紅白歌合戦と日本シリーズ⑥ ~1955「第6回紅白歌合戦」と「巨人VS南海」~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1954(昭和29)年の「日本シリーズ」は、史上初めて「中日VS西鉄」の対決となったが、

中日ドラゴンズが、大エース・杉下茂投手の力投により、激闘の末に中日が4勝3敗で西鉄を破り、中日ドラゴンズが初の「日本一」を達成した。

そして、同年(1954年)12月31日に開催された「第5回NHK紅白歌合戦」には、遂に美空ひばりが初出場し、「美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみ」の「三人娘」が、「紅白」で初めての揃い踏みを果たした。

 

 

そして、翌1955(昭和30)年は、世の中が大きく動いて行く年になった。

日本は、いよいよ経済的発展を遂げて行き、日本や世界では若者文化が発展して行く一方、

日本の政界では、その後の歴史の流れを決定付ける出来事が有った。

また、隆盛を誇っていた「NHK紅白歌合戦」に、民放の雄・TBSが正面切って喧嘩を売ったのも、この年(1955年)である。

それでは、ご覧頂こう。

 

<1955(昭和30)年…「神武景気」と「三種の神器」~日本経済が発展し、人々が豊かになって行った時代~戦後日本の「黄金時代」の到来>

 

 

 

 

 

1955(昭和30)年、終戦から10年が経ち、日本経済は右肩上がりで成長していた。

元々、日本人は勤勉であったが、戦後の荒廃した時代から立ち直ろうと、人々が懸命に働き、

そして、鉄鋼業を中心に、あらゆる業種の売上が順調に成長、設備投資によって更に消費が拡大して行くという好循環が続き、

日本経済は、有史以来、初めてというような空前の好景気となっていた。

そして、初代・神武天皇の名に因んで、この好景気は「神武景気」と称された。

 

 

また、白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫は「三種の神器」と称され、

懸命に働いて、これらの家電製品を買う事が、当時の日本国民の「ステータス」となっていた。

こうして、日本は人々がどんどん豊かになって行ったが、まさに日本は上り調子の絶好調の時代へと突入して行ったのである。

いよいよ、戦後日本の「黄金時代」が到来した。

 

<1955(昭和30)年…「日本社会党」左右両派が統一⇒「保守合同」で「自由民主党」が結党され、「55年体制」が確立>

 

 

 

1955(昭和30)年は、日本の政界で大きな動きが有った。

1951(昭和26)年に、「サンフランシスコ講和条約」の調印を巡り、左右両派に分裂していた「日本社会党」が、

1955(昭和30)年10月13日、その左右両派を再統一し、改めて、統一会派「日本社会党」として再スタートを切る事となった。

左派社会党・鈴木茂三郎と、右派社会党・浅沼稲次郎は、細かな路線対立よりも、左派勢力の結集を目指す事で合意し、政権奪取を目指す事となった。

 

 

 

一方、左派の巨大政党「日本社会党」の再統一に危機感を持ったのが、政界の保守勢力と、日本の富裕層である。

当時、日本政界の保守政党は、戦前の立憲政友会系で、吉田茂を中心とした「自由党」と、戦前の民政党系で、鳩山一郎を中心とした「民主党」が二大勢力だったが、「自由党」と「民主党」は、相容れない関係だった。

しかし、「このままでは、社会党に政権を取られてしまう」と、保守勢力は危機感を抱き、「自由党」と「民主党」が歩み寄り、合同する事で、話がまとまった。

 

 

 

 

1955(昭和30)年11月15日、「自由党」と「民主党」の「保守合同」が実現し、

「自由民主党」が結党され、東京・神田の中央大学講堂で、華々しく結党大会が開かれた。

この「自由民主党」こそ、2021(令和3)年現在の今もなお、日本を牛耳っている「自民党」である。

つまり、「自民党」は、「社会党」再統一という危機感から、「保守合同」によって大同団結した政党という事である。

 

 

