ゲーム」などと言って、英国とロシアはアフガニスタンに手を出し、大変な目に遭っていたのだが、

そもそも、アフガニスタンは多民族が入り乱れる、非常に複雑な地域であり、しかも山岳地帯も多く、攻撃を仕掛けても、攻略は非常に難しい。従って、その後もアフガニスタンに手を出す国は皆、酷い目に遭っている。

遥か後年、ソ連時代にも、アフガニスタンでソ連が悲惨な敗北を喫した事も有った。

言わば、アフガニスタンは、下手に手を出してはいけない、「魔境」であると、私は思う。

 

 

 

話をストルイピン首相時代に戻すと、「英露協商」(1907)の成立という出来事も有った。

これにより、「露仏同盟」(1891)⇒「英仏協商」(1904)⇒「英露協商」(1907)の締結で、英・仏・露の「三国協商」が完成した、という事となった。

ロシアとしては、英国・フランスと友好関係を結ぶという事は、大いにメリットが有った。

 

 

 

という事で、色々と成果を挙げたストルイピンだったが、やはり、強引な手法は、多方面から反感を買っていた。

そして、1911(明治44)年9月18日、ストルイピンは、ニコライ2世の、キエフ(※あのウクライナのキエフである)への行幸に同行していたが、

そのキエフで、アナーキスト(無政府主義者)のドミトリー・ポグロフによって、ストルイピンは暗殺されてしまった。

ストルイピンを失った事は、ニコライ2世やロシア政府にとっては、非常に痛手であった。

以後、ロシアの皇帝権力側には、有能な政治家は現れず、ロシア帝国は崩壊へと向かって行く事となるのである。

 

<対立の火種が燻る、20世紀初頭のヨーロッパ~ドイツの「3B政策」VS英国の「3C政策」の対立~「三国協商」VS「三国同盟」の対立~「ヨーロッパの火薬庫」バルカン半島~「汎スラヴ主義」VS「汎ゲルマン主義」が激突し、「第1次バルカン戦争」(1912)⇒「第2次バルカン戦争」(1913)が勃発>

 

 

ロシアが「日露戦争」に敗れ、「第1次ロシア革命」の動乱に見舞われていた頃、

当時のヨーロッパは、列強諸国の利害関係が複雑に絡み合い、緊張状態にあった。

まず、ドイツの「3B政策」(ベルリン・ビザンティウム(イスタンブール)・バグダッド)と、英国の「3C政策」(カイロ・ケープタウン・カルカッタ)の対立が有った。

英国とドイツは、それぞれの勢力拡大のため、自らの植民地の3都市を軸に考えていたが、「3B政策」と「3C政策」は、非常に勢力圏が近く、英独両国は、常に緊張状態にあった。

 

 

その「3B政策」(ドイツ)VS「3C政策」(英国)の対立に、

「三国同盟」(ドイツ・オーストリア・イタリア)と、「三国協商」(英国・フランス・ロシア)の対立も絡んで来ていた。

「三国同盟」陣営と、「三国協商」陣営も、お互いに睨み合いをしている状態であり、牽制し合っていた。

当時のヨーロッパ列強は、バチバチとお互いに火花を散らしている状態だったのである。

 

 

 

ここに、「バルカン問題」というのも絡んで来るのだから、更に、話はややこしくなる。

ヨーロッパのバルカン半島というのは、今でもご覧の通り、様々な民族が入り乱れ、沢山の国が有るが、

それだけ、この辺というのは、非常に複雑に、それぞれの民族の思惑が渦巻いていた。

そこへ、「汎スラヴ主義」VS「汎ゲルマン主義」の対立という物も有った。

 

 

 

 

バルカン半島は、元々はオスマン帝国の支配下にあり、

オスマン帝国の最盛期には、オスマン帝国が、一応はバルカン半島全域を統一していた。

だが、オスマン帝国が衰えると、バルカン半島の諸民族は、一斉に「独立」を目指す事となった。

そこへ、「汎スラヴ主義」VS「汎ゲルマン主義」という対立も絡んで来ていた。

「汎スラヴ主義」とは、「共通の文化を持つ、全スラヴ民族の統一を目指す」という考え方であり、これをロシアが支援していた。

「汎ゲルマン主義」とは、「ドイツ民族居住地を、ドイツに結合させようという考え方」であり、これをドイツ・オーストリアが支援していた。

アフガニスタンが「魔境」なら、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」であり、いつ戦争が起こってもおかしくない、緊張状態にあった。

 

 

 

 

1907(明治40)年、衰退が著しかったオスマン帝国で、

「青年トルコ革命」が勃発すると、オーストリアが、この機に乗じて、バルカン半島のボスニア・ヘルツェゴビナを、一方的に併合してしまった。

オーストリアは、かつての「ベルリン会議」(1878)で、ボスニア・ヘルツェゴビナの行政管理権だけを認められていた筈だったが、

オーストリアは、列強が使う常套句である、

「自国民の保護」

を名目に、ボスニア・ヘルツェゴビナを、強引に併合してしまったのである。

一見、これは「汎ゲルマン主義」の勝利のように思われた。

 

