五輪(オリンピック)野球史④ ~1928(昭和3)年「アムステルダムオリンピック編」(後編)~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1920年代の世界は、アメリカが史上空前の黄金時代を謳歌し、ベーブ・ルース、チャップリンなどの大スターが活躍した。

一方、世界各国では、ヒトラー・スターリン・蒋介石・毛沢東といった人達が台頭し、彼らの時代が始まろうとしていた。

そんな中、1928(昭和3)年の「第9回近代オリンピック=アムステルダムオリンピック」が幕を開けようとしていた。

 

 

そして、その頃の日本も、激動の時代を迎えていたのである。

日本という国が、世界史の表舞台に登場し、世界史の主役になろうとしていたのが、この時代だったとも言えよう。

というわけで、今回はまず「世界の中の日本」という観点から、話を始める事としたい。

それでは、ご覧頂こう。

 

<「世界の中の日本」①~アヘン戦争(1840~1842)⇒ペリーの黒船来航(1853)⇒江戸幕府の大政奉還(1867)⇒「富国強兵」で近代化~否応なく、世界史の舞台に引っ張り出された日本~1872(明治5)年、アメリカから日本に野球が伝来>

 

 

 

1616年に建国された、中国の清王朝は、かつては、世界に冠たる大帝国だったが、

ヨーロッパ・アメリカの欧米諸国が「産業革命」に成功し、近代化して行く一方、清王朝は世界の進歩から次第に取り残されて行った。

そんな清王朝の弱体化が、白日の下に晒されたのが、「アヘン戦争」(1840~1842年)である。

清王朝と英国(イギリス)の間で戦われた「アヘン戦争」に、清王朝は為す術無く完敗し、それをキッカケに清王朝は欧米列強と不平等条約を結ばされた。

それまで、清王朝は「眠れる獅子」として恐れられていたが、実は見掛け倒しの「ハリボテ」だった事が、すっかり露呈されてしまったのである。

 

 

清王朝が、欧米列強に乾杯し、半ば植民地のようになってしまった事に、日本の心有る人達は衝撃を受けた。

そして、こんな危機感を持った。

「マズイぞ、このままでは日本も欧米の植民地にされてしまう!!」

しかし、当時の日本は江戸幕府により「鎖国」され、オランダと清国以外とは一切交易をしておらず、日本も清国と同様、欧米列強の「近代化」からは、大きく後れを取っていた。

そんな中、江戸時代の後期になると、日本近海に、英国・フランス・アメリカ・ロシアなど、欧米列強の船が次々に現れ、江戸幕府もその対応に頭を悩ませていた。

 

 

 

 

そんな中、遂に1853(嘉永6)年、アメリカのペリー提督率いる4隻の艦隊が、

日本の浦賀に来航し、武力で脅して「開国」を迫って来た。

江戸幕府は狼狽し、右往左往する体たらくだったが、その頃の日本で、こんな「狂歌」が流行った。

「太平の 眠りを醒ます上喜撰 たった四はいで 夜も眠れず」

この「上喜撰」とは何かと言えば、高級なお茶の事であり、これを飲むと、なかなか眠りにつけないと言われていた。

その「上喜撰」と、ペリーの「蒸気船」を引っ掛けた、なかなか上手い歌である。

 

 

では何故、ペリーが日本にやって来たのかといえば、

ズバリ、日本とアメリカの間に有る太平洋航路を開くためである。

当時の英国は「大英帝国」の時代であり、大西洋航路で盛んに「アジア進出」をしていたが、

大西洋航路を通っていたのでは、アメリカは英国に後れを取ってしまう。

そこで、アメリカは太平洋航路を開く事を目指し、ペリーを日本に送り込んで、日本に「開国」を迫ったわけである。

当時の欧米列強は、世界各地に勢力を拡大し、どんどん植民地を広げていたが、

ペリーの「黒船来航」の目的も、その一環だったと考えるべきであろう。

 

 

 

 

ともあれ、当時の日本には、アメリカの「開国」の要求を跳ね返すような力は無く、

江戸幕府は、アメリカ・英国・フランス・オランダ・ロシアなどと、次々に「不平等条約」を結ばされた。

その江戸幕府の「弱腰」な姿勢に、日本中で猛反発が起こり、それが江戸幕府の「崩壊」へと繋がって行くのである。

 

