【備忘録】2020/12/5…「プロ野球優勝シリーズ」と今後の構想について(後編) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

前回の記事では、私が現在、このブログの「プロ野球優勝シリーズ」について、ご紹介したが、

まだ全てはご紹介出来ていなかったため、今回も、引き続き、「プロ野球優勝シリーズ」について、書かせて頂く。

前回も書いたが、私は今年(2020年)の9~11月にかけて、「日付に合わせて、プロ野球の優勝にまつわる記事を書こう!!」と決意し、

それこそ、毎日のように、「今日は何の日?」と題して、プロ野球の各球団の優勝についての記事を書いて来たが、書きかけの記事が多いので、ここで一旦、それらを、日付順にまとめさせて頂く事とした。

 

 

前回は、「プロ野球優勝シリーズ」のご紹介の「前編」として、

『2006/10/10…落合中日ドラゴンズ、2年振り優勝』までをご紹介したので、

今回の「後編」は、その続きからである。

それでは、早速ご覧頂こう。

 

<1974/10/12…中日ドラゴンズ、20年振り優勝「第①話」>(未完)

 

 

1974(昭和49)年10月12日、ウォーリー与那嶺監督率いる中日ドラゴンズが20年振り優勝を達成し、

中日は、巨人の「V10」を阻止したのだが、その中日20年振り優勝について、

私は、『1974/10/12…中日ドラゴンズ、20年振り優勝』というタイトルで、記事を書いた。

この記事では、1954(昭和29)年の中日ドラゴンズ初の日本一から書き始めており、

今後は、そこから、1974(昭和49)年に中日が20年振りに優勝を達成するまでの道のりを描いて行く予定である。

 

<1989/10/12…西武VS近鉄「10.12」決戦、ブライアント4連発>(完結)

 

 

1989(平成元)年のパ・リーグは、西武、近鉄、オリックスの3球団が、終盤まで「三つ巴」で激しい優勝争いを繰り広げたが、その最終盤、1989(平成元)年10月12日の、西武-近鉄のダブルヘッダーは、パ・リーグ優勝をかけた「天王山」となった。

その「10.12」決戦で、近鉄のブライアントが2試合に跨って、奇跡の「4打数連続ホームラン」を放ち、近鉄が西武を粉砕したが、

その「10.12」決戦を描いたのが、『1989/10/12…西武VS近鉄「10.12」決戦、ブライアント4連発』という記事である。

この記事は「読み切り」であり、既に「完結」しているが、前年(1988年)の近鉄の「10.19の悲劇」から始まる、近鉄バファローズの2年越しのドラマの、壮大な「完結編」でもある(※1989(平成元)年のパ・リーグのペナントレースについては、別途、詳述したいと思っている)。

なお、後述するが、私は昨年(2019年)、その「10.19」決戦についても詳しく書いているので、宜しければ、そちらもお読み頂きたい。

 

<1974/10/14…長嶋茂雄の引退試合~1974年の長嶋茂雄と桑田佳祐>(完結)

 

 

1974(昭和49)年10月14日、「ミスター・ジャイアンツ」と称されたスーパースター・長嶋茂雄が引退試合を行なった。

長嶋茂雄は、「我が巨人軍は、永久に不滅です!」という名台詞を残し、現役を引退したが、

この長嶋の引退試合を、テレビで見ていたのが、当時、青山学院大学の1年生だった、桑田佳祐である。

 

 

 

後年、サザンオールスターズを率いてデビューし、国民的スーパースターになった桑田佳祐であるが、

当時の桑田佳祐は、一介の学生であり、眩しすぎる長嶋茂雄という存在と、自らを比べて、鬱々とした心境だったようである。

桑田は、その心象風景を、後年、サザンの『栄光の男』という曲に結実させたが、

その1974(昭和49)年の長嶋茂雄桑田佳祐について描いたのが、

『1974/10/14…長嶋茂雄の引退試合~1974年の長嶋茂雄と桑田佳祐』という記事である。

この記事は、厳密に言えば「プロ野球優勝シリーズ」からは、ちょっと外れるが、私の中では、「プロ野球優勝シリーズ」の一環のつもりで書かせて頂いた。

なお、この記事は「読み切り」で、既に「完結」している。

 

