紅白歌合戦と日本シリーズ【胎動編】~1946…並木路子『リンゴの唄』と、大下弘の虹のホームラン~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

現在、連載中のシリーズ記事、「紅白歌合戦と日本シリーズ」は、現在、「第3回」まで進んでいるが、

これまで、「紅白」の「前史」とも言うべき、1945(昭和20)年12月31日の「紅白音楽試合」も含め、描いて来ている。

しかし、改めて第1回の「紅白」がスタートしたのは、1951(昭和26)年1月3日なので、

1946(昭和21)~1950(昭和25)年は、「紅白」の歴史にとっては、言わば「空白の期間」である。

 

 

という事で、今回は「紅白歌合戦と日本シリーズ」の、「紅白」の空白の期間を「番外編」として、描かせて頂く事としたい。

戦後、日本が復興への道を歩みだした頃のお話であるが、まずは終戦の年の翌年である、1946(昭和21)年について、ご覧頂こう。

 

<1946(昭和21)年1月1日…昭和天皇の「人間宣言」~1945(昭和20)年12月31日の「紅白音楽試合」の翌日に、昭和天皇が自らの「神性」を否定する、重大宣言>

 

 

 

 

1945(昭和20)年の大晦日(12月31日)、NHKラジオの特別番組として放送された、

「紅白音楽試合」の馬鹿騒ぎ(?)により、終戦の年である1945(昭和20)年が暮れて行ったが、

その翌日、1946(昭和21)年の元旦に、新聞紙上で、衝撃的な発表が有った。

それが、昭和天皇の所謂「人間宣言」である。

戦時中、昭和天皇「現人神」として神格化され、戦争に駆り出された多くの人達は、

「天皇陛下万歳」と言いながら死んで行ったわけであるが、

日本は戦争に敗れ、GHQ(連合国軍総司令部)に支配されるに及び、

昭和天皇は、自らの「神性」を否定して、「私は、普通の人間である」と「宣言」したのである。

 

 

 

前年(1945年)9月27日、昭和天皇マッカーサーを訪問し、歴史的な会見が行われたが、

この時、昭和天皇とマッカーサーが並んで記念撮影を行ない、この写真が翌日の新聞に掲載され、

この写真は、多くの日本人に衝撃を与えた、という事は、このシリーズ記事でも既に書いた。

この時、マッカーサーは昭和天皇の毅然とした態度と、その人柄に感銘を受けたという。

だが、日本はGHQ(※事実上、アメリカ)に支配される占領国であるという事に、変わりは無かった。

 

 

というわけで、戦後の混乱がまだまだ続く、1946(昭和21)年という年が始まったが、

インフレや食糧不足は深刻化し、人々は苦しい生活を強いられていた。

しかし、そんな時、人々の心の支えになったのが、「歌」と「野球」だったのである。

 

<1946(昭和21)年1月19日…NHKラジオで「のど自慢素人音楽会」放送開始~今(2021年現在)も続く、NHKの超長寿番組>

 

 

 

1946(昭和21)年1月19日、NHKラジオで「のど自慢素人音楽会」が放送開始された。

これは、歌が好きな「素人」が、NHKラジオの放送で、自慢の歌を披露するという番組であり、

「我こそは!」と思う、歌自慢、歌好きの「素人」達が、多数、番組に出演し、この番組は忽ち、大評判になった。

 

 

 

これが、皆様もご存知の、今(2021年現在)も続く、

NHK「のど自慢」の始まりであるが、番組放送開始から、何と75年も続いている、超長寿番組である。

「紅白歌合戦」が、人気歌手・流行歌手が集まる、華やかなお祭りならば、

「のど自慢」は、歌が大好きな「素人」に幅広く門戸を開放した、庶民のための番組と言えよう。

という事で、「紅白」と「のど自慢」が、ほぼ同時期に始まったというのは、日本人の「歌好き」をよく表しており、大変興味深い。

 

<1946(昭和21)年のNHKラジオの主な番組…「復員だより」「尋ね人」「街頭録音」「英語会話」「etc~終戦直後の世相を反映した、時代を象徴する番組>

 

 

 