 

1867(慶応3)年10月14日、江戸幕府の15代将軍・徳川慶喜が、

政権を朝廷に返上するという「大政奉還」を表明し、ここに260年以上続いた江戸幕府は崩壊した。

その後、紆余曲折を経て、日本は「明治維新」で、新たな時代を迎える事となった。

 

 

こうして「明治」の時代が始まったが、その頃の日本のスローガンは「富国強兵」である。

当時の日本は「欧米列強に、追い付け追い越せ」という事を国家の目標に掲げ、

急速に「近代化」を押し進めて行ったが、日本という国を欧米列強に負けないような国にしようと、国を挙げて邁進して行ったのが、「明治」という時代だったと言って良い。

その根底には「近代化を成し遂げないと、日本も欧米列強の植民地にされてしまう」という危機感が、常に有ったようである。

 

 

 

 

日本は、「近代化」を押し進めるため、沢山の「お雇い外国人」を招き、

旧制・第一高等学校(一高)などのエリート学生達を中心に、教育を施したが、

その「お雇い外国人」の中の1人、アメリカのホーレス・ウィルソン教授により、

1872(明治5)年頃、日本に野球(ベースボール)というスポーツが伝来した。

以後、野球は日本中に広まって行ったが、日本人と野球は、非常に相性が良かったのである。

そして、当時の日本とアメリカは友好関係にあり、その象徴こそが野球であった。

 

<「世界の中の日本」②~欧米列強の「帝国主義」の時代⇒「日清戦争」(1894~1895年)に勝利し、日本も欧米列強の「仲間入り」を画策⇒「アテネオリンピック」開催(1896年)>

 

 

 

 

日本が「明治維新」を成し遂げ、「富国強兵」に邁進していた頃、

欧米列強は、世界中に「進出」し、どんどん植民地を拡大していた。

このような、露骨な植民地拡大政策を「帝国主義」と称しているが、

当時は、武力が物を言う「弱肉強食」の時代であり、欧米列強に比べて武力の劣る東南アジア諸国などは、殆んど欧米列強の植民地にされてしまった。

「お前の物は俺の物、俺の物も俺の物」

わかりやすくいえば、「ドラえもん」ジャイアンのような考え方が罷り通る、「ジャイアニズム」(?)の世界である。

従って、それに対抗するためには、日本としても欧米列強に対抗する力を付けて行くしか、方法は無かった。

 

 

 

 

そんな中、朝鮮半島の支配を巡り、1894(明治37)~1895(明治38)年に、日本と清国の間で「日清戦争」が起こった。

この「日清戦争」で、日本は清国に圧勝したが、当時の日本は「近代化」に成功し、それに比べて、清国は大きく後れを取っている事が、改めて示される結果となった。

「日清戦争」に勝利し、日本は清国から多額の賠償金と、多くの権益を獲得したが、ロシア・フランス・ドイツの「三国干渉」により、遼東半島を返還させられ、泣く泣くそれを飲むという一幕も有った。

だが、「日清戦争」の勝利により、日本は「帝国主義」を押し進める、欧米列強の「帝国主義クラブ」に、どうやら「仲間入り」を果たせそうな気配となって来た。

黄色人種の国・日本が「名誉白人」に、なりたがっていたという事である。

 

 

そのような時代に、クーベルタン男爵の提唱によって開催されたのが、

1896(明治29)年の「第1回近代オリンピック=アテネオリンピック」である。

だが、日本はまだ「アテネオリンピック」には参加していない。

当時の日本は、漸く「名誉白人」の仲間入りをし始めたばかりであり、オリンピックに参加出来る程ではなかった、という言い方も出来よう。

日本が、オリンピックの舞台に参加するのは、もう少し先の事である。

 

<「世界の中の日本」③~「義和団事件」(1900年)⇒「日英同盟」(1902年)⇒「日露戦争」(1904~1905年)⇒「ポーツマス条約」(1905年)~「欧米列強」に伍した日本の快進撃>

 

 

 

 

