紅白歌合戦と日本シリーズ⑤ ~1954「第5回紅白歌合戦」と「中日VS西鉄」~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

プロ野球の「日本シリーズ」と、毎年の大晦日に放送される「NHK紅白歌合戦」は、日本という国のスポーツとエンタテインメントを象徴する、ビッグ・イベントである。

その2大イベントの歴史を振り返る「紅白歌合戦と日本シリーズ」というシリーズ記事を書かせて頂いているが、

これまで、1953(昭和28)年の「第4回NHK紅白歌合戦」と、同年(1953年)の「巨人VS南海」の日本シリーズに至るまでの歴史を描いて来た。

前回の記事を書いたのが、今年(2021年)の2/23であるが、今回はその「続編」として、1954(昭和29)年の「紅白歌合戦と日本シリーズ」を描く。

 

 

前年(1953年)は、日本で遂に「テレビ」の時代が幕を開け、「第4回NHK紅白歌合戦」は、史上初めてテレビ中継されたが、

1954(昭和29)年は、テレビ放送が始まってから2年目であり、「第5回NHK紅白歌合戦」「テレビ時代」が始まってから、2度目の「紅白」である。

そして、プロ野球では、1951(昭和26)~1953(昭和28)年にかけて、「巨人VS南海」という、3年連続で同じ顔合わせの日本シリーズが行われたが、この年(1954年)は、セ・リーグは中日ドラゴンズ、パ・リーグは西鉄ライオンズが、それぞれ初優勝を果たし、日本シリーズは史上初めて、「中日VS西鉄」の対決となった。

という事で、1954(昭和29)年の「紅白歌合戦と日本シリーズ」を、ご覧頂こう。

 

<1954(昭和29)年2月1日…ジョー・ディマジオ&マリリン・モンロー夫妻が来日~日本中で「モンロー旋風」が起こるが、夫婦仲は険悪に…⇒マリリン・モンローは、朝鮮戦争の米軍基地を慰問>

 

 

 

 

1954(昭和29)年2月1日、ジョー・ディマジオマリリン・モンロー夫妻が来日した。

ジョー・ディマジオは、アメリカ大リーグ、ニューヨーク・ヤンキースのスーパースターであり、

この年(1954年)、ハリウッドの人気女優、マリリン・モンローと結婚し、世界中を驚かせていた。

この度の来日は、ジョー・ディマジオとマリリン・モンローの夫婦にとって、新婚旅行を兼ねたものだったのだが、

羽田空港に、2人が乗った飛行機が降り立ち、ディマジオとモンローが姿を現すと、空港に集まった報道陣は一斉にカメラのフラッシュを焚き、集まった野次馬たちからは大歓声が上がった。

この時、ディマジオは「日本での俺の人気も、満更、捨てたもんじゃないな」と、思っていたに違いない。

 

 

 

ところが、実はそうではなかった。

来日直後の記者会見で、集まった日本のマスコミからの質問は、マリリン・モンローにばかり集中し、

ジョー・ディマジオには、全くと言って良いほど、質問などは無かった。

マリリンは、にこやかなスマイルで記者会見に応じたが、夫のディマジオは、渋い表情をしていた。

 

 

2人が宿泊するホテルの周りにも、野次馬が殺到し、大歓声が起こっていたが、

マリリンは、大スターらしいサービス精神を存分に発揮し、

窓から身を乗り出し、集まった野次馬に対し、何度も投げキッスをしたりしていた。

その度に、集まった人々からは、ヤンヤの大歓声と大拍手が起こった。

だが、ディマジオはそんな妻の姿を見て、苦虫を嚙み潰したような顔であった。

 

 

 

 

マリリン・モンロージョー・ディマジオは、日本各地を巡ったが、

マリリンは、行く先々で熱狂的な大歓迎を受けた。

マリリンは、宴席でも引っ張りだこであり、日本の人達はマリリンにウットリするばかりだったが、

ディマジオといえば、勿論、野球ファンには大人気だったものの、一般の人達の人気は、妻のマリリンには及ぶべくもなかった。

その「現実」を嫌と言う程、見せ付けられてしまったディマジオは、すっかり不機嫌になってしまった。

 

