1960(昭和35)年、それまで「6年連続最下位」に沈んでいた、大洋ホエールズの監督に就任した三原脩は、
就任1年目にして、大洋ホエールズをセ・リーグ「初優勝」に導き、その手腕は「三原マジック」と絶賛された。
「万年最下位」の大洋を、僅か1年で優勝させてしまった三原監督の采配に、世間の人々は驚愕した。
一方、パ・リーグは「ミサイル打線」を擁する大毎オリオンズが優勝し、この年(1960年)の日本シリーズは「大洋VS大毎」の対決となった。
「大洋VS大毎」の日本シリーズは、下馬評では圧倒的に「大毎有利」という物が多かったが、
三原監督も、大洋の選手達に「まあ、ウチは1つ勝てれば良いよ」というような事を言っていた。
だが、その実、三原脩は虎視眈々と、下馬評を覆しての勝利を狙っていた。
というわけで、今回は1960(昭和35)年の大洋ホエールズの「奇跡の日本一」の「後編」として、「大洋VS大毎」の日本シリーズを描く。
それは、まさに「三原マジック」のクライマックスであった。
それでは、ご覧頂こう。
<1960(昭和35)年10月11日…「大洋VS大毎」日本シリーズ第1戦~大洋が「1-0」で勝利~「先発・鈴木隆」の奇襲から、1回表途中に秋山登に投手交代した「三原マジック」で、大洋が先勝>
1960(昭和35)年10月11日、遂に「大洋VS大毎」の日本シリーズが開幕した。
第1戦の舞台は、大洋ホエールズの本拠地・川崎球場である。
試合前、大洋の中部謙吉オーナーが、三原監督の元を訪れ、激励していたが、
実は、中部オーナーには1つ、心配の種が有った。
「三原君、実はな、永田さんが『毎試合、野球帽を被って、一緒に試合を見よう』と言っているんだが…。大丈夫だろうか?」
大毎オリオンズの永田雅一オーナーは、大洋ホエールズの中部謙吉オーナーを誘い、「毎試合、一緒に野球帽を被り、肩を並べて観戦しよう」と、言っているというのである。
勿論、それは大毎が大洋をコテンパンにやっつけるだろうという事を見越して、永田はそんな事を言っているというのは、明白であった。
我が子のようなホエールズが、大毎にボロ負けする所を見たくないと、中部オーナーは心配顔だった。
「オーナー、勝負事は、やってみなければ、わかりませんよ。まあ、見てて下さい」
三原監督は、何やら自信ありげな表情だったので、中部オーナーも、少し安心した様子であった。
「大洋VS大毎」の日本シリーズ第1戦の試合開始に先立ち、
現職首相の池田勇人が、始球式に登場した。
池田勇人首相は、この年(1960年)、「安保闘争」で退陣した岸信介に代わり、首相に就任して「所得倍増計画」を、ぶち上げていた。
現職首相が始球式に登場するという事を見ても、当時の日本シリーズが、如何に国民的関心事だったかが、わかろうというものである。
なお、この後、日本は池田勇人首相が思い描いていた通り、「所得倍増計画」を実現させ、「高度経済成長」を成し遂げて行く事となる。
試合に先立ち、大洋ホエールズ・三原脩、大毎オリオンズ・西本幸雄の両監督が、
審判団に、グラウンドルールの説明などを受けた。
この時、西本監督は、渋い表情で三原監督の方を見ていたが、
実は、この前日、テレビの生放送で、両監督は、日本シリーズを前にして対談をする予定だった。
だが、三原監督は、その生放送を、わざとすっぽかして、西本監督を苛立たせるという、「陽動作戦」を取っていた。
その対談番組は、NETテレビ(現・テレビ朝日)で生放送されたが、
司会を務めていたのは、かつて高橋ユニオンズに在籍し、この年(1960年)から、当時26歳の若さで、野球評論家に転じていた、佐々木信也だった。
前述の通り、三原監督は、生放送をわざとすっぽかし、結果として、西本監督は「待ちぼうけ」を食らったが、