<1975/10/15…広島初優勝~1975年のカープと桑田佳祐と原由子(前編)>(未完)

 

 

1975(昭和50)年10月15日、広島東洋カープが、球団創立26年目にして、悲願の初優勝を達成した。

この日、「マジック1」で後楽園球場に乗り込んだ広島は、4-0で巨人を破り、

広島の古葉竹識監督が、敵地・後楽園球場で、選手とファンが一体になった胴上げを受け、宙を舞った。

 

 

この1975(昭和50)年は、当時、青山学院大学の2年生だった桑田佳祐と、

この年(1975年)に桑田の1年後輩として青山学院大学に入学した原由子が、「運命の出会い」を果たした年でもある。

という事で、前述の『1974/10/14…長嶋茂雄の引退試合~1974年の長嶋茂雄と桑田佳祐』「続編」として、今回の記事は『1975/10/15…広島初優勝~1975年のカープと桑田佳祐と原由子』と題して、

1975(昭和50)年の広島東洋カープの初優勝までの道のりと、桑田佳祐原由子「出会い」について、描いて行く予定である。

現在は、「前編」として、1975(昭和50)年のシーズン開幕の頃と、ちょうどその頃、桑田佳祐原由子が出会った所までを描いている。

 

<1976/10/16…長嶋巨人、前年最下位からの栄光の「V1」(予告編)>(未完)

 

 

1976(昭和51)年10月16日、前年(1975年)に、球団史上初の「最下位」という屈辱にまみれた、長嶋茂雄監督率いる巨人が、見事に前年最下位からの優勝を達成した。

しかも、前年(1975年)10月15日に、巨人の本拠地・後楽園球場で、目の前で広島に優勝を決められたという屈辱に対し、

この年(1976年)の長嶋巨人は、広島の本拠地・広島市民球場で優勝を決めるという、これ以上ない、痛快な「リベンジ」であった。

なお、1974(昭和49)~1976(昭和51)年の3年間、いずれも近い日付で、長嶋茂雄に関する、重要な出来事が立て続けに起こった。

 

・1974/10/14 長嶋茂雄、現役引退

・1975/10/15 長嶋巨人、後楽園で広島初優勝の引き立て役に

・1975/10/16 長嶋巨人、広島市民球場で「V1」達成

 

従って、「10/14」「10/15」「10/16」は、いずれも、長嶋茂雄にとっては重要な節目という事になる。

偶然とはいえ、これは非常に興味深い。

 

 

なお、この年(1976年)は、桑田佳祐青山学院大学で組んでいた学生バンドが、

初めて「サザンオールスターズ」を名乗り、当時、サザンがライブで歌う「最古の映像」が残っている年であるが、私は、前述の『1974/10/14…長嶋茂雄の引退試合~1974年の長嶋茂雄と桑田佳祐』、『1975/10/15…広島初優勝~1975年のカープと桑田佳祐と原由子』と合わせ、今回の『1976/10/16…長嶋巨人、前年最下位からの栄光の「V1」』も、その「続編」として位置付け、一続きの「物語」にして行こうと思っている。

現在、『1976/10/16…長嶋巨人、前年最下位からの栄光の「V1」』「予告編」であり、まだ全然書けていないが、1976(昭和51)年の長嶋巨人の「V1」と、サザンオールスターズ登場の年について、描いて行く予定である。

 

<1985/10/16…阪神タイガース21年振り優勝>(未完)

 

 

