昨日(2021/8/7)、野球日本代表、所謂「侍ジャパン」が、
「東京オリンピック」の決勝で、アメリカを2-0で破り、「侍ジャパン」が、見事に悲願の「金メダル」を獲得した。
野球日本代表の「金メダル」は、野球が公開競技だった、1984(昭和59)年の「ロサンゼルスオリンピック」以来、実に37年振りの快挙である。
というわけで、今回は「侍ジャパン」の金メダル獲得を記念し、
野球日本代表とオリンピックの歴史について、描いてみる事としたい。
今回は、その第1回として、「オリンピック」の起源と、日本人が初めて参加した、1912(明治45)年の「ストックホルムオリンピック」までを描く。
それでは、ご覧頂こう。
<「オリンピック」の起源~古代ギリシャの「オリンピア」の地で、4年に1度、開催されていた、神々へ捧げる祭典>
そもそも、「オリンピック」とは何か、一体、何のために行われているのか、という話から書く。
「古代オリンピック」は、古代ギリシャのオリンピアの地で、4年に1度、開かれていた祭典を起源とする。
伝承によれば、「古代オリンピック」は、4年ごとの夏至の後、二度目か三度目の満月の前後、今日で言う所の、8月上旬頃に開かれていたという。
「古代オリンピック」は、考古学的研究によれば、紀元前776年の第1回大会から、紀元後393年の第293回大会まで、何と1200年近くも続いていたという。
当初の種目は、1スタディオン(約190メートル)を走る短距離走のみだったが、やがて他の競技が順次付け加わり、紀元前5世紀までに競技種目が完成した。
それは、短距離走、中距離走、武装競走など各種トラック競技や、四頭立て戦車競走、レスリングやボクシングなどの格闘技、またフィールド競技としては。所謂「古代五種競技」(やり投げ、円盤投げ、幅跳び、短距離走、レスリング)等であった。
中でも、四頭立て戦車競走は、最も人気が有り、観客を熱狂させていたが、
四頭立て戦車競走は、映画『ベン・ハー』でも描かれており、ご覧になった事が有る方も多いのではないだろうか。
このように、「古代オリンピック」は、徐々に形を整え、4年に1度の祭典として定着して行った。
ところで、「古代オリンピック」の参加者は、基本的には女人禁制であり、しかも全裸だったという。
では、何故全裸だったのかといえば、「古代オリンピック」は、大神ゼウスをはじめ、ギリシャ神話の神々に捧げるための宗教的祭典であり、競技が主体というよりも、「神事」という意味合いが強かったからである。
そして、有名な話だが、オリンピックが開かれる年は、たとえ戦争が起こっていたとしても、戦争は休戦になっていた。
所謂「オリンピック休戦」である。
このように、「古代オリンピック」は「平和の祭典」として定着していたが、前述の通り、393年の第293回大会を最後に、その歴史の幕を閉じた。
<1896(明治27)年…「第1回近代オリンピック=アテネオリンピック」開催~クーベルタン男爵が、現代の世に「オリンピック」を蘇らせる>
それから、約1500年も経った後、フランスのクーベルタン男爵が、
「現代の世に、オリンピックを蘇らせよう」
という事を考え、「近代オリンピック」開催を提唱した。
前述の通り、たとえ戦争が行われていたとしても、オリンピック期間中は休戦するという「オリンピック休戦」が有ったという、「古代オリンピック」の「平和の祭典」の理念に、クーベルタン男爵は、大変共感していたのである。
クーベルタン男爵は、「スポーツを通して、世界平和を実現させる」という理念を持っていた。
だが、クーベルタン男爵が「オリンピック復興」を提唱すると、
当初は、全く賛同者を得られず、反応は至って鈍い物であり、クーベルタン男爵は冷たい視線を浴びていたという。
だが、それでも彼は諦めず、「オリンピック復興」に執念を燃やし、世界中を飛び回り、賛同者を募って行った。
こうして、紆余曲折を経て、1896(明治27)年4月6日、