その翌日、つまり日本シリーズ第1戦の当日、佐々木信也は三原脩に対し、
「昨夜は、何故、来なかったのですか?」と聞いたところ、
「行きたくなくなったんだから、しょうがないだろう」との答えが返って来て、佐々木信也は唖然としたという。
ともあれ、三原監督は、「宮本武蔵VS佐々木小次郎」の「巌流島の決闘」での宮本武蔵のように、わざと相手を動揺させ、心理的に揺さぶる作戦に出たという事であろう。
一本気な西本監督は、当時40歳の若さであり、「如何に、大監督の三原さんとはいえ、失礼ではないか」と、カッカ来てきた。
三原の「作戦」に、まんまと乗せられてしまった形となった。
その「大洋VS大毎」の日本シリーズ第1戦、三原監督は、いきなり「奇襲攻撃」を仕掛けて来た。
大方の予想では、大洋の先発はエース・秋山登であろうと予想されていたが、何と、三原監督は鈴木隆を先発させたのである。
これには大毎側も驚いたようであるが、実は三原監督は「お前は、大毎の左打者を引っ込ませるための、当て馬だぞ」と言ってあった。
そして、秋山には「鈴木が、1人でもランナーを出せば、すぐに交代させるから、肩を作っておけ」と言ってあった。
なお、「当て馬」扱いされた鈴木隆は、「僕はね、腹は立たなかった。だってね、誰がどう見たって、第1戦の先発は最高殊勲選手の秋山に決まってますよ!でも、三原さんが、相手を攪乱するために僕を使うという作戦に出るという事で、それならと納得していた」と、後に語っている。
一方、大毎の先発は中西勝巳であった。
さて、1回表、鈴木隆は立ち上がりを大毎打線に攻め立てられ、いきなり1死2・3塁のピンチを招いた。
すると、大洋の三原監督は、ここで即座に、投手を鈴木から秋山に交代させた。
「えー!?ここで交代かよ!?」
三塁のコーチスボックスに立つ、大毎の西本監督は、戸惑った表情を見せていたが、
前述の通り、三原監督としては、これは事前の「作戦」どおりである。
いきなり、1死2・3塁、打者は4番の山内和弘という、大ピンチの場面でマウンドに上がった秋山であるが、
この場面で、秋山は二塁ランナー・柳田利夫を牽制球でタッチアウトに仕留め、その後、山内も打ち取って、無失点で切り抜けた。
実は、秋山は牽制球が下手な投手で、それまでランナーを牽制球でアウトにした事など、一度も無かったのだが、
実は、秋山は一度、ランナーの方を見ると、その後はランナーの方は見ず、打者に投げてしまうという「癖」が有り、大毎はその秋山の「癖」について、研究していたという。
だが、「秋山-土井」のバッテリーは、その秋山の「癖」を逆手に取り、この場面では、秋山が一度、二塁ランナーを見た後、打者に投げると思わせた後、何と、また二塁の方を振り向いて、牽制球でアウトに仕留める事に成功した。
これは、「秋山-土井」のバッテリーの、事前の「情報収集」が効果を上げた、「作戦勝ち」であった。
その後、大洋・秋山登、大毎・中西勝巳の両投手の投げ合いが続き、
試合は0-0の投手戦がとなったが、0-0で迎えた7回裏、大洋は5番・金光秀憲が、0-0の均衡を破る、値千金の先制ホームランを放った。
金光も、三原監督好みの、所謂「超二流」の選手だったが、伏兵・金光が、この大事な場面で「大仕事」をやってのけた。
結局、試合はそのまま、大洋が1-0で大毎を破り、大洋が大事な第1戦で勝利した。
大洋が、シーズン中で得意とした「1点差勝利」をやってのけ、先勝したわけであるが、
1回表途中から登板した秋山は、そのまま最後まで投げ切った。
一方、大毎の中西も良く投げたが、金光秀憲の一発に泣いた。
「これで、一つ勝ちましたからね。『1つ勝ったから、これでええんかな』と思って、ますます気が楽になった」
