1995(平成7)年のプロ野球は、セ・リーグは野村克也監督率いるヤクルトスワローズが優勝し、
パ・リーグは、仰木彬監督率いるオリックスブルーウェーブが優勝した。
そして、この年(1995年)の日本シリーズは「ヤクルトVSオリックス」の対決となった。
というわけで、今回は、1995(平成7)年の「ヤクルトVSオリックス」の日本シリーズの「第1戦」の模様をご覧頂くが、
日本シリーズ開幕前から、ヤクルトの野村監督は、オリックスのスーパースター・イチローを封じ込めるため、ある「奇策」を弄していた。
という事で、まずは「ヤクルトVSオリックス」の日本シリーズの「前哨戦」から、ご覧頂こう。
<日本シリーズ開幕前…安田猛・スコアラーから「イチローの弱点は無い」と報告を受けた野村監督は…?>
ヤクルト時代の野村監督といえば、相手チームのデータを徹底的に分析し、
そのデータによって、相手チームに勝つための「ID野球」を標榜していた事で、よく知られている。
野村監督の野球とは、「相手を徹底的に分析・研究し、弱点を探り、そこを攻める事により、勝機を見出す事」と言える。
1990(平成2)年に、ヤクルトの監督に就任した野村克也は、そんな「ID野球」をヤクルトに持ち込んでいた。
そして、野村監督就任直後、ヤクルトの投手コーチを務めていた安田猛は、1995(平成7)年当時、ヤクルトのスコアラーを務めていたが、
野村監督は、日本シリーズで、ヤクルトとオリックスが対戦する事が決まると、
安田スコアラーに「イチローを研究し、イチローの弱点を探って来い」と命じていた。
野村監督の命を受けた安田スコアラーは、早速、イチローの研究に取り掛かった。
だが、安田スコアラーは、イチローの事を研究すればするほど、頭を抱えてしまった。
何しろ、イチローには、弱点らしい弱点など、全く無かったからである。
そこで、安田スコアラーは仕方なく、野村監督に、
「イチローの弱点は、有りません」
と報告した。
「弱点が無いって、何を言ってるんだ!?お前、やる気が有るのか!?」
安田スコアラーの報告を受け、野村監督は安田スコアラーに対し、激怒したが、
イチローの弱点など、本当に何も無いのだから、怒っても仕方が無かった。
野村監督も、「一体、どうすれば良いのか…」と、途方に暮れたが、
そこで野村監督は、一計を案じた。
<日本シリーズ開幕前、マスコミに対し「イチローは、内角高目が弱点」と、徹底的に吹聴した野村監督>
野村監督は、日本シリーズ開幕前、積極的にマスコミのインタビューに答えたり、
テレビに出演したりして、盛んに、こんな事を言うようになった。
「イチローにも、弱点は有る。イチローは、内角高目の球が、弱点である」
野村監督は、何度も何度も、その事を繰り返した。
実は、本当はイチローにとって、内角高目は弱点ではなかったようであるが、
野村監督は、くどいぐらいに「イチローは、内角高目が弱点」と、言い続けていた。
その狙いが何なのかと言えば、
「そういう事を言っておけば、流石のイチローも、内角高目を意識してしまい、バッティングの調子を崩す可能性が有る」
という事である。
要するに、マスコミを使った「陽動作戦」であるが、
野村監督としては「そうでもしないと、正攻法で行っても、とてもイチローは抑えられない」という事で、言わば「苦肉の策」だったのである。
そして、野村監督は、そういう「苦肉の策」を使いながらも、
ヤクルトの投手陣と古田敦也捕手というバッテリーには、何日もかけて、オリックスの打撃陣を封じるためのミーティングを行なっていた。
特に、「イチロー対策」には、丸一日を要したという。
そして、野村監督が下した「イチロー封じ」のための作戦は、
「イチローに、徹底的に内角高目を意識させておいて、そこを『見せ球』にして、アウトコースの落ちる球で仕留める」という物である。
こうして、ヤクルトはイチローを徹底的にマークした上で、オリックスとの日本シリーズに臨む事となった。