1985(昭和60)年10月16日、吉田義男監督率いる阪神タイガースが、21年振り優勝を達成した。

従って、「10/16」という日付は、阪神ファンにとっても、忘れ難い重要な日付である。

私は、昨年(2019年)10/16に、『1985/10/16…阪神タイガース21年振り優勝』というタイトルで記事を書いたが、

この時は、記事をゆっくり書く時間が無く、全然書けていないのだが(※だから、この記事の内容は非常に薄い)、

今後、1985(昭和60)年の阪神優勝についても、詳しく書いて行く予定である。

私の構想としては、阪神が1964(昭和39)年に優勝した所からの、苦難の21年間を描いて行こうと思っている。

 

<1982/10/18…中日ドラゴンズ、8年振り優勝(前編)>(未完)

 

 

1982(昭和57)年10月18日、近藤貞雄監督率いる中日ドラゴンズが、8年振り優勝を達成した。

この1982(昭和57)年の中日優勝に関しては、『1982/10/18…中日ドラゴンズ、8年振り優勝』というタイトルで、

1974(昭和49)年の中日20年振り優勝から書き始め、現在は1977(昭和52)年にウォーリー与那嶺監督が退任する所までを「前編」として描いている。

なお、お気付きの通りというか、これまでご紹介して来た、中日の何度かの優勝までの道のりを完結させれば、ちょうど「中日ドラゴンズ球団史」を「通史」として描く事も出来るので、是非とも「完結」させたいと思っている。

 

<1988/10/19①~⑥…「10.19」決戦>(完結)

 

 

1988(昭和63)年のパ・リーグのペナントレースは、

当時、絶対王者に君臨していた西武ライオンズと、西武に食らい付く近鉄バファローズが、激しい優勝争いを繰り広げ、

1988(昭和63)年10月19日、シーズン最終戦の、川崎球場のロッテ-近鉄のダブルヘッダーで、近鉄が連勝すれば近鉄優勝、

近鉄が1つでも敗れるか引き分けであれば、先に全日程を終了していた西武優勝という、重大な局面を迎えていた。

その伝説の「10.19」決戦について、昨年(2019年)の10/19から、私は6回シリーズで、

『1988/10/19①~⑥…「10.19」決戦』として、1988(昭和63)年のペナントレースから、「10.19」に至るまで描かせて頂いた。

既に「完結」しているが、いつかは「10.19」決戦について書きたいと思っておたので、この記事を書き上げる事が出来て、非常に良かったと思っている。

 

<1958/10/21…西鉄ライオンズ3連覇~三原脩VS水原茂の物語① ~序章~>(未完)

 

 

1958(昭和33)年10月21日、三原脩監督率いる西鉄ライオンズが、宿敵・水原茂監督率いる巨人を、3年連続で日本シリーズで破り、

西鉄ライオンズが、3年連続日本一を達成し、「西鉄ライオンズ黄金時代」を実現させた。

私は、「三原脩VS水原茂」という、球史に残るライバル対決に、非常に興味が有るのだが、

今回は、『1958/10/21…西鉄ライオンズ3連覇~三原脩VS水原茂の物語』として、三原脩水原茂の生涯をかけた対決を描いて行こうとしている。

現在は、まだ「序章」であるが、「三原脩VS水原茂」の物語も、是非とも完結させたいと思っている次第である。

 

<1980/10/21…長嶋茂雄監督(巨人)、「解任」~第1期長嶋巨人>(未完)

 

 

1980(昭和55)年10月21日、巨人を率いて6年目の長嶋茂雄監督が、突如「解任」され、世間は大騒ぎとなった。

表向きは、長嶋監督は「辞任」と発表されたが、これは事実上の「解任」であった。

という事で、私は『1980/10/21…長嶋茂雄監督(巨人)、「解任」~第1期長嶋巨人』と題して、

1975(昭和50)~1980(昭和55)年の、「第1期長嶋巨人」の6年間を描いて行こうとしているが、

現在は、その第1回として、1975(昭和50)年に、長嶋巨人が球団史上初の「最下位」に沈んだ、苦闘のシーズンを描いた。

今後、「第1期長嶋巨人」を通して描き、後の「第2期長嶋巨人」の時代と合わせ、「長嶋巨人」を振り返ろうというのが、この記事の趣旨である。

 

