【今日は何の日?】1990/12/2…「日本人初宇宙へ」&「日本人また宇宙へ」!? | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

私は普段、アメブロの「今日は何の日?」スタンプを活用した記事というのを、殆んど活用していない。

毎回、気にはなっているのだが、アメブロの「今日は何の日?」スタンプを活用して記事にしたのは、数える程しか無い。

しかし、本日(12/2)は、非常に気になるスタプが有ったので、それを元に、記事を書かせて頂きたい。

それは、「日本人宇宙旅行記念日」のスタンプである。

 

 

そのスタンプを見て、私は、今から30年前の記憶が、ハッキリと蘇った。

「そうだ、今日(12/2)は、秋山さんが宇宙に行った日だ!!」

そう、今からちょうど30年前の、1990(平成2)年12月2日は、

当時、TBS記者だった秋山豊寛が、日本人宇宙飛行士として初めて、宇宙に行った日だったのである。

 

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当時、私は小学生だったが、秋山豊寛が宇宙に行った日、
TBSでの生中継の特番を、それこそ食い入るように見ていた記憶が有る。
その、秋山豊寛の宇宙旅行を完全生中継した、TBSの大型特番のタイトルは、
『日本人初!宇宙へ』というものであった。
まさに、TBSが社運をかけて放送していた大型プロジェクトだったのだが、
そもそも、何故、一介のTBS社員が、日本人初の宇宙飛行士に選ばれたのか、まずは、そこから振り返ってみる事としたい。
 
<TBSの海外特派員として、長年活躍して来た秋山豊寛~ワシントン支局長として、アメリカのレーガン大統領とも会見>
 
 
秋山豊寛(あきやま・とよひろ)は、1942(昭和17)年6月22日、東京都に生まれた。
攻玉社高校-国際基督教大学を経て、1966(昭和41)年、秋山はTBSに記者として入社した。
入社2年目から、秋山は海外特派員として、英国のBBCに出向すると、その後、長らく海外を拠点として、取材活動にあたった。
 
 
1984(昭和59)~1988(昭和63)年まで、秋山はTBSのワシントン支局長を務め、
当時のアメリカ大統領、ロナルド・レーガンとも面会を果たしている。
このように、秋山は「海外ジャーナリスト」として、輝かしい経歴が有ったが、
ずっと裏方を歩んでおり、テレビに顔を出す事も無かったので、一般的には無名に等しい存在であった。
では、その秋山が、一体何故、「日本人初の宇宙飛行士」となったのであろうか?
 
<当初は「日本人初の宇宙飛行士」の本命だったのは、毛利衛~しかし、1986(昭和61)年1月28日の「チャレンジャー号爆発事故」で、延期に…>
 
 
実は当初、「日本人初の宇宙飛行士」の本命だったのは、
1948(昭和23)年1月29日生まれの、毛利衛(もうり・まもる)であった。
毛利衛は、1983(昭和58)年に「宇宙開発事業団」が募集していた、
「日本人初の宇宙飛行士」のメンバー選考に応募し、1985(昭和60)年、毛利が見事にその栄冠を勝ち取った。
従って、当時は「日本人として、初めて宇宙に行くのは、毛利さんだろう」と、誰もが思っていた。
 
 
 
ところが、1986(昭和61)年1月28日、
アメリカのスペースシャトル「チャレンジャー号」が、7名の宇宙飛行士を乗せて、発射された直後、
空中で爆発事故を起こし、7名全員が亡くなるという、大惨事が起こってしまった。
この「チャンレンジャー号爆発事故」を受けて、毛利衛の宇宙行きの計画は、一旦、延期となった。
 
<1989(平成元)年3月…TBSが、ソ連に巨額の資金を支払い、「宇宙特派員」派遣の協定を締結!!~TBS社員の中から、秋山豊寛が「日本人初の宇宙飛行士」に選ばれる>
 
 
 
 
ここで、「日本人初の宇宙飛行士」を実現させるべく、割って入ったのが、TBSであった。
TBSは、ソ連(ソビエト連邦)に対し、1400万米ドル(約20億円)という、巨額の資金を支払い、
その結果、TBSとソ連は、「宇宙特派員」派遣に関する協定を締結した。
そして、TBS社員を、宇宙に送り込むという大プロジェクトが始動したが、その中から「宇宙特派員」に選ばれた人物こそ、
前述の秋山豊寛だったのである。
 
 
こうして、「宇宙特派員」に選ばれ、「日本人初の宇宙飛行士」になる事が決まった秋山豊寛は、
宇宙に旅立つまでの間、厳しい訓練を受け、宇宙で滞在するための準備を行なった。
その間、TBSのテレビカメラは秋山に密着し、長期間にわたりドキュメンタリーが放送され、TBSは前景気を煽った。
その間、秋山は淡々とした表情でインタビューに答えていたが、
良くも悪くも、あまり物事に動じない度胸というものが、秋山には有り、そこが、彼が宇宙飛行士に選ばれた最大の理由だったのかもしれない。
 
