【今日は何の日?】1973/10/24…南海ホークス最後の優勝(前編)~青年監督・野村克也の就任 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(10/24)は、今から47年前の、1973(昭和48)年10月24日、

野村克也監督率いる南海ホークスが、プレーオフで阪急ブレーブスを3勝2敗で破り、

南海ホークスが7年振りのリーグ優勝を達成した日である。

 

 

当時、南海ホークスを率いていたのは、「選手兼任監督」で、

「4番・捕手・監督」という、一人3役の重責を担っていた、野村克也であったが、

その野村監督率いる南海ホークスの優勝には、様々なドラマが有った。

そして、結果としては、この1973(昭和48)年が、南海ホークス最後の優勝となってしまった。

というわけで、今回は1973(昭和48)年の南海優勝にスポットを当ててみる事とするが、

まずは、その「前編」として、このブログで何度も書いて来た事ではあるが、野村克也と、南海ホークスの大監督・鶴岡一人「確執」と、野村克也南海ホークス監督就任の経緯、そして野村監督の就任1年目、1970(昭和45)年の南海ホークスなどについて、描いてみる事としたい。

 

<1965(昭和40)年…南海ホークス不動の「4番・捕手」野村克也、戦後初の「三冠王」を達成!!>

 

 

 

 

1965(昭和40)年、南海ホークスの不動の「4番・捕手」野村克也は、

打率,320 42本塁打 110打点の成績を残し、戦後初の「三冠王」の快挙を達成した。

当時、野村克也といえば、王貞治(巨人)と共に、プロ野球を代表する強打者として、押しも押されもせぬ存在となっていたが、

「三冠王」の獲得により、野村克也は、選手としては、プロ野球の「頂点」に立ったと言っても過言ではなかった。

 

<1965(昭和40)年シーズンオフ…南海ホークスの鶴岡一人監督が「勇退」し、後任監督として蔭山和夫・ヘッドコーチが就任するが…⇒蔭山和夫・新監督の「急死」により、鶴岡一人が南海監督に「復帰」~しかし、ここで鶴岡一人と野村克也の「対立」が決定的に…?>

 

 

 

1965(昭和40)年シーズンオフ、1946(昭和21)年以来、20年間も南海ホークスを率いて来た、

大監督・鶴岡一人が、南海ホークスの監督を「勇退」する事が、突如、発表された。

そして、南海の後任監督として、蔭山和夫・ヘッドコーチが就任する事が発表されたが、

蔭山和夫は、あまりにも偉大だった鶴岡監督の後任を任されるという事に、物凄い重圧を感じていたようである。

ちなみに、蔭山和夫が、南海の中で、最も信頼し、仲が良かったのが、野村克也だったという。

そして、その蔭山に後を託した鶴岡は、東京オリオンズ、サンケイアトムズの両球団から、監督就任のオファーを受けており、今後の鶴岡の去就も注目されていた。

 

 

ところが、この後、事態は急変した。

1965(昭和40)年11月17日、南海監督に就任してから、僅か4日後に、蔭山和夫が、享年38歳で急死してしまったのである。

死因は「急性副腎皮質不全」と発表されたが、蔭山は、酷いプレッシャーに悩まされ、眠れぬ日々を過ごしていたという。

なお、蔭山が自宅で倒れ、意識を失う間際に、夫人に伝えた言葉は、

「ノム(※野村克也)に連絡してくれ」

だったという。

それだけ、蔭山は野村の事を信頼していたという事であろうが、蔭山の急死は、プロ野球界と世間に、衝撃を与えた。

 

 

この緊急事態に際して、杉浦忠、野村克也ら、当時の南海の主力選手達が、鶴岡の元を訪れ、

「どうか、南海の監督に復帰して下さい」

と、鶴岡の南海監督復帰を懇願したが、蔭山の急死にショックを受けていた鶴岡は、

精神的に錯乱していたのか、野村に対し、こんな事を言ってしまったという。

「何が三冠王じゃ!!南海に本当に貢献して来たのは、杉浦だけじゃ!!」

そんな酷い言葉を言われ、野村は大ショックを受け、深く傷付いた。

 

 

 

 

