本日(10/22)は、今から47年前の、1973(昭和48)年10月22日、川上哲治監督率いる巨人が、9年連続優勝を達成した日である。
しかも、この日(1973/10/22)の甲子園球場での阪神-巨人戦で、阪神と巨人のリーグ最終戦で、
「勝った方が優勝」
という、文字どおりの「最終決戦」を巨人が制し、巨人がセ・リーグ「V9」を達成した。
だが、1973(昭和48)年10月22日の、阪神-巨人の「最終V決戦」は、
巨人が9-0で阪神に大勝するという、予想外の大差となり、「ドッチラケ」となってしまったが、
この結果に、甲子園球場を埋め尽くした阪神ファンが激怒し、阪神ファンがグラウンドに雪崩れ込むという、阪神タイガースから見れば、無残な結末となってしまった。
というわけで、今回は1973(昭和48)年の阪神VS巨人の「最終V決戦」の物語を描いてみる事とするが、
まずは、その「前編」として、阪神VS巨人の「最終V決戦」に至るまでの、1973(昭和48)のセ・リーグの空前の大混戦について、振り返ってみる事としたい。
それでは、その前年(1972年)の巨人「V8」達成と、阪神の「お家騒動」から、ご覧頂こう。
<1972(昭和47)年の阪神タイガース①…村山実・投手兼任監督体制の3年目を迎えるが、開幕直後に金田正泰・ヘッドコーチに指揮権を「返上」~村山は、投手に専念>
1972(昭和47)年、阪神タイガースは、村山実の投手兼任監督体制が3年目を迎えていた。
阪神は、1970(昭和45)年に、不動の大エース、村山実が投手兼任監督に就任して以来、「2位(1970年)⇒5位(1971年)」という成績だったが、この年(1972年)、投手兼任監督3年目を迎えた村山は、今度こそ「優勝」をと意気込んでいた。
しかし、阪神は開幕8試合で2勝6敗と負けが込んでしまい、この時点で、村山実は自ら「指揮権」を「返上」し、
金田正泰・ヘッドコーチが「監督代行」を務め、村山は投手に専念する事になった。
この「指揮権返上」は、村山としては、チームが立ち直るまでの一時的な措置のつもりだったようであるが、
結果としては、金田正泰・監督代行が、シーズン終了まで指揮を執る事となった。
だが、当時プロ14年目で、当時36歳の村山実は、
長年、阪神のエースとして投げ続けて来た代償として、既に身体はボロボロであった。
村山は、右腕の血行障害にも悩まされており、それでも力を振り絞って、必死に投げたものの、
村山の力は、既に限界に達していた。
この年(1972年)の村山実は、結局、22試合 4勝6敗 防御率3.61という結果に終わったが、
もはや、村山は自分の力がプロ野球では通用しなくなっていた事を悟っていた。
<1972(昭和47)年の阪神タイガース②…金田正泰・監督代行率いる阪神が、巨人を激しく追い上げるが、最後は巨人に「V8」を許す~10月7日、甲子園球場の阪神-巨人戦で巨人の優勝が決定し、怒り狂った阪神ファンが大暴れ~翌1973(昭和48)年の「V決戦」の「伏線」に!?>
さて、金田正泰・監督代行が、チームの指揮を執って以降の阪神は、上昇気流に乗った。
この年(1972年)、49試合16完投3完封 23勝8敗 防御率2.53という成績を残し、2年振り「20勝」を達成した江夏豊と、
同年(1972年)、打率.258 34本塁打 82打点という成績を残した田淵幸一という、「江夏豊-田淵幸一」の「黄金バッテリー」の大活躍により、阪神は、首位を走る巨人を、猛烈に追い上げて行った。
阪神と巨人は、シーズン終盤まで激しい優勝争いを繰り広げ、セ・リーグの優勝争いは予断を許さない状況となった。
しかし、最後に阪神は力尽き、1972(昭和47)年10月7日、
甲子園球場での阪神-巨人戦で、巨人が阪神を5-1で破り、巨人が「V8」を達成した。
この試合、村山実が先発登板したが、王貞治、長嶋茂雄にホームランを浴び、村山は無念の途中降板となった。
そして、結果として、これが阪神の大エース・村山実の、公式戦最後の登板となった。
なお、この試合は、巨人は優勝を決定したものの、試合終了直後、怒り狂った阪神ファンが、大量にグラウンドに雪崩れ込んでしまい、巨人・川上哲治監督の「胴上げ」は行われなかったが、これが翌1973(昭和48)年の「最終V決戦」での大騒動の「伏線」となってしまうのである。