では、ここで1946(昭和21)年当時の、NHKラジオの番組を、いくつかご紹介させて頂く。

当時は、終戦直後であり、外地から復員して来る帰還兵や、戦災で生き別れになってしまった人達などが、まだまだ沢山居た時代である。

そこで、帰還兵の情報を知らせる「復員だより」や、生き別れになった人に呼び掛け、探すための「尋ね人」という番組が、盛んに放送された。

当時は、ラジオが唯一の放送メディアであり、多くの人達が聞く、ラジオの特性を活かし、このような番組が放送されていたのであるが、

それこそ、生き別れになっている人に再会するという望みをかけて、多くの人達が必死に、ラジオというメディアに頼っていたのであった。

 

 

「街頭録音」は、NHKのアナウンサーが、スタジオを飛び出し、

街行く人々に、現在の世相や様々な事柄についてインタビューするという、

今に続く「街頭インタビュー」の元祖となった番組である。

この番組は、一般の人々が、気軽に参加出来るようにする、という事も、ラジオの重要な使命だった事を表している。

 

 

 

当時は、GHQ(アメリカ)の占領下にあった日本で、英語を身に着けるという需要が急速に高まった。

そこで、平川唯一を講師とした「英語会話」(通称「カムカム英語」)という番組も放送された。

これは、今に続く、NHKの語学番組の元祖であるというのは、言うまでもない。

 

 

 

 

ちなみに、英会話といえば、まだ戦争が終わって間もない頃、

1945(昭和20)年9月15日に発売された、「日米会話手帳」は、即席で英会話が勉強出来る本として、

戦後初の大ベストセラーとなったが、終戦から僅か1ヶ月で、この本を世に出した小川菊松は、莫大な富を得たという。

「これからは、英語の時代だ!!」

という事に、いち早く目を付け、「日米会話手帳」という本を出してしまうという、目の付け所が素晴らしい。

いつの世も、非常時であればこそ、こういう目端の利く人物が財を成すという、典型例である。

 

 

 

少し話が逸れたので、話を元に戻すと、

この年(1946年)、NHKラジオでは、クイズ番組「話の泉」が放送された。

これは、日本初のクイズ番組にして、バラエティ番組であると言って良いと思われるが、

人々が、そろそろ娯楽番組を欲していたという事が伺える。

大変な時代にこそ、娯楽が必要であるというのは、いつの世も変わらない。

 

<1946(昭和21)年1月…並木路子『リンゴの唄』のレコードがリリース~戦後初の大ヒット曲として、人々に希望を与える>

 

 

 

1946(昭和21)年1月、並木路子が歌う『リンゴの唄』がリリースされた。

(※オリジナル版は、並木路子霧島昇の2人で歌っている)

以前の記事でも書いた通り、『リンゴの唄』は、前年(1945年)10月に公開された映画『そよかぜ』の主題歌であり、同年(1945年)大晦日(12月31日)の、NHKラジオ「紅白音楽試合」で披露され、人々に広く知れ渡るようになった曲である。

その『リンゴの唄』が、満を持してリリースされた。

 

 

 

 

そして、『リンゴの唄』は、リリースされるや否や、爆発的な大ヒットを記録したが、

当時は、日本中の至る所に戦争の焼け跡が残り、各地に闇市が立ち並び、

人々は、生きて行くだけで精一杯だった時代である。

そんな時代に、『リンゴの唄』は、当時の人々に愛され、受け入れられる曲となった。

「赤いリンゴに くちびる寄せて だまって見ている 青い空…」

という、サトウハチローが書いた詞と、明るく爽やかな万城目正の曲、そして伸びやかな並木路子の歌が相俟って、

何とも素晴らしい楽曲が出来上がったが、この曲は、戦争で何もかも失くした後、また立ち上がろうとする人達への、何よりの応援歌になった。

 

 

 

『リンゴの唄』は、終戦直後の、荒廃しながらも解放感に溢れた世の中を象徴する曲として、今も、終戦直後の映像が紹介される時などに、必ずBGMで流される、まさに歴史的な大ヒット曲である。

日本の戦後という時代は、『リンゴの唄』から始まったと言っても、過言ではないであろう。

 

<1946(昭和21)年の主なヒット曲…『悲しき竹笛』(奈良光枝・近江俊郎)、『東京の花売娘』(岡晴夫)、『かえり船』(田端義夫)etc…~近江俊郎・岡晴夫・田端義夫の「戦後三羽烏」が活躍>

