1995(平成7)年「ヤクルトVSオリックス」の日本シリーズ⓪~ヤクルトとオリックス優勝への道~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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今年(2021年)のプロ野球の日本シリーズは、「ヤクルトVSオリックス」の対決に決まった。

「ヤクルトVSオリックス」の対決は、1995(平成7)年以来、実に26年振りである。

今から26年前、野村克也監督率いるヤクルトスワローズがセ・リーグ優勝、仰木彬監督率いるオリックスブルーウェーブがパ・リーグ優勝を果たし、日本シリーズでの「ヤクルトVSオリックス」の対決が実現した。

 

 

というわけで、今回は26年振りとなる、「ヤクルトVSオリックス」の日本シリーズを記念し、

1995(平成7)年の「ヤクルトVSオリックス」の日本シリーズを振り返ってみる事としたい。

それでは、まずは1995(平成7)年にリーグ優勝を果たした、ヤクルトスワローズオリックスブルーウェーブが、どのようなチームだったのかについて、ご覧頂こう。

 

<1992(平成4)~1993(平成5)年…野村監督率いるヤクルトスワローズ「V2」達成~1993(平成5)年には、ヤクルト15年振り日本一>

 

 

 

 

 

1990(平成2)年、ヤクルトスワローズの監督に就任した野村克也は、

「1年目に種を撒き、2年目に水をやり、3年目に花を咲かせる」

と語り、「就任3年目に、ヤクルトを優勝させる」と宣言していた。

そして、その宣言どおり、野村監督の就任3年目の1992(平成4)年に、ヤクルトは14年振りの優勝を果たした。

その年(1992年)は、ヤクルトは日本シリーズで西武ライオンズに3勝4敗と惜敗したが、

翌1993(平成5)年、ヤクルトはリーグ連覇を果たすと、日本シリーズではヤクルトは4勝3敗で西武を破り、ヤクルトスワローズは15年振りの日本一を達成した。

その時、ヤクルト日本一決定のマウンドに上がっていたのは、この年(1993年)から野村監督により、抑えの切り札に抜擢されていた、高津臣吾である。

 

 

夕闇迫る西武球場で、野村監督は「日本一」の胴上げを受けた。

その時、ヤクルトの選手達の歓喜の輪から、少し外れた所で、高津臣吾は感激の涙を流していたが、

この時、野村克也監督率いるヤクルトは、一度、野球界の頂点に立ったと言って良い。

何と言っても、当時、「常勝」だった西武ライオンズを破っての「日本一」である。

これは、とても価値の有る勝利であった。

 

<1994(平成6)年…FAで落合博満を補強した長嶋巨人が「10.8」決戦を制し、リーグ優勝⇒西武を破り「日本一」達成>

 

 

1993(平成5)年、長嶋茂雄が12年振りに監督に復帰した巨人は、

年間通して貧打に泣き、野村ヤクルトの独走を許し、良い所無く「3位」に終わった。

すると、長嶋巨人は巻き返しを図り、同年(1993年)シーズンオフから導入された「FA(フリー・エージェント)」制度を早速活かした。

この時、中日ドラゴンズの主砲・落合博満「FA宣言」をしたが、長嶋巨人は、早速、落合を獲得したのである。

巨人としては、何が何でも優勝を奪回するため、なりふり構わず、補強に動いたという事であろう。

 

 

すると、1994(平成6)年のシーズン、長嶋巨人中日ドラゴンズは、シーズン終盤、激しい優勝争いを繰り広げ、

同年(1994年)10月8日、プロ野球史上初となる、「中日VS巨人」の「シーズン最終戦での、同率最終決戦」、所謂「10.8決戦」で、

長嶋巨人が、中日を6-3で破り、長嶋巨人は劇的なリーグ優勝を飾った。

「やはり、長嶋監督は、ドラマチックな野球を見せてくれる」

と、この年(1994年)は、巨人ファンは歓喜に沸いた。

 

 

 

一方、この年(1994年)、ヤクルトと巨人の対戦では度々、乱闘事件が起こるなど、この対決は「遺恨試合」となったが、

古田敦也が、打球を指に受けて、シーズン序盤に骨折で離脱するなど、終始、故障者に泣き、

ヤクルトは「V3」は成らず、「4位」に沈んでしまった。

ヤクルトとしては、甚だ不本意なシーズンとなってしまったが、野村監督としても、忸怩たる思いが有ったのではないだろうか。

 