 

 

ジョー・ディマジオは、巨人・国鉄・広島など、各球団のキャンプ地を周り、野球教室を開いた。

流石は、アメリカ大リーグのスーパースターなだけあって、見事な指導ぶりを発揮したが、

ここでも、集まったファン達の視線は、マリリン・モンローにばかり集中し、相変わらずマスコミも、マリリンばかりを追い回していた。

そして、とうとうディマジオの堪忍袋の緒が切れた。

ある夜、ディマジオとマリリンは、宿泊先のホテルで大喧嘩をしてしまった。

「お前、もう外には出るな!!」

ディマジオは、マリリンに対し、そう「厳命」すると、マリリンは両手で顔を覆って、泣き出してしまったという。

この「新婚旅行」で、2人の夫婦仲は、すっかり気まずくなってしまったのであった。

 

 

 

 

 

だが、実はこの時、マリリン・モンローには、やらなければならない「任務」が有った。

マリリンは、アメリカ政府から「朝鮮戦争で、韓国に駐留するアメリカ軍を慰問して欲しい」という要請を受けていたのである。

マリリンは、日本に夫のディマジオを残し、1人、韓国に渡ると、在韓アメリカ軍のために、慰問のステージに立った。

この時、マリリンはデビュー以来初めて、自らステージの演出も全て考え、コンサートを行なったが、マリリンを一目見るために集まり、黒山の人だかりとなった在韓アメリカ軍は、ステージで歌い踊るマリリンに、大歓声を送った。

「あの時は、涙が出るほど嬉しかったわ。みんな、私のために、あんなに喜んでくれるなんて…」

後に、マリリンはそう語っているが、やはりマリリン・モンローは、大衆の心を掴む、スーパースターだったという事であろう。

 

 

しかし、前述の通り、夫のジョー・ディマジオは、すっかりプライドを傷つけられていた。

彼もまた、誇り高き男であり、妻のマリリンにばかり注目が集まる事には、どうしても我慢がならなかったのである。

結局、この年(1954年)の11月に、ジョー・ディマジオマリリン・モンローは離婚してしまったが、

後に、映画評論家の淀川長治は、「モンローとディマジオが離婚しちゃったのは、日本のマスコミのせいだろうね…」と、語っていたという。

スーパースターが現れると、その人に飛び付き、煽るだけ煽るというマスコミの体質は、今も昔も変わらないという事であろうか。

 

<1954(昭和29)年「映画の季節」①~『ゴジラ』、『七人の侍』、『二十四の瞳』という、日本映画史上に残る名作が公開>

 

 

 

さて、1954(昭和29)年といえば、「保安隊」が「自衛隊」と改称され、日本の国防を担う「自衛隊」が発足した年であるが、

この年(1954年)、日本中を震撼させたのが、「第五福竜丸」の被爆事故である。

1954(昭和29)年3月1日、日本の漁船「第五福竜丸」が、太平洋のビキニ環礁で、アメリカの水爆実験に遭遇してしまい、全員が被爆してしまっった。

この時、水爆実験を間近で見た船員は「真っ赤な太陽が、空に上るのが見えた」と証言しているが、それは水爆実験のキノコ雲であった。

 

 

 

「第五福竜丸」の船員達は、全員が水爆実験の「死の灰」を浴びてしまい、

その後、重い後遺症に苦しめられながら、船員達は次々に亡くなって行った。

改めて、原爆や水爆の恐ろしさ、放射能の恐怖が浮き彫りとなったが、

この時の「第五福竜丸」の被爆事故をキッカケに作られた映画こそが、『ゴジラ』である。

 

 

1954(昭和29)年に公開された映画『ゴジラ』は、

海の底で眠っていた、太古の時代の怪獣「ゴジラ」が、水爆実験によって眠りから覚め、

その「ゴジラ」が日本に上陸し、大暴れして、日本中を恐怖のドン底に突き落とすという内容の映画であるが、

これは紛れもなく、前述の「第五福竜丸」の被爆事故への抗議を示したものであると言えよう。

この後、『ゴジラ』は東宝映画の看板シリーズとして、今日まで続く「ドル箱」となっているが、誕生の経緯を見ると、社会派の映画だったのである。

 