「古代オリンピック」発祥の地である、ギリシャのアテネの地で「第1回近代オリンピック=アテネオリンピック」が開催された。
1896(明治27)年の「アテネオリンピック」の参加国は14ヶ国に留まったが、それでも、アテネの総大理石造りの競技場・パンアテナイスタジアムには、大観衆が集まった。
なお、オリンピックといえば、世界の5大陸を意味する「五輪」のマークが有名であるが、
この「五輪マーク」も、クーベルタン男爵が考案したという。
「五輪マーク」は、世界平和を祈念する、クーベルタン男爵の願いが込められたものでもある。
「アテネオリンピック」は、予想以上の盛り上がりを見せ、大成功となったが、
この大会の100メートル走で、アメリカのトーマス・バークが、史上初の「クラウチング・スタート」を披露し、人々を驚かせた。
陸上界では、今では当たり前になっている「クラウチング・スタート」は、この時のトーマス・バークが初めての事だったというが、
この「クラウチング・スタート」が功を奏し、バークが12秒0のタイムで優勝を果たした。
というわけで、「アテネオリンピック」は1896(明治27)年4月6日~15日までの10日間にわたり、華やかに行われ、「近代オリンピック」は、まずは順調なスタートを切った。
では、この頃、日本の野球界はどうだったのかといえば、
当時は旧制・第一高等学校(一高)の黄金時代で、所謂「一高黄金時代」を築き上げていたが、
「アテネオリンピック」が開催された直後、1896(明治27)年5月23日、一高は横浜外人チームに29-4で圧勝した。
これが、日本野球史上初の「国際試合」だったが、その記念すべき試合で、一高が大勝した事は、日本野球史上において、大きな意味を持った。
これにより、日本中で、更に野球熱が高まり、「一高に、追い付け追い越せ」と、日本全国の学校で、盛んに対抗試合が行われ、日本野球のレベルは、どんどん高まって行ったからである。
だが、この時、日本人は誰も、遠くアテネの地で行われていた、「オリンピック」の事など全く知らなかったに違いない。
<1900(明治33)年…「第2回近代オリンピック=パリオリンピック」~資金難により開催が危ぶまれるも、同年(1900年)の「パリ万国博覧会」の抱き合わせとして、どうにか開催>
1896(明治27)年の「アテネオリンピック」を成功させ、クーベルタン男爵は自信を得ていたが、
その4年後、「第2回近代オリンピック」は、フランスの首都、華の都・パリで開催される事になっていた。
だが、クーベルタン男爵と、彼が創設したIOC(国際オリンピック委員会)は資金難に陥り、一時は開催が危ぶまれた。
だが、同年(1900年)に開催された、「パリ万国博覧会」との抱き合わせとして、オリンピックも、どうにか開催される目途が立った。
こうして、1900(明治33)年に「第2回近代オリンピック=パリオリンピック」が開催されたが、
前述の通り、「パリ五輪」は「パリ万博」との抱き合わせで開催されたため、
何と、1900(明治33)年5月14日~10月28日という、長期間の開催となってしまった。
当時、IOCには全くお金が無かったのだから、止むを得ないが、こんな風に、初期の「オリンピック」が大変な資金難だったため、今のIOCは、その頃の反動(?)で、「銭ゲバ」「金の亡者」と言われるような存在になってしまったのであろうか。
なお、1900(明治33)年の「パリオリンピック」には、史上初めて、女子選手が参加したが、
テニスのウィンブルブルドン選手権(全英オープン)で優勝した、女子テニス界のスーパースター、シャーロット・クーパーが、「パリオリンピック」で、女子シングルスと混合ダブルスで金メダルを獲得し、見事に「二冠」を達成した。
シャーロット・クーパーは、女子テニス界の「レジェンド」として、オリンピック史にも、その名を刻んだ。
なお、「パリ万博」「パリ五輪」の期間中だった、1900(明治33)年10月22日、