と、後に近藤昭仁は語っているが、「最低限のノルマ」である「1勝」をした大洋の選手達にとって、「後の試合は、オマケ」ぐらいのつもりだったのかもしれない。
一方、初戦を落としたとはいえ、「まだまだ、巻き返しは可能だ」と、大毎の西本監督も、まだまだ強気の姿勢は崩さなかった。
<1960(昭和35)年10月12日…「大洋VS大毎」日本シリーズ第2戦~大洋が「3-2」で勝利~8回表1死満塁、谷本稔の「スクイズ失敗」が明暗を分ける…~試合中、「社会党・浅沼稲次郎委員長の刺殺事件」が発生>
1960(昭和35)年10月12日、「大洋VS大毎」の、日本シリーズ第2戦の舞台も、第1戦と同じ、川崎球場だった。
この試合でも、大洋・中部謙吉、大毎・永田雅一の両オーナーは、共に野球帽を被り、肩を並べて観戦していた。
永田オーナーとしては、オリオンズ自慢の「ミサイル打線」が火を噴く事を願っていたであろうが、この試合も「ミサイル打線」は湿りがちであり、大毎は苦戦してしまう。
大洋・島田源太郎、大毎・若生智男の両先発で始まった試合は、0-0のまま6回表を迎えた。
0-0の同点で迎えた6回表、大毎は3番・榎本喜八が先制の2ランホームランを放ち、
大毎は、このシリーズで初めて得点を奪い、大毎が2-0と2点を先取した。
だが、大洋の捕手・土井淳は、ホームに帰って来た榎本の顔を見て、こう思ったという。
「ホームランを打って、大毎がリードしたというのに、榎本の表情が強張っていた。『あれ?何だか随分と余裕の無い表情だな』と思ってね。『よし、これなら、うウチもまだまだ行けるぞ!』と思いましたよ」
大毎は、「ミサイル打線」が全くの不発であり、漸く2点を先取したとはいえ、なかなか余裕の有る試合運びが出来ず、どうやら、焦りの色が見えていたようであった。
一方、大洋の方は、シーズン中から、こういう試合展開には、すっかり慣れていた。
得意の接戦に持ち込んでしまえば、こっちの物だという気持ちが、大洋の選手達には有ったのである。
6回表に2点をリードされた大洋は、6回裏、連打でチャンスを作ると、
4番・桑田武のタイムリー安打と、5番・金光秀憲の併殺崩れの間に2点を取り、大洋がアッサリと2-2の同点に追い付いた。
「やはり、接戦になれば、俺達は強い!!」
大洋の選手達は皆、そう思っていたが、2点リードしても、すぐに追いつかれてしまった、大毎のダメージは大きかった。
2-2の同点で迎えた7回裏、大洋は2死1・3塁のチャンスを作った。
ここで、大洋の2番・鈴木武が、大毎の2番手・小野正一から、勝ち越しタイムリーを放ち、大洋が3-2と1点をリードした。
鈴木武は、近鉄時代に小野正一とは何度も対戦し、小野にはよく抑えられていたが、
「この打席に限って、僕の苦手な内角高目ではなく、内角低目にボールが来た」
との事で、小野のコントロール・ミスを見逃さず、鈴木は値千金の勝ち越し打を放ったのであった。
さてさて、大洋が3-2と1点リードし、迎えた8回表、大毎は大洋の先発・島田源太郎と、2番手・権藤正利を攻め、1死満塁という、反撃のチャンスを作った。
ここで、大洋は投手を3番手・秋山登に交代させた。
このシリーズで、三原監督は秋山を大事な場面でのリリーフとして起用する事に決めていたのである。
この1死満塁の大チャンスで、大毎の5番・谷本稔が打席に入った。
谷本は、「ミサイル打線」の一角を担う、強打者であった。
ここで、大毎・西本監督は、重大な決断を下す。
大毎打線は、このシリーズで、全く当たっていない。
この場面で、谷本にそのまま打たせると、秋山に打ち取られ、最悪の場合、ダブルプレーも有るかもしれない。