1900(明治33)年、欧米列強の「半植民地」状態だった、清国の民衆の怒りが遂に爆発し、

「扶清滅洋」(清を扶(たすけ)、洋(外国人)を滅ぼす)をスローガンに掲げた「義和団」が、清国の首都・北京で大反乱を起こした。

北京に駐留していた欧米列強の軍隊は、一時、「義和団」の監禁状態に置かれたが、日本軍が欧米列強諸国の軍隊と共に「義和団」を鎮圧した。

これが「義和団事件」であるが、「義和団事件」により、日本軍の強さが、欧米列強に印象付けられた。

なお、この「義和団事件」の顛末を描いているのが、1963(昭和38)年に公開された映画『北京の55日』である。

 

 

 

 

日本の力は、欧米列強に認められるようになって行ったが、

1902(明治35)年、日本は英国と「日英同盟」を締結した。

日本国民は、日本があの大英帝国と同盟を結んだという事に歓喜したが、

実は英国には、ロシアの「極東進出」を抑えるために、日本をその「防波堤」にしようという狙いが有ったのである。

その思惑は、アメリカとしても同じであり、ロシアの「極東進出」を警戒するアメリカと英国が、日本の「後ろ盾」になっていた。

一方、北方に有るロシアは、1年中、凍らない港、所謂「不凍港」が喉から手が出る程、欲しい状態であり、そのために「極東進出」を盛んに狙っていた。

つまり、当時の日本は「いつ、ロシアが日本に襲いかかって来るか、わからない」という恐怖が、常に有ったのである。

「日英同盟」は、そういった日本と英国、そしてアメリカの利害が一致し、結ばれたものであった。

 

 

 

こうして、日本とロシアが遂に激突したのが、1903(明治36)~1904(明治37)年の「日露戦争」である。

「日露戦争」は、当時の日本が、まさに国家の存亡を懸けて戦った大戦争だったが、

日本は甚大な犠牲を払ったが、「日本海海戦」で大勝利を収めるなど、日本が辛うじてロシアに勝利を収め、「日露戦争」は幕を閉じた。

 

 

 

1905(明治37)年、日本とロシアは、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の仲介により、

「ポーツマス条約」を締結し、日本とロシアは講和を結ぶ事が出来たが、

実は日本は「日露戦争」を始める前に、事前にアメリカに対し、日本とロシアの講和の仲介をしてもらうよう、根回しをしていたのである。

そして、英国には日本の国債を買ってもらい、戦費を調達していた。

つまり、日本は「日露戦争」を始める前から、「どのように戦争を終わらせるか」という事を、既に考えていたのである。

これが、後の「昭和」の日本が起こした「太平洋戦争」との、大きな違いである。

戦争を始める以上、どうやったら戦争を終わらせるかという「出口戦略」は、絶対に必要である。

これは、今の「コロナ禍」でも必要な事ではないだろうか。

何処がゴールなのかを設定しておなかいと、国家全体は、どんどん疲弊して行く一方だからである。

 

 

 

 

それはともかく、「ポーツマス条約」の結果、日本はロシアから賠償金こそ取れなかったものの、

ご覧の通り、多くの権益を獲得する事が出来た。

中でも、一番大きかったのは、中国東北部、所謂「満州」の権益を獲得した事である。

この「満州」こそが、以後の日本の動きを読み解くキーワードとなって行く。

 

<「世界の中の日本」④~「不平等条約」の改正⇒「日韓併合」(1910年)⇒「辛亥革命」(1912年)⇒日本が「ストックホルムオリンピック」(1912年)に初参加⇒「第1次世界大戦」(1914~1918年)参戦⇒「対華21箇条の要求」(1915年)⇒朝鮮の「三・一運動」(1919年)、中国の「五・四運動」(1919年)~日本と中国・朝鮮との関係>

 

 

「日本は、欧米列強に追い付け追い越せ」

「日本を、世界に冠たる一等国にする」

これが、「明治維新」以来の日本の目標であり、「日露戦争」の勝利により、どうやらその目的は達せられた。

そして、国力を高めて行った日本は、幕末に欧米列強と結ばされた「不平等条約」の改正にも漕ぎ着けた。

日本は、漸く欧米列強と肩を並べる事が出来たのである。

 