 

 

この年(1954年)は、黒澤明監督、三船敏郎主演の『七人の侍』という、血沸き肉躍る大活劇映画や、

木下恵介監督の『二十四の瞳』という、小豆島を舞台とした、女性教師と12人の生徒達の交流を描いた心温まる映画など、

日本映画史上に残る名作が、次々に公開された事でも記憶される。

まさに、「日本映画黄金時代」が到来していた。

 

<1954(昭和29)年「映画の季節」②~『ローマの休日』、『麗しのサブリナ』で、オードリー・ヘップバーンが登場~「ヘップバーン・カット」、「サブリナ・パンツ」が日本でも大流行>

 

 

さて、1954(昭和29)年は、マリリン・モンローが来日し、日本中が大騒ぎになっていたが、

この年(1954年)、もう1人の大スターがアメリカ映画界に登場し、日本を沸かせていた。

その新進気鋭の新人女優こそ、オードリー・ヘップバーンである。

前年(1953年)に、オードリー・ヘップバーン、グレゴリー・ペック主演の『ローマの休日』がアメリカで公開され、大ヒットしていたが、翌1954(昭和29)年に、日本でも『ローマの休日』が公開された。

 

 

 

『ローマの休日』は、オードリー・ヘップバーンの初主演作であるが、

この年(1954年)、日本で初公開されるや否や、主演のオードリーは瞬く間に、日本中で大人気となり、

オードリーの髪型を真似た「ヘップバーン・カット」が、日本中で大流行した程であった。

『ローマの休日』は、ヨーロッパ某国の王女様が、訪問先のローマで1日だけ宮殿を抜け出し、新聞記者のグレゴリー・ペックと恋に落ちる、という内容の映画であるが、映画の内容もさる事ながら、オードリー・ヘップバーンという人の魅力に、日本中が虜となってしまったのである。

なお、私は『ローマの休日』は大好きな映画であり、この映画の登場人物の台詞も全て暗記するぐらい、何十回、何百回(?)も見たぐらいである。

 

 

 

 

続いて、この年(1954年)、オードリー・ヘップバーンは主演第2作となる『麗しのサブリナ』にも登場しているが、

『麗しのサブリナ』では、オードリーは、大金持ちの家の運転手の娘・サブリナを演じているが、

その家の長男であるハンフリー・ボガートと、次男のウィリアム・ホールデンの2人とも、サブリナの魅力にメロメロになってしまうという内容であり、この映画もとても面白い。

なお、『麗しのサブリナ』でオードリーが履いていた「サブリナ・パンツ」も大流行しているが、オードリー・ヘップバーンは、マリリン・モンローとは、また違った魅力を発揮し、世界のスーパースターの階段を駆け上がって行く事となるのである。

 

<1954(昭和29)年のプロ野球…セ・リーグは中日ドラゴンズ、パ・リーグは西鉄ライオンズが、それぞれ初優勝>

 

 

 

さてさて、1954(昭和29)年のプロ野球に目を向けてみると、

セ・リーグは中日ドラゴンズ、パ・リーグは西鉄ライオンズが、それぞれ初優勝を達成した。

しかも、1954(昭和29)年10月11日、中日ドラゴンズと西鉄ライオンズは「セ・パ同日優勝」を果たしているが、

それまで、1951(昭和26)~1953(昭和28)年にかけて、セ・リーグは巨人、パ・リーグは南海ホークスが、それぞれ3連覇を達成していただけに、中日と西鉄の初優勝は、画期的な出来事であった。

 

<1954(昭和29)年のセ・リーグ…天知俊一監督率いる中日ドラゴンズ、大エース・杉下茂投手の大活躍により、巨人との激闘を制して初優勝!!>

 

 

 

 

1954(昭和29)年のセ・リーグは、天知俊一監督率いる中日ドラゴンズが、水原茂監督率いる巨人との激闘を制し、

中日ドラゴンズが、球団創立19年目にして、悲願の初優勝を達成したが、その原動力となったのが、大エース・杉下茂投手であった。

この年、杉下は63試合27完投7完封 32勝12敗 防御率1.39という凄まじい成績を残し、投手タイトルを総ナメにしたが、

杉下は、巨人戦に11勝5敗という成績も残しており、巨人の「打撃の神様」川上哲治に対し、「魔球」フォークボールを駆使して、徹底的に抑え込んだ。

 

