紅白歌合戦と日本シリーズ③ ~1952/1953「第3回紅白歌合戦」と「巨人VS南海」~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1951(昭和26)年10月10日~17日の、「第2回日本ワールドシリーズ」は、巨人南海ホークスの対決となったが、

巨人が力の差を見せ付け、巨人が4勝1敗で南海を破り、巨人が初の「日本一」の座に就いた。

そして、翌1952(昭和27)年1月3日に開催され、NHKラジオで放送された「第2回NHK紅白歌合戦」は、「第1回」に続き、白組が優勝した。

 

 

そして、1952(昭和27)年の「第3回日本ワールドシリーズ」は、前年(1951年)に続き、2年連続で「巨人VS南海」の対決となり、翌1953(昭和28)年1月2日、「第3回NHK紅白歌合戦」がNHKラジオで放送された。

「紅白」の人気は、年々、鰻上りだったが、この時の「紅白」が、「お正月番組」としては最後の「紅白」となった。

というわけで、「第3回」の「日本シリーズ」と「紅白歌合戦」について、描かせて頂くが、まずは当時の世相について、ご覧頂こう。

 

<1950(昭和25)年…「警察予備隊」創設⇒1952(昭和27)年…「保安隊」創設~吉田茂首相「自衛のための戦力は合憲」と答弁>

 

 

1952(昭和27)年、吉田茂首相は、国会で「自衛のための戦力を持つ事は、合憲である」と答弁した。

日本隣の朝鮮半島で「朝鮮戦争」が続いており、更に、中国やソ連という脅威も有った。

そうなると、いくらアメリカの後ろ盾が有り、「平和主義」を唱えていたとしても、現実として存在する脅威から、国を守る必要が有ると、吉田首相も考えたようである。

 

 

1950(昭和25)年、吉田首相は「警察予備隊」を創設していたが、

1952(昭和27)年、「警察予備隊」は「保安隊」と改称された。

「保安隊」は、事実上、「自衛のための軍隊」のような組織であった。

「これは、憲法違反ではないのか?」

野党から、激しいツッコミが有ったが、吉田首相は「保安隊は、軍隊ではありません」と、あくまでも押し通した。

こうして、後の「自衛隊」の元となる「保安隊」が誕生したのが、この年(1952年)である。

 

<1952(昭和27)年5月1日…「血のメーデー事件」発生>

 

 

1952(昭和27)年5月1日の「メーデー」では、「サンフランシスコ平和(講和)条約」の「単独講和」(※アメリカを中心とした西側諸国のみと講和)への反対と、国会で「破防法」(破壊活動防止法)が審議されている事への反対を訴え、明治神宮外苑にデモ隊が集まっていたが、

そのデモ隊が、皇居前広場に押し掛け、暴徒と化してしまった。

そのため、デモ隊と警官隊が衝突し、死者2名、負傷者多数の大惨事となってしまった。

所謂「血のメーデー事件」であるが、このように、当時の世情は、騒然としていたのである。

 

<1952(昭和27)年4月…NHKラジオで、ラジオドラマ『君の名は』(脚本:菊田一夫)が放送開始~NHKの朝ドラ『エール』でも描かれ、「銭湯の女湯が空になった」という伝説のラジオドラマ>

 

 

 

 

さてさて、1952(昭和27)年といえば、日本の放送史上に残る、伝説的なラジオドラマが生まれた年である。

それが、菊田一夫が脚本を書いた、NHKのラジオドラマ『君の名は』である。

『君の名は』は、戦時中、東京大空襲の時に知り合った、後宮春樹氏家真知子いう男女の、すれ違いのラブロマンスを描いた作品であり、空前の大ヒットとなった。

 

 

 