 

そして、長嶋巨人は、日本シリーズでも西武ライオンズを4勝2敗で破り、

長嶋巨人は、遂に「日本一」の座に就いた。

満面の笑みで、長嶋監督は胴上げされたが、その光景を、野村監督は果たして、どんな思いで見ていたのであろうか。

勿論、野村監督は「今に見ておれ」と、闘志を燃やしていたに違いない。

 

<1995(平成7)年…長嶋巨人、なりふり構わぬ大補強で、ヤクルトから広沢克己、ハウエルを「強奪」>

 

 

 

 

だが、そんな野村監督の闘志に、冷水をぶっかけるように、

翌1995(平成7)年、長嶋巨人は、更に、なりふり構わぬ大補強を敢行する。

巨人は、ヤクルトの主力打者、広沢克己、ハウエル「強奪」するなど、実に「30億円」もの大金を使い、

各球団から、選手をかき集め、巨人は更に圧倒的な「巨大戦力」となった。

シーズン開幕前、日本テレビでは、長嶋巨人の「V2」の「前祝い」とばかり、

「V2だ!長嶋ジャイアンツ」なる、特別番組まで放送していた程である。

野村監督は、憮然とした表情で、それを見ていたに違いない。

 

<1995(平成7)年…巨大戦力の長嶋巨人を倒し、ヤクルトスワローズが2年振り優勝!!>

 

 

 

 

 

しかし、野村監督は、逆境になればなる程、更に闘志を燃やすタイプの人である。

「優勝は、お金で買える物ではない。野球は、頭でするものだ。知恵を使って、巨人を倒してやる」

野村監督は、そんな風に思っていた。

そして、ヤクルトは長嶋巨人に、広沢とハウエルは「強奪」されたものの、

その代わりに、阪神タイガースで、4年連続3割という実績を残しながら、阪神をクビになっていた、トーマス・オマリーを獲得した。

この年(1995年)、オマリーヤクルト打線の4番に座り、大活躍をして、阪神を見事に見返す大活躍を見せた。

 

 

 

そして、1995(平成7)年のセ・リーグは、野村監督率いるヤクルトスワローズが、圧倒的な強さを見せ、ヤクルトは、見事に2年振りのリーグ優勝を達成した。

1995(平成7)年9月30日、神宮球場のヤクルト-巨人戦で、ヤクルトは5-0で巨人を破り、野村監督は、ライバル・長嶋巨人の目の前で、リーグ優勝の胴上げを受け、神宮で宙を舞った。

胴上げされる野村監督の目には、感激の涙が浮かんでいたものである。

 

 

この時、優勝監督インタビューで、野村監督は、万感の思いを込めた表情で、こんな事を言っていた。

「捲土重来」

この言葉は、どういう意味なのかというと、

「一度、勢いを失った者が、もう一度、盛り返す事」

という事である。

つまり、一度、長嶋巨人に敗れ去ったヤクルトが、再び天下を取ったという事を、野村監督は、高らかに宣言したのであった。

という事で、私としても、巨人に比べると、資金力で劣るヤクルトが、野村監督の知力と、見事なチームワークによって勝ったという事に、実に痛快な思いが有ったものである。

 

 

 

 

 

では、1995(平成7)年のヤクルトスワローズのメンバーを見てみよう。

前述の通り、オマリーが軸となっていたが、前ロッテのミューレンが8番を打ち、「恐怖の8番打者」として、恐れられていたのが、私としては印象的である。

飯田哲也-稲葉篤紀-古田敦也-オマリー-池山隆寛-秦真司-土橋勝征-ミューレン…

と続く打線は、何処からでも点を取る事が出来る、大技・小技も何でも出来る、実にバランスが取れたメンバー達であった。

なお、横浜ファンの私としては、この年(1995年)、ミューレンには、痛い所で、よく打たれた印象が有る。

 

 

 

 

 

 

次に、この年(1995年)のヤクルトスワローズの主力投手陣について、ご紹介させて頂く。

 

山部太 31試合 16勝7敗 防御率3.83

テリー・ブロス 32試合 14勝5敗 防御率2.33

石井一久 26試合 13勝4敗1セーブ 防御率2.76

吉井理人 25試合 10勝7敗 防御率3.12

伊東昭光 34試合 10勝8敗 防御率4.38

 