という事で、1972(昭和47)年、2位・阪神は、優勝した巨人に一歩及ばず、
阪神は首位・巨人に3.5ゲーム差の2位に終わったが、
「V8」を達成した巨人にも、流石に衰えが見え始め、阪神にも、そろそろ優勝の機運が高まって来つつあるようであった。
そして、あの「伝説」の1973(昭和48)年を迎えるのである。
<江夏豊と金田正泰の「蜜月」⇒「確執」~「叔父貴」「ユタカ」と呼び合う仲だった江夏と金田が、1973(昭和48)年には口も利かない「冷戦状態」に…>
さて、1973(昭和48)年の阪神タイガースを語るにおいて、どうしても外せないのは、
やはり、江夏豊と金田正泰の関係であろう。
かつての阪神の主力打者で、1960(昭和35)~1961(昭和36)年に、一度、阪神の監督経験も有った金田正泰は、
1972(昭和47)年に阪神のヘッドコーチに就任すると、前述の通り、村山実の「指揮権返上」を受け、阪神の監督代行に就任した。
すると、金田正泰は阪神を建て直し、阪神をあと一歩まで優勝、という所まで導いたが、
この年(1972年)、阪神のエース・江夏豊と、金田正泰・監督代行の仲は非常に良好であり、
お互いを「叔父貴」「ユタカ」と呼び合う程、仲が良かった。
江夏は、幼い頃に両親が離婚し、父親不在の家庭で育ったため、もしかすると、金田に対し「父親」を重ね合わせる心情が有ったのかもしれない。
しかし、翌1973(昭和48)年1月15日~19日にかけて、江夏と金田は、より一層、関係を強固にするためだったのか、
福井県の永平寺に「修行」に行ったところ、これが完全に「裏目」に出てしまった。
この時、江夏は真面目に修行していたのだが、金田は「年寄りだから」という理由を付けて、修行も真面目にせず、掃除も江夏に押し付けて、自らは何もしなかった。
おまけに、金田は「禁煙」の決まりを破って、こっそりと煙草を吸ったりしていた。
この金田の姿を見て、江夏は金田に不信感を抱き、江夏の金田に対する思いは、急速に冷めて行った。
そして、江夏は金田という人間を見限ってしまい、以後、2人の関係は、お互いに口も利かない程、悪化してしまい、江夏と金田は「冷戦状態」になってしまった。
…という事であるが、それまで、物凄く仲が良かった2人が、ちょっとしたキッカケで、急速に関係が悪化するという事は、私にも経験は有るのだが、この時は、不幸にして阪神の監督とエースの関係が、険悪になってしまったのである。
こんな事で、阪神は大丈夫なのであろうか…。
<1973(昭和48)年3月21日…甲子園球場の阪神-巨人のオープン戦で、村山実の「引退試合」が行われる…江夏が先導する騎馬に乗り、村山実が登場~村山実⇒江夏豊へ、阪神のエースの座が託される>
1972(昭和47)年のシーズン限りで、村山実は、遂に現役引退を表明した(村山実の通算成績:509試合192完投55完封 222勝147敗 2271奪三振 防御率2.09)
そして、1973(昭和48)年3月21日、甲子園球場の阪神-巨人のオープン戦で、村山実の「引退試合」が行われたが、
この時、江夏豊が先導し、阪神投手陣が作った騎馬に乗って、村山が登場するという出来事が有った。
村山と江夏は、一時、微妙な関係になった事も有ったが、江夏は、何だかんだ言って、村山の事を尊敬していたのである。
この時、江夏はその村山に対する尊敬の思いを、形にして表したのであった。
こうして、長年、阪神の大エースだった村山実は去り、
阪神のエースの座は、村山実⇒江夏豊へと、完全に託されたが、
江夏豊としては、勿論、自分がエースとして阪神を引っ張り、1967(昭和42)年に自分が阪神に入団して以来、一度も達成されていない優勝を、何としても、この年(1973年)こそは成し遂げる決意であった。
<1973(昭和48)年の阪神タイガース①…金田正泰が、監督代行⇒監督に正式に就任したが…>
1973(昭和48)年、金田正泰は、監督代行から、正式に阪神の監督に就任した。
前年(1972年)、阪神を「あと一歩で優勝」という所まで導いた手腕が評価された形であるが、
この金田正泰という人は、どうにも一言多く、色々と、選手達との軋轢を生んでしまう人物だったようである。
それはともかく、1973(昭和48)年の阪神タイガースは、金田監督体制の下、果たしてどんな戦いを見せてくれるのであろうか?