 

 

 

 

1946(昭和21)年は、一にも二にも、並木路子『リンゴの唄』の年である、と言っても良いと思われるが、

その他にも、いくつか大ヒットした曲は有ったので、ご紹介させて頂く。

『悲しき竹笛』は、映画『或る夜の接吻』の主題歌として、奈良光枝近江俊郎のデュエット曲としてリリースされた、哀愁を帯びた楽曲である。

『リンゴの唄』に負けず劣らず、『悲しき竹笛』も、この時代を代表する名曲として、人々に愛唱された。

 

 

 

なお、『悲しき竹笛』は、後に、ちあきなおみによってカバーされているが、

歌唱力抜群の、ちあきなおみが歌う『悲しき竹笛』は、絶品である。

という事で、機会が有れば、是非ともお聴き頂きたい。

 

 

岡晴夫『東京の花売娘』も、後々まで長く愛された、この時代の大ヒット曲であるが、

この曲は、大映映画『盗まれかけた音楽祭』の中で、岡晴夫が歌っていたものである。

岡晴夫は、映画の中で、軽妙に『東京の花売娘』を歌いこなし、それをキッカケに大ブレイクを果たし、一躍、人気歌手の仲間入りを果たした。

 

 

 

 

田端義夫『かえり船』は、前述した、この時代を象徴する「復員船」をテーマにした楽曲である。

この時代は、長かった戦争が終わり、遠い異国の地から、はるばる日本へ帰って来た復員兵が、数多く居た時代である。

そういう時代が有ったという事を、我々は忘れてはなるまい。

『かえり船』は、そんな時代を象徴する名曲であった。

 

 

 

なお、近江俊郎・岡晴夫・田端義夫は、「戦後三羽烏」と称され、

同時期に人気歌手として活躍していたが、もしも、この年(1946年)に「紅白」が有れば、

彼らも、間違いなく出場していたであろう。

という事で、個性的な「戦後三羽烏」は、日本の歌謡界の歴史に残るレジェンドであった。

 

<1946(昭和21)年4月27日…戦後初のプロ野球ペナントレースが開幕!!~「1リーグ8球団制」で、戦後プロ野球が再開される~この頃、「ベースボールマガジン」も創刊>

 

 

 

1946(昭和21)年4月27日、戦後初のプロ野球ペナントレースが開幕した。

当時のプロ野球は「1リーグ8球団制」であり、参加球団は、巨人・阪神・阪急・中日・近畿・太平(パシフィック)・金星・セネタースの8球団である。

当時、東は後楽園球場、西は西宮球場が、戦災から免れており(※神宮球場・甲子園球場は、GHQに接収されたため使用出来ず)、主に後楽園球場と西宮球場で、プロ野球の試合は開催された。

ともあれ、戦後プロ野球は「復活」を果たしたのである。

 

 

なお、この頃(1946年春)、「ベースボールマガジン」が創刊されたが(※表紙は、大下弘)、

この「ベースボールマガジン」こそ、今(2021年現在)に続く、ベースボールマガジン社の旗揚げの雑誌であった。

つまり、ベースボールマガジン社は、戦後プロ野球と共に、ずっと歩み続けているという事である。

 

<新人・大下弘(セネタース)、「驚天動地」の20ホームランを放つ!!~大下弘の「虹のホームラン」が、人々に希望を与え、『リンゴの唄』と共に、戦後復興の象徴に>

 

 

さて、戦後初のプロ野球で、主役の座に踊り出たのが、

前年(1945年)11月23日の「東西対抗戦」で、颯爽とデビューした、

新球団・セネタース(現・北海道日本ハムファイターズ)の新人・大下弘である。

大下弘は、それまでのプロ野球には居なかった、型破りの新人であった。

何よりも、大下には、ずば抜けた長打力が有り、それまでのプロ野球の常識を覆すような打法で、ホームランを量産したのである。

 

 

 

戦前のプロ野球は、バットをボールに対し、上から叩くという打法が主流であり、

強いライナーやゴロを打つ事が理想とされていた。

そのため、戦前のプロ野球では、ホームランの数は少なく、

「年間10ホームラン」が、個人の最多記録だったのだが、

大下は、そんな野球界の常識を覆し、高くフライを打ち上げるような打法で、ホームランを量産した。

 