<1990(平成2)年12月2日…秋山豊寛、ソ連の宇宙船「ソユーズ」により、遂に宇宙へ旅立つ!!~TBSの超大型特番『日本人初!宇宙へ』で、完全生中継>
 
 
 
そして、長きにわたる厳しい訓練を終え、
1990(平成2)年12月2日、遂に秋山豊寛が宇宙に飛び立つ日がやって来た。
秋山は、ソ連の2人の宇宙飛行士2名と共に、ソ連の宇宙船「ソユーズ」へと乗り込んだが、
TBSは、秋山の宇宙への旅立ちを、『日本人初!宇宙へ』というタイトルで、完全生中継するという、超大型特番を組んだ。
「秋山さん、行ってらっしゃい!」
見送る、TBSのアナウンサー(※確か、戸崎貴広)からの呼び掛けに対し、
「行って来ます!」
秋山は、軽く手を振って、そう答え、「ソユーズ」の中に乗り込んで行った。
 
 
そし、秋山達が乗った「ソユーズ」は、
1990(平成2)年12月2日、午後5時13分、日本中の注目を集める中、遂に発射の時を迎えたが、
無事に打ち上げは成功し、テレビに噛り付いて見ていた、日本中の人達が拍手を送った。
当時は、あの「チャレンジャー号」の爆発事故から、まだそれほど年数は経っておらず、
私も冷や冷やしながらテレビを見ていたが、まずは無事に打ち上げが成功し、ホッとひと安心といった所であった。
なお、その間、テレビ視聴率は約40%に迫る勢いであり、非常に注目度は高かった。
 
<秋山豊寛の、宇宙からの第一声…「これ、本番ですか?」~あまりにもジャーナリストらしい一言!?>
 
 
 
その後、「ソユーズ」が地球を回る軌道に乗った時、
TBSの松永邦久アナウンサーが、「秋山さん、聞こえますか!?」と呼び掛けたが、
秋山豊寛が答えた、宇宙からの第一声は「これ、本番ですか?」というものであった。
実は当初、秋山は第一声について、色々と考えており、
「宇宙は混沌としています」
という台詞を言おうとしていたのだが、実際に宇宙に行ってみると、
別に宇宙は混沌とはしておらず、
おまけに、生中継に備えて、色々と準備している最中に、松永邦久アナウンサーからの呼び掛けが有ったため、
思わず、「これ、本番ですか?」と言ってしまったのだという。
それにしても、何ともジャーナリストらしい一言ではあった。
 
<1990(平成2)年12月10日…秋山豊寛、無事に地球に帰還~酷い「宇宙酔い」に苦しめられるも、9日間の宇宙滞在を全う>
 
 
 
その後、秋山は9日間にわたり、宇宙に滞在し、
様々な船内活動を行なったが、その間、秋山は酷い「宇宙酔い」に苦しめられていた。
厳しい訓練を経て来たとはいえ、秋山は、一介の記者に過ぎない。
そう考えると、何とも過酷な条件ではあったが、秋山は、何とか、この試練に耐え抜いた。
 
 
そして、1990(平成2)年12月10日、9日間の宇宙滞在を終え、
秋山豊寛は、無事に地球に帰還した。
勿論、秋山の帰還の様子も、TBSで生中継されたが、
TBSの社運をかけた大プロジェクトは、こうして大成功の内に幕を閉じたのである。
という事で、この秋山豊寛「宇宙旅行」は、私も子供心に強烈に印象に残っており、
確か、当時、通っていた小学校で、秋山について作文を書いたような記憶が有る。
「あれから、もう30年も経ってしまったのか!?」
というのが、今の率直な感想である。
 
<フジテレビ「とんねるずのみなさんのおかげです」で、秋山豊寛の宇宙旅行のパロディー・コント「日本人また宇宙へ」が放送!~あまりの完成度に大爆笑した私>
 
 
さて、秋山豊寛の、歴史的な「宇宙旅行」から程なくして、
当時のフジテレビの人気番組「とんねるずのみなさんのおかげです」で、
この秋山の「宇宙旅行」パロディーにした、大掛かりなコントが作られていた。
そのコントのタイトルは、「日本人また宇宙へ」である。
 