<1973(昭和48)年のセ・リーグ①…4月は巨人の調子が上がらず、4月は大洋・中日が首位争い>
こうして、1973(昭和48)年のセ・リーグが開幕したが、
注目は、何と言っても、川上哲治監督の巨人の「V9」が達成されるかどうか、という事と、
巨人の「対抗馬」と見られていた阪神タイガースが、巨人の「V9」を阻止するかどうか、という事であった。
だが、この年(1973年)のセ・リーグは、大方の予想に反して、巨人が開幕から低迷し、
阪神も、開幕以降、今一つ調子が上がらない状態が続いた。
そのため、結果として、1973(昭和48)年は、セ・リーグ全球団が、一度は首位に立つという、空前の大混戦となった。
1973(昭和48)年4月、まず飛び出したのが、現役時代には川上哲治とライバルだった、
青田昇監督が率いる、大洋ホエールズである。
大洋は、エース・平松政次が健在であり、前年(1972年)から大洋に入団した、シピン、ボイヤーという両外国人選手が活躍した。
二塁・シピン、三塁・ボイヤーという布陣だったが、特に、三塁手・ボイヤーの守備は絶品であった。
アメリカ大リーグのニューヨーク・ヤンキースなどで活躍したボイヤーは、打撃はそこそこだったが、とにかく守備が上手く、
また、ボイヤーにはリーダーシップが有り、「荒くれ者」のシピンも、ボイヤーの言う事は、よく聞いたという。
4月、その大洋ホエールズは、開幕3連勝を含む、5勝2敗で「首位」に立った。
一方、現役時代は巨人で3度も首位打者を獲得し、川上哲治と切磋琢磨していたウォーリー与那嶺は、
1961(昭和36)年、その川上監督から巨人を追われ、中日に移籍したという、苦い経験が有ったが、
そのウォーリー与那嶺監督率いる中日ドラゴンズは、前年(1972年)に20勝11敗 防御率2.76という成績を挙げた稲葉光雄、そして、ウォーリー与那嶺監督同様、「打倒・巨人」に燃える星野仙一という、両投手が軸になっていたが、
中日ドラゴンズは、4月を7勝3敗という好スタートを切り、、大洋に次いで2位という好位置に付けていた。
…という事で、1973(昭和48)年4月終了時のセ・リーグの勝敗表は、下記の通りである。
【1973(昭和48)年 セ・リーグ勝敗表(4月終了時)】
①大洋 5勝2敗 勝率.714
②中日 7勝3敗 勝率.700
③阪神 7勝6敗 勝率.538
④巨人 6勝7敗 勝率.462
⑤ヤクルト 4勝8敗 勝率.333
⑤広島 3勝6敗 勝率.333
<1973(昭和48)年の阪神タイガース②…4月は7勝6敗 勝率.538で3位と、まずまずの出足~4月26日の巨人-阪神戦(後楽園球場)で、田淵幸一が3打席連続ホームラン&6打点を叩き出し、阪神が8-3で巨人に快勝!!>
1973(昭和48)年4月、阪神タイガースは7勝6敗 勝率.538で3位と、まずまずの出足だったが、
4月26日、後楽園球場での巨人-阪神戦で、田淵幸一が、4号ソロ、5号2ラン、6号3ランと(4号ソロ=関本四十四、5号2ラン・6号3ラン=菅原勝矢から放つ)、田淵が「3打席連続ホームラン」で「6打点」を荒稼ぎする大活躍で、阪神が8-3で巨人に快勝した。
田淵もまた、「今年こそ、優勝する!!」と、大いに意気込んでおり、この後、田淵は特に巨人戦で、猛打を発揮する事となる。