野村は、それまで、どんなに実績を残そうと、鶴岡監督からは常に厳しい態度で接せられており、

「自分は、鶴岡監督に疎まれている」

と思っていたが、それでも、心の何処かでは、監督としての鶴岡を尊敬する部分は有った。

しかし、こういう酷い事を言われ、野村は鶴岡という人から、完全に心が離れてしまった。そして、

「やはり、鶴岡監督が信頼し、可愛がっていたのは、杉浦だったのか…」

と、鶴岡監督の「本音」を聞いてしまった事も、大きな衝撃であった。

その後、鶴岡一人南海ホークスの監督に「復帰」したが、この事件以降、鶴岡一人野村克也は、不幸にも完全に「対立」してしまったのである。

 

<1966(昭和41)年…鶴岡一人監督、南海監督として「最後のリーグ優勝」>

 

 

そういう大騒動が有った後、鶴岡一人が再び南海ホークスの監督に「復帰」した年、

1966(昭和41)年に、南海ホークスは西鉄ライオンズとの優勝争いを制し、見事にリーグ優勝(リーグ3連覇)を達成した。

首位・南海は、2位・西鉄よりも一足早く、全日程を終了しており、最後は西鉄の「結果待ち」だったが、

西鉄が敗れた事により、南海優勝が決定し、地元・大阪球場で鶴岡監督の胴上げが行われた。

そして、結果として見れば、これが鶴岡監督にとっては、南海監督として「最後のリーグ優勝」となった。

(※日本シリーズは、1965(昭和40)~1966(昭和41)年、南海は2年連続で巨人に敗退)

 

<1967(昭和42)年は「4位」、1968(昭和43)年は「2位」で、鶴岡一人監督は遂に今度こそ南海監督を「勇退」~その間、西本幸雄監督率いる阪急ブレーブスが、1967(昭和42)年に初優勝、翌1968(昭和43)年も最終戦まで南海と優勝を争い、リーグ2連覇>

 

 

その後、鶴岡一人監督率いる南海ホークスは、1967(昭和42)年は、戦後初となるBクラスの「4位」に終わったが、

この年(1967年)、西本幸雄監督率いる阪急ブレーブスが、球団創立32年目にして初優勝を達成した。

そして、翌1968(昭和43)年は、鶴岡監督率いる南海ホークスと、西本監督率いる阪急ブレーブスが、

シーズン最終戦を迎えた段階で同率首位と、最後の最後まで激しい優勝争いを繰り広げたが、

シーズン最終戦で、阪急ブレーブスが東京オリオンズを破り、南海ホークスが近鉄バファローズに敗れたため、この結果、阪急ブレーブスの「リーグ2連覇」が達成された。

南海ホークスは、惜しくも優勝を逃し、「2位」に終わったが、ここで鶴岡監督は、今度こそ本当に南海監督を「勇退」した。

 

 

 

鶴岡一人監督は、1946(昭和21)~1968(昭和43)年まで、23年間、南海ホークスの監督を務め、

その間、2994試合 1773勝1140敗81分 勝率.609 優勝11回、日本一2回、Aクラス22回、Bクラス1回という、素晴らしい通算成績を残した。

不幸にも、野村克也とは「対立」してしまったとはいえ、鶴岡一人監督が、南海球団史上最高の、偉大な監督だった事は、間違い無いところである。

 

<1969(昭和44)年…「仏の徳さん」こと飯田徳治が南海監督に就任するが…南海は戦後初の「最下位」に低迷>

 

 

 

翌1969(昭和44)年、現役時代は南海の名一塁手として鳴らし、二塁手・鶴岡一人、三塁手・蔭山和夫、遊撃手・木塚忠助らと共に、「南海ホークス百万ドル内野陣」の一角を占めていた、飯田徳治が、鶴岡一人の後を受け、南海監督に就任した。

飯田徳治「仏の徳さん」と称されたほど、温厚な人柄の人格者で、誰からも慕われた人だったが、

その優しすぎる人柄が、監督には向かなかったのか、この年(1969年)、飯田監督率いる南海ホークスは、50勝76敗4分 勝率.397で、戦後初の「最下位」に転落してしまった。

やはり、偉大すぎる監督・鶴岡一人の後では、チームを率いるのは、色々と難しかったのであろうか。

そして、「最下位」の責任を取り、飯田徳治監督は、僅か1年で、南海監督を辞任してしまった。

 

<1969(昭和44)年シーズンオフ…当時34歳の野村克也、南海ホークスの「選手兼任監督」に就任!!~プロ野球界に稲尾和久(西鉄)、村山実(阪神)、野村克也(南海)という、若き「青年監督」が誕生>