 

 

だが、そうなると、ボスニア・ヘルツェゴビナの隣国・セルビアも黙ってはいなかった。

ボスニア・ヘルツェゴビナは、確かにゲルマン民族が多数派だったが、南スラヴ系民族も多く住んでおり、

セルビアは、「大セルビア主義」を掲げ、ボスニア・ヘルツェゴビナの併合を狙っていたのである。

それを、オーストリアに勝手に併合されてしまい、セルビアは激怒していた。

そのセルビアを、ロシアが支援していたため、ここに「オーストリア」VS「セルビア・ロシア」という対立構図が生まれた。

これが、後の大戦争の伏線となるのである。

 

 

その後、イタリアが、すっかり弱体化していたオスマン帝国に戦争を仕掛け、

ここに「イタリア・トルコ戦争」(1911~1912)が勃発した。

イタリアは、オスマン帝国から、北アフリカのトリポリ、キレナイカを獲得し、イタリアもアフリカ大陸進出の足掛かりを得た。

 

 

 

 

そして、「オスマン帝国は弱い」という事を確信した、

ブルガリア・セルビア・モンテネグロ・ギリシアの、反オーストリア陣営の4ヶ国は「バルカン同盟」を結び、

ロシアの支援も受けた「バルカン同盟」は、オスマン帝国に宣戦布告した。

オーストリアは、「敵の敵は味方」の論理で、オスマン帝国を支援したが、

これが「第1次バルカン戦争」(1912)である。

そして、「バルカン同盟」がオスマン帝国に勝利し、イスタンブール周辺以外のバルカンの領土を獲得した。

この敗北で、オスマン帝国の命運は、殆んど、風前の灯となった。

 

 

 

 

ところが、「第1次バルカン戦争」(1912)に勝利した後、

「バルカン同盟」(ブルガリア・セルビア・モンテネグロ・ギリシア)の内部で、仲間割れが起こった。

ブルガリアの、マケドニア領有を巡って、対立が起こり、ブルガリアは、「バルカン同盟」から排除されてしまった。

孤立したブルガリアと、セルビア・モンテネグロ・ギリシアが戦い、更に、ブルガリアはルーマニアとオスマン帝国にも戦いを仕掛けられた。

ここに、四面楚歌のブルガリアが「フルボッコ」にされる(?)という構図で、「第2次バルカン戦争」(1913)が勃発した。

なお、「セルビア・モンテネグロ・ギリシア」はロシアが支援し、

孤立無援だったブルガリアは、「敵の敵は味方」の論理で、唯一、オーストリアが支援してくれたものの、

結局、ブルガリアは敗れ、大きく領土を縮小されてしまった。

 

 

…というわけで、以上が「第1次バルカン戦争」(1912)、「第2次バルカン戦争」(1913)の顛末であるが、

年がら年中、自分達の権益を求めて、戦ってばかりの、この連中を見て、

「あんたら、一体、何やってんの??」

と、今更ながら呆れてしまうのは、私だけであろうか?

それはともかく、当時のヨーロッパは、このように火種だらけであったが、

これが「第一次世界大戦」前夜のヨーロッパの状況である。

 

<1913(大正2)年…「ロマノフ家300年祭」が盛大に開催されたが…?~ニコライ2世一家の運命や、如何に!?>

 

 

 

ニコライ2世は、このように、国内外で色々と本当に大変な時期に、ロシア皇帝になってしまったわけであるが、

ニコライ2世としては、彼なりに、ロシアという国の舵取りを、懸命に行なっていたと思われる。

だが、ロシア帝国の命運は、徐々に衰亡へと向かって行っていた。

その歴史の大きな流れは、ニコライ2世としても、どうしても抗えなかったであろう。

そんな中、ニコライ2世と、アレクサンドラ皇后の夫妻の間には、5人の子供(1男4女)が生まれ、ニコライ2世は幸せな家庭を築いていた。

 

 

 

 

 

そんな中、1913(大正2)年は、ロマノフ王朝が誕生してから、ちょうど300年という節目の年であった。

「内憂外患」で、大変な事になっていたロシアであったが、ロシア大国とロマノフ家は、国家の威信を懸けて、

1913(大正2)年3月、豪華絢爛な「ロマノフ家300年式典」を、盛大に執り行った。

 

 

 

 

 

 

「ロマノフ家300年式典」は、ニコライ2世アレクサンドラ皇后夫妻、そして長男で皇太子のアレクセイが先導し、続いて、ニコライ2世アレクサンドラ皇后夫妻の、4人の王女(オリガ・タチアナ・マリア・アナスタシア)が続いた。

このニコライ2世一家の運命は、この4年後に暗転してしまうが、この時は、そんな事は誰一人、思っていなかった。

ちなみに、4女・アナスタシアは、後に色々と「伝説」となった人である。

という事で、この後、ニコライ2世一家には、どんな運命が待ち受けているのであろうか?

 

(つづく)