 

大下弘のホームランは、大空に高く高く舞い上がった打球が、そのままゆっくりとスタンドに舞い落ちるという、美しい軌跡を描いたが、

それは「虹のホームラン」と言われ、ファンは大下のホームランに熱狂した。

こうして、大下のお陰でプロ野球人気は沸騰したが、大下は、それまでの記録を倍に更新する、「20ホームラン」を放った。

これは「驚天動地」の大記録と言われ、人々を驚愕させた。

というわけで、並木路子大下弘は、日本の戦後復興の象徴的存在となったのである。

 

<1946(昭和21)年…大阪タイガース「ダイナマイト打線」が誕生!!>

 

 

 

 

 

この年(1946年)のプロ野球の、重要なトピックスとしては、

大阪タイガース(現・阪神タイガース)「ダイナマイト打線」が誕生した事であろう。

この年(1946年)、大阪タイガースは、

呉昌征-金田正泰-土井垣武-本堂保次-藤村富美男-御園生崇男-富樫淳-長谷川善三…

と続く強力メンバーを擁し、一時は、打撃ベスト10に7人もランクインするほどの猛打を誇った。

このタイガースの強力打線を見て、日刊スポーツの高山方明記者が「ダイナマイト打線」と命名したのだが、

プロ野球史上における、強力打線のニックネームの元祖が、この時のタイガースの「ダイナマイト打線」であった。

なお、タイガースはこの年(1946年)、優勝は出来ず、3位に終わっている。

 

<1946(昭和21)年のプロ野球…鶴岡一人・選手兼任監督率いる、近畿グレートリング(後の南海ホークス)が、2位・巨人を1ゲーム差で振り切り、優勝!!>

 

 

 

 

 

 

1946(昭和21)年のプロ野球は、鶴岡一人・選手兼任監督率いる近畿グレートリング(後の南海ホークス)と、巨人が激しい優勝争いを繰り広げたが、

近畿グレートリングが、2位・巨人を僅か1ゲーム差で振り切り、近畿グレートリングが初優勝を達成した。

近畿グレートリングは、安井亀和-河西俊雄-田川豊-鶴岡一人-堀井数男-岡村俊昭-筒井敬三-宮崎仁郎…と続く、

タイガースとは対照的な、機動力溢れる打線で、相手守備陣をかき回す「機動力野球」が持ち味であった。

そして、別所昭・丸山二三雄らの強力投手陣を中心とした「守りの野球」も特徴であり、

そんな彼らを、「親分」鶴岡一人が、抜群の統率力でまとめ上げた。

という事で、当時は関西の電鉄系の球団が強かったのである。

 

<1946(昭和21)年8月15日…「全国中等学校優勝野球大会」が西宮球場で復活!!>

 

 

 

 

 

1946(昭和21)年8月15日、昭和天皇「玉音放送」から、ちょうど1年後、

西宮球場で、「全国中等学校優勝野球大会」が「復活」を果たした。

戦時中、長らく中止されていた、所謂「夏の甲子園」(※この年(1946年)は西宮球場だが)が、

実に5年振りに「復活」を果たし、球児達が思いっきり野球が出来る時代が帰って来た。

西宮球場は、連日、超満員となったが、やはり、こんな風に思いっきり野球が楽しめる時代というのは、実に素晴らしい。

今のコロナ禍が収まり、またこんな風に、気兼ねなくノビノビと野球が出来る時が来るよう、私は切に願っている。

 

<1946(昭和21)年の世相…GHQが「戦犯」を公職追放⇒昭和天皇の行幸⇒超インフレが起こり、新円切り替えのために預貯金封鎖⇒「食糧メーデー」開催⇒「日本国憲法」公布>

 

 

 

それでは、ここで1946(昭和21)年の世相について、簡単にご紹介させて頂く。

まず、1946(昭和21)年1月4日に、GHQが太平洋戦争の「戦犯」を「公職追放」するという指令を出した。

当時、GHQは絶対的な権力を有しており、GHQの鶴の一声により、「戦犯」と見られた人物は、次々に「公職追放」の憂き目に遭った。

勿論、当時の日本で、この指令に逆らえる者など、誰も居なかった。

 