山部太は、現役生活を通して、故障に泣かされた投手だったが、この年(1995年)は生涯最高とも言うべき絶好調のシーズンであり、「16勝」を挙げ、ヤクルトのエースとして大活躍した。

テリー・ブロスは、テスト生としてヤクルトの入団テストを受験し、合格を果たすと、そのままエース格として大活躍し、同年(1995年)9月9日の巨人戦では、「ノーヒット・ノーラン」を達成した。

現楽天監督の石井一久は、荒れ球の左腕投手だが、絶好調の時は、全く手が付けられない投球をして、バッタバッタと相手チームの打者から三振を奪いまくった。

この年(1995年)、近鉄からヤクルトに移籍した吉井理人は、数年間、低迷していたものの、「野村再生工場」により、見事に蘇った。

そして、伊東昭光は、先発にリリーフに、「何でも屋」「便利屋」として、どんな場面でも投げる事が出来る投手であり、野村監督に重宝されていた。

 

 

 

そして、何と言っても、野村監督によって、抑え投手としての適性を見出された高津臣吾は、

この年(1995年)、39試合 1勝3敗 28セーブ 防御率2.61という成績を残し、

「高津が出てくれば、まずヤクルトは負けない」

という、絶対的な守護神となっていた。

現ヤクルト監督の高津臣吾は、間違いなく、野村監督の手腕によって開花した投手であると言って良い。

以上、これが1995(平成7)年のヤクルトスワローズの面々である。

 

<「三原マジック」の申し子・仰木彬~名将・三原脩監督の薫陶を受け、長年、近鉄コーチを務める>

 

 

 

さて、今度は、オリックスブルーウェーブを率いた、仰木彬監督に、スポットを当てる。

仰木彬(おおぎ・あきら)は、1954(昭和29)年、当時、「名将」三原脩監督が率いていた、西鉄ライオンズに入団し、プロ野球人生をスタートさせた。

仰木は、三原監督と同じく、二塁手だった事もあり、三原監督には特に目をかけられていたというが、

仰木は、変幻自在の「三原マジック」を、一番間近で見ており、「三原マジック」の何たるかを、貪欲に吸収していた。

なお、当時の西鉄ライオンズは黄金時代を築いていたが、最も女性にモテた選手は、仰木彬だったという。

 

 

仰木彬は、1967(昭和42)年を最後に、現役引退したが、

1970(昭和45)年、当時、三原脩が監督を務めていた、近鉄バファローズにコーチとして招かれ、

以後、仰木は長年、近鉄バファローズでコーチを務めていた。

1979(昭和54)年、「広島VS近鉄」の日本シリーズ第7戦、あの「江夏の21球」の試合で、仰木は近鉄の三塁コーチを務めている。

 

<1988(昭和63)年…近鉄監督に就任した仰木彬、「10.19決戦」で日本中を沸かせ、翌1989(平成元)年に近鉄を優勝に導く~「熱パ」を演出し、野茂英雄など、選手達の個性を活かした「仰木マジック」が話題に>

 

 

1988(昭和63)年、仰木彬近鉄バファローズの監督に昇格した。

近鉄監督就任当時、仰木彬の知名度は、決して高くなかったが、

長年、近鉄のコーチを務めていた仰木は、誰よりもチームの事を知り尽くしていた。

そして、仰木監督は、自らの右腕として、かつて西鉄ライオンズで同僚だった、中西太をヘッドコーチに起用した。

なお、中西太は、仰木監督の恩師・三原脩監督の娘婿である。

 

 

1988(昭和63)年、近鉄監督に就任した仰木彬は、就任早々、近鉄を強豪チームに変身させ、

この年(1988年)、近鉄バファローズは、王者・西武ライオンズと、激しい優勝争いを繰り広げた。

そして、同年(1988年)10月19日、シーズン最終日の川崎球場でのロッテ-近鉄のダブルヘッダー、所謂「10.19決戦」で、近鉄は惜しくも優勝は逃してしまったが、近鉄の戦いぶりは、日本中に感動を巻き起こした。

そのドラマの主役となった仰木監督は、一躍有名になったのである。

 

 

