【今日は何の日?】1958/10/21…西鉄ライオンズ3連覇~三原脩VS水原茂の物語①~序章~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(10/21)は、今から62年前、1958(昭和33)年10月21日に、

三原脩(みはら・おさむ)監督率いる西鉄ライオンズが、宿敵・水原茂(みずはら・しげる)監督率いる巨人を、日本シリーズで3年連続で破り、西鉄ライオンズが「3年連続日本一」を達成した日である。

しかも、この年(1958年)の日本シリーズは、西鉄が「3連敗⇒4連勝」という、史上初の快挙を達成した事でも、有名である。

 

 

西鉄ライオンズといえば、現在の埼玉西武ライオンズの前身球団であるが、

かつて、西鉄ライオンズは九州・福岡の地を本拠地として、前述の通り、「3年連続日本一」を達成するなど、未だに、「伝説」として語り継がれている球団である。

そして、九州の地には、「西鉄ライオンズ黄金時代」を懐かしむオールド・ファンも多い。

 

<私の亡き祖父も、西鉄・稲尾和久投手の大ファン~「神様・仏様・稲尾様」の物語を、「日本昔話」のように伝え聞かされた私>

 

 

 

その「西鉄ライオンズ黄金時代」の象徴的存在だったのが、

何と言っても、西鉄ファンから「神様仏様稲尾様」とまで崇められた、「鉄腕」稲尾和久(いなお・かずひさ)投手である。

実は、私の亡き祖父は九州在住であったが、私も子供の頃から、この祖父には、いつも「神様仏様稲尾様」のエピソードを、それこそ耳にタコが出来るぐらい、聞かされていた。

「稲尾は、いかに凄い投手だったのか」

「西鉄ライオンズとは、いかに強いチームだったのか」

という事を、私はしょっちゅう、この祖父から、まるで「日本昔話」のように聞かされていたため、

「西鉄ライオンズ」「稲尾和久」というのは、私にとっては、身近な存在であった。

 

 

 

なお、西鉄が3連覇を達成した、翌1959(昭和34)年、

西鉄ライオンズと、稲尾和久の偉業を称え、東宝で、現役投手の稲尾和久本人が主演した映画、

『鉄腕投手 稲尾物語』も公開されているが、

この映画は、残念ながらDVDなどのソフト化はされていない。

私は、確かCS放送か何かで見たのだが、稲尾をはじめ、西鉄や巨人など、選手や監督などの本人が出演した、なかなか豪華な内容であった。

ちなみに、稲尾の夫人の役で、ヒロインを務めたのが白川由美である。

 

<伝説の1958(昭和33)年の日本シリーズ~西鉄ライオンズが、巨人相手に「3連敗⇒4連勝」の、奇跡の大逆転勝利!!~「稲尾和久・中西太・豊田泰光」の「西鉄三羽烏」も、揃って大活躍!!>

 

 

 

 

 

1956(昭和31)~1958(昭和33)年にかけて、西鉄ライオンズと巨人は3年連続で日本シリーズで対決し、

前述の通り、西鉄ライオンズが「3連覇」を達成したわけであるが、

とりわけ、3年目の1958(昭和33)年は、西鉄が3連敗と崖っぷちに追い込まれながら、

そこから、稲尾和久「4連投4連勝」により、西鉄が「3連敗⇒4連勝」を達成したという、まさに「奇跡の大逆転」であり、今に語り継がれる「伝説」の日本シリーズである。

そして、「神様仏様稲尾様」は勿論、「稲尾和久・中西太・豊田泰光」「西鉄三羽烏」も揃って大活躍し、西鉄の「奇跡の大逆転」の原動力となった。

 

<「伝説の球団」西鉄ライオンズを作り上げた男・「魔術師」「名将」~執念と信念の男・三原脩>

 

 

 

 

 

さて、「伝説の球団」西鉄ライオンズを作り上げた男こそ、

「魔術師」「名将」と称された、三原脩(みはら・おさむ)である。

西鉄ライオンズは、それこそ、九州・福岡の、何も無いゼロのチームだったが、

巨人の監督を追われ、九州の地に新天地を求めて来た三原脩が、手塩にかけて築き上げ、育て上げて来た球団が、遂には、宿敵・水原茂が率いる、怨敵・巨人を打ち破り、日本一のチームにまで登り詰めた。

その三原脩監督が、西鉄ライオンズを強豪球団に育てて行く過程は、劇的でドラマチックである。

 