この『君の名は』誕生については、NHKの朝ドラ『エール』でも描かれた、こんなエピソードが有る。

当初、菊田一夫は、『君の名は』を、複数の家族の群像劇として描く構想であり、春樹と真知子は、その中の1組の登場人物に過ぎなかった。

ところが、『君の名は』が放送開始されると、出演者の病気やら何やらで、キャストがなかなか揃わなかった。

『君の名は』は生放送なので、もしキャストが揃わないと、放送に穴を空ける事になってしまう。

菊田一夫は頭を抱えたが、春樹と真知子を演じる2人だけは、いつも元気で、毎回必ずスタジオに来ている、という事に目を付けた。

 

 

 

菊田一夫は決断した。

「こうなったら、『君の名は』は、春樹と真知子の2人だけの物語に絞ろう!!」

こうして、『君の名は』は、春樹と真知子のラブストーリーへと書き替えられたが、

この2人が出会ってしまうと、後の話が続かない。

「だったら、春樹と真知子は、何か知らないけど、なかなか会えないというストーリーにしよう!!」

という事で、春樹と真知子は、出会おうとしても、いつも何かの障害が起こり、なかなか出会えないという「すれ違い」のドラマになった。

さらに、菊田の脚本は、いつもギリギリであり、放送当日に脚本が出来る事など、ザラであった。

そして、脚本が出来たと同時に、音楽担当の古関裕而に、「作曲」をさせるのである。

「そんな無茶な…」

当初、古関裕而も頭を抱えたが、そんな事が毎回のように続き、古関裕而も、ハモンドオルガンを使い、BGMを即興で曲を作って行った。

 

 

 

こうして、毎回、綱渡りの内に『君の名は』の生放送は続いて行ったが、

やがて、『君の名は』の、春樹と真知子の「すれ違い」のドラマは、人々を熱狂させ、『君の名は』の放送時間である、毎週木曜20:30~21:00には、「銭湯の女湯が空になる」と言われた程の、空前の大ヒットを記録したのである。

『君の名は』は、社会現象となったが、生放送のラジオドラマという放送形態により、偶然、こんなメガヒット作品が誕生したというのは、非常に面白い。

 

<1952(昭和27)年のセ・リーグ…巨人が、2位・阪神、3位・名古屋の追撃を振り切り、2年連続優勝!!~シーズン中には、巨人は「球団通算1,000勝」も達成>

 

 

 

さて、『君の名は』が、世間の女性達を熱狂させていた年、1952(昭和27)年のプロ野球であるが、

セ・リーグは、水原茂監督率いる巨人が、2年連続優勝を飾った。

巨人は、相変わらず、投打に充実した布陣であり、他球団から図抜けた存在となっていた。

 

 

 

 

1952(昭和27)年の巨人打線は、

ウォーリー与那嶺(与那嶺要)-千葉茂-青田昇-川上哲治-南村不可止-宇野光雄-平井正明-広田順…

と続く、豪華メンバーだったが、この年(1952年)、巨人に加入した、ハワイ生まれの日系2世・広田順は、早くも正捕手の座を確保し、打撃でも守備でも、巨人をよく牽引し、水原監督の期待に応えた。

 

 

 

この年(1952年)の巨人の投手陣は、33勝13敗 防御率1.94で、最多勝とMVPを獲得した別所毅彦を中心として、

別所毅彦(33勝13敗 防御率1.94)、大友工(17勝8敗 防御率2.25)、藤本英雄(16勝6敗 防御率2.36)、松田清(13勝7敗 防御率3.17)という「4本柱」が、前年(1951年)に引き続き、健在であった。

別所は、完全に巨人の大エースとして君臨していた。

 

 

 

この年(1952年)8月8日、巨人は他球団に先駆け、史上初の「球団通算1,000勝」を達成している。

まさに「栄光の巨人軍」の強さを示す出来事だったが、このように投打共に充実した戦力で、終始、巨人は首位を走った。

そして、巨人は2位・阪神、3位・名古屋の追撃を振り切って、2年連続リーグ優勝を達成した。

こう言っては何だが、この頃の他球団は、巨人に勝てる要素は、殆んど無かったと言って良い。

 

<1952(昭和27)年のパ・リーグ…南海ホークスが、毎日オリオンズとの死闘を制し、南海が毎日に1ゲーム差を付け、2年連続優勝!!>

 

