古代ギリシャ時代、アテネのオリンピアの地で行われていた「古代オリンピック」は、
紀元前776年の第1回大会から、紀元後393年の第293回大会まで、約1200年間も続いていたが、
その後、約1500年の時を経て、クーベルタン男爵により、1894(明治27)年「第1回近代オリンピック=アテネオリンピック」として、現代の世に蘇った。
クーベルタン男爵は「オリンピックを通じて、世界平和を実現させる」という高い理想を持ち、「オリンピック=平和の祭典」を強調していた。
だが、クーベルタン男爵の願いも虚しく、オリンピックは、その時代ごとの世界情勢に、大きく翻弄されてしまう事となる。
オリンピックは、この後、戦争により度々の中止を余儀なくされてしまうのである。
というわけで、今回は「第1次世界大戦」の激動が有った、「大正時代のオリンピック」を描く。
それでは、ご覧頂こう。
<1916(大正5)年…「第6回近代オリンピック=ベルリンオリンピック」は、「第1次世界大戦」(1914~1918年)により、中止に追い込まれる>
オリンピックというのものは、その時代ごとの世界情勢に大きく左右されるものである。
1912(明治45)年の「ストックホルムオリンピック」の後、次回のオリンピックは、1916(大正5)年の「ベルリンオリンピック」が予定されていた。
だが、この頃、ヨーロッパの列強諸国は、お互いに対立関係にあり、一触即発の状況にあった。
即ち、ドイツ・オーストリア・イタリアの「三国同盟」の陣営と、英国(イギリス)・フランス・ロシアの「三国協商」の陣営が睨み合う状況が続いていた。
そして、1914(大正3)年6月28日、オーストリア皇太子、フランツ・フェルディナンド夫妻が、サラエボで暗殺されるという「サラエボ事件」を機に、遂にヨーロッパで戦争が始まった。
遂に、「第1次世界大戦」が勃発したのである。
「三国同盟」側と「三国協商」側は、激しい戦争を繰り広げたが、
後にイタリアは「三国協商」側=「連合国」側に寝返った。
そして、日本も1902(明治35)年に締結されていた「日英同盟」を理由に「連合国」側で参戦した。
後に、アメリカも「連合国」側で参戦したため、戦局は「連合国」側が有利となった。
こうして、「第1次世界大戦」は、ヨーロッパ全土を巻き込む大戦乱となった。
そんな中、1916(大正5)年に開催を予定されていた「第6回近代オリンピック=ベルリンオリンピック」であるが、
ドイツは「第1次世界大戦」の当事者であり、激しい戦いを繰り広げていた事もあり、とてもオリンピックをやっている場合ではなくなってしまった。
こうして、残念ながら「ベルリンオリンピック」は中止に追い込まれ、「幻のオリンピック」となってしまった。
「世界平和」を願っていたクーベルタン男爵としても、痛恨の事態となってしまったのである。
そんな中、「第1次世界大戦」の参戦国の一つ、ロシアで大事件が起こった。
ロシアは、武器も弾薬も尽き、前線の兵士だけでなく、銃後の国民にも厭戦気分が広がっていた。
1917(大正6)年2月、猛烈な寒さに襲われ、食糧難に陥っていた、ロシアの首都・サンクトペテルブルクで、遂に我慢の限界に達していた民衆が一斉に蜂起し、大規模なデモが起こった。
やがて、デモに参加した大群衆は、一斉に政府に反旗を翻し、軍隊も民衆に味方したため、皇帝ニコライ2世が率いる政府は崩壊した。
こうして、約300年続いた、ロシアのロマノフ王朝は崩壊したが、これを「ロシア2月革命」と称する。
なお、ニコライ2世の一家は、「ロシア2月革命」により成立した臨時政府に直ちに逮捕され、監禁された。
同年(1917年)10月、長年、地下活動を続けていた、
ロシアの革命家・レーニンが率いるボルシェヴィキ(後のロシア共産党)が、臨時政府に対して革命を起こした。
この革命は成功し、レーニンのボルシェヴィキが権力を奪取した。
これを「ロシア10月革命」と称する。
こうして、レーニンがロシアで天下を取ったが、「2月革命」「10月革命」という一連の革命を総称し、「ロシア革命」という。
こうして、ロシアに世界初の「社会主義政権」が誕生し、後に「ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)」が成立する事となるが、権力を奪取したボルシェヴィキは、逮捕・監禁されていたニコライ2世の一家を、容赦なく全員銃殺した。