 

 

 

急速な「近代化」を成し遂げた日本に学ぼうと、

当時、多くの中国人留学生が、日本に渡り、日本で学んでいたが、

清国の打倒を目指していた、革命家・孫文も、その一人であった。

孫文は、日本の梅屋庄吉・宮崎滔天らの支援を受け、1905(明治37)年、日本で「中国同盟会」を結成した。

「中国も、日本のように近代化を成し遂げなければならない。そのためには、古臭い体質の清王朝を倒さなければならない」

孫文は、そう考えており、日本で、清国打倒を目指す革命の同志を募っていた。

そんな孫文を、当時の日本人も温かく見守り、支援していた。

 

 

 

 

その頃、日本は、「日露戦争」の勝利を機に、対ロシアへの「国防」の目的も有り、

日本は朝鮮半島への「進出」を強め、1910(明治43)年には、遂に「日韓併合」を完成させた。

「日韓併合」により、朝鮮半島は完全に日本の領土となったが、

これに対し、朝鮮の人民が「反発」を覚えたとのも、当然といえば当然であった。

 

 

 

そして、1911(明治44)年10月10日、中国・武昌での武装蜂起を機に、遂に「辛亥革命」が勃発すると、

翌1912(明治45)年、遂に「辛亥革命」は成功し、清王朝は崩壊した。

孫文の悲願は遂に成就し、1912(明治45)年1月、孫文を臨時大総統とする「中華民国」が成立した。

孫文の長年にわたる革命運動が実を結び、中国も漸く「近代化」の途に就いた。

 

 

 

 

だが、当時の「中華民国」には、清王朝の残党を完全に駆逐する力は無かった。

そこで、孫文は清王朝の軍閥・袁世凱と取引をして、袁世凱に臨時大総統の座を譲り、

袁世凱の力を借りて、清王朝の最後の皇帝、「ラストエンペラー」溥儀を退位させた。

その後、袁世凱は孫文との約束を破り、自らが「独裁者」となり、自ら中国の皇帝になろうとしていた。

 

 

孫文は激怒し、袁世凱を打倒するため、再び革命運動を画策したが、

この時、孫文の「子分」として台頭して来たのが、蒋介石であった。

蒋介石は孫文の「右腕」として活躍し、孫文の信頼を得て行く事となる。

 

 

そして、この1912(明治45)年に、日本は初めて「ストックホルムオリンピック」へ参加したのである。

つまり、日本が国力を高め、近代国家として認められたからこそ、日本のオリンピック参加が実現したという事である。

もし、日本の「近代化」が成功していなければ、この時点での日本のオリンピック参加は、無かったであろう。

オリンピックと世界情勢は、密接に関係しているという事が、よくわかろうと言うものである。

 

 

その後、1914(大正3)~1918(大正7)年に「第1次世界大戦」が起こったが、

「第1次世界大戦」の主戦場はヨーロッパだったので、日本としては別に放っておいても何の問題も無く、「知らん顔」をしようと思えば出来たのであるが、

日本は「日英同盟」を口実として、「第1次世界大戦」に参戦してしまった。

そして、日本はドサクサに紛れ、それまでドイツの領土だった、中国の山東半島や、南洋諸島などを奪う事に成功した。

 

 

「第1次世界大戦」の真っ最中、日本は中国の袁世凱に対し、

「対華二十一箇条の要求」を突き付けた。

日本は、中国に対し、様々な権益をよこすように要求したのだが、当時の日本と中国の国力の差は歴然としており、

袁世凱としても、これを飲まざるを得なかった。

これに対し、中国の民衆は激怒し、袁世凱の求心力は失墜し、失脚に追い込まれたが、

中国の人民の、日本に対する反発も高まった。

 

 

 

1919(大正8)年、「第1次世界大戦」が集結し、「ヴェルサイユ条約」が結ばれたが、

日本の中国に対する「対華二十一箇条の要求」も追認された。

この年(1919年)、朝鮮や中国で、日本に対する反発が高まり、ナショナリズムが高揚し、

朝鮮では「三・一運動」、中国では「五・四運動」という、大規模な反日運動・抗日運動が遂に起こった。

 