以後、日本の政界は、与党の「自民党」と、野党の「社会党」が議会で対立するという構図が出来上がったが、

この構図を「55年体制」と言い、この後、1993(平成5)年まで38年間も続いた。

「自民党」は、「非自民連立政権」時代の1993(平成5)~1994(平成6)年と、「民主党」政権時代の2009(平成21)~2012(平成24)年という一時期のみ、下野して野党だった期間が有るが、その時期以外は、ずっと政権与党であり続けている。

つまり、良くも悪くも、日本という国は、ずっと「自民党」の時代が続いており、その端緒となったのが1955(昭和30)年であった。

 

<1955(昭和30)年…ジェームス・ディーン主演『エデンの東』公開~日本初公開時には、既に享年24歳で亡くなっていた、ジェームス・ディーン>

 

 

 

1955(昭和30)年、ジェームス・ディーン主演の映画『エデンの東』が公開された。

『エデンの東』では、ジェームス・ディーンは2人兄弟の次男の役を演じているが、

優等生で、父親に気に入られている長男に対し、ジェームス・ディーン演じる次男は、本当は父親思いなのに、とても不器用なため、父親の愛を得る事が出来ない、孤独な青年であり、見ていて胸が締め付けられる思いがする。

そして、兄の恋人であるジュリー・ハリスは、そんな彼の心情が痛いほどよくわかる、心優しい女性であり、どんどん彼に惹かれて行く…といった内容である。

 

 

という事で、『エデンの東』というのは、大変素晴らしい映画なのだが、

誠に残念な事に、主演のジェームス・ディーンは、この年(1955年)9月30日、自動車事故により、享年24歳の若さで亡くなってしまった。

『エデンの東』の日本初公開は、同年(1955年)10月4日、つまり日本で『エデンの東』が公開された時には、既に彼は亡くなっていたのである。

ジェームス・ディーンが主演した作品は『エデンの東』『理由なき反抗』『ジャイアンツ』の、僅か3本のみであるが、伝説の映画スターとして、ジェームス・ディーンの名は映画史に永遠に刻まれている。

 

<1955(昭和30)年…『これがシネラマだ!』~「シネマスコープ」で、新メディア「テレビ」への対抗策を講じた映画界>

 

 

 

1955(昭和30)年頃になると、新メディア「テレビ」が庶民の間にも急速に広まっていたが、

これに危機感を抱いた映画界は、その対抗策として「シネマスコープ」を導入し、

映画館でしか味わえないような、スケールの大きいワイドスクリーンの大作映画を、次々に製作し、観客を映画館に繋ぎ止めようとしていた。

その名も、『これがシネラマだ!』というタイトルの映画もあったが、「この大迫力は、映画館でしか味わえない」という、言わば映画ならではの「付加価値」を付けようとしていたのである。

それが功を奏し、映画人気は維持されたが、この後、テレビが台頭し、映画が衰退して行くという、大きな時代の流れは止められなかった。

 

<1955(昭和30)年…『暴力教室』と「ロック・アラウンド・ザ・クロック」~「ロックンロール」の台頭と、「マンボ」の大流行~「M+W」の時代が到来>

 

 

 

 

1955(昭和30)年、映画『暴力教室』が公開されたが、

この映画の主題歌『ロック・アラウンド・ザ・クロック』が、全米ビルボード・チャートで8週連続1位という大ヒットを記録した。

『ロック・アラウンド・ザ・クロック』を歌っているのは、ビル・ヘイリーと彼のコメッツ(BILL HALEY AND HIS COMETS)というバンドであるが、

この曲こそ、「ロックン・ロール」史上初の大ヒット曲であり、以後「ロック」という音楽が市民権を得るキッカケとなった。

つまり、ビル・ヘイリーと彼のコメッツ(BILL HALEY AND HIS COMETS)こそ、音楽史上初めて、大ブレイクを果たしたロック・バンドである。

若者の音楽である「ロック」が、音楽史に登場した瞬間であった。

 

 

 

 

また、この年(1955年)は世界中で「マンボ」が大流行し、日本でも若者達が「マンボ」のリズムに乗り、

夜な夜な、ダンスホールで若者達が踊りまくっていたが、「マンボ」を踊るために、細身のスラックスが若者達の間で流行った。

また、「M+W」なる流行語が有ったが、これは「ショートカットにスラックスの女性、カラーシャツや腕輪を身に着けた男性」が登場するという、「男女逆転現象」を示した言葉である。