こうして、血塗られた革命により、社会主義国家が生まれたのである。
「ロシア革命」により、ロシアは「第1次世界大戦」の戦線から離脱したが、
一方、ドイツでも1918(大正7)年11月に「ドイツ革命」が勃発し、皇帝ヴィルヘルム2世が退位した。
こうして、ドイツでも帝政は崩壊し、1918(大正7)年11月、「第1次世界大戦」はドイツとオーストリアの「同盟国」側の敗北、つまり「連合国」側の勝利で、幕を閉じた。
1918(大正7)年11月~、フランスの首都パリで「第1次世界大戦」の講和会議が開かれたが、
この講和会議には、敗戦国ドイツは招かれなかった。
翌1919(大正8)年6月、「ヴェルサイユ条約」が締結されたが、結局、ドイツに対し多額の賠償金が課せられるなど、ドイツにとって、物凄く大きな負担を強いられる結果となった。
特に、フランスは戦火を交えたドイツに対する恨みが凄まじく、フランスの強硬な主張により、ドイツに対し、このような多額の賠償金が請求されたようである。
「ヴェルサイユ条約」の結果、多額の賠償金を支払わされる羽目になったドイツは、
社会や経済がメチャクチャに崩壊され、国家全体で塗炭の苦しみを味わう事となった。
これに対し、深い憤りを覚えたのは、当時、ドイツの一兵卒として「第1次世界大戦」に参戦していた、当時30歳というアドルフ・ヒトラーである。
ドイツは、「第1次世界大戦」の敗戦国だったとはいえ、ドイツ国内には、敵兵は一兵たりとも侵入されてはいなかった。
それにも関わらず、敗戦国となり、あまりにも莫大な賠償金を請求されたという事に、ヒトラーはどうしても納得が行かなかった。
「いつか、俺が愛する母国ドイツを、偉大な国家として蘇らせる」
若きヒトラーは、そのように決意を固めていた。
では、この頃、日本の野球界はどうだったのかといえば、
1915(大正4)年8月18~23日まで、大阪朝日新聞の主催で、
大阪・豊中球場で「第1回全国中等学校優勝野球大会」が開催され、
激戦の末、京都二中(現・鳥羽高)が優勝を果たしたが、これが今に続く「夏の甲子園」の源流である。
ちなみに、本来は「ベルリンオリンピック」が開催される予定だった、
1916(大正5)年の「第2回全国中等学校優勝野球大会」では、
慶応普通部(現・慶応義塾高校)が優勝を飾っている。
こうして、「夏の甲子園」は、日本の夏の風物詩となって行った。
では、その頃、日本の大学野球界はどうなっていたのかというと、
1906(明治39)年の「早慶戦中止」以降、早慶両校は、ずっと断絶していたが、
1910(明治43)年に創部された、新興の明治大学野球部の仲介により、
1913(大正2)年、早稲田・慶応・明治の3校による「三大学リーグ」が結成された。
「三大学リーグ」とはいうものの、「早慶戦」は行われず、「早稲田VS明治」、「慶応VS明治」というカードのみが行われたが、
依然、断絶状態にあった早稲田と慶応が、変則的な形とはいえ、同じリーグに入ったという意義は大きかった。
これが、後の「東京六大学野球」の源流となるのだから、明治の役割は非常に大きかった。
1915(大正4)年には、法政大学にも野球部が創部された。
法政は、明治と非常に近しい関係であり、言わば「兄弟分」のような学校だったが、
明治と法政は友好関係にあったという自然な流れで、法政も「三大学リーグ」に加わり、
1917(大正6)年には早稲田・慶応・明治・法政の「四大学リーグ」に発展した。
相変わらず「早慶戦」が行われない変則リーグだったが、また一歩、後の「東京六大学」に近付いたという事になる。
<1920(大正9)年…「第7回近代オリンピック=アントワープオリンピック」~日本人初のメダリストが誕生~「スペイン風邪」の猛威の後に開催>
1919(大正8)年に締結された「ヴェルサイユ条約」により、長かった「第1次世界大戦」は終結し、
翌1920(大正9)年、「第7回近代オリンピック=アントワープオリンピック」が開催された。
アントワープとは、ベルギーの都市であるが、対戦争を経て、2大会ぶりに「平和の祭典」が帰って来たという事である。
だが、「アントワープオリンピック」の事を書く前に、
是非とも、この事に触れておかなければなるまい。
それは、1918(大正7)~1920(大正9)年にかけて、世界中で猛威を奮った「スペイン風邪」である。