翌1989(平成元)年、仰木監督率いる近鉄バファローズは、オリックス・西武との三つ巴の優勝争いを制し、

近鉄は、前年(1988年)の悔しさを晴らし、見事に9年振りの優勝を達成した。

このように、仰木監督はパ・リーグを大いに盛り上げ、「熱パ」の立役者となった。

地味な存在と思われた仰木監督は、見事に大輪の花を咲かせたのである。

 

 

 

また、仰木監督は、翌1990(平成2)年に近鉄に入団し、

個性的な「トルネード投法」で話題になった、野茂英雄の投球フォームも、全く矯正したりはせず、

野茂の好きなように投げさせていた。

このように、選手の個性を活かし、ノビノビと野球をさせていた仰木監督は「管理野球」とは真逆の野球であり、その采配ぶりは「仰木マジック」と称された。

勿論、「仰木マジック」の源流は、言うまでもなく「三原マジック」である。

 

<1994(平成6)年…仰木彬のオリックス監督就任と、イチローの登場>

 

 

仰木彬は、1992(平成4)年限りで、5年間務めた、近鉄バファローズの監督を退任すると、

1年置いて、1994(平成6)年から、同じパ・リーグのオリックスブルーウェーブの監督に就任した。

オリックスは、近鉄とは関西同士のライバル球団であるが、オリックスとしては、仰木監督を招聘し、

オリックスを、強くて魅力有る球団にして欲しい、という思惑が有った。

選手の個性を活かす、仰木監督は、まさにその適任であると、オリックスは判断したに違いない。

 

 

 

仰木彬の、オリックス監督就任1年目の1994(平成6)年、運命的な出逢いが有った。

当時、オリックス入団3年目、20歳の若武者・鈴木一朗は、当時、二軍戦では打ちまくっていたが、

オリックスの一軍監督・土井正三の方針とは合わず、冷や飯を食っていた。

しかし、仰木監督は、この若き天才打者に目を留め、彼を一軍のレギュラーとして抜擢する事とした。

そして、鈴木一朗の登録名を「イチロー」と改め、大いに売り出す事にしたのである。

なお、当初、「イチロー」が悪目立ちしないよう、佐藤和弘(パンチ佐藤)の登録名も「パンチ」に改称している。

 

 

 

そして、イチローは、仰木監督の期待に応え、打ちまくった。

イチローは、前任の土井監督からは、矯正するように言われていた、個性的な「振り子打法」で打ちまくり、

この年(1994年)、イチロー史上初となる、「シーズン200安打」を達成し、一躍、スーパースターの仲間入りを果たした。

まさに、選手の個性を伸ばす仰木監督との出逢いが有ったからこそ、イチローは全面開花したと言って良い。

やはり、人と人との出逢いは、運命を大きく左右するものであると、痛感させられる。

もし、仰木監督がオリックスの監督に就任していなければ、果たして、イチローはあれだけのスーパースターになったかどうか…。

 

<1995(平成7)年のオリックスブルーウェーブ~「阪神大震災」と「がんばろうKOBE」~阪神大震災の被災者のため、一致結束したオリックスが奇跡の優勝>

 

 

翌1995(平成7)年は、オリックスブルーウェーブにとっては、特別な年となった。

言うまでもなく、1995(平成7)年1月17日に発生した、阪神大震災の事である。

阪神大震災により、神戸の街は甚大な被害を受け、多数の死傷者が出る、大災害となった。

そして、神戸を本拠地とするオリックスも、合宿所が大きな被害を受けたが、

この未曽有の大災害により、この年(1995年)、オリックスには「特別な使命」が生まれた。

 

 

 

 

この年(1995年)、プロ野球は、一時は開幕も危ぶまれたが、何とか開幕に漕ぎ着けた。

そして、オリックスはユニフォームの袖に「がんばろうKOBE」という文字を縫い付けたが、

仰木監督は、オリックスの選手達に、

「被災者を元気付けるためにも、今年は何が何でも、絶対に優勝しよう!!」

と、檄を飛ばしたのである。

そう、オリックスは、阪神大震災の被災者のためにも、絶対に優勝しなければならないと、悲壮な覚悟と決意を持って、シーズンに臨んだのである。

 

 

 

 