 

 

 

 

一方、1952(昭和27)年のパ・リーグは、鶴岡一人監督率いる南海ホークスと、湯浅禎夫監督⇒別当薫・代理監督(※何故、代理監督になったのかについては、後述する)率いる毎日オリオンズの死闘になったが、

最後は、南海が毎日を僅か1ゲーム差で振り切って、南海ホークスが2年連続リーグ優勝を達成した。

最終戦で、南海が大映スターズに敗れれば、南海と毎日が同率首位で並び、優勝決定戦(プレーオフ)になる可能性も有ったが、南海が6-1で大映を破り、辛うじて南海が優勝を決めた。

 

 

 

 

 

 

この年(1952年)の南海ホークス打線は、

蔭山和夫-木塚忠助-飯田徳治-堀井数男-笠原和夫-岡本伊佐美-黒田一博-筒井敬三…

と続くメンバーだったが、南海は、4年連続盗塁王の木塚忠助を中心とした機動力野球で相手をかき回し、打点王を獲得した飯田徳治が、キッチリ打って返す、というパターンが定着した。

そして、この年(1952年)から岡本伊佐美が台頭した事により、兼任監督の鶴岡一人監督は第一線を退き、控え選手に回ったが、

一塁・飯田徳治、二塁・岡本伊佐美、三塁・蔭山和夫、遊撃・木塚忠助という、南海ホークス自慢の「百万ドルの内野陣」が、遂に完成した。

 

 

 

南海の投手陣は、MVPと最優秀防御率を獲得した、大エース・柚木進を中心に、

柚木進(19勝7敗 防御率1.91)、服部武夫(16勝6敗 防御率2.60)、中原宏(11勝5敗 防御率2.82)、江藤正(11勝10敗 防御率3.35)、大神武俊(8勝5敗 防御率3.15)らが、お互いをカバーし合いながら、よく投げた。

こうして、南海は「守りの野球」で、リーグ連覇を飾り、2年連続で日本シリーズへと駒を進めた。

 

<1952(昭和27)年の西鉄ライオンズ①~三原脩監督が、中西太、大下弘の獲得に動く~中西・大下の加入で打線を強化~中西太は「新人王」を獲得!!>

 

 

 

さてさて、いつの日か、「打倒・巨人」を果たす事を目標として、西鉄ライオンズの三原脩監督は、チームの強化を図っていた。

その三原監督が、まず目を付けたのが、高松一高で甲子園に出場し、その豪打ぶりで「怪童」と称されていた、中西太であった。

甲子園で大活躍した中西太の元には、プロ野球の各球団のスカウトが殺到し、激しい獲得合戦が繰り広げられた。

 

 

しかし、実は当時、中西太は大学進学を希望しており、早稲田大学に進学するつもりだったという。

そこで、早稲田OBの三原脩は、直接、中西家を訪れ、本人と色々と話し、アドバイスなどをしたが、

結局、三原は中西を口説き落とし、中西太を西鉄に入団させる事に成功した。

この時、中西は三原監督という人物に魅力を感じ、西鉄入団を決めたという。

 

 

一方、セネタース⇒東急フライヤーズのスーパースター・大下弘は、この頃、球団と金銭トラブルで揉めており、

大下は、東急という球団とは、すっかり険悪な関係になっていた。

この頃、大下の母親はヒロポン中毒に苦しんでおり、その治療費のために、大下は球団から莫大な金を前借りしていたのである。

大下は、すっかりやる気を無くし、何処かに姿をくらまし、一時は「行方不明」になっていた。

 

 

 

西鉄の三原監督は、この大下弘に目を付け、

西鉄の主力・緒方俊明投手、深見安博選手と、大下弘との「1対2」の交換トレードを成立させた。

西鉄が大下の借金を肩代わりするという条件も付け、三原監督は大下を獲得したが、

三原監督としては、どうしても打線に核が必要であり、そのためには大下の獲得が不可欠であると判断したのである。

 