「スペイン風邪」とは、恐らくインフルエンザだったと思われるが、「第1次世界大戦」の、ヨーロッパの最前線で戦っていた兵士達が、「スペイン風邪」に罹って、バタバタと死んでしまい、それによって「第1次世界大戦」の終結が早まったとも言われている。
「スペイン風邪」は、生き残った兵士達が帰国した後、世界中に感染が広がり、「パンデミック」となったが、日本でも、「スペイン風邪」の蔓延ぶりは凄まじく、マスクで感染を防止したり、人々がステイホームしたり、ソーシャル・ディスタンスを取ったりと、今の「コロナ禍」とソックリな状況となった。
つまり、今の「コロナ禍」は、「スペイン風邪」以来、100年振りに発生した、歴史的な「パンデミック」という事であるが、「スペイン風邪」の「終息」までは、約2年ほどかかっている。
果たして、「コロナ禍」は、あとどれぐらい続くのであろうか。
私も、歴史の教科書に載っているような「パンデミック」を、まさか自分が生きている内に体験するとは、思ってもみなかったので、
今の状況は、何だか悪夢でも見ているような気分である。
さて、そんな「スペイン風邪」が、どうにかこうにか「終息」した後、
1920(大正9)年4月20日~9月12日に、「アントワープオリンピック」が開催された。
この大会には、29ヶ国が参加したが、史上初めて「選手宣誓」が行われ、
前回大会(1912年の「ストックホルムオリンピック」)で、水球のベルギー代表を金メダル獲得に導いた、当時のベルギー代表の主将、ビクトル・ボワンが「選手宣誓」を行なった。
また、この「アントワープオリンピック」から、初めて「五輪旗」が掲揚された。
だが、ドイツ・オーストリア・ハンガリーという、「第1次世界大戦」の敗戦国は、「アントワープオリンピック」には招かれなかった。
やはり、「平和の祭典」オリンピックでも戦争は、まだまだ影響が大きかった。
さて、この「アントワープオリンピック」で、日本初のメダリストが誕生している。
テニスの日本代表として参加した、慶応テニス部出身の熊谷一弥が、
男子テニスのシングルスで、5試合連続のストレート勝ちで、決勝まで進んだ。
決勝では、熊谷一弥はルイス・レイモンド(南アフリカ)に敗れたものの、日本人初のオリンピックのメダルとなる「銀メダル」を獲得した。
また、熊谷一弥・柏尾誠一郎のコンビで、テニスの男子ダブルスにも出場し、こちらも決勝で敗れたものの「銀メダル」を獲得し、熊谷は1大会で2個の「銀メダル」を獲得した。
1912(明治45)年の「ストックホルムオリンピック」のマラソンで、
レース途中に、意識朦朧となり、一般家庭の人達に救助され、そのまま棄権してしまった、
あの「消えた日本人ランナー」金栗四三は、その時の「リベンジ」を懸けて、
「アントワープオリンピック」のマラソンに挑戦したが、一時は6位まで順位を上げたものの、
その後、ズルズルと後退し、金栗は「16位」に終わった。
やはり、まだまだ世界の壁は高かったようである。
そんな中、「アントワープオリンピック」には、「化け物」のような選手が登場し、人々を驚かせた。
その名は、フィンランドのパーボ・ヌルミである。
ヌルミは、5000mで「銀メダル」、10000mで「金メダル」、クロスカントリー8000mの個人と団体で、共に「金メダル」を獲得し、1大会で「三冠」を制するという快挙を達成、「鉄人ヌルミ」と称され、一躍、世界的な有名人となった。
それにしても、ヌルミは、とんでもないスタミナの持ち主であり、まさに「怪物」であった。
では、その頃、日本の野球界はどうだったのかといえば、
1920(大正9)年、立教大学に野球部が創部された。
立教は、創部当初、早稲田の飛田穂州の指導を受けたという縁も有り、
翌1921(大正10)年に「四大学リーグ」に加盟、これで早稲田・慶応・明治・法政・立教の「五大学リーグ」に発展した。
しかし、早慶両校は、依然として対戦はしておらず、相変わらずの変則リーグである。
果たして、早慶の「雪解け」は、いつ訪れるのであろうか。
では、その頃のアメリカ大リーグに目を向けてみよう。
その頃、アメリカ大リーグで大活躍していたのが、ベーブ・ルースである。
ベーブ・ルースは、1914(大正3)年にボストン・レッドソックスに入団すると、
以後、「投打二刀流」として大活躍し、レッドソックスの「エースで四番」として、レッドソックスを3度(1915、1916、1918年)もワールド・チャンピオンに導いた。