 

この年(1946年)の元旦に「人間宣言」を行なった昭和天皇は、

同年(1946年)2月から、全国へ「行幸」に赴き、戦災に苦しんでいた人々を励まし続けた。

昭和天皇は、人々に気さくに話しかけ、庶民と沢山、対話を重ねたが、

昭和天皇の口癖である「あ、そう」は、今で言う「流行語」になった。

これは、別に人々を冷たく切り捨てるというのではなく、むしろ、その逆である。

昭和天皇は、人々に色々な質問をして、その答えに対し、必ず「あ、そう」と、ニコニコ笑顔を浮かべながら答えていた。

このような昭和天皇の人間臭い姿を見て、戦時中とは違い、人々は昭和天皇へ親近感を持つようになって行った。

 

 

戦後、日本は混乱の極みにあったため、日本経済も、未曽有の超インフレに見舞われた。

そこで、日本政府は、超インフレの収束のため、強硬手段に出た。

1946(昭和21)年2月17日、日本政府は国民の預貯金を封鎖し、新円への切り替えを強行したのである。

強引なやり方だったが、いざとなったら問答無用で、このような措置を取るというのが、政府というものである。

これは、いつの時代でも起こり得る事だと思われるので、我々はその事を肝に銘じておかなければなるまい。

 

 

 

 

 

1946(昭和21)年5月19日、飯米獲得人民大会、所謂「食糧メーデー」のデモに、25万人が参加し、

「食糧メーデー」のデモ隊が、皇居前広場に押し寄せた。

当時は、食糧難が全く改善されず、人々は飢えに苦しんでいた。

そして、有効な対策を打てない政府に対し、業を煮やして、遂には、このような大規模なデモに発展したのである。

何しろ、食い物の恨みは恐ろしい。

そして、今のコロナ禍の時代、飲食店に対し、一斉に時短要請するというような「愚策」に走る政府(と、自治体)に対し(※あまつさえ、飲食店への全面的な休業要請も検討しているという)、苦しめられている人達は、そろそろ、こんな風に声を上げても良いのではないかと、私は思うのだが、いかがであろうか。

普段は羊のように大人しい(?)日本国民も、政府の愚策により、あんまり酷い目にばかり遭わされたら、黙ってはいないという事を、政府関係者は肝に銘じて頂きたい。

 

 

 

 

話を、1946(昭和21)年の世相に戻す。

1946(昭和21)年11月3日、「日本国憲法」が公布された。

これは、第9条で「戦争放棄」を謳った「平和憲法」として、概ね、当時の人々には歓迎されたようである。

何しろ、戦争が終わって間もない頃であり、人々の間には、根強い戦争アレルギーが有った。

従って、「戦争放棄」を謳う、理想的な憲法であると思われたが、実は、GHQとしては、日本が二度とアメリカに逆らわないようにするため、軍隊を持たせず、日本を骨抜きにしてしまおうという意図が有ったようである。

そして、「日本国憲法」が誕生して間もなく、その事情が一変するような事態が国際社会で起こるのである。

 

<1946(昭和21)年…作家・谷崎潤一郎、戦時中に書き溜めていた大作・『細雪』を発表>

 

 

 

 

戦時中は、政府や軍部が厳しい言論統制を行ない、

人々は、自由に物を言えない時代が、長く続いていた。

そんな「冬の時代」にあって、作家・谷崎潤一郎は、ひたすら、ある小説の執筆に没頭していた。

それが、大作『細雪』であり、この年(1946年)、『細雪』は満を持して刊行された。

戦時中、谷崎潤一郎は、ひたすた家に籠もり(※ステイホームして)、『細雪』を書き上げる事に集中し、

空襲に襲われた時は、その都度、『細雪』の原稿を持って、防空壕へと避難していたという。

そんな苦心の末に、遂に『細雪』は完成したが、こういう逆境の時でも、それをバネにして、こういう大作を書き上げるような人も居るわけである。

というわけで、コロナ禍の「ステイホーム」で、鬱々としている人も、これを機に、何かに打ち込んでみるのも、良いかもしれない。

 

(つづく)