日本人留生で、当時33歳の夏目漱石が、「パリ万博」の会場を訪れ、万博の目玉として建設されたエッフェル塔に登っているが、果たして、夏目漱石は、「パリオリンピック」の競技も、何か目にしたのであろうか。
漱石は、スポーツにはあまり関心が無かった事もあるが、万博については日記に色々と書いているが、オリンピックについては、特に何も書いていない。
当時のオリンピックとは、まだまだ知名度も低く、日本人留学生の興味を引くような物ではなかったという事だろう。
では、その頃の日本の野球界がどうだったのかといえば、
「パリオリンピック」の翌1901(明治34)年、初代部長に安部磯雄を迎え、
早稲田大学に野球部が創部され、早稲田の野球部が活動を開始した。
早稲田は、先輩格の一高や慶応に挑むべく、日夜、練習に励んでいた。
パリ万博を目撃した夏目漱石は、翌1901(明治34)年、留学先である、英国の首都・ロンドンに移っていた。
すると、漱石がロンドンに移って間もなく、1901(明治34)年に、大英帝国のヴィクトリア女王が亡くなり、
1901(明治34)年2月2日、漱石もヴィクトリア女王の葬儀を見た。
「20世紀の幕開け、甚(はなは)だ幸先(さいさき)悪(あ)し」
漱石は、ヴィクトリア女王の葬儀を見送る、ロンドンの商店主が、暗い顔をしてそう言っていたと、日記に書き残した。
その言葉通り、この後、20世紀は不幸にも戦争の時代へと突き進んで行く事となる。
<1904(明治37)年…「第3回近代オリンピック=セントルイスオリンピック」~またしても「セントルイス万国博覧会」との抱き合わせで開催され、クーベルタン男爵が、ブンむくれる!?>
1900(明治33)年の「パリオリンピック」は、どうにか開催に漕ぎ着けたとはいえ、
「パリ万博」の抱き合わせで開催された事が、クーベルタン男爵としては不満であった。
「次回こそ、オリンピックの単独開催を」と、クーベルタン男爵は意気込んでいたが、
1904(明治37)年、アメリカのセントルイスで開催予定の「セントルイスオリンピック」は、またしてもIOCの資金難により、単独開催が難しくなり、同年(1904年)に開催された「セントルイス万国博覧会」との抱き合わせになってしまった。
実は、当初「第3回近代オリンピック」は、アメリカのシカゴで開催される予定だったのだが、
IOCの資金難により、シカゴ開催が難しくなり、そこに付け込んで、万博開催地であるセントルイスが、強引に割り込み、
無理矢理、万博との抱き合わせで、「セントルイスオリンピック」を開催してしまったという。
この事について、クーベルタン男爵は激怒し、ブンむくれてしまった彼は、オリンピック会場にも姿を現さなかった。
当時は、IOCの権威も低く、開催都市にも、完全に舐められていたという事であろう。
こうして、1904(明治37)年7月1日~11月23日、「第3回近代オリンピック=セントルイスオリンピック」が開催されたが、
この「セントルイスオリンピック」のマラソン競技で、前代未聞の大事件が起こった。
それが、今に語り継がれる、「マラソンキセル事件」という、不正事件である。
以下、その経緯について記す。
このマラソン競技で、当初、アメリカのフレッド・ローツが、15km過ぎの時点で、猛暑による熱射病で倒れてしまった。
すると、そこへ偶然通りかかった、一般乗用車に救助され、車に乗せてもらった。
ところが、途中でその車が故障してしまったため、ローツが車を降りたところ、何と、そこはマラソンのゴールまで、残り8kmの地点であり、
しかも、後続の選手は、まだ誰も来ていなかった。
そこで、ローツは何食わぬ顔で、そのまま走り出し、ゴール地点の競技場に到着すると、何と「1位」でゴールしてしまったのである。
ローツは「金メダル」を獲得し、表彰台で月桂冠を授けられようとしていたが、
その時、何と車の運転手が競技場に現れ、その運転手が洗いざらい、すべてを話した事により、ローツの「キセル」が発覚、ローツの「金メダル」は直ちに剥奪され、後にローツはマラソン界から永久追放されてしまった。