 

 

 

 

 

天知俊一監督と杉下茂は、帝京商-明治大学-中日ドラゴンズと、長きにわたり「師弟関係」を築き、

まるで本物の親子のような絆が有ったが、天知監督と杉下のみならず、当時の中日ドラゴンズは、天知監督を中心として、鉄壁の結束力を誇っていた。

本多逸郎-原田徳光-西沢道夫-児玉利一-杉山悟-野口明-井上登-牧野茂…

と続く強力メンバー達は、「天知監督を、男にしよう」と、一致団結していたが、それが中日ドラゴンズの初優勝に繋がったと言って良い。

この結束力の強さは「天知人情一家」とも称されていたが、プロ野球のチームで、これだけ団結力が強かったというのも、珍しいのではないだろうか。

 

<1954(昭和29)年のパ・リーグ…三原脩監督率いる西鉄ライオンズが、鶴岡一人監督率いる南海ホークスとの死闘を制し、初優勝!!>

 

 

 

 

一方のパ・リーグは、三原脩監督率いる西鉄ライオンズが、鶴岡一人監督率いる南海ホークスとの死闘を制し、

西鉄が、2位・南海を僅か0.5ゲーム差で振り切って、遂に西鉄ライオンズが初優勝を達成した。

三原監督の、数年にわたるチーム作りが、遂に実を結んだのである。

 

 

 

 

 

 

西鉄ライオンズは、三原監督がまさに一から作り上げたチームであると言って良いであろうが、

1952(昭和27)年に大下弘を東急から獲得、同年(1952年)に高松一高から中西太を入団させ、翌1953(昭和28)年には水戸商から豊田泰光、そして、この年(1954年)には東筑から仰木彬を入団させるなど、徐々に西鉄ライオンズの形が整えられて行った。

この年(1954年)の西鉄のエースは、22勝5敗 防御率1.77という数字を残した西村貞朗で、

今久留主淳-豊田泰光-中西太-大下弘-関口清治-河野昭修-高倉照幸-日々野武…

という「野武士軍団」が、グラウンド狭しと、縦横無尽に暴れ回った。

三原監督が目指したのは、それぞれバラバラの個性を持った選手達が、自由奔放に力を発揮する「遠心力野球」であり、それが遂に結実したと言って良い。

という事で、西鉄ライオンズは遂にパ・リーグで覇を唱えた。

 

<1954(昭和29)年10月30日~11月7日…「中日VS西鉄」が対決した「第5回日本シリーズ」は、中日が西鉄との激闘を4勝3敗で制し、中日ドラゴンズが初の「日本一」を達成!!>

 

 

 

 

1954(昭和29)年10月30日、中日ドラゴンズの本拠地・名古屋の中日球場で、

史上初の「中日ドラゴンズVS西鉄ライオンズ」という顔合わせで、「第5回日本シリーズ」が開幕した。

中日球場は、その開場以来、初の大舞台を迎え、超満員の大観衆で埋め尽くされたが、

いよいよ、初の日本シリーズの大舞台に臨むという事で、両チームの選手達は何とも言えない緊張感に包まれていた。

 

 

 

10月30日、中日球場で行われた「中日VS西鉄」の日本シリーズ第1戦は、

中日が杉下茂、西鉄が西村貞朗という両エースの先発で始まり、1点を争う展開となったが、

1-1の同点で迎えた8回裏、中日の4番・児玉利一の勝ち越し2ランホームランなどで、中日が一挙4点を奪い、

結局、5-1のスコアで杉下が完投勝利を挙げ、中日が先勝した。

打つべき人が打ち、投げるべき人が投げた、中日の快勝であった。

 

 

 