 

こうして、西鉄は中西太、大下弘という「大物」を2人も獲得する事に成功したが、

大下弘は西鉄の不動の4番打者に座り、中西太も打率.281 12本塁打 65打点で「新人王」を獲得した。

この年(1952年)、西鉄は3位に終わったが、三原監督のチーム強化計画は、着々と進行していた。

 

<1952(昭和27)年の西鉄ライオンズ②~1952(昭和27)年7月16日「平和台事件」が勃発~毎日の「遅延行為」に西鉄ファンが激怒し、暴徒と化す~責任を取り、毎日・湯浅監督は退陣>

 

 

 

この年(1952年)の西鉄ライオンズといえば、球史に残る大事件も有った。

それが、1952(昭和27)年7月16日に勃発した「平和台事件」である。

この日、西鉄の本拠地・平和台球場で西鉄-毎日戦が行われたが、当時の平和台球場にはナイター設備が無かった。

おまけに、当日は天候も悪く、試合開始は定刻よりも約2時間遅れで、16:55となったのだが、この試合は西鉄が優位に試合を進めていた。

そこで、毎日は「ノーゲーム」を狙い、わざとダラダラと試合を進める「遅延行為」に出て、試合進行を妨害した。

 

 

 

これが功を奏して(?)、西鉄が9-4とリードしていたにも関わらず、4回終了時点で日没となり、審判団は「ノーゲーム」を宣告した。

すると、激怒した西鉄ファンが毎日のベンチに殺到し、湯浅監督をはじめ、毎日の選手達を監禁する事態になった。

この事態に、警官隊が出動したが、西鉄ファンは「毎日が謝罪するまで解散しない!!」と、怒りは収まらなかった。

その後、毎日の選手達は、警官隊に守られ、漸く平和台球場から退散したが、毎日の宿舎にも西鉄ファンは殺到していたという。

これが、所謂「平和台事件」であるが、「血のメーデー事件」も真っ青の大事件であり、九州の西鉄ファンの熱さ、恐ろしさを、世に知らしめた事件であった。

なお、この騒動の責任を取り、毎日の湯浅監督は退陣し、別当薫が代理監督を務める事となった。

 

<1952(昭和27)年10月11日~18日…「巨人VS南海」の「第3回日本ワールドシリーズ」は、巨人が4勝2敗で南海を破り、巨人が「2年連続日本一」達成!!>

 

 

 

 

こうして、1952(昭和27)年の「第3回日本ワールドシリーズ」は、前年(1951年)に続き、

2年連続で「巨人VS南海」の対決となったが、連覇を目指す巨人と、前年の雪辱に燃える南海が、激闘を繰り広げた。

 

 

 

 

1952(昭和27)年10月11日、後楽園球場で第1戦が開催され、

巨人・別所毅彦、南海・大神武俊の両投手が先発したが、南海は10月9日にリーグ優勝を決めてから、僅か「中1日」であり、

リーグ最終戦で完投勝利を挙げたエース・柚木進は登板出来なかった。

そのため、南海・鶴岡監督は大神武俊を先発に抜擢したが、大神は巨人打線に捕まり、3回までに3点を失い、役割を果たせなかった。

南海は4回表に一挙3点を取り、一時は3-3の同点に追い付いたが、4回裏、巨人はすぐに3点を取り、6-3とリードした。

結局、巨人は別所が完投勝利を挙げ、巨人が6-3で南海を破り、先勝した。

 

 

 

 

翌10月12日、後楽園球場で第2戦が行われた。

巨人・藤本英雄、南海・中原宏の両先発で始まったが、

巨人打線が大爆発し、巨人が11-0で南海に大勝し、巨人が連勝スタートとなった。

巨人の藤本英雄は、自らホームランを放つと、投げても4安打完封勝利という、投打にわたる大活躍であった。

一方、南海は、為す術無く連敗を喫してしまった。

 

 

 

 

 