その後、疲労困憊でゴールした、アメリカのトーマス・ヒックスが、改めて「金メダル」となったが、このヒックスも、興奮剤を使用していたのではないかという疑惑が、後に取り沙汰された。
というわけで、何とも後味の悪いマラソン競技となってしまったのである。
では、その頃、アメリカの野球界はどうだったのかといえば、
「セントルイスオリンピック」の前年、1903(明治36)年10月1日~13日には、
ナショナル・リーグの優勝チーム、ピッツバーグ・パイレーツと、アメリカン・リーグの優勝チーム、ボストン・アメリカンズ(現・ボストン・レッドソックス)が対決し、ワールドチャンピオンを決める戦い、「第1回ワールド・シリーズ」が開催され、
ボストン・アメリカンズが5勝3敗でピッツバーグ・パイレーツを破り、記念すべき「初代ワールド・チャンピオン」の座に就いた。
以後、「ワールド・シリーズ」は、アメリカ大リーグのチャンピオンを決する戦いとして、今日まで続いている。
そして、日本の野球界に目を移すと、
1903(明治36)年11月21日、慶応の三田綱町グラウンドで、早稲田と慶応の野球部が初めて対決し、
記念すべき「第1回早慶戦」が開催された。
これは、早稲田が先輩格である慶応に「挑戦状」を送り、それを受けて立った慶応が、早稲田との試合に応じ、実現したものである。
以後、「早慶戦」も今日に至るまで、脈々と続いているというのは、皆様もご存知の通りである。
だが、その頃、日本を取り巻く状況は、風雲急を告げていた。
1904(明治37)年、朝鮮半島の支配を巡り、日本とロシアの対立が先鋭化し、
遂に、日本とロシアの間で戦争が起こり、ここに「日露戦争」が勃発した。
この年(1904年)は、前述の通り「セントルイスオリンピック」が開催されていたが、
誠に残念な事に、「平和の祭典」の願いも虚しく、遂には「日露戦争」という大きな戦争が起こってしまったのである。
なお、「日露戦争」の細かい経緯は全て省略するが、日本が辛うじてロシアに「勝利」し、戦争は終わった。
翌1905(明治38)年、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の仲介により、
アメリカとロシアの間で「ポーツマス条約」が締結されたが、
この「ポーツマス条約」により、ご覧の通り、日本は「北方領土」を手に入れた。
だが、これは後に、「太平洋戦争」のドサクサに紛れ、ロシア(ソ連)に全て奪われてしまう事となる。
1905(明治38)年、日本が「日露戦争」を戦っている真っ最中という「非常時」に、
早稲田の野球部は、早稲田の創立者・大隈重信が全面的に資金を出し、
何と、渡米遠征を敢行し、早稲田は野球の先達アメリカで、多くの野球技術を学んだ。
帰国後、早稲田は惜しみなく、慶応をはじめ、他校にも野球技術を教えたたてめ、日本野球のレベルは飛躍的に上がった。
そういう意味では、この時の早稲田の渡米遠征は、日本野球史上に残る重要な出来事である。
<1906(明治39)年…「アテネオリンピック中間大会」とは!?>
「オリンピックは、4年に1度」
これは、「古代オリンピック」以来の伝統であり、基本的には今日までその伝統が受け継がれているが、
そんなオリンピックにも「例外」が存在した。
1906(明治39)年4月22日~5月2日に「アテネオリンピック中間大会」が開催されたのである。
実は、1896(明治37)年に「第1回近代オリンピック=アテネオリンピック」が開催された際に、
ギリシャのゲオルギオス1世は「オリンピックは、今後もずっと、アテネで恒久開催されるべきだ」と主張していたのである。
だが、各国持ち回りでの開催を考えていた、クーベルタン男爵とIOCは、その案を拒否し、両者の話し合いは平行線を辿っていたが、
その「妥協案」として、1904(明治37)年の「セントルイスオリンピック」と、1908(明治41)年の「ロンドンオリンピック」の中間の年である、
1906(明治37)年に「アテネオリンピック中間大会」が開催された。