そこで、西本監督は、谷本に「スクイズ」のサインを出した。
「まずは、確実に同点を狙う」
というのが、西本監督の取った作戦であった。
だが、西本監督の「スクイズ」の作戦は、大毎にとっては最悪の結果となった。
秋山の投じた、落ちる球に、谷本は何とかバットを当てて、スクイズを試みたが、
この打球は、大洋の捕手・土井淳の足元に転がり、何と、バックスピンがかかって、打球は土井の元へと戻って来たのである。
土井が打球を拾うと、既に三塁ランナー・坂本文次郎が、ホームの目の前まで走って来ており、土井が坂本にタッチしてアウト(※ホームはフォース・プレーだったが、土井は、ホームを踏むよりも坂本にタッチする方が早いと判断したようである)、
その後、土井は一塁手・近藤和彦に送球して、打者走者・谷本稔もアウトとなった。
こうして、谷本のスクイズは失敗し、大毎はダブルプレー(併殺打)で、あっという間に反撃のチャンスは潰えてしまった。
その後、秋山は最後まで投げ切り、試合は結局、そのまま大洋が3-2で大毎を破った。
大洋は、またしても「1点差勝利」で大毎に連勝するという、「まさか」の展開となった。
やはり、接戦にさえ持ち込んでしまえば、大洋は強かった。
シーズン中、何度も修羅場をくぐり抜け、接戦を勝ち抜いて来た大洋の選手達にとって、こういう試合展開になれば、自分達は負けないという、絶対的な自信が有ったのである。
一方、谷本の痛恨の「スクイズ失敗」により、連敗を喫してしまった大毎であるが、
大洋・中部オーナーと共に観戦していた、大毎・永田オーナーは、怒り心頭であった。
試合後、永田は西本監督の自宅に電話をかけ、
「何で、スクイズなんかやらせたんだ、馬鹿野郎!!」
と、永田は西本監督を怒鳴りつけたという。
元々、この2人は全く馬が合わなかったのだが、「馬鹿野郎」呼ばわりされてしまった西本監督は、
「馬鹿野郎とは何ですか!そんなに私が気に入らないなら、クビにすれば良いでしょう!!」
と、言い返した。
ワンマン・オーナーだった永田雅一に対し、あからさまに反抗出来る者など、そうそう居なかったが、
一本気で生真面目な西本幸雄は、現場の采配に口を出して来る、永田オーナーに、どうしても我慢がならなかったと思われる。
「ああ、お前はクビだ!!」
永田は、そう言い放ち、受話器を叩きつけた。
こうして、大毎に不穏な空気が漂って来たが、果たして、大毎の巻き返しは、成るのかどうか…。
なお、「大洋VS大毎」の日本シリーズ第2戦が行われていた、まさにこの日(1960/10/12)、
東京・日比谷公会堂で行われていた、自民党・社会党・民社党の3党首の立会演説会で、
社会党・浅沼稲次郎委員長が、演壇で演説している最中、右翼少年・山口二矢に刺殺されるという、衝撃的な事件が起こった。
この会場では、前日(1960/10/11)、川崎球場で始球式を行なったばかりの、池田勇人首相も居たが、
池田首相も、日本シリーズの始球式の翌日に、まさかこんな凄惨な事件に遭遇してしまうとは、思ってもいなかったのではないだろうか。
<1960(昭和35)年10月14日…「大洋VS大毎」日本シリーズ第3戦~大洋が「6-5」で勝利~大洋が一時「5-0」とリードし、その後、大毎に「5-5」の同点に追い付かれるも、9回表に近藤昭仁が値千金の決勝ホームラン~大洋が3連勝で「日本一」に王手>
大洋が大毎に連勝し、大洋の2勝0敗で迎えた、「大洋VS大毎」の日本シリーズ第3戦は、
1960(昭和35)年10月14日、舞台を後楽園球場に移して行われた。
大洋が、得意の1点差勝利で2連勝するという、予想外の展開となったが、
果たして、大毎の「ミサイル打線」は、一体いつになったら火を噴くのであろうか?