2021(令和3)年の現在、ロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平が、アメリカ大リーグではベーブ・ルース以来の「投打二刀流」として大活躍しているというのは、皆様もご存知の通りである。
そのベーブ・ルースは、「アントワープオリンピック」が開催されたのと同じ1920(大正9)年、
ボストン・レッドソックスから、ニューヨーク・ヤンキースへと移籍した。
この移籍は、当時のレッドソックスのオーナーが、ミュージカル興行を開くためのお金欲しさに、ルースをヤンキースに売り払ったとも言われているが、これ以降、ルースはヤンキースのスーパースターとして、ヤンキースの黄金時代を築いて行く事となる。
一方、それとは対照的に、レッドソックスは長らく世界一(ワールド・チャンピオン)から遠ざかり、次にレッドソックスが「世界一」になるのは、何と、1918(大正7)年の86年後、2004(平成16)年の事である。
これを、ベーブ・ルースのニックネーム「バンビーノ」から取って、レッドソックスの「バンビーノの呪い」と言うが、
ルースの移籍は、まさに野球の歴史を変えた移籍だったと言って良い。
<1920(大正9)年…金栗四三、世界に通用するランナーを育てるため、「箱根駅伝」を創設!!~「第1回箱根駅伝」の優勝校は、金栗の母校・東京高等師範学校(現・筑波大学)>
さてさて、日本初のオリンピック参加選手にして、
日本陸上界の草分け的な存在だった金栗四三は、1920(大正9)年、世界に通用するランナーを、日本でも育てるという目的の下、
東京-箱根間を複数の区間に分けて、各大学が対抗戦を行なうという「箱根駅伝」を創設した。
1920(大正9)年2月14~15日に開催された「第1回箱根駅伝」は、金栗の母校・東京高等師範学校(現・筑波大学)をはじめ、早稲田・慶応・明治という4校が参加したが、「アントワープオリンピック」にも参加する事となる、東京高等師範学校のアンカー・茂木善作の力走により、
東京高等師範学校が、記念すべき「箱根駅伝」の初代優勝校の栄冠に輝いた。
以後、「箱根駅伝」は今日まで続く、ビッグ・イベントとして定着しているというのは、皆様もご存知の通りである。
<1924(大正13)年…「第8回近代オリンピック=パリオリンピック」開催~24年振り2度目のパリ五輪、「大競技場」「選手村」を建設し、1900(明治33)年の「抱き合わせオリンピック」の汚名(?)を雪ぐ>
1924(大正3)年5月4日~7月27日、フランスの華の都・パリで、
「第9回近代オリンピック=パリオリンピック」が開催された。
「パリオリンピック」は、1900(明治33)年以来、24年振り2度目の開催となったが、
これは、クーベルタン男爵の母国・フランスでの開催という事で、クーベルタン男爵の強い希望により、実現したものである。
というのも、1900(明治33)年の「パリオリンピック」は、「パリ万国博覧会」の抱き合わせで、
言わば、「パリ万博」の余興のような大会になってしまい、クーベルタン男爵としては、それが非常に不満であった。
そこで、今回はパリ郊外に、7万人収容という、コロンブ競技場という大スタジアムを建設し、
また、初めての試みとなる「選手村」も建設された。
こうして、今回の「パリオリンピック」は、名実共に、独立した大会として、44ヶ国が参加し、晴れて開催される事となった。
その1924(大正13)年の「パリオリンピック」では、
レスリングの内藤克俊が、日本人選手としてはレスリング界初、今大会の日本人選手としては唯一となるメダルの「銅メダル」を獲得し、オリンピック史に、その名を刻んでいる。
日本の「お家芸」の一つとなるレスリングは、内藤克俊が、まずは先陣を切ったという事である。
また、「パリオリンピック」では、フィンランドの「鉄人」ヌルミが、
1500m、5000m、10000mクロスカントリーの個人と団体、そして3000m団体という、5種目で「金メダル」を獲得し、
ヌルミは1大会で「長距離5冠」を達成し、またまた世界を驚かせた。
まさに人間離れした男であるが、ヌルミはオリンピック史上に残る「怪物」である。
では、その頃の世界情勢は、どうだったのかといえば、
世界各国は、不況が長引き、人々が既成政党の政治に嫌気が差しており、