<「世界の中の日本」⑤~「ワシントン海軍軍縮条約」(1922年)⇒アメリカで「排日移民法」(1924年)成立~日本とアメリカの関係に、悪化の兆しが…>

 

 

 

さて、「第1次世界大戦」の終結を機に、世界的に「軍縮」の流れが強まり、

1922(大正11)年2月、「ワシントン海軍軍縮条約」が締結された。

この時、日本は欧米諸国と「4ヶ国条約」「9ヶ国条約」などを結び、「日英同盟」は破棄させらた。

日本は、欧米諸国と比較し、主力艦や航空母艦を制限させられたが、これに対し、日本の海軍は反発したものの、「軍縮」の流れは止められなかった。

 

 

実は、アメリカはこの頃、日本の朝鮮半島支配や、「満州」への進出に、危惧を抱いていた。

「おいおい、最近の日本は、ちょっと調子に乗ってるんじゃないか?」

当時、アメリカはそんな風に思っていたらしい。

「のび太(日本?)のくせに、生意気な!!」

と、ジャイアン(アメリカ)が、のび太(日本)に対し、理不尽に怒っているような感じといえば、わかりやすいであろうか。

だから、アメリカは「ワシントン体制」を作り、日本の軍備を制限し、「日英同盟」も破棄させてしまったのである。

要するに、アメリカは日本を頗る警戒するようになっていた。

 

 

 

そして、当時アメリカには、多数の日本人の移民が住み着いていたが、勤勉で真面目な日本人は、一生懸命に働いていた。

そんな日本人に、仕事を取られてしまうという事に対し、アメリカ人の「反日感情」も高まり、1924(大正13)年、遂にアメリカで「排日移民法」が成立してしまう。

これには、日本も衝撃を受け、やがて日本でも「反米感情」が高まった。

こうして、それまで「蜜月」だった日米関係にヒビが入り、日米関係に悪化の兆しが見られるようになっていた。

思えば、これが両者の「不幸」の始まりであった。

 

<「昭和」の始まり~「昭和恐慌」(1927年頃)と「満州某重大事件(張作霖爆殺事件)」(1928年)~「昭和」時代、不吉な幕開け>

 

 

1925(大正14)年12月25日、大正天皇が崩御し、直ちに皇太子・裕仁親王が新天皇、即ち昭和天皇として即位した。

こうして「昭和」の時代が幕を開けたが、これまで述べて来た通り、世界情勢は風雲急を告げており、

日本も、アメリカとの関係が悪化するなど、不穏な状況にあった。

 

 

昭和天皇が即位した直後、1927(昭和2)年には、

片岡直温蔵相の失言をキッカケに、日本全国の銀行で「取り付け騒ぎ」が起こった。

そして「昭和恐慌」と称される事態となり、日本経済はガタガタになってしまったが、

「昭和」という時代は、不景気のどん底の中で始まったのである。

 

 

 

ところで、当時、中国には多数の「軍閥」が居り、蒋介石「北伐」で、それらの軍閥の一掃を目指して行動を開始したという事は、既に述べた。

その「軍閥」の中で、最大の勢力を誇っていたのが張作霖だったが、「満州」に駐留する日本軍、所謂「関東軍」は、張作霖と手を組み、蒋介石に対抗させていた。

しかし、その張作霖が「関東軍」の言う事を聞かなくなって来て、「関東軍」にとって目障りな存在になった。

そして、1928(昭和3)年6月4日、「関東軍」の独断で、張作霖を爆殺するという、「満州某重大事件(張作霖爆殺事件)」を起こした。

 

 

 

昭和天皇は、この事態に対し、大変驚き、田中義一首相を呼び出し、

「一体、どうなっているのか?直ちに徹底的に調査し、厳正に処分せよ」と詰問した。

一方、軍部の方は、「関東軍」の暴走を支持したため、田中義一は昭和天皇と軍部の「板挟み」となり、困り果てた。

田中義一首相が、いつまで経っても、「張作霖爆殺事件」について、「関東軍」に対し、積極的な処分を行わない事に業を煮やした昭和天皇は、田中に対し「辞表を出せ」と迫り、田中首相は総辞職に追い込まれてしまった。