<1995(平成7)年の「ヤクルトVSオリックス」の日本シリーズ開幕直前~監督会議で、「野村監督VS仰木監督」のバトルが勃発!?>
1995(平成7)年の「ヤクルトVSオリックス」の日本シリーズ開幕に先立ち、
日本シリーズ恒例の、両チームの監督が出席した「監督会議」が開かれた。
通常では、日本シリーズ開幕前の「監督会議」は、ルールの確認などで、20分ぐらいで終わってしまう事が多いのだが、
この時の「監督会議」では、野村監督は、大いに吠えた。
「イチローの振り子打法は、右足はベースラインまで踏み出している。打席のラインを消しているが、あれはルール違反じゃないのか?」
野村監督は、そんな風に、イチローに対して「難癖」を付け、オリックスに揺さぶりをかけたのである。
勿論、これも野村監督による、「陽動作戦」の一環である。
すると、仰木監督も負けてはいない。
「ブロスの投球は、ボークじゃないのか?」
仰木監督は、そう言って、ヤクルトのブロス投手の投球フォームに、クレームを付けた。
野村監督は、後に「あれは、完全に嫌がらせ。どうでも良い事を、ネチネチ、ネチネチ。ああいった所は、三原さんにソックリや」と、報道陣に対して、ボヤいてみせたが、
「いやいや、先にネチネチ言ったのは、アンタだろう」
と、仰木監督も言いたかったに違いない。
まして、仰木監督の「恩師」である、三原脩監督の事まで槍玉に上げられては、心中は穏やかではなかったのではないだろうか。
という事で、この年(1995年)の日本シリーズ直前の「監督会議」は、両監督同士の言葉の応酬により、何と1時間以上もかかるという、異例の事態となった。
このように、野村克也・仰木彬の両監督は、「監督会議」の席上で、バチバチと火花を散らしたが、
日本シリーズ開幕前から、ヤクルトとオリックスの両球団の間には、「真剣勝負」の雰囲気が漂っていた。
やはり、「日本シリーズ」と銘打つからには、対戦する球団同士が、これぐらい「ガチンコ勝負」でやり合ってくれた方が、見ている方は面白いものである。
こうして、「ヤクルトVSオリックス」は、決戦の時を迎える事となる。
<1995(平成7)年10月21日…グリーンスタジアム神戸で、「ヤクルトVSオリックス」の日本シリーズ開幕~ヤクルトはブロス、オリックスは佐藤義則が先発>
1995(平成7)年10月21日、グリーンスタジアム神戸で、「ヤクルトVSオリックス」の日本シリーズが、遂に開幕した。
「ヤクルトVSオリックス」の日本シリーズ第1戦の、両チームの先発メンバーは、下記の通りである。
【ヤクルト】
(中)飯田哲也
(指)荒井幸雄
(二)土橋勝征
(一)オマリー
(捕)古田敦也
(右)稲葉篤紀
(遊)池山隆寛
(三)ミューレン
(左)真中満
(投)ブロス
【オリックス】
(右)イチロー
(二)福良淳一
(中)田口壮
(一)D・J
(遊)小川博文
(指)ニール
(左)高橋智
(捕)中嶋聡
(三)馬場敏史
(投)佐藤義則
ヤクルトの先発投手は、この年(1995年)のヤクルトのエース・ブロスであり、これは大方の予想どおりだったが、
オリックスは、何と、当時40歳の大ベテラン・佐藤義則を先発投手としてマウンドに送り込んだ。
仰木監督としては、経験豊富なベテランの佐藤に、日本シリーズ初戦のマウンドを託したわけであるが、
佐藤は、1984(昭和59)年の阪急ブレーブス優勝メンバーであり、当時は、阪急時代の優勝を知る、唯一の投手であった。
ただでさえ、緊張感が漂う初戦のマウンドは、やはり佐藤で行くべきであると、仰木監督は判断していたのかもしれない。
晴れて日本シリーズ第1戦を迎えた、オリックスの本拠地・グリーンスタジアム神戸は、超満員の観客で埋め尽くされていた。
あの「阪神大震災」から、9ヶ月が経過していたが、地元・神戸のファンは、「がんばろうKOBE」という旗印を掲げ、快進撃でリーグ優勝を果たし、日本シリーズの舞台まで勝ち上がって来たオリックスブルーウェーブの選手達に、大声援を送った。
果たして、オリックスのメンバー達は、そのファンの期待に応える事が出来るであろうか?