 
その「日本人また宇宙へ」の内容は、下記の通りである。
TBSに、宇宙飛行士の派遣という大プロジェクトを、先にやられてしまった、
フジテレビ「ダーイシ」(石田弘)プロデューサー(※演じるのは、石橋貴明)は、歯軋りしていた。
そして、彼はこんな企画を思い付いた。
「このまま引き下がっていられるか!!フジテレビも、ロケットで宇宙飛行士を送り出そう!!」
ダーイシ(※石橋貴明)のムチャクチャな要求に、フジテレビのスタッフ達は頭を抱えたが、
ダーイシは、会議室に来ていた、清掃員の秋川(※木梨憲武)という男が、
あの秋山豊寛にソックリである事に目を付け、
「ユー!名前は!?秋川っていうのか!!よし、決まりだ!!」
と言って、即座に秋川を宇宙飛行士に仕立て上げてしまった。
 
 
フジテレビは「日本人また宇宙へ」というタイトルで特番を組んだが、
ダーイシは、TBSに負けじと、秋川をすぐに宇宙へ送り出すのだと、メチャクチャな事を言っていた。
勿論、そんな短期間に、ただの一般人を宇宙に送り出せるわけも無いので、
ダーイシは、秋川宇宙に行った事にして、ロケットをセットで作り、そこを架空の宇宙空間にするという「デッチ上げ」を試みた。
おまけに、ダーイシ「TBSのロケットは、地球をグルグル回っただけだろ?だったら、フジテレビのロケットは月に行くんだよ!!」と、更に無茶な事を言った。
こうして、フジテレビは「宇宙特番」を「捏造」し、秋川が乗り込んだ(?)ロケットは無事に発射したが、
発射してすぐに、ダーイシ「おい、もう月に着いた事にしろ!!」と、スタッフに指示を出した。
「ええっ!?もうですか!?」
指示を受けたスタッフ達は慌てたが、
「バカヤロー!お前、フジテレビのロケットは速えーんだよ!!」
ダーイシは、そう言ったが、ダーイシの意向を受け、秋川が乗ったロケットは、あっという間に月に着いてしまった。
この辺りのやり取りを見て、既に本物の「日本人初!宇宙へ」を見ていた私は、見ていて大笑いしてしまった。
「よく、こんな設定を思い付くな」
と、私は、このコントのあまりの完成度の高さに爆笑すると同時に、感心していたが、当時のとんねるずは勢いが有り、何をやっても面白かったものである。
 
 
こうして、「日本人また宇宙へ」は無事に終わり、
ダーイシ「お疲れー!」と言って、月のセットに居た秋川と握手を交わした。
ダーイシ「捏造の宇宙特番」は大成功に終わった…かと思いきや、
何と、ダーイシ秋川が握手し、談笑している所で、
番組のスポンサーが表示される画面に、2人が映ってしまい、全ては露見してしまった…。
というようなオチで、このコントは終わった。
という事で、「日本人初!宇宙へ」も面白かったが、
私は「日本人また宇宙へ」も非常に印象深く、未だに鮮明に記憶に残っている。
そんなわけで、こんな馬鹿馬鹿しくも面白い設定のコントを、本気で作り込んでいた、あの頃のテレビのバラエティー番組は本当に面白かったものである。
 
<1992(平成4)年9月12日~20日…本当に「日本人また宇宙へ」行った、毛利衛~その後、多くの日本人宇宙飛行士が宇宙へ…~「初代・日本人宇宙飛行士」秋山豊寛は、今、何を思うのか…>
 
 
 
 
その後、1992(平成4)年9月12日~20日に、
あの本命の宇宙飛行士・毛利衛が、改めて、「日本人2人目」の宇宙飛行士として、宇宙へと飛びだった。
秋山豊寛に先を越された(?)とはいえ、毛利衛は、着実に宇宙飛行士としての訓練を重ね、
そして、無事に宇宙滞在のミッションを完了したが、
地球へと帰って来た毛利衛は、「宇宙から見た地球には、国境線は有りませんでした」という言葉を残している。
地球という、一つの星に住む人間同士、もっと仲良くしようという、彼なりのメッセージであった。
 
 
 
その後、多くの日本人宇宙飛行士達が宇宙へと旅立ち、
宇宙滞在のミッションを果たしているが、その宇宙飛行士達の最初の1人目こそ、あの秋山豊寛である。
「初代・日本人宇宙飛行士」という栄誉は、永久に秋山豊寛の物であり、彼は歴史にその名を残した。
 
 
その後、秋山はTBSを退職し、自らの宇宙旅行という貴重な体験を、講演などを通して人々に伝えたり、
農業に従事したり、京都造形芸術大学の教授を務めたりと、紆余曲折を経て、今は悠々自適の生活を送っているという。
あれから30年が経ち、秋山豊寛は、今、何を思うのであろうか。
彼の胸中はわからないが、私は、「日本人初の宇宙飛行士」秋山豊寛の事を、この先も忘れる事は無いであろう。