<「巨人第2期黄金時代」を築き上げた男・「智将」~ダンディな勝負師・水原茂>

 

 

一方、1956(昭和31)~1958(昭和33)年の日本シリーズでは、

宿敵・三原脩監督率いる西鉄ライオンズに一敗地にまみれてしまったとはいえ、

巨人を率いる水原茂(みずはら・しげる)監督も、それまで素晴らしい実績を残していた。

 

 

 

 

 

 

水原茂監督率いる巨人は、1951(昭和26)~1953(昭和28)年まで、日本シリーズで、鶴岡一人監督率いる南海ホークスと3年連続で対決し、水原監督の巨人が、鶴岡監督の南海を3年連続で破り、巨人が「3年連続日本一」を達成した。

その後、1954(昭和29)年は中日ドラゴンズに優勝を譲るが、水原巨人は、1955(昭和30)年には四度、南海を破り、4度目の日本一となった。

そして、1959(昭和34)年までリーグ優勝を重ね(リーグ5連覇)、水原茂は、1951(昭和26)~1959(昭和34)年まで、9年間で8度のリーグ優勝を達成していた(※1956(昭和31)~1958(昭和33)年は西鉄に、1959(昭和34)年は南海に、日本シリーズで4年連続敗退)。

これを、「巨人第2期黄金時代」と称するが、まさにセ・リーグは水原茂監督の「天下」であった。

また、ダンディな水原茂「勝負師」とも言われ、その采配は冴えわたり、水原茂「名監督」の誉を恣(ほしいまま)にしていた。

 

<1949(昭和24)年…三原脩監督、巨人を「戦後初優勝」に導くが…翌1950(昭和25)年、シベリア抑留から復員した水原茂に、巨人監督の座を奪われる>

 

 

 

だが、三原脩は、そんな水原茂「栄光」を、苦々しい思いで見ていた。

三原脩は、戦後、一度も優勝していなかった巨人の監督に就任すると、低迷していた巨人を建て直し、

1949(昭和24)年、三原脩監督の下、巨人は「戦後初優勝」を達成したのである。

つまり、「巨人を建て直し、勝たせたのは俺だ!!」という思いが、三原脩には有った。

 

 

巨人が「戦後初優勝」を達成した1949(昭和24)年のシーズン中、同年(1949年)7月24日に、

シベリア抑留されていた、戦前の巨人の名選手・水原茂が復員し、巨人に復帰した。

水原の「復帰」に対し、当時の三原監督が花束を持って、後楽園球場で水原を出迎えたが、

これは、日本野球史に残る、歴史的名場面である。

 

 

こうして、水原茂が巨人に帰って来たのであるが、

実は、当時の三原監督は、選手達から、あまり人望が無かったという。

三原監督も、当時はまだ30代で血気盛んだった事もあるのか、

選手達に対し、時に高圧的になったり、一部のスター選手ばかり優遇するきらいが有り、

三原脩は、多くの選手達から反発を買っていたというのである。

 

 

 

そのため、遂には「三原排斥」「血指連判状」まで作られる騒ぎとなり、

「反三原派」は、神輿として、水原茂を担ぎ上げた。

当時、巨人では「三原派」は少数派であり、巨人では「反三原派」が、圧倒的に主流となっていた。

「反三原派」は、やがて「水原派」として結束し、三原脩を排斥し、水原茂を新監督に据えようと、一致団結していた。

まるで、自民党の派閥争いのようであるが、当時の巨人は、そんな雰囲気であった。

 

 

こうして、三原脩は、せっかく巨人を優勝させたにも関わらず、翌1950(昭和25)年、巨人の監督は水原茂に交代し、

三原脩は、何の実権も無い「総監督」へと祭り上げられ、1年間、何の仕事もさせてもらえず、ブラブラと過ごしていたという。

三原は、球団事務所に毎日来ては、暇そうな人間を捕まえて、ただひたすら、碁を打っていたというのである。

これでは、まるで「窓際社員」である。

これは、プライドの高い三原脩にとっては、耐え難い屈辱であった。

 

<1951(昭和26)年…三原脩、九州・福岡の西鉄ライオンズの監督に就任し、「打倒・巨人」「打倒・水原」のために、牙を研ぎ、「水原巨人」への復讐を誓う!!>

 

 