<1995(平成7)年10月21日…「ヤクルトVSオリックス」の日本シリーズ第1戦①~ヤクルトのブロス-古田敦也のバッテリー、イチローを徹底的に抑え込む~そして、ヤクルトが1点を先取>
1995(平成7)年10月21日、「ヤクルトVSオリックス」の日本シリーズ第1戦の火蓋が、切って落とされた。
1回表、ヤクルトは2死1・2塁のチャンスを作ったが、オリックスの先発・佐藤義則が、何とかそのピンチを凌いだ。
そして1回裏、オリックスの一番打者・イチローが打席に入った。
イチローの登場に、グリーンスタジアム神戸の観客席からは、「待ってました!!」とばかりに、大歓声と大拍手が起こった。
ブロス-古田敦也のヤクルトバッテリーと、イチローの最初の対決である。
そして、イチローの第1打席は、事前のミーティング通り、ヤクルトバッテリーは、イチローの内角を徹底的に攻めて、最後はイチローを平凡なライトフライに打ち取った。
イチローが打ち取られ、オリックスファンからは大きな溜息が漏れたが、
まずは、ブロスの剛速球で、イチローに思い切り内角を意識させた、ヤクルトバッテリーの勝ちであった。
3回表、ヤクルトは2死1・2塁のチャンスを作ると、
1番・飯田哲也が、佐藤義則からレフト前へタイムリー安打を放ち、ヤクルトが1点を先取し、1-0とリードした。
日本シリーズ初戦の、大事な先取点は、ヤクルトに入ったが、
ヤクルトは、シーズン中と同様、チャンスを確実に物にする攻撃を見せた。
ヤクルトが1-0とリードして迎えた3回裏、2死ランナー無しという場面で、
イチローは、この試合の第2打席を迎えた。
イチローの登場に、またグリーンスタジアム神戸のスタンドは沸いたが、
ブロスと古田敦也のバッテリーは、またしてもイチローに徹底的な内角攻めを行ない、
最後は、ブロスが投じた、外角高目の速球に、イチローのバットは空を切った。
イチローは三振に打ち取られ、オリックスファンからは、またも大きな溜息が漏れた。
「よしよし、ようやった」
事前のミーティング通りの攻めによって、イチローを封じ込めた野村監督は、ベンチで「してやったり」と、ほくそ笑んでいた。
ここまでは、野村監督の作戦どおりである。
「その調子で、イチローのインコースを、どんどん突いて行け」
野村監督は古田に対し、そのような指示を下す。
どうやら、イチローは徐々に、野村監督とヤクルトバッテリーの術中に、はまりつつあるようであった。
<1995(平成7)年10月21日…「ヤクルトVSオリックス」の日本シリーズ第1戦②~4回裏、オリックスがニールのタイムリーで1-1の同点に追い付く⇒5回表、ヤクルトが池山の2点タイムリーで3-1と勝ち越し>
さて、0-1とリードされたオリックスは、ヤクルトのショート・池山隆寛のエラーなども有って、2死1・3塁のチャンスを作ると、
この場面で、6番・ニールがレフト前へタイムリーを放ち、オリックスは、1-1の同点に追い付いた。
ヤクルトとしては、手痛い守備のミスから、同点に追い付かれてしまったが、ブロスは、その後は踏ん張り、勝ち越しは許さなかった。
1-1の同点に追い付かれたヤクルトは、
その直後の5回表、2死からランナーを2人出すと、
先程、手痛いエラーをしてしまった7番・池山隆寛が、勝ち越しの2点タイムリーを放った。
池山は、守備のミスをバッティングで取り返し、これでヤクルトが3-1と2点をリードした。
そして、ここまで良く投げて来た、オリックスの先発・佐藤義則は、ここで降板となった。
<1995(平成7)年10月21日…「ヤクルトVSオリックス」の日本シリーズ第1戦③~ブロス-古田敦也のバッテリー、第3打席でもイチローを打ち取る>
1-3と、ヤクルトに2点をリードされたオリックスであるが、
5回裏、オリックスはブロスに簡単に2アウトを取られ、2死ランナー無しの場面で、イチローの第3打席を迎えた。