10月14日、舞台を大阪球場に移し、第3戦が行われた。

南海・柚木進、巨人・大友工の両先発で始まったが、南海は堀井数男が先制打を含む3打点の大活躍で、

投げても、エース・柚木進が巨人打線を6安打無失点に封じ、完封勝利を挙げ、南海が4-0で巨人を破った。

これで、対戦成績は南海の1勝2敗となった。

 

 

 

 

10月15日、大阪球場で第4戦が行われたが、

南海・服部武夫、巨人・別所毅彦という両先発で始まった試合は、

巨人が終始優位に試合を進め、巨人が6-2で南海を破った。

別所は、このシリーズ2度目の完投勝利であり、これで巨人は3勝1敗と、「日本一」に「王手」をかけた。

 

 

 

10月16日、大阪球場での第5戦は、南海・江藤正、巨人・藤本英雄という両先発で始まった。

後が無くなった南海は、1-1の同点で迎えた3回裏、藤本を攻め立て、一挙3点を取り、南海が4-1とリードした。

投げては、南海・江藤正が1失点完投勝利で、南海が4-1で巨人を破り、これで南海は対戦成績を2勝3敗とした。

 

 

 

10月18日、舞台は再び後楽園球場に戻った。

巨人・水原監督は、第4戦でKOされてしまった藤本英雄を、敢えて連投させた。

一方、南海・鶴岡監督はエース・柚木進を先発のマウンドに送った。

1回表、南海は藤本の立ち上がりを攻め、森下正夫がレフトへ先制の2ランホームランを放った。

 

 

 

 

しかし、0-2とリードされた巨人は、5回裏1死、藤本英雄が二塁打を放つと、

続く与那嶺要が四球を選び、1死1・2塁となった所で、千葉茂が右中間を破り、値千金の同点2点タイムリーを放ち、巨人が2-2の同点に追い付いた。

「ライト打ちの名人」千葉茂の面目躍如の一打であった。

 

 

2-2の同点に追い付いた6回表から、水原監督は投手を藤本からエース・別所に交代した。

本来、別所は第7戦の登板予定だったが、同点に追い付いた所で、「勝負師」水原監督は、遂に勝負をかけたのである。

すると、2-2の同点で迎えた6回裏、南海・柚木進は2死3塁から暴投で3塁ランナーを返してしまい、遂に巨人が3-2と1点をリードした。

 

 

 

 

結局、試合はそのまま巨人が3-2で南海を破り、巨人が4勝2敗で南海を制し、巨人が「2年連続日本一」を達成した。

別所毅彦は、第6戦も最後までリードを守り切り、シリーズ3勝を挙げ、別所は文句無しにシリーズMVPを獲得した。

ウォーリー与那嶺は、シリーズ最高打率を挙げる大活躍で、打線を牽引した。

一方、南海は健闘空しく敗れてしまい、2年連続で巨人に軍門に下ったのであった。

 

<1953(昭和28)年1月2日…「第3回NHK紅白歌合戦」開催!!~「お正月番組」としては最後の「紅白」であり、「テレビ時代」幕開け直前の「紅白」>

 

 

 

巨人と南海の激闘が終わった後、年が明けた1953(昭和28)年1月2日、

恒例の「お正月番組」となっていた、「第3回NHK紅白歌合戦」が開催された。

というわけで、「第3回NHK紅白歌合戦」の出場者は、下記の通りである。

 

<紅組>

暁テル子(3)『東京シューシャイン・ボーイ』

荒井恵子(初)『ポカピカパカ』

池真理子(2)『祇園ブギ』

乙羽信子(初)『初恋椿』

笠置シヅ子(2)『ホームラン・ブギ』

菊池章子(2)『母の瞳』

久慈あさみ(初)『ボタンとリボン』

月丘夢路(初)『新雪』

奈良光枝(初)『白樺の宿』

平野愛子(2)『恋ひとたび』

二葉あき子(2)『パダム・パダム』

松島詩子(2)『マロニエの木蔭』

 