 

 

 

1969(昭和44)年シーズンオフ、南海ホークスは、辞任した飯田徳治の後任として、

野村克也「選手兼任監督」就任を依頼したが、当初、野村は、その依頼を固辞した。

当時、野村は選手として脂が乗り切っており(※それまで三冠王1回、首位打者1回、本塁打王9回、打点王6回を獲得)、そんな自分が、「選手兼任監督」という大役を担うなど、到底無理だと思っていたのである。

しかし、南海の球団幹部から「南海を再建出来るのは、貴方しか居ない」と懇願され、野村は渋々、南海の「選手兼任監督」を引き受けた。

野村克也、当時34歳という若さの「青年監督」であった。

 

 

同じ1969(昭和44)年シーズンオフ、他球団でも「青年監督」誕生の動きが有った。

西鉄ライオンズは、中西太監督が辞任したのを受け、

当時32歳だった稲尾和久を、後任監督に就任させた。

 

 

実は、1969(昭和44)年~1970(昭和45)年にかけて、

西鉄ライオンズは、「黒い霧事件」と称された「八百長事件」の渦中にあり、

主力選手が関与していたとの事で、彼らが追放されるなど、屋台骨がガタガタに揺らいでいた。

そのため、大投手・稲尾和久が1969(昭和44)年限りで現役引退すると、

その稲尾に、「黒い霧事件」のために地に落ちてしまった西鉄という球団の再建を託したのだが、

そんな大変な時期に、西鉄監督を引き受けざるを得なかった、稲尾が背負った物も、あまりにも大きかった。

 

 

 

そして、これまた同じ1969(昭和44)年、阪神タイガースは、「2位」という成績を残しながらも、

後藤次男監督が、僅か1年で阪神監督を辞任してしまい、阪神は、その後任として鶴岡一人に監督就任を依頼したが、鶴岡には断わられた。

そこで、後任監督として、阪神の主力選手だった村山実、吉田義男のいずれかが、候補として挙げられた後、

結局、当時34歳だった村山実が、「選手兼任監督」に就任する事となった。

 

 

こうして、それぞれ事情は異なるとはいえ、

1969(昭和44)年シーズンオフ、期せずして、野村克也(当時34歳)、稲尾和久(当時32歳)、村山実(当時34歳)という、3人の「青年監督」が、プロ野球界に誕生する事となった。

しかし、いずれも、前述のような事情も有り、多難な前途を予想されていた。

 

<1969(昭和44)年シーズンオフの「事件」①…野村克也、南海監督就任の報告と挨拶のため、鶴岡一人の元を訪れるが…?>

 

 

こうして、野村克也南海ホークス「選手兼任監督」に就任したが、

その1969(昭和44)年シーズンオフ、野村克也は、南海監督就任の報告と挨拶のため、

日本シリーズのゲスト解説を務めていた、「元上司」鶴岡一人の元を訪れた。

すると、鶴岡は野村の顔を見るなり、ワナワナと怒りに震え(?)、

「お前なあ、監督っちゅうもんが、どういうもんだか、わかっとるのか!?」

と、いきなり野村を怒鳴りつけたという。

野村は、「こんな感情的な人に、何を言っても、しゃあないな」と思い、

挨拶もそこそこに、その場を退散してしまった。

やはり、野村と鶴岡は、どうにも馬が合わなかったようであるが、人間には「相性」というものがあり、こればかりは、致し方ない所であると言わざるを得まい。

 

<1969(昭和44)年シーズンオフの「事件」②…野村克也の盟友・杉浦忠が、突如「引退」を野村に告げる…~背後には「あの人」の存在が!?>

 

それから程なくして、こんな出来事が有った。

野村克也とは「同い年」で、当時、プロ12年目のシーズンを終えた杉浦忠投手が、

「話が有る」と言って、野村の元を訪ねて来た。

すると、杉浦は「今年限りで引退する」と、いきなり野村に告げたのである。

杉浦は、確かに力の衰えは有ったが、既にシーズンも終了し、それまで進退については何も言っていなかったのに、

突然、野村に「引退」を告げたのであった。

野村は、ビックリ仰天し、「どうして辞めるんだ?」と、杉浦に聞くと、

杉浦は「体力の限界だ」と答えた。

野村は「ちょっと待て、おかしいだろ、それは!?」と、杉浦に詰め寄った。

 