<1973/10/22…阪神VS巨人の最終V決戦(前編)>(未完)

 

 

1973(昭和48)年10月22日、甲子園球場の阪神-巨人戦は、

プロ野球史上初めて、「最終戦で勝った方が優勝」という、「最終V決戦」となったが、

巨人が9-0で阪神に大勝し、巨人がアッサリと「V9」を達成した。

この不甲斐ない阪神の惨敗に対し、甲子園を埋め尽くした阪神ファンが激怒し、

その阪神ファン達が試合終了と同時にグラウンドに雪崩れ込み、巨人ベンチを「襲撃」するという「惨事」が起こった。

私は、『1973/10/22…阪神VS巨人の最終V決戦』と題して、この1973(昭和48)年のセ・リーグのペナントレースを描き、

阪神と巨人が、どのようにして、この「最終V決戦」に至ったのか、その道のりを書こうとしている。

現在は「前編」として、1973(昭和48)年のセ・リーグのペナントレースの6月終了時点までを描いているが、

この後、セ・リーグは空前の大混戦となって、終盤に向かって行くので、その大混戦について描いて行きたい。

 

<1973/10/24…南海ホークス最後の優勝(前編)>(未完)

 

 

1973(昭和48)年、「監督・4番・捕手」の重責を1人で担った、野村克也監督率いる南海ホークスが、プレーオフで阪急ブレーブスを3勝2敗で破り、南海ホークスが7年振り優勝を達成した。

所謂「南海ホークス最後の優勝」であるが、今回は『1973/10/24…南海ホークス最後の優勝』として、この南海優勝を描いている。

現在は、1970(昭和45)年に野村克也南海ホークスの監督に就任し、野村がサッチー(沙知代)と運命の出会いを果たした所までを「前編」として描いている。

今後、若き野村監督が、如何にして南海ホークスを優勝に導いたのかを、描いて行きたい。

 

<1998/10/26…横浜ベイスターズ、38年振り日本一 ~あれから22年…>(完結)

 

 

1998(平成10)年10月26日、権藤博監督率いる横浜ベイスターズが、38年振り日本一を達成した。

この日(1998/10/26)、私は横浜スタジアムに居り、横浜ベイスターズ38年振り日本一の瞬間を、この目で見たのだが、

当時の思い出について、『1998/10/26…横浜ベイスターズ、38年振り日本一 ~あれから22年…』というタイトルで描いた。

なお、この記事は「読み切り」であり、既に「完結」している。

 

<1959/10/29…南海ホークス、初の日本一>(未完)

 

 

1959(昭和34)年10月29日、鶴岡一人監督率いる南海ホークスが、巨人を4勝0敗で破り、悲願の「日本一」を達成した。

私は、このブログで、野村克也についての記事を沢山書いているが、野村克也は、南海時代に鶴岡一人監督と非常に折り合いが悪く、野村は、いつも鶴岡監督の悪口ばかり言っていた。

従って、このブログでも、野村の視点に立った記事を書くと、どうしても鶴岡一人に対する評価が辛くなってしまいがちなので、

今回は、『1959/10/29…南海ホークス、初の日本一』と題して、鶴岡一人という人物にスポットを当て、鶴岡監督が、南海ホークス黄金時代を築き上げる過程を描かせて頂く事とした。

現在は、第1回として、鶴岡一人戦後、南海に復帰し、1946(昭和21)年、1948(昭和23)年に南海を2度優勝させた所までを描いた。

今後、鶴岡南海の黄金時代と、南海が悲願の「打倒・巨人」を果たす所までを描いて行く予定である。

 

<2007/11/1…落合中日、53年振り日本一>(未完)

 

 