この打席で、イチローはファールで粘ったが、結局、最後はセンターフライに打ち取られた。
ブロス-古田敦也のバッテリーは、またしてもイチローを打ち取る事に成功したが、
流石のイチローも、思うようなバッティングが出来ず、浮かない表情を見せた。
一方、ヤクルトとしては、ここまでは事前に想定したゲームプラン通りの試合運びを見せ、試合は後半に進んで行った。
<1995(平成7)年10月21日…「ヤクルトVSオリックス」の日本シリーズ第1戦④~イチロー、第4打席で、ようやく初安打を放つが…>
1-3とリードされたオリックスは、6回裏、ニールのタイムリーで1点を返し、2-3と1点差に迫った。
そして、2-3と1点を追うオリックスは7回裏、この回先頭の8番・中嶋聡がヒットで出塁した後、9番・馬場敏史は送りバントを失敗、
1死1塁という場面で、1番・イチローが、この試合の第4打席を迎えた。
この打席で、イチローはブロスからセンター前へヒットを放ち、ようやく、このシリーズ初安打を記録した。
待望のイチローの初安打に、グリーンスタジアム神戸の大観衆は大いに盛り上がった。
オリックスは、1死・1・2塁という絶好のチャンスを作ったが、マウンド上のブロスは、2番・福良淳一、3番・田口壮を打ち取り、この大ピンチを切り抜けた。
ブロスは、崩れそうで崩れない、いつも通りの投球であり、
「ここぞ!」という場面で、ギアを上げて来るブロスに、オリックス打線も手を焼いていた。
<1995(平成7)年10月21日…「ヤクルトVSオリックス」の日本シリーズ第1戦⑤~8回表、ヤクルトが代打・大野雄次の2ランホームランで2点を加え、5-2とリードを広げる>
3-2と、ヤクルトが僅か1点をリードしたまま、試合は8回表に進んだ。
そして、8回表1死1塁という場面で、打席には2番・荒井幸雄が向かったが、
左打者の荒井幸雄を迎えた所で、オリックスの仰木監督は、投手を2番手・伊藤隆偉から、3番手として、左腕の清原雄一に交代した。
すると、ヤクルトの野村監督は、右打者の大野雄次を代打に送った。
試合は終盤、重大な局面を迎え、両監督が激しく動いた。
そして、この場面で代打に起用された大野雄次は、野村監督の起用に応え、
レフトスタンドへ、値千金の代打2ランホームランを放ったのである。
これで、ヤクルトは貴重な2点を追加し、ヤクルトが5-2とリードを広げた。
大野雄次といえば、大洋(1987~1991)-巨人(1992~1993)-ヤクルト(1994~1998)と、
3球団を渡り歩いた選手であるが、大洋時代は、右の大砲として期待されながら、なかなかレギュラーを確保出来ず、
巨人に移籍後、一時は右の代打の切り札として活躍しながら、1993(平成5)年限りで巨人を戦力外になっていた。
その大野の長打力に、野村監督が目を付け、1994(平成6)年からは、大野はヤクルトに移籍していたが、
ヤクルト移籍後、大野はヤクルトの代打の切り札として、大活躍していた。
まさに、大野も「野村再生工場」で蘇った選手の1人であるが、
その大野が、日本シリーズという檜舞台で、「大仕事」をやってのけたのである。
苦労人の大野が、報われた瞬間であった。
<1995(平成7)年10月21日…「ヤクルトVSオリックス」の日本シリーズ第1戦⑥~9回裏は高津臣吾が完璧に抑え、ヤクルトが5-2で初戦に勝利>
結局、8回表の大野雄次の代打2ランホームランにより、この試合の大勢は決した。
ヤクルトは、ブロスが8回を6安打2失点と好投し、9回裏、野村監督は2番手・高津臣吾をマウンドに送った。
その高津は、9回裏、オリックス打線を三者凡退と完璧に抑え、ヤクルトが5-2でオリックスを破り、ヤクルトが日本シリーズの初戦を制した。
終わってみれば、野村監督とヤクルトバッテリーの「イチロー封じ」が功を奏し、まずはヤクルトが先勝したが、
この後、更に「ヤクルトVSオリックス」の熱戦は続いて行く事となる。
(つづく)