 

 

野村克也杉浦忠は、長年、苦楽を共にして来た「黄金バッテリー」であり、

野村と杉浦は、親友同士と言ってもおかしくない程、固い絆で結ばれていた。

その杉浦が、野村が監督に就任した直後のタイミングで、いきなり「引退」を口にするのは、どう考えてもおかしかった。

野村は、「これは、鶴岡さんの差し金に違いない」と、「直感」した。

前述の通り、野村は鶴岡監督に疎まれていたが、それに対し、杉浦は、鶴岡監督の「お気に入り」だった。

「その杉浦を差し置いて、自分が監督になった事が、鶴岡さんは気に入らないのだろう」と、野村はピンと来たという。

だから、鶴岡は野村が挨拶に行くと、あんなに激怒した様子を見せていたのだ…。

野村は、「鶴岡さんは、何処まで俺を嫌っているのか」と、やるせない気持ちになった。

 

 

野村は、杉浦に対し、

「俺が監督になったのが、気に入らないんだろう」

と言ったが、杉浦は、

「いや、それは関係無い」

と答えた。

しかし、これはどう考えても、鶴岡が裏で糸を引き、野村に嫌がらせをしているのだと、少なくとも、野村はそう捉えていた。

この「事件」以来、あれだけ仲が良かった野村と杉浦の間に「隙間風」が吹き、野村と杉浦の間柄は、ギクシャクしてしまったとの事である。

 

 

…以上、この事は全て野村克也の著書(『オレとO・N』など)に書いてあった事であるが、野村は、何十年も前の出来事を、まるで昨日の出来事のように、実に細かく描写しており、この出来事は、それだけ、よほど腹に据えかねたのだと思われる。

それにしても、野村は「これでもか」というぐらい、自分の著書で、繰り返し繰り返し、鶴岡監督の事を「批判」していたが、

それに対し、鶴岡一人は、少なくとも表向きは、何も答えていない。

2人が鬼籍に入ってしまった今、これらの出来事は全て歴史の彼方へと去って行っているが、

まさか野村が、後年、監督としてもあれだけの実績を残し、そして、あれだけ沢山、本を出して、自分を繰り返し「批判」する事になろうとは、鶴岡も夢にも思っていなかったのではないだろうか。

もう一つ付け加えれば、私は野村監督のファンなので、彼の著書は、それこそ沢山読んだが、

「よくもまあ、昔の出来事を細かく覚えてるもんだな…」

と、ある意味、感心(?)してしまった。

 

<1970(昭和45)年の野村克也と南海ホークス①…野村克也・新監督、ドン・ブレイザーをヘッドコーチに据え、「考える野球(シンキング・ベースボール)」を推進!!>

 

 

さてさて、1970(昭和45)年、南海ホークスの新監督に就任した野村克也は、

それまで、南海の内野手として活躍していた、ドン・ブレイザーを、ヘッドコーチに就任させた。

ブレイザーは、相手投手の癖を盗んだり、アウトカウントやボールカウントによって、守備位置を細かく変えたり、どうやったら、相手の隙を付き、自分が有利になるのかといった、実に細かい点まで、野球というものを研究し尽くしていた男であった。

野村は、そういったブレイザー「考える野球(シンキング・ベースボール)」を、高く評価しており、

野村監督の「懐刀」として、ブレイザーに全幅の信頼を置いていた。

そして、これが野村監督の、ヤクルト時代の「ID野球」の源流となったのである。

 

<1970(昭和45)年の野村克也と南海ホークス②…新人・佐藤道郎を「抑え投手」に抜擢!!~佐藤道郎は「新人王」&「最優秀防御率」を獲得>

 

 

 

1970(昭和45)年、野村監督の就任1年目に、日大から南海に入団したのが、

新人・佐藤道郎投手だったが、野村監督は、新人の佐藤道郎「抑え投手」の役割を任せた。

野村監督は、当時、まだ日本球界に定着していなかった「投手分業制」を、この時点で早くも考えており、

佐藤道郎に、その「先駆者」としての役割を期待し、佐藤をリリーフ専任投手として抜擢した。

 

 