2007(平成9)年11月1日、落合博満監督率いる中日ドラゴンズが、53年振り日本一を達成した。

中日ドラゴンズは、1954(昭和29)年に日本一になって以来、実に53年間も日本一から遠ざかっていたのであるが、

2007(平成19)年は、中日はシーズン2位に終わったものの、CS(クライマックスシリーズ)を勝ち上がり、更に、日本シリーズでは、中日は日本ハムを4勝1敗で破り、遂に日本一の座に就いた。

という事で、今回は『2007/11/1…落合中日、53年振り日本一』と題した記事を書いたが、この記事では、中日ドラゴンズの、歴代の日本シリーズでの戦いぶりを描いて行く予定である。

現在は、第1回として、1974(昭和49)年の「ロッテオリオンズ-中日ドラゴンズ」の日本シリーズについて描いているが、

次回以降も、中日の日本シリーズでの熱闘を振り返って行く事としたい。

 

<1976/11/2…阪急ブレーブス、長嶋巨人を倒し日本一(前編)>(未完)

 

 

1976(昭和51)年11月2日、上田利治監督率いる阪急ブレーブスが、日本シリーズで、長嶋茂雄監督率いる巨人との激闘を4勝3敗で制し、阪急ブレーブスが、悲願の「打倒・巨人」を果たし、阪急が2年連続日本一を達成した。

この阪急日本一について、『1976/11/2…阪急ブレーブス、長嶋巨人を倒し日本一』という記事を書かせて頂いたが、

これは『1967/10/1…阪急ブレーブス、球団創立32年目の初優勝』という記事の「続編」である。

今回の記事では、現在、「前編」として、1967(昭和42)~1969(昭和44)年に、阪急ブレーブスがパ・リーグ3連覇を達成しながら、3年連続で、日本シリーズで巨人に敗れた所までを描いた。

今後、阪急ブレーブスが如何にして、悲願の「打倒・巨人」を成し遂げるかについて、描いて行きたい。

 

<2013/11/3…楽天イーグルス、初の日本一 ~楽天と田中将大の物語>(未完)

 

 

2013(平成25)年11月3日、星野仙一監督率いる、東北楽天ゴールデンイーグルスが、日本シリーズで原辰徳監督率いる巨人を4勝3敗で破り、楽天が球団創立以来初の日本一を達成した。

今回は、『2013/11/3…楽天イーグルス、初の日本一 ~楽天と田中将大の物語』と題して、楽天の日本一までの道のりを描いているが、現在は、その第1回として、2004(平成16)年の「球界再編騒動」を経て、楽天が球界に参入した所までを描いている。

なお、楽天日本一の最大の立役者、田中将大投手の軌跡も、併せて描いて行く予定である。

それにしても、「プロ野球優勝シリーズ」における、星野仙一監督の登場率の高さは、物凄い。

星野監督は、中日、阪神、楽天の3球団を優勝に導いたのだから、やはり素晴らしい「名将」であった。

 

<1979/11/4…「江夏の21球」①~⑤>(完結)

 

 

 

昨年(2019年)の11/4、私は、1979(昭和54)年11月4日、3勝3敗で迎えた、「広島東洋カープ-近鉄バファローズ」の日本シリーズ第7戦、4-3と広島1点リードで迎えた9回裏の、広島・江夏豊投手の苦闘、所謂「江夏の21球」から、ちょうど40周年だった事を記念して、『1979/11/4…「江夏の21球」』という記事を書かせて頂いた。

この時期は、5回シリーズで、一応「完結」しているが、「江夏の21球」という、あまりにも有名過ぎる出来事を、私なりの視点で描いた、「私が描く『江夏の21球」』である。

という事で、「プロ野球優勝シリーズ」の一連の記事のご紹介は、一応ここまでとさせて頂くが、ここでご紹介したシリーズ記事以外にも、今後も、新たな記事を書くかもしれないので、今後とも、お読み頂ければ幸いである。