<1973(昭和48)年のセ・リーグ②…5月、「鯉のぼり」の季節に、広島カープが「14勝6敗」と絶好調!!~大洋・中日も好調を維持し、5月終了時点で、セ・リーグは大洋・中日・広島の「三つ巴」の首位争いに>
1973(昭和48)年4月、別当薫監督率いる広島カープは、3勝6敗で、ヤクルトと5位タイと出遅れたが、
5月の「鯉のぼりの季節」を迎えると、広島は5月を「14勝6敗」という快進撃を見せ、一躍、広島が急上昇で、首位戦線に一気に浮上した。
当時、広島は山本浩二・衣笠祥雄という、若手の強打者コンビが、猛打を発揮しつつあり、
「万年Bクラス」と言われていた広島にも、徐々に浮上の気配が見えつつある頃ではあった。
その広島は、毎年、5月は好調なのだが、この年(1973年)の5月も「カープの季節」になっていた。
一方、4月に好スタートを切った大洋と中日であるが、
大洋は5月を11勝9敗2分、中日は5月を10勝11敗1分と、まずまずの戦いぶりながら、
相変わらず好調をキープし、急浮上して来た広島も含め、5月終了時点で、セ・リーグは大洋・中日・広島の「三つ巴」の首位争いとなった。
(※その他の3球団の5月の勝敗…巨人「11勝13敗」、阪神「10勝11敗1分」、ヤクルト「8勝14敗2分」)
という事で、1973(昭和48)年5月終了時での、セ・リーグの勝敗表は、下記の通りである。
【1973(昭和48)年 セ・リーグ勝敗表(5月終了時)】
①大洋 16勝11敗2分 勝率.592
②広島 17勝12敗 勝率.586
③中日 17勝14敗1分 勝率.548
④阪神 17勝17敗1分 勝率.500
⑤巨人 17勝20敗 勝率.459
⑥ヤクルト 12勝22敗2分 勝率.352
<1973(昭和48)年の阪神タイガース③…田淵幸一、巨人戦「7打数連続ホームラン」達成!!~5月を終わって勝率5割と、「一進一退」が続く>
前述の通り、田淵幸一(阪神)は、4月26日の巨人-阪神戦(後楽園球場)で、「3打席連続ホームラン」を打ったが、
その次の巨人戦である、5月9日の阪神-巨人戦(甲子園球場)で、田淵は、またしても猛打を発揮した。
5月9日の阪神-巨人戦(甲子園球場)の第1打席、田淵幸一は高橋善正(巨人)から、レフトスタンドへ9号ソロホームランを放つと、第2打席は死球だったが、第3打席で、田淵幸一はまたしても高橋善正から10号2ランホームラン、第4打席で、またまた高橋善正から、11号ソロホームランを放った。
これで、4月26日、5月9日と、田淵は巨人戦の2試合で「6打数連続ホームラン」という猛打であった(5月9日の試合は、阪神は4-11で巨人に大敗)。
翌5月10日、甲子園球場での阪神-巨人戦の第1打席で、
田淵幸一は、高橋一三からレフトスタンドへ12号2ランホームランを放ち、
田淵幸一は、これで「巨人戦7打数連続ホームラン」という、物凄い大記録を残した。
その後、田淵は第2打席は四球、第3打席は三振で、遂に記録はストップしたが、
勿論、「巨人戦7打数連続ホームラン」というのは、後にも先にも、田淵しか達成していない大記録である。
この先、こんな記録を達成する選手は、恐らく、現れないのではないだろうか。