だが、この後、ギリシャは政情不安が続き、ゲオルギオス1世が暗殺されてしまった事もあり、「中間大会」なるものは二度と開催される事は無かった(※「アテネオリンピック中間大会」は、現在もIOCはオリンピックの回数にはカウントしていない)
「アテネオリンピック中間大会」が開催された、1906(明治37)年、
年々、人気が高まっていた「早慶戦」は、早慶両校による応援合戦が過熱化し、
不測の事態を恐れた早慶両校の当局の判断により「中止」になってしまった。
当初、この「中止」は一時的なものと思われたが、以後、「早慶戦」は19年間も「中止」されたままとなってしまった。
<1908(明治41)年…「第4回近代オリンピック=ロンドンオリンピック」~「ドランドの悲劇」と、クーベルタン男爵の「オリンピックは参加する事に意義が有る」の名言が生まれる>
1908(明治41)年4月27日~10月31日に開催された、
「第4回近代オリンピック=ロンドンオリンピック」は、画期的な大会になった。
今大会も、相変わらず「ロンドン万博」との共催ではあったが、
「ロンドンオリンピック」のために、ロンドン郊外に10万人収容の大スタジアムが建設され、
その大スタジアムで、開会式の入場行進も、それまで以上に派手に行われるようになった。
そして、参加国はアルファベット順に入場し、先頭の人は、国名が書かれたプラカードと国旗を持って入場する事となった。
これが、今に続くオリンピック開会式の入場行進の基本的な形になった。
なお、この時の「ロンドンオリンピック」の参加国は22ヶ国である。
この「ロンドンオリンピック」で、人々の耳目を集めたのは、
マラソン競技で、トップで競技場に帰って来た、イタリア代表のドランド・ピエトリ選手である。
だが、ピエトリはこの時点で、既に全ての力を使い果たしており、意識朦朧として、今にも倒れそうな様子であった。
ピエトリは、酷く蛇行しながらも、よろけながら何とかゴールしたが、この時、大会役員達に支えられてゴールしたために、
「1位」とは求められず、「失格」になってしまった。
所謂「ピエトリの悲劇」であるが、
この時、ピエトリを助けた大会役員の1人に、あの『シャーロック・ホームズ』シリーズの生みの親、コナン・ドイルも居たという。
ピエトリは、金メダルこそ逃したものの、その必死の健闘ぶりは多くの人達の感動を呼び、
英国のアレキサンドラ王妃からは、トロフィーが授与された。
こうして、ピエトリは世界的な有名人となった。
コナン・ドイルは、ピエトリの必死の走りを見て、思わず助け起こさずにはいられなかったと、後に語っている。
1908(明治41)年の「ロンドンオリンピック」では、もう一つ、重要な出来事が有った。
大会期間中、ロンドンのセントポール寺院を訪れたクーベルタン男爵は、
ペンシルベニア大主教、エセルバール・タルボットの「オリンピックで重要な事は、勝つ事ではなく参加する事です」という言葉に、深い感銘を受けた。
そして、後にクーベルタン男爵は、この言葉を「拝借」して、
「オリンピックとは、勝つ事よりも、参加する事に意義が有る」
という「名言」を吐いた。
「オリンピックとは、勝つ事よりも、参加する事に意義が有る」
とは、オリンピックの理念を表す言葉として、あまりにも有名であるが、
そのクーベルタン男爵が、もし、現代の世の利権まみれのIOCを見たら、一体、何と言うのであろうか。
「オリンピックとは、お金儲けに意義が有る」
と言わんばかりの、今のIOCなる組織は、私は大嫌いであるが、これが果たして、クーベルタン男爵が目指していた姿なのであろうか。
<1912(明治45)年…「第5回近代オリンピック=ストックホルムオリンピック」~大河ドラマ『いだてん』でも描かれた、オリンピックへの日本人初参加>
1912(明治45)年5月22日~7月22日、スウェーデンのストックホルムで開催された、
「第5回近代オリンピック=ストックホルムオリンピック大会」は、画期的な大会となった。