前述の「ロックン・ロール」の台頭もそうだが、「若者文化」が誕生し、若者達が新たな文化を作り、時代を動かすようになって来ていた。

つまり、世の中全体が若さに溢れ、活気に満ちていた時代であった(※今の「コロナ禍」の時代とは、全く真逆である、と書かざるを得ないのが、誠に残念である)。

 

<1955(昭和30)年のプロ野球「オールスターゲーム」~笑顔で握手を交わした、巨人・水原茂監督と、西鉄・三原脩監督だが…?>

 

 

さて、ここで1955(昭和30)年のプロ野球に目を向けてみると、

この年(1955年)のオールスターゲームでは、巨人・水原茂監督と、西鉄・三原脩監督が、笑顔で握手を交わす光景が見られた。

だが、三原脩といえば、水原茂によって、巨人を「追い出された」過去が有った人である。

果たして、この時、三原はどんな思いで、水原と握手をしていたのであろうか…。

この2人が、日本シリーズの舞台で激突するのは、もう少し先の話である。

 

<1955(昭和30)の巨人…悪夢の「中南米遠征」と、身長200cmの馬場正平(後のジャイアント馬場)投手の入団>

 

 

1955(昭和30)年2~3月、シーズン開幕前に、巨人は大変な試練に見舞われていた。

巨人は「中南米遠征」を行なったのだが、悪路を延々とバス移動したり、宿泊先ではコンドルを食べさせられそうになったり、地元贔屓の審判の判定に泣かされたりと、とにかく散々な目に遭わされ、「8勝18敗」と大きく負け越した。

だが、この「地獄の旅」により、巨人の選手達は精神的に、大いに鍛えられたと、後にウォーリー与那嶺(与那嶺要)は語っている。

 

 

 

 

また、この年(1955年)、三条実業高校を中退し、身長200cmという大男の馬場正平投手が、巨人に入団した。

馬場正平の高身長は大いに目立っていたが、この馬場正平こそ、言うまでもなく、

後にプロレスで大活躍した「ジャイアント馬場」である。

巨人に入団した「巨人」の馬場が、後に「ジャイアント馬場」として大活躍したという、何とも不思議な縁の話であった。

 

<1955(昭和30)年のセ・リーグ…水原茂監督率いる巨人、2位・中日を15ゲーム差も引き離す独走優勝>

 

 

 

 

さて、悪夢の「中南米遠征」で、ひと回りもふた回しも成長し、逞しくなった、水原茂監督率いる巨人は、

この年(1955年)、巨人は2位・中日ドラゴンズを15ゲーム差も引き離す独走で、前年(1954年)の「V逸」の悔しさを晴らし、水原巨人が、2年振りのリーグ優勝を達成した。

巨人は、投打共に充実した戦力を誇り、2位以下を圧倒する、全く危なげのない独走優勝であった。

 

 

 

当時の巨人には、ウォーリー与那嶺(与那嶺要)という、ハワイ生まれの日系2世の選手が活躍していたが、

この年(1955年)、同じくハワイ生まれの日系2世・エンディ宮本(宮本敏雄)が巨人に入団し、巨人打線は厚みを増していた。

南村侑広-千葉茂-ウォーリー与那嶺(与那嶺要)-川上哲治-岩本尭-広岡達朗-平井三郎-広田順…

と続く強力打線に、エンディ宮本・ディック柏枝(柏枝文治)・樋笠一夫・藤尾茂といった控え選手達も充実していた。

 

 

投手陣は、30勝6敗 防御率1.77で「最多勝」を獲得した大友工、23勝8敗 防御率1.33で「防御率1位」となった別所毅彦など、盤石な布陣であった。

「こんな強力メンバーが居ては、巨人には勝てっこない」

と、最初から他球団は諦め気味であった。

それぐらい、この年(1955年)の巨人は、圧倒的に強かったのである。

 

<1955(昭和30)年のパ・リーグ…鶴岡一人監督率いる南海ホークス、三原脩監督率いる西鉄ライオンズとの死闘を制し、史上最多の「シーズン99勝」で南海が優勝>

 

 

 

 