とにかく、この頃の田淵は、巨人戦となると、物凄い集中力を発揮していたようである。
<1973(昭和48)年のセ・リーグ③…6月、大洋が「7勝15敗」と大失速、中日・広島が首位争いを繰り広げ、阪神が急浮上~三原脩監督率いるヤクルトは、6月は初めて月間勝ち越し~絶対王者・巨人も、6月に初めて月間勝ち越しを記録するが、相変わらずの低空飛行>
1973(昭和48)年6月、それまでの2ヶ月間(4~5月)、好調をキープしていた大洋ホエールズが「7勝15敗」と、大失速してしまった。
大洋は、6/12~6/14に3連敗、6/16に1つ勝った後、6/17~6/21に5連敗と、連敗地獄にハマってしまい、青田昇監督の憂愁の色も濃くなって行ったが、開幕から首位争いをして来た大洋も、「息切れ」してしまったという事であろうか。
一方、中日ドラゴンズは、6月は「11勝9敗1分」と勝ち越し、中日は相変わらず首位争いのトップを走り、
広島カープは、6月は「11勝11敗」と、勝率5割で乗り切り、5月に引き続き健闘したが、
この結果、6月終了時点で、中日・広島が首位争いを繰り広げる状況となっていた。
そして、江夏豊-田淵幸一の「黄金バッテリー」を擁する阪神タイガースは、
田淵の猛打は有ったものの、6月中旬まで、阪神は勝率5割前後をウロウロしていた。
しかし、6月12日の後楽園球場での巨人-阪神戦で、リリーフに立った江夏豊が、ストライク・ボールの判定を巡り、大里晴信球審に体当たりをして、即退場を命じられた後、阪神が奮起して、1-1の同点の9回表、阪神が2点を勝ち越して、阪神が3-1で巨人を破った試合あたりから、阪神は漸く、上昇気流に乗って行った。
阪神は、6/19~6/24まで、今季初の6連勝を飾るなど、6月の阪神は「11勝8敗1分」と3つ勝ち越し、阪神は中日・広島の首位争いに肉薄した。
百戦錬磨の名将・三原脩監督率いる、ヤクルトアトムズは、
この年(1973年)、4月は4勝8敗、5月は8勝14敗2分と、開幕から苦しい戦いが続いていたが、
6月、ヤクルトは12勝10敗と、初めて月間勝ち越しに成功した。
この後、ヤクルトも混戦セ・リーグで存在感を発揮し、「台風の目」になって行く事となる。
そして、前年(1972年)まで「V8」を達成していた、
川上哲治監督率いる、絶対王者・巨人は、この年(1973年)、4月は6勝7敗、5月は11勝13敗と、2ヶ月連続で負け越してしまい、6月、巨人は10勝9敗と、この年(1973年)初めて、月間勝ち越しを決めたが、6月終了時で、27勝29敗 勝率.482で4位と、相変わらずの低空飛行が続いていた。
この巨人の不振により、セ・リーグは6月終了時点で、上位3球団が1ゲーム差、上位5球団が4ゲーム差にひしめく大混戦になっていたのであるが、この後、1973(昭和48)年のセ・リーグの首位戦線は、更に混迷の度合いを深めて行く事となるのである。
【1973(昭和48)年 セ・リーグ勝敗表(6月終了時)】
①中日 28勝23敗2分 勝率.549
①広島 28勝23敗 勝率.549
③阪神 28勝25敗2分 勝率.528
④巨人 27勝29敗 勝率.482
⑤大洋 23勝26敗2分 勝率.469
⑥ヤクルト 24勝32敗2分 勝率.429
(つづく)