10月31日、中日球場で行われた第2戦は、中日・石川克彦、西鉄・大津守の両先発で始まり、

0-0で迎えた5回裏、中日の3番・西沢道夫が、均衡を破る先制の2ランホームランを放った。

その直後、6回表に西鉄は1死1・2塁という反撃のチャンスを作ったが、ここで天知監督は投手を石川から杉下に交代させると、杉下は後続を断ち、ピンチを脱した。

その後、中日は着実に追加点を挙げ、結局、石川克彦-杉下茂の完封リレーで、中日が5-0で西鉄を破り、中日が西鉄に連勝した。

 

 

 

 

11月2日、第3戦の舞台は、西鉄ライオンズの本拠地・平和台球場へと移った。

西鉄・川村久文、中日・大島信雄の両先発で始まった試合は、

西鉄が、序盤から試合を優位に進め、このシリーズ絶好調の日比野武の2号ホームランも飛び出すなど、効果的に得点を重ねた。

投げては、河村が中日打線を2安打完封勝利という見事な投球で封じ込め、西鉄が5-0で中日を破り、対戦成績は西鉄の1勝2敗となった。

 

 

 

11月3日、平和台球場で行われた第4戦は、西鉄・川崎徳次、中日・杉下茂の両先発で始まり、

0-0で迎えた4回裏、西鉄は2死ランナー無しから、関口清治-豊田泰光-仰木彬の3連打で先制すると、

7回裏にも、西鉄は2死ランナー無しから追加点を挙げ、投げてはベテラン・川崎徳次が3安打完封勝利という見事な投球を見せた。

結局、西鉄が3-0で中日を破り、これで対戦成績は2勝2敗の五分となった。

 

 

 

11月4日、平和台球場での第5戦は、西鉄・大津守、中日・杉下茂の両先発で始まったが、

大津の調子は今一つであり、三原監督は大津守-西村貞朗-河村久文という継投策に出たが、

天知監督は、エース・杉下に全てを託した。

試合は1点を争う緊迫した展開となったが、1-1の同点で迎えた8回表、中日・河合保彦が右中間を抜く三塁打を放った所、

センターからの返球を受けた、西鉄のショート・豊田泰光が悪送球してしまい、その間、河合は一気にホームに帰り、中日が1点を勝ち越した。

その後、両チームとも1点ずつを加えたが、中日・杉下が気迫の投球を見せ、3-2と1点差を守り切って、杉下は完投勝利を挙げた。

中日は、これで3勝2敗と「日本一」に王手をかけた。

 

 

 

11月6日、舞台は再び中日球場に戻り、第6戦が行われた。

中日・石川克彦、西鉄・川崎徳次の両先発で始まったが、

0-1と1点ビハインドの6回表、西鉄は豊田泰光が逆転打を放つなど、一挙3点を奪い、

結局、川崎徳次-河村久文-大津守の継投で、西鉄は4-1で中日を破り、これで対戦成績は3勝3敗となった。

一方、杉下を登板させなかった中日は、「何故、杉下を出さなかった!?」と、この「杉下温存策」がマスコミに叩かれた。

これが、「天知人情一家」に、火を付ける事となった。

 

 

 

 

 

 

11月7日、3勝3敗で迎えた、運命の最終戦が中日球場で行なわれた。

中日・杉下茂、西鉄・河村久文の両先発で始まった試合は、0-0の緊迫した投手戦で試合は7回裏に突入したが、

7回裏、中日は井上登が貴重な先制打を放った。

この1点を、杉下茂が最後まで守り切り、1-0で杉下が完封勝利を挙げ、遂に中日ドラゴンズが初の「日本一」を達成した。

最後まで投げ切った杉下は、精も根も尽き果てた様子であり、「日本一」の胴上げをされた天知監督は、感激に咽び泣いていた。

そして、「天知人情一家」の選手達も皆、声を上げて号泣していた。

 

 

だが、天知監督の涙は、実は感激の涙ではなく、

前日の「杉下温存策」をマスコミに叩かれたという事に対しての、悔し涙だったという。

一本気な天知監督は、それがどうしても許せなかったようである。

その悔しさを晴らした、「どうだ、見たか!!」という気持ちが、天知監督の涙の理由であった。

結局、中日を初の「日本一」に導いたものの、この年(1954年)限りで天知監督は辞任してしまった。

罪作りなマスコミは、またしても人の人生を大きく左右してしまったのであった。

 