そして、1995(平成7)年、オリックスブルーウェーブは、一致結束し、勝利に向かって突き進んだ。

1995(平成7)年9月19日、西武球場での西武-オリックス戦で、オリックスは8-2で西武を破り、前身の阪急ブレーブス以来、11年振りの優勝を達成したのである。

この試合、胴上げ投手となったのは、抑えの切り札・平井正史であり、優勝が決まった瞬間、平井と中嶋聡捕手は、抱き合って喜びを爆発させ、その後、マウンド上には、あっという間に歓喜の輪が出来た。

なお、中嶋聡捕手とは、勿論、現オリックスバファローズ監督の、あの中嶋聡である。

そして、仰木監督が胴上げされ、仰木監督は敵地・西武球場で宙を舞った。

 

 

 

 

 

試合後、祝勝会が行われ、オリックスの選手達は、喜びを爆発させた。

普段はクールなイチローも、喜びのあまり、仰木監督に抱き着いていたが、それだけ本当に嬉しかったのであろう。

後日、オリックスの選手達は、本拠地・グリーンスタジアム神戸に凱旋し、地元ファンと優勝の喜びを分かち合ったが、

この年(1995年)のオリックスの優勝メンバーは、

イチロー-馬場敏史-田口壮-ニール-藤井康雄-D・J-小川博文-中嶋聡-勝呂壽統…

といった並びである。

 

 

だが、この頃のオリックスの場合、そう言った並び順は、あまり意味が無い。

何故かといえば、当時、パ・リーグが導入し始めていた、投手の「予告先発」を最大限に活かし、

仰木監督は、相手投手との相性などのデータを駆使して、毎日、変幻自在に打順やメンバーを組み換えていたからである。

従って、オリックスは固定メンバーではなく、毎日、メンバーがガラッと入れ替わる「猫の目打線」であり、相手チームを幻惑した。

まさに、変幻自在の「仰木マジック」の真骨頂であった。

 

 

 

 

 

 

では、この年(1995年)のオリックスの投手陣について、ご紹介させて頂く。

主な投手は、下記の通りである。

 

平井正史 53試合 15勝5敗27セーブ 防御率2.32

長谷川滋利 24試合 12勝7敗 防御率2.89

星野伸之 24試合 11勝8敗 防御率3.39

野田浩司 26試合 10勝7敗 防御率3.08

佐藤義則 16試合 4勝2敗 防御率3.86

 

何と言っても、この年(1995年)のオリックス投手陣の主役は、プロ2年目の平井正史である。

平井は、リリーフとして「53試合 15勝5敗27セーブ 防御率2.32」という大車輪の活躍を見せ、オリックス投手陣の大黒柱となった。

また、長谷川滋利・星野伸之・野田浩司が二桁勝利を達成したが、

野田浩司は、4月21日、千葉マリンスタジアムでのロッテ-オリックス戦で、日本新記録となる「1試合19奪三振」を達成、

そして、当時40歳の大ベテラン・佐藤義則は、8月26日、藤井寺球場での近鉄-オリックス戦で、「史上最年長ノーヒット・ノーラン」を達成した。

 

 

 

また、小林宏・野村貴仁という、左右の両投手は、

 

小林宏 15試合 8勝3敗 防御率2.68

野村貴仁 32試合 3勝2敗2セーブ 防御率0.98

 

という成績を残したが、小林宏は先発ローテーションの一角を守り、

野村は、貴重な左のリリーフ投手として活躍した。

なお、小林宏は、「ヤクルトVSオリックス」の日本シリーズで「主役」となるが、その話については、後述する。

 

<1995(平成7)年も大活躍だったイチロー、しかし…?>

 

 

この年(1995年)も、イチローは大活躍であった。

イチローの成績は「打率.342 25本塁打 80打点 49盗塁」というものであり、

イチローは、首位打者・打点王・盗塁王を獲得し、本塁打をあと3本打っていれば「三冠王+盗塁王」という、前人未踏の大記録を達成する所であった。

まさに、イチローは向かう所敵無しである。

 

 

「ヤクルトVSオリックス」の日本シリーズでの対決が決まった時、

野村監督は、イチロー対策に、頭を悩ませていた。

「イチローを抑えない限り、ヤクルトの勝利は無い」

それは明白なのだが、では一体、どうやってイチローを抑えれば良いのか?

野村監督は、考えに考え抜いた末、ある「奇策」に打って出る事となる。

という事で、その話については、また次回。

 

(つづく)