<白組>

伊藤久男(2)『オロチョンの火祭り』

近江俊郎(2)『湯の町月夜』

岡本敦郎(2)『青春のファンタジア』

霧島昇(2)『月が出た出た』

高英男(初)『ロマンス』

竹山逸郎(2)『心の旅路』

津村謙(2)『東京の椿姫』

鶴田六郎(3)『長崎の精霊祭り』

ディック・ミネ(初)『キッス・オブ・ファイヤー』

灰田勝彦(2)『野球小僧』

林伊佐緒(2)『ダイナ・ブルー』

藤山一郎(3)『東京ラプソディー』

 

 

 

第3回「紅白」の、紅組の司会は本田寿賀、白組は宮田輝という、共にNHKのアナウンサーが務めた。

当時の「紅白」はラジオ中継だったのだが、とにかく熱気が凄まじく、現在どのような状況になっているのかが、伝わりにくかった。

そこで、紅白両軍の司会に加え、「実況担当」として、スポーツ実況でお馴染みの志村正順アナウンサーが、「紅白」全体の実況を行なった。

今でいう、「総合司会」のような役割だったと思われる。

 

 

そして、この時、NHKではテレビ局の開局が間近に迫っていた。

1953(昭和28)年2月1日、NHKはテレビ放送を開始するので、この時の「紅白」は、「テレビ時代」の開幕前夜にあたる。

そこで、第3回「紅白」では、試験的にテレビカメラも置かれ、来たるテレビ中継開始に備えた「仮放送」も試みられている。

 

 

そして、「紅白」は大きな曲がり角を迎えていた。

年々、「紅白」の人気が上がり、番組観覧希望者は、どんどん増える一方であった。

しかし、大きな会場は、お正月は何処も埋まっており、確保出来ない。

そこで、「紅白」は、テレビ放送開始を機に、次回(第4回)からは「大晦日」に行われる事になったのである。

という事で、第3回「紅白」は、「お正月番組」としては最後の「紅白」になった。

なお、第3回「紅白」は、後に長らく司会を務める宮田輝アナウンサーが白組司会であり、白組には伊藤久男、ディック・ミネ、近江俊郎、霧島昇、藤山一郎らの人気歌手が、ズラリと顔を揃えていた。

 

 

 

一方、紅組のメンバーも、大変華やかだった。

宝塚歌劇団のトップスターだった月丘夢路をはじめ、菊池章子・乙羽信子・平野愛子・池真理子・松島詩子・奈良光枝・暁テル子・久慈あさみ・荒井恵子らの人気スター、人気歌手が紅組に勢揃いし、番組に華を添えた。

 

 

 

 

第3回「紅白」で注目すべきは、「野球ソング」が2曲も登場した事であろう。

紅組で出場した「ブギの女王」笠置シヅ子は『ホームラン・ブギ』を歌ったが、

この曲は、はるか後年、吉田拓郎によって『ホームラン・ブギ 2003』としてカバーされ、フジテレビのプロ野球中継の主題歌にもなったので、ご存知の方も多いと思われる。

 

 

 

 

また、白組で出場した灰田勝彦は、自らも出演した映画『歌う野球小僧』の主題歌だった、『野球小僧』を歌った。

『野球小僧』は、作詞:佐伯孝夫、作曲:佐々木俊一、唄:灰田勝彦というメンバーで製作されたが、

このトリオは、1952(昭和27)年に、更に重要な曲をリリースしている。

 

 

 

それが、南海ホークスの球団歌として、長く歌われた『南海ホークスの歌』である。

この曲は、今でも、福岡ソフトバンクホークスが、南海の復刻ユニフォームで試合をする時に歌われているが、

結局、第3回「紅白」は、灰田勝彦と南海ホークスのお陰でもあるまいが、白組が優勝し、これで白組が第1回から3年連続優勝となった。

という事で、「ラジオの時代」の「紅白」に替わり、いよいよ「テレビの時代」の「紅白」が、幕を開けようとしていた。

 

(つづく)