その後、田中義一は心労が祟ったのか、急死してしまったが、

昭和天皇は、元老・西園寺公望「立憲君主制の君主が、政治に口を出してはなりません」と、厳しく窘められたという。

それ以来、昭和天皇は「この事件が有って以来、私は内閣の上奏するところのものは、たとえ自分が不賛成でも、裁可を与える事を決心した」と、後に語っている。

これが、後の「昭和史」で、軍部が昭和天皇の名の下に「暴走」し、昭和天皇がそれを追認せざるを得ないという構造の元になったのである。

 

<1928(昭和3)年…「第9回近代オリンピック=アムステルダムオリンピック」~三段跳びの織田幹雄、日本人初の「金メダル」~水泳の鶴田義行も「金メダル」~人見絹枝が日本人女子初のメダル(銀メダル)など、日本人が大活躍>

 

 

 

1928(昭和3)年7月28日~8月12日、オランダのアムステルダムで、

「第9回近代オリンピック=アムステルダムオリンピック」が開催された。

これまで述べて来た通り、当時の世界は、色々と激動の時代ではあったが、

「平和の祭典」オリンピックは、無事に開催に漕ぎ着ける事が出来たのである。

 

 

 

「アムステルダムオリンピック」では、日本人選手が大活躍を見せた。

まず、三段跳びの織田幹雄が、日本人として初めて「金メダル」を獲得するという快挙を達成した。

織田幹雄は、南部忠平と共に三段跳びに出場し、順調に予選を突破すると、

15メートル21という記録を残し、見事に「金メダル」を獲得した。

一方、南部忠平も6位入賞という記録を残している。

 

 

 

ちなみに、織田幹雄・南部忠平は、共に早稲田大学の陸上部に所属しており、

2人は良き仲間、良きライバルとして切磋琢磨し合い、それが今回の快挙に繋がった。

こうして、日本陸上界は、オリンピック4度目の参加にして、遂に大きな成果を出した。

 

 

 

一方、水泳の鶴田義行も、男子200メートル平泳ぎで「金メダル」を獲得し、

日本人選手として初めて、水泳の「金メダリスト」となった。

ちなみに、鶴田義行は明治大学の出身である。

つまり、早稲田と明治の選手が、揃って「金メダリスト」となったという事となった。

 

 

 

 

一方、「アムステルダムオリンピック」では、

人見絹枝が、女子800mで「銀メダル」を獲得し、

日本人の女子選手としては初めて、オリンピックのメダリストとなった。

人見絹枝は、女子100mでは予選敗退したものの、女子800mでは決勝に進出し、リナ・ラトケ(ドイツ)との死闘の末に「銀メダル」となった。

このように、「アムステルダムオリンピック」は、日本人選手の大活躍が光った。

 

 

一方、その頃の日本の野球界はどうだったのかといえば、

1927(昭和2)年、当時の最新鋭のメディアであるラジオで、

「全国中等学校優勝野球大会」の実況放送が行われ、お茶の間に熱戦の模様が伝えられた。

ラジオの登場により、メディアが大衆の動向を左右する時代が到来していたのである。

 

 

 

その1927(昭和2)年、慶応の新たな応援歌『若き血』が誕生し、

神宮の「早慶戦」で『若き血』が歌われると、早速その効果が発揮され、

慶応は「早慶戦」に勝利し、東京六大学野球の初優勝を飾った。

以後、『若き血』は慶応を象徴する応援歌として、今もなお歌い継がれているが、

『若き血』はラジオでも盛んに流され、一躍、有名になった。

なお、慶応は1928(昭和3)年秋に東京六大学野球史上初の「10戦全勝優勝」を達成し、「慶応黄金時代」を築いた。

 

 

 

1927(昭和2)年、早稲田野球部の出身で、

当時、東京日日新聞(現・毎日新聞)の記者だった、橋戸信(頑鉄)の発案により、

「東京日日新聞」の主催で「第1回都市対抗野球」が開催された。

「都市対抗野球」は、「実業団野球」「社会人野球」の全国大会として、今日まで続く大イベントとして存続している。

このように、日本の野球界も、学生野球・社会人野球を中心に、隆盛期を迎えていた。

 

(つづく)