一方、1955(昭和30)年のパ・リーグは、鶴岡一人監督率いる南海ホークスと、三原脩監督率いる西鉄ライオンズが、死闘を繰り広げたが、

最後は、南海が西鉄を振り切って、南海ホークスがプロ野球史上最多の「シーズン99勝」を挙げ、南海ホークスが2年振り優勝を達成した。

優勝した南海は「99勝41敗3分 勝率.707」であるが、2位の西鉄も「90勝50敗4分 勝率.643」であり、「2強」がハイレベルな優勝争いをしていた事が、よくわかる。

なお、シーズン「90勝」しながらも優勝出来なかったのは、この年(1955年)の西鉄が史上唯一である。

 

 

 

 

1955(昭和30)年の南海ホークスは、ホークス伝統の「機動力野球」が存分に発揮され、

木塚忠助-岡本伊佐美-杉山光平-飯田徳治-堀井数男-深見安博-森下正夫-松井淳…

と続くメンバー達が、良く打ち、良く走り、そして良く守り抜いた。

投手陣は、宅和本司・中村大成・小畑正治・戸川一郎らが、年間通して活躍した。

特に、前年(1954年)に南海に入団し、26勝9敗 防御率1.58と大活躍した宅和本司は、この年(1955年)も24勝11敗 防御率2.42という成績を残し、南海投手陣を牽引した。

さて、こうして1955(昭和30)年の日本シリーズは、2年振りに「巨人VS南海」の対決となった。

 

<1955(昭和30)年10月15日~24日…「巨人VS南海」が激突した「第6回日本シリーズ」は、巨人が1勝3敗の劣勢から3連勝し、巨人が4勝3敗で「逆転日本一」!!~鶴岡一人監督率いる南海、4度巨人に敗れ、またしても「日本一」を逃す>

 

 

1955(昭和30)年の日本シリーズは、1951(昭和26)~1953(昭和28)年に3年連続で対決して以来、

2年振り4度目の「巨人VS南海」の対決となったが、これまでは3度とも巨人が南海を破っている。

果たして、南海ホークスは、今度こそ「リベンジ」は成るであろうか!?

 

 

 

 

1955(昭和30)年10月15日、南海の本拠地・大阪球場で「巨人VS南海」の日本シリーズ第1戦が行われた。

南海・柚木進、巨人・別所毅彦の両先発で始まった試合は、南海が柚木進-中村大成-宅和本司-小畑正治と、小刻みに継投したのに対し、巨人は別所が1人で投げ抜いた。

1-1の同点で迎えた延長10回表、巨人・川上哲治の2ランホームランで勝ち越し、この回3点を取った巨人が、結局4-1で南海を破り、巨人が先勝した。

別所は延長10回を4安打1失点で完投勝利を挙げ、試合後、巨人の選手達から胴上げされた。

 

 

 

 

10月16日、大阪球場で行われた第2戦は、南海・小畑正治、巨人・大友工の先発で始まり、

2回裏、南海は飯田徳治のホームランで先制すると、7回裏には松井淳のタイムリーで、南海が追加点を挙げた。

南海・小畑は7回2安打無失点の好投で、8~9回は2番手・中村大成が巨人打線をピシャリと抑えるという、

鶴岡監督による継投策がズバリと当たり、南海が2-0で巨人を破り、対戦成績は1勝1敗となった。

 

 

 

10月18日の第3戦、舞台は巨人の本拠地・後楽園球場に移った。

巨人・中尾碩志、南海・宅和本司の両先発で試合は始まり、

4回表、南海は飯田徳治-堀井数男-森下正夫の3連打で、まずは1点を選手した。

5回裏、宅和が無死1・2塁のピンチを迎えた所で、鶴岡監督は2番手・戸川一郎に交代させると、戸川が後続を断ち、ピンチを脱した。

8回表、南海は岡本伊佐美のホームランで1点を追加し、結局、南海が宅和本司-戸川一郎の継投で巨人の反撃を抑え、南海が2-0で巨人を破り連勝、対戦成績は南海の2勝1敗となった。

 

 

 