大毎・三平晴樹、大洋・鈴木隆という、両左腕投手の先発で始まった第3戦であるが、
勢いに乗る大洋は、絶好調の5番・金光秀憲が、2本のタイムリー安打を放つ大活躍で、
大洋が5回表までに小刻みに得点を重ね、大洋が5-0と大きくリードした。
だが、5回裏、大毎は7番・柳田利夫の2ランホームランで2点を返し、反撃を開始すると、6回裏にも1点を取り、
8回裏、1死1・2塁から、5番・葛城隆雄が、大洋の3番手・権藤正利から、同点の2点タイムリー二塁打を放ち、大毎が遂に5-5の同点に追い付いた。
大洋は、鈴木隆-秋山登-権藤正利の継投策が上手く行かず、遂に5点リードを追い付かれてしまった。
「漸く、大毎のミサイル打線が火を噴いた!!」
これで、漸く大毎が本領発揮したが、このまま大毎が逆転勝ちするような事になれば、シリーズの流れは、大きく変わっていたかもしれない。
だが、大洋にとっては、嫌なムードになりかけていた所、
一振りで、そのムードを吹き飛ばして見せた男が居た。
それは、チャンスに滅法強い、新人・近藤昭仁である。
5-5の同点で迎えた9回表、大毎は投手を6番手・中西勝巳に交代させたが、
この回先頭の近藤昭仁は、何と、ライトスタンド最前列へ、勝ち越しのホームランを放ち、大洋が6-5と1点をリードした。
「あの場面は、ちょうど、風がレフトからライト方向へ吹いていた。僕は、思いっきり振って、レフトの方向へ打ったつもりだったけど、振り遅れて、打球はライトの方へ飛んで行った。そうしたら、打球が風に乗って、そのままライトスタンド最前列に入ってしまった。まあ、ツキも有りましたね」
近藤昭仁は、後にそう語っているが、まさに大洋にとっては「神風」が吹いたという事であろうか。
なお、近藤は別の機会には「風が左から右へ吹いていたので、最初から右方向へ打ってやろうと、狙っていた」と語っていた事が有ったが、果たして、偶然、打球が右へ飛んだのか、それとも、最初から意図的に打ったのか、果たして、真相はどちらだったのであろうか?
近藤昭仁は、一昨年(2019年)に亡くなってしまったので、「真相」は藪の中(?)になってしまったが、一つ確かな事は、この一発は大洋にとっては非常に価値が有り、大毎にとっては痛すぎるホームランだったという事である。
こうして、大洋は全て1点差で3連勝し、大洋が遂に「日本一」に「王手」を掛けた。
これは、日本シリーズの前には、誰も予想していない事であり、「まさか」の展開だったが、
大毎も、打線に力が有るので、1つ勝てば、流れが変わる可能性は充分に有った。
それが充分にわかっているからこそ、三原監督としても、一気に4連勝で決めてしまいたい所であろう。
<1960(昭和35)年10月15日…「大洋VS大毎」日本シリーズ第4戦~大洋が「1-0」で勝利~大洋が全て1点差のストレートの4連勝で、大洋ホエールズが「奇跡の日本一」達成!!~1960(昭和35)年の「三原マジック」、ここに完結>
1960(昭和35)年10月15日、大洋が「まさか」の3連勝で、「日本一」に「王手」を掛けて迎えた第4戦も、第3戦に続き、舞台は後楽園球場である。
大毎・小野正一、大洋・島田源太郎の両先発で始まった試合は、0-0のまま5回表を迎えた。
大洋は、またしても接戦の展開に持ち込んでいた。
0-0で迎えた5回表、この回先頭の、大洋の7番・渡辺清が二塁打を放ち、大洋は無死2塁のチャンスを作った。
しかし、8番・土井淳、9番・島田源太郎は、小野正一に打ち取られ、局面は2死2塁と変わった。
ここで打席に入ったのは、前日のヒーロー・近藤昭仁である。
「よし、また俺に美味しい場面が回って来た!!」
近藤は、チャンスで打席が回って来ると、そういう風に考える選手だったが、果たして、この場面はどうだったのか?