そこで「ファシズム」が台頭する余地が生まれていた。
そんな中、1922(大正11)年に、イタリアではムッソリーニ率いる「ファシスト党」が勢力を伸ばし、
ムッソリーニの「ファシスト党」は「ローマ進軍」で政権を奪い、イタリアにムッソリーニの独裁政権が誕生した。
この「ファシスト党」が「ファシズム」の語源となったのである。
一方、ドイツのアドルフ・ヒトラーは、
1919(大正8)年、ドイツの小政党だった「ドイツ労働者党」に入党したが、
ヒトラーは、演説に抜群の才能を発揮し、ヒトラーは演説の力で、何処に行っても沢山の聴衆を惹き付けるカリスマ性を発揮した。
こうして、ヒトラーは、あっという間に「ドイツ労働者党」のトップにのし上がり、党名を「国家社会主義ドイツ労働者党=ナチス」に改称した。
そして、ヒトラーの発案により、「ナチス」は「鉤(かぎ)十字=ハーケンクロイツ」を、党のシンボルマークとして採用した。
ヒトラーは、「ヴェルサイユ条約」により、ドイツ経済がメチャクチャに破壊され、現ドイツ政府が全く有効な手も打てないという事を痛烈に批判し、多くの聴衆の心を掴んで行った。
こうして、「ナチス」は急速に支持を拡大して行き、ヒトラーは本気で「天下取り」の野望を持つに至った。
1923(大正11)年11月8日~9日、ヒトラー率いる「ナチス」は、
前年(1922年)に起きた、イタリアの、ムッソリーニの「ローマ進軍」を真似して、
ドイツの地方都市・ミュンヘンで軍事クーデーターを起こした。
ヒトラーは、ここで地方政府を作り、それを足掛かりとして、一気に国家権力を奪おうと試みたのであるが、
この時は、「ナチス」の軍事クーデターは失敗し、ヒトラーは政府軍に逮捕・投獄された。
この事件を「ミュンヘン一揆」と称している。
「ミュンヘン一揆」の失敗で、逮捕されたヒトラーには、国家反逆罪で死刑の可能性も有った。
だが、ヒトラーは裁判の場で、持ち前の演説の才能を発揮し、滔々と自説を述べ、
裁判は、さながらヒトラーの演説会のようになってしまった。
こうして、ヒトラーは死刑を免れ、「禁固5年」の判決を受けたが、獄中でヒトラーは、こう考えた。
「軍事クーデターではダメだ。政権を取るなら、あくまでも合法的にやるべきである」
こうして、ヒトラーは獄中で『我が闘争』という著書を口述筆記で書き上げ、自らの政治思想をまとめたが、
ヒトラーの熱烈な支持者達の嘆願も有り、刑期は大幅に短縮され、僅か9ヶ月ほどでヒトラーは釈放された。
こうして、稀代の「怪物」が野に放たれてしまったが、今後、この男によって世界中が酷い目に遭わされる運命にあるという事を、まだ誰も知る由も無かった。
1923(大正12)年9月1日、「関東大震災」が発生し、首都・東京は壊滅的な被害を受け、
関東全域で、死者・行方不明者は合計10万人以上という、未曽有の大惨事となった。
「関東大震災」により、東京・浅草のシンボル的存在だった「浅草十二階」も崩壊したが、
日本は地震や災害が多い国であり、常にその脅威に晒されているという事を、改めて示す出来事となった。
では、その頃の日本の野球界はどうだったのかといえば、
1919(大正8)年、東京帝国大学(東大)に野球部が創部され、
その東大野球部が「五大学リーグ」の各校と対戦し、善戦したため、
東大も「五大学リーグ」に加盟が認められる事となった。
1925(大正14)年10月、東大野球部のリーグ加盟を機に、
長年、関係が断絶していた早慶両校が遂に「和解」し、
「早慶戦」が、20年振りに復活する事となった。
そして、1925(大正14)年秋、早稲田・慶応・明治・法政・立教・東大の6校による、
「東京六大学リーグ」が結成され、「早慶戦」は、六大学リーグの一環として行われる事となった。
こうして、紆余曲折を経て、今日まで続く「東京六大学野球」が誕生した。
1926(大正15)年12月25日、かねてより病床に臥していた大正天皇が、享年47歳で崩御した。
大正天皇の崩御により、元号は「大正」から改元される事となったが、この時、東京日日新聞(現・毎日新聞)が、
「新元号は『光文』に決定」
という、世紀の「大誤報」をやらかしてしまった。
所謂「光文事件」であるが、実際には、皇太子・裕仁親王が直ちに新天皇に即位し、
新元号は「昭和」に決定した。
こうして時代は「大正」時代は幕を閉じ、「昭和」の時代が幕を開ける事となった。
(つづく)