10月21日、後楽園球場で行われた第4戦は、巨人・別所毅彦、南海・中村大成の両先発で始まった。

1回表、1死1・3塁で南海の4番・飯田徳治を迎えた場面で、別所が投球動作に入った所でボールを落としてしまうという「ボーク」を犯し、南海が難なく1点を先取した。

別所は、3回に二塁打、5回に三塁打を放ち、打つ方では活躍したが、それで疲れが溜まったのか、8回表に南海打線に連打を浴び、一挙4点を失って、これで勝負は決まった。

結局、南海が中村大成-戸川一郎の継投で、南海が5-2で巨人を破り3連勝、遂に南海が3勝1敗として、南海が「日本一」に王手をかけた。

巨人は、これで土俵際に追い詰められ、後が無くなった。

 

 

 

 

10月22日、後楽園球場で行われた第5戦、1勝3敗と追い詰められた、巨人・水原茂は勝負に出た。

第4戦で途中出場し、共に三塁打を打っていた藤尾茂を3番捕手、加倉井実を7番レフトで、それぞれ初めてスタメン出場させたのである。

巨人・大友工、南海・宅和本司の両先発で始まった、この試合は打撃戦となったが、藤尾が先制3ランホームラン、5-5の同点で迎えた8回裏には、加倉井のタイムリー二塁打などで4点を勝ち越し、巨人が9-5で南海を破り、対戦成績は巨人の2勝3敗となった。

「勝負師」水原茂の大バクチが当たり、藤尾茂・加倉井実が、水原監督の大抜擢に応えて見せた。

この年(1955年)の日本シリーズの流れは、これで大きく変わった。

 

 

 

10月23日、勝負の舞台は、再び大阪球場へと移った。

南海・中村大成、巨人・安原達佳の両先発で始まった試合は、初回の攻防が両チームの明暗を分け、

巨人が南海守備陣に乱れに乗じて、川上哲治のタイムリー二塁打などで2点を先取したが、1回裏、南海は安原を攻め無死1・2塁とした所で、水原監督は早々と2番手・中尾碩志に継投すると、中尾は無死満塁とした後、4番・飯田徳治を併殺打に打ち取り、1点で切り抜けた。

結局、試合はその後、中尾碩志-別所毅彦の継投で巨人が3-1で南海を破り、これで対戦成績は3勝3敗の五分となった。

 

 

 

 

 

 

 

10月24日、3勝3敗で迎えた、運命の最終戦が大阪球場で行われたが、もはや勢いは明らかに巨人にあり、

南海・戸川一郎、巨人・別所毅彦の先発で始まった試合は、0-0で迎えた5回表、巨人が南村侑広の犠牲フライで1点を先取すると、

9回表にも、巨人は加倉井実の犠牲フライなどで3点を加え、結局、「4連投」の別所毅彦の4安打完封勝利により、巨人が4-0で南海を破った。

巨人は、1勝3敗の絶体絶命の土壇場から、奇跡的な3連勝で、見事な「逆転日本一」を達成したが、南海は4度、巨人に敗れてしまった。

巨人・水原監督の歓喜の胴上げを横目に、鶴岡監督は無念さを噛み殺し、ガックリと肩を落としながら引き上げて行った。

なお、このシリーズ3勝を挙げた別所が、文句無しに、日本シリーズMVPを獲得した。

 

<1955(昭和30)年12月31日…「第6回NHK紅白歌合戦」が開催~民放の雄・TBSが裏番組で「オールスター歌合戦」をぶつけて来るも、NHK「紅白」が、TBSの挑戦を跳ね返す!!>

 

 

 

1955(昭和30)年12月31日、今や大晦日の「風物詩」となった、

「第6回NHK紅白歌合戦」が、産経ホールで開催され、この年(1955年)もテレビ中継された。

という事で、「第6回NHK紅白歌合戦」の出場者を、まずはご覧頂こう。

 