翌1951(昭和26)年、三原脩は巨人を退団し、

三原脩は、九州・福岡の球団、西鉄ライオンズの監督に就任し、

東京を離れ、福岡の地に、新天地を求めた。

この時、福岡へと向かう途中、三原は水原に対し、心の中で、こう叫んでいた。

「水原君、必ず君に挑戦し、そして必ず君を倒す!!」

事実上、巨人を追い出されてしまった三原脩は、「打倒・巨人」「打倒・水原」のために、燃え滾っていたのである。

こうして、「都落ち」した三原脩は、

「いつの日か、必ず中原(ちゅうげん)に覇を唱えん」

と固く決意し、西鉄ライオンズを率いて、水原茂の巨人を倒す事を、己の生涯の目標と定めた。

三原脩、当時40歳の春であった。

 

<まるで『史記』『三国志』のような、「三原脩VS水原茂」の物語~子供の頃から、私が一番好きな、プロ野球の歴史物語>

 

 

 

…というわけであるが、ここまでお読み頂いて、

「三原脩VS水原茂」の物語は、まるで『史記』『三国志』のような、

かつての中国の英雄物語のようなノリに、思えないだろうか?

「いつの日か、必ず中原(ちゅうげん)に覇を唱えん」

というのは、本当に三原脩が言った台詞であるが、この台詞など、まるっきり、中国古典のノリである。

つまり、「三原脩VS水原茂」の宿敵同士の対決とは、

単に野球の監督同士の対決というだけではなく、人間同士の業と業のぶつかり合いであり、

私は子供の頃から、「三原脩VS水原茂」の物語は、プロ野球の中で、最も好きな歴史物語なのである。

先程、「三原脩VS水原茂」は、まるで中国古典のような、「英雄譚」「復讐譚」のようであると述べたが、

このような人間ドラマが有るからこそ、野球は、引いては歴史は面白いと、私は思う。

 

<「早慶戦」以来、長く続く「三原脩VS水原茂」の対決~2人の対決の原点とは!?>

 

 

 

という事で、「三原脩VS水原茂」というのは、

如何に、因縁の対決であるか、という事を、まずはお話させて頂いたが、

実は、この2人の「対決」の「原点」は、プロ野球に入ってからではなく、2人の学生時代、

「早慶戦」の頃にまで、遡るのである。

 

 

 

 

2人の出身校は、

三原脩:高松中学-早稲田大学、

水原茂:高松商業-慶應義塾大学、

という事であり、三原脩は早稲田、水原茂は慶応で、

三原と水原は、実際に「早慶戦」で対決しているのである。

しかも、頗る付きの名場面で、2人は相見(まみ)えていた。

つまり、「三原脩VS水原茂」の「対決」の「原点」は「早慶戦」に有った。

三原と水原は、そんな風に、生涯をかけて戦う「ライバル」として、何か運命付けられていたようにも思える。

 

<三原脩と水原茂の「野球人生」とは!?~「宮本武蔵VS佐々木小次郎」の「巌流島の決闘」にも譬えられた、「三原脩VS水原茂」の「宿命の対決」を紐解く!!>

 

 

 

 

という事で、今回は、三原脩の自伝『風雲の軌跡』、水原茂の自伝『華麗なる波乱』に基づき、

三原脩水原茂「野球人生」を紐解き、そして、西鉄ライオンズと巨人の、日本シリーズでの激闘に、スポットを当ててみる事としたい。

それにしても、私がこの2人を見て、改めて思うのは、これほど、お互いを高め合う事が出来るライバルが居た三原と水原は、実は、とても幸せだったのではないかという事である。

 

 

 

 

かつて、伝説の剣豪・宮本武蔵と、宿敵・佐々木小次郎が決闘で相見(まみ)えたが、

宮本武蔵佐々木小次郎「巌流島の決闘」は、日本史上に残る名場面として語り継がれている。

余談であるが、冒頭で述べた、私の祖父が、生前、祖母と一緒に最後に旅行に行ったのが、巌流島だったという事である。

三原脩水原茂の対決は、この「巌流島の決闘」にも譬えられており、日本野球史上に残っている。

 

 

という事で「プロ野球版 巌流島の決闘」とも称された、

「三原脩VS水原茂」の対決は、いつか私もじっくりと描きたかったテーマでもあり、私自身としても、今後、書いて行くのが楽しみである。

…という事で、「三原脩VS水原茂」の物語の「序章」については、これぐらいにして、「本編」については、また次回。

 

(つづく)