三塁コーチスボックスに立つ三原監督も、「ここは、勝負所だ」といった表情で、打席の近藤に視線を送っていた。
ここで、近藤昭仁は、小野正一の足元を抜き、センター前に達する、貴重な先制タイムリー安打を放った。
二塁から渡辺がホームに帰り、大洋が1-0と1点を先取した。
待望久しかった先取点を取り、三塁側に陣取った大洋ファンと、大洋の応援団からは大歓声が起こり、応援団は一斉に鉦や太鼓を打ち鳴らし、三塁側スタンドはお祭り騒ぎとなった。
「あー、うるさい、うるさい!!」
大洋の応援団のすぐ近くに居た少年ファンは、耳を塞いでいたが、近藤昭仁は、またしても「大仕事」をやってのけた。
0-1とリードされた大毎は、5回裏、2死2塁で、打席には4番・山内和弘が入った。
ここで、大洋・三原監督は、躊躇する事なく、投手を島田源太郎から秋山登に交代させた。
秋山はこの場面、山内を2ストライク・ノーボールに追い込んだが、ここで、土井は事前に稲尾和久から聞いていた、あの情報を思い出していた。
「山内さんは、2ストライク・ノーボールに追い込まれたら、3球目は絶対に振って来ない。だから、迷わず3球勝負で!!」
土井は、秋山には1球も遊び球を投げさせる事なく、外角いっぱいにストライクを放らせると、山内のバットはピクリとも動かず、見逃し三振となった。
やはり、事前の「情報収集」が、ここに来て両チームの明暗を分けたと言って良い。
その後、秋山は最後の力を振り絞り、全力で投げ続けた。
7回裏、大毎は1死2・3塁のチャンスを作ったが、この場面で、1番・坂本文次郎が、またしてもスクイズ失敗に終わっている。
後は、ピンチらしいピンチも無く、秋山登は最後まで投げ続け、9回裏2死、秋山は、大毎の9番・石川進を空振り三振に打ち取った。
この瞬間、大洋は1-0で大毎を破り、大洋は全て1点差の4連勝で大毎を下し、遂に大洋ホエールズの「日本一」が決定した。
石川を三振に打ち取り、「日本一」が決定した瞬間、大洋の捕手・土井淳は、ウィニング・ボールを三塁側スタンドに向かって、高々と放り投げた(※当時は、ウィニング・ボールをファンに向かって投げる習慣(?)が有ったようである)。
「アキ、アキ!やったぞ!!」
土井は、全速力で秋山の元に駆け寄り、秋山と土井は抱き合って喜びを爆発させた。
マウンド上には、大洋の選手達が集まり、あっという間に歓喜の輪が出来ていた。
大洋ホエールズは、遂に下馬評を覆し、「日本一」にまで登り詰めた。
なお、秋山登は、このシリーズで、全てリリーフで4連投し、大洋日本一の立役者となった。
なお、1960(昭和35)年の「大洋VS大毎」の日本シリーズMVPに輝いたのは、
第3戦・第4戦で、2試合連続で決勝打を放った近藤昭仁であった。
やはり、近藤という男は、本当に勝負強い選手であり、三原大洋の「超二流」の選手達の象徴だったと言って良いであろう。
大洋ホエールズの選手達は、自分達を「日本一」に導いた、三原脩監督を胴上げしたが、
三原監督は、「6年連続最下位」「万年最下位」の大洋ホエールズを、一躍「日本一」に導くという、「プロ野球史上最大の奇跡」を成し遂げた。
こうして、1960(昭和35)年の「三原マジック」は完結したが、中部謙吉オーナーは、
「球団を経営していて、本当に良かった」
と、祝勝会では大喜びであった。
一方、大洋に4連敗を喫し、一敗地に塗れてしまった、大毎・西本幸雄監督は、
この日本シリーズ終了後、即座に大毎の監督を辞任してしまった。
独裁者・永田雅一の逆鱗に触れてしまった以上、止むを得ない所ではあったが、「勝者」と「敗者」の差は歴然としていた。
なお、西本幸雄は、この後、阪急ブレーブス・近鉄バファローズの両球団を初優勝に導き、阪急と近鉄を強豪球団に育て上げる事となるが、それはまた別の話である。
(「1960/10/2…大洋ホエールズ、奇跡の日本一」・完)