遂に、この「ストックホルムオリンピック」で、日本人選手がオリンピックに初参加を果たしたのである。
この「ストックホルムオリンピック」の日本人初参加の物語は、2019(令和元)年の大河ドラマ『いだてん』でも描かれたが、
以下、『いだてん』を参考に、その経緯を記す(※なお、オリンピック開会式は7月6日に開催されたが、競技自体は既に5月22日に始まっていた)。
「近代オリンピック」の創設者・クーベルタン男爵は、
オリンピック参加国を増やすため、日本にもオリンピック参加を呼び掛けていた。
この時、クーベルタン男爵が声を掛けたのが、柔道の創設者で、ヨーロッパでも広く名を知られていた、嘉納治五郎である。
なお、『いだてん』では、嘉納治五郎を役所広司が演じていた。
嘉納治五郎は、日本人選手をオリンピックに送り込むため、その人材を探す事にしたが、
彼は、ひょんな事から、「天狗倶楽部」なる、妖しい風体のスポーツ愛好団体(?)に所属する、三島弥彦という青年と知り合った。
「天狗倶楽部」は、東大・早稲田・慶応などの学生やOB達が所属し、スポーツを通じて親睦を深める事を目的としていたが、
その「天狗倶楽部」には、1906(明治39)年の「早慶戦中止」の原因となった騒動を起こし、「ヤジ将軍」の異名を取った、早稲田の応援団長・吉岡信敬という男も居たが、三島弥彦は、その仲間で、運動神経は抜群という青年であった。
ちなみに、『いだてん』では、三島弥彦を生田斗真が演じており、
「天狗倶楽部」は視聴者に強烈な印象を残したが、それはともかく、三島弥彦は足が滅法速く、100メートルを12秒で走るという俊足であった。
嘉納治五郎は、オリンピックの短距離代表として、まずは三島弥彦を選んだ。
一方、長距離の代表には、金栗四三(かなくり・しそう)が選ばれた。
金栗四三は、嘉納治五郎が教授を務める、東京高等師範学校(現・筑波大学)の学生だったが、
金栗は、オリンピック出場選手を決めるマラソン大会で、何と当時の世界記録を更新するタイムを記録し、一躍、歴史の表舞台に登場して来たのである。
「韋駄天(いだてん)だ!彼こそ、韋駄天(いだてん)だ!!」
突如、目の間に現れた「韋駄天」に、嘉納治五郎は狂喜した。
なお、『いだてん』で金栗四三の役を演じたのは、中村勘九郎である。
こうして、嘉納治五郎により、三島弥彦が短距離、金栗四三が長距離の、それぞれの日本代表に選出され、
1912(明治45)年、彼らは決戦の地ストックホルムへと旅立った。
なお、当時は飛行機は無かったので、船とシベリア鉄道を乗り継ぎ、日本から17日間かけて、彼らはストックホルムに到着した。
1912(明治45)年7月6日、金栗四三・三島弥彦は、
「ストックホルムオリンピック」の開会式に臨んだが、日本人選手の参加者は、彼ら2人だけである。
だが、彼らは堂々と入場行進に臨み、オリンピックの歴史に、その名を刻んだ。
こうして、日本からの期待を一身に背負い、彼らはオリンピックに臨んだが、
まだまだ世界の壁は高く、三島弥彦は参加した100m、200m、400mで全て予選敗退、
マラソンの金栗四三も、あまりの猛暑により疲労困憊となり、レース途中で倒れてしまった所を、一般家庭の人に助けられ、
介抱された後に、金栗は居たたまれなくなったのか、そのままレースを棄権し、姿を消してしまった。
これが、スウェーデンの歴史の教科書にも載っているという、
「消えた日本人ランナー」という事件であるが、こうして日本人のオリンピック初参加は、苦い結果に終わった。
その頃、日本の野球界はといえば、「ストックホルムオリンピック」の2年前、
1910(明治43)年には明治大学の野球部が創部され、当時、関係が断絶していた早稲田と慶応に次ぐ、第三勢力として台頭した。
そして、「ストックホルムオリンピック」が閉会した直後、1912(明治45)年7月30日、明治天皇が崩御し、「明治」という時代が終わった。
だが、日本人のオリンピックへの挑戦は、まだ始まったばかりであった。
(つづく)