<紅組>

荒井恵子(2)『希望をのせて馬車は行く』

宝とも子(初)『インディアン・ラブコール』

織井茂子(2)『黒百合の歌』

赤坂小梅(3)『おてもやん』

大谷洌子(初)『チリビンビン』

ペギー葉山(2)『マンボ・イタリアーノ』

菊池章子(5)『岸壁の母』

宮城まり子(2)『ガード下の靴みがき』

池真理子(4)『あなたがくれたオルゴール』

小唄勝太郎(2)『お染』

長門美保(2)『ハバネラ』

江利チエミ(3)『裏町のお転婆娘』

奈良光枝(4)『由起子はいつも』

松島詩子(5)『夕月の丘』

二葉あき子(6)『ばらのルムバ』

 

<白組>

鶴田六郎(5)『天下の為さん』

浜口庫之助(3)『インディアン・ラブコール』

三浦洸一(初)『落葉しぐれ』

鈴木正夫(4)『相馬盆唄』

河野ヨシユキ(2)『街のヨーデル唄い』

柴田睦陸(初)『ラ・クンパルシータ』

笈田敏夫(3)『恋とは素晴らしいもの』

林伊佐緒(5)『真室川ブギ』

岡本敦郎(5)『リラの花咲く頃』

真木不二夫(3)『空が晴れたら』

東海林太郎(2)『義経の唄』

藤原義江(2)『女心の歌』

芦野宏(初)『タブー』

津村謙(5)『あなたと共に』

ディック・ミネ(4)『ダイナ』

藤山一郎(6)『ニコライの鐘』

 

 

「第6回」を迎えた「紅白」で、「第1回」から6回連続で出場しているのは、

この時点で、紅組は二葉あき子、白組は藤山一郎という、この2人のみであり、

二葉あき子・藤山一郎こそが、初期の「紅白」を代表するスターであった。

また、「紅白」の両軍を応援するため、日本全国から激励電報が届くなど、今回の「紅白」も大いに盛り上がった。

 

 

 

だが、「第6回NHK紅白歌合戦」は、実は大きな危機に見舞われていた。

民放の雄・TBSが、全く同じ日(1955/12/31)に、日生劇場を貸し切って、「紅白」に対抗し、「オールスター歌合戦」を生中継したのである。

NHKの「紅白」の放送時間は、21:15~23:00までの1時間45分の生中継であり、

TBSの「オールスター歌合戦」は、20:50~23:15までの生放送、

つまり、完全に「裏番組」になってしまい、これでは出場歌手は掛け持ちは出来ない。

しかも、TBSは「オールスター歌合戦」の出場歌手と独占契約を結んでいた。

 

 

要するに、TBSはNHKに完全に喧嘩を売ったのである。

ちなみに、「オールスター歌合戦」の出場歌手は、下記の通りである。

こうして見ると、結構な大物歌手が、「オールスター歌合戦」側に「流出」しているのがわかる。

 

<男性軍>

灰田勝彦

伊藤久男

近江俊郎

白根一郎

青木光一

高田浩吉

春日八郎

など

 

<女性軍>

美空ひばり

島倉千代子

菅原都々子

淡谷のり子

沢村ミツ子

笠置シヅ子

コロムビア・ローズ

など

 

 

 

 

 

だが、この苦境に対し、「紅白」側も黙ってはいなかった。

「攻撃は最大の防御」とばかり、この回から新機軸として「応援合戦」を取り入れたり、

それまでの慣例を覆し、女性軍である「紅組」の司会に、男性の宮田輝アナウンサーを起用、「白組」の高橋圭三アナウンサーとの、人気アナウンサー同志の対決を仕掛けたり、応援ゲストとして、当時、大人気だったコメディアン、トニー谷を起用したりと、やれる事は何でもやった。

そして、大物歌手との出演交渉に難儀するNHKに対し、協力を申し出る歌手も多く、「紅白」は大いに盛り上がった。

また、藤山一郎と並ぶ大物歌手・東海林太郎が、第1回以来、4年振りに「紅白」に出場したが、

謹厳実直で、いつも直立不動で歌い、決して笑わない事で有名だった東海林太郎が笑顔を見せるなど、珍しいシーンも有った。

なお、「第6回NHK紅白歌合戦」は「紅組」が3年連続で勝利し、通算対戦成績は「紅組:3勝」「白組:3勝」となった。

こうして、NHK「紅白」が、TBS「オールスター歌合戦」という強敵を跳ね返し、「紅白」の底力を見せ付けたのである。

 

(つづく)