すると、佐藤道郎は、見事にその期待に応え、

この年(1970年)、佐藤道郎55試合 18勝6敗 防御率2.05で、

リリーフ投手ながら、規定投球回数にも到達し、「新人王」&「最優秀防御率」を獲得した。

当時、日本プロ野球には、まだ「セーブ」の規定は無かったが、

この年(1970年)の佐藤道郎は、55試合登板の内、実に47試合が「交代完了」、つまり、リリーフ登板の後、試合の最後まで投げ切っている。

つまり、佐藤道郎こそ、野村監督最初に手掛けた「作品」であり、「抑え投手のパイオニア」だったと言って良い。

 

<1970(昭和45)年の野村克也と南海ホークス③…新外国人選手・ジョーンズが33本塁打 88打点と大活躍!!~富田勝-野村克也-ジョーンズで強力クリーンアップトリオを形成>

 

 

この年(1970年)、南海に新外国人選手として入団したのが、ジョーンズである。

ジョーンズは、粗削りな打者だったとはいえ、この年(1970年)、打率.244 33本塁打 88打点と大活躍し、ジョーンズは南海打線の中軸を担った。

 

 

 

1970(昭和45)年の南海ホークスは、3番・富田勝-4番・野村克也-5番・ジョーンズが、

強力なクリーンアップトリオを形成し、それぞれ、下記の成績を残している。

 

富田勝 打率.287 23本塁打 81打点

野村克也 打率.295 42本塁打 114打点

ジョーンズ 打率.244 33本塁打 88打点

 

これは、他球団と比べても決して引けを取らないどころか、パ・リーグ屈指の中軸であり、南海の得点力は、不振だった前年(1969年)に比べ、大幅にアップした。

 

<1970(昭和45)年の野村克也と南海ホークス④…「4番・捕手・監督」の野村克也、「通算2000安打」を達成し、大杉勝男(東映)と最後までホームラン王を争う大活躍!!~1年目の「野村南海」は、前年(1969年)最下位から「2位」に浮上!!>

 

 

 

1970(昭和45)年、「4番・捕手・監督」野村克也は、打率.295 42本塁打 114打点という成績を残し、

大杉勝男(東映)と、最後の最後までホームラン王のタイトルを争ったが、最後は44本塁打大杉勝男に一歩及ばず、野村克也は、惜しくもホームラン王のタイトルを逃した。

しかし、野村は、この年(1970年)10月18日の西鉄戦で「通算2000安打」を達成するなど、選手としても監督としてもチームを牽引し、

南海は、同年(1970年)、69勝57敗4分 勝率.548で「2位」という成績を残した。

野村監督は、前年(1969年)最下位だった南海を、就任1年目で「2位」に浮上させたのである。

 

 

こうして、野村克也は、監督人生において、まずは順調なスタートを切ったが、

プロ野球を代表する強打者であり、監督としても第一歩を記した野村は、

この頃、「リンカーンコンチネンタル マール3」という愛車(※デカイ外車)に乗り、

「プロ野球選手として成功し、地位も名誉もお金も手に入れる」

という、「夢」を叶えていた。

極貧の母子家庭に育った野村克也にとって、それは強烈なモチベーションになっていたのであった。

 

<1970(昭和45)年の野村克也と南海ホークス⑤…1970(昭和45)年8月、野村克也、東京遠征中にサッチー(沙知代)と「運命の出会い」を果たす!!>

 

 

1970(昭和45)年は、野村克也の人生において、最も重要な出来事が有った年でもあった。

この年(1970年)の8月18~20日、南海ホークス東映フライヤーズと後楽園球場で対戦するため、東京遠征を行なっていたが、その東京遠征の最中、野村は宿泊先である原宿のホテルに近い、行きつけの高級中華料理店で、1人の女性と出会った。

その女性こそ、野村克也の後半生を彩った「運命の女性」、サッチー(沙知代)である。

当時、サッチー(沙知代)には、ユダヤ系アメリカ人、アルヴィン・エンゲルという夫が居り、その夫との間に、2人の息子(長男・ダン、次男・ケニー)が居たが、野村にも、夫人と子供が居た。

つまり、この時、2人にはそれぞれ配偶者が居たが、この時の出会いをキッカケに、野村克也サッチー(沙知代)は、急速に親しくなって行った。

当時、野村と夫人の関係は、既に冷え切っていたようであるが、野村克也サッチー(沙知代)という女性と出会い、彼女に夢中になってしまったのである。

というわけで、サッチー(沙知代)と出会った野村克也、そして南海ホークスの運命や、如何に!?

 

(つづく)