<1954(昭和29)年12月31日…「第5回NHK紅白歌合戦」に、美空ひばりが遂に初出場!!~「ひばり・チエミ・いづみ」の「三人娘」が揃い踏み~春日八郎『お富さん』で初出場~様々なジャンルの歌手達が登場し、日比谷公会堂で開催された「テレビ時代」2年目の「紅白>

 

 

 

 

1954(昭和29)年12月31日、日比谷公会堂で「第5回NHK紅白歌合戦」が開催された。

前年(1953年)に、史上初めてテレビ中継された「紅白」は、「テレビ時代」を迎えて2年目を迎え、

より一層、華やかさを増していたが、その「第5回NHK紅白歌合戦」の出場者は、下記の通りである。

 

<紅組>

宮城まり子(初)『毒消しゃいらんかね』

奈良光枝(3)『白いランプの灯る道』

江利チエミ(2)『ウスクダラ』

川田孝子(初)『山の乙女』

松田トシ(初)『村の娘』

雪村いづみ(初)『オー・マイ・パパ』

菊池章子(4)『春の舞妓』

神楽坂はん子(2)『見ないで頂戴お月さま』

ペギー葉山(初)『月光のチャペル』

松島詩子(4)『スペインの恋唄』

長門美保(初)『松島音頭』

淡谷のり子(2)『枯葉』

美空ひばり(初)『ひばりのマドロスさん』

二葉あき子(5)『パダム・パダム』

渡辺はま子(4)『東京の薔薇』

 

<白組>

岡本敦郎(4)『高原列車は行く』

真木不二夫(2)『山の呼ぶ声母の声』

浜口庫之助(2)『セントルイス・ブルース・マンボ』

河野ヨシユキ(初)『キツツキの赤いトランク』

藤山一郎(5)『ケンタッキーの我が家』

高英男(2)『ロマンス』

津村謙(4)『待ちましょう』

春日八郎(初)『お富さん』

笈田敏夫(2)『愛の泉』

近江俊郎(2)『忘れないよ』

藤原義江(初)『鉾をおさめて』

伊藤久男(4)『数寄屋橋エレジー』

小畑実(2)『長崎の街角で』

ディック・ミネ(2)『雨の酒場で』

霧島昇(3)『石狩エレジー』

 

 

 

「第5回NHK紅白歌合戦」には、美空ひばりが『ひばりのマドロスさん』を引っ提げ、遂に美空ひばりが「紅白」初出場を果たした。

それまで、美空ひばりじゃ充分すぎる程の実績が有ったのに、これが初出場とは意外だが、漸くNHKも美空ひばりの人気と実力を認めたという事であろうか。

なお、この年(1954年)の「紅白」には雪村いづみも初出場を果たし、「美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみ」の「三人娘」の初の揃い踏みが実現した。

 

 

 

この年(1954年)の白組の初出場歌手・春日八郎は、空前の大ヒット曲『お富さん』を引っ提げ登場し、会場を沸かせたが、

「紅白」の生みの親、NHKの近藤積の意向により、1954(昭和29)年の「紅白」は、そういった流行歌の歌手だけではなく、クラシック・シャンソン・ラテン・民謡・童謡など、実に幅広いジャンルの歌手達を出場させた。

オペラ界からは藤原義江、長門美保、童謡からは川田孝子、河野ヨシユキなどが初出場を果たしているが、河野ヨシユキは当時11歳という、史上最年少記録での「紅白」出場となった。

 

 

 

 

「第5回NHK紅白歌合戦」の司会は、紅組が福士夏江、白組が高橋圭三という、両名ともNHKのアナウンサーである。

審査員には、随筆家・渋沢秀雄、漫画家・横山隆一、日本舞踊家・西崎緑などが名を連ね、その審査員たちが「紅白」両軍の熱戦を見守ったが、「第5回NHK紅白歌合戦」は紅組が2年連続で勝利し、通算対戦成績は「紅組:2勝」「白組:3勝」となった。

こうして、華やかなりし「紅白」も無事に終わり、除夜の鐘が鳴り、1954(昭和29)年という年も暮れて行った。

 

(つづく)