【今日は何の日?】1982/10/18…中日ドラゴンズ、8年振り優勝(前編) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(10/18)は、今から38年前の、1982(昭和57)年10月18日、

近藤貞雄監督率いる中日ドラゴンズが、この年(1982年)のプロ野球公式戦最終戦で、8年振り優勝を達成した日である。

この年(1982年)は、中日と巨人が、最後の最後まで優勝を争い、中日が死力を尽くして、最後の最後で優勝を果たした。

 

 

中日ドラゴンズは、1974(昭和49)年に、20年振りの優勝を達成し、巨人の「V10」を阻止したが、

1982(昭和57)年に、その時以来、中日は8年振りの優勝を達成したのである。

しかし、その8年の間は、暫くBクラスに低迷するなど、苦難の時代が続いた。

というわけで、今回は、1982(昭和57)年の中日ドラゴンズの優勝に、スポットを当ててみる事とするが、

まずは、「前編」として、1974(昭和49)年の中日20年振り優勝~1977(昭和52)年のウォーリー与那嶺(与那嶺要)監督退陣までを、振り返ってみる事としよう。

 

<1974(昭和49)年…ウォーリー与那嶺監督率いる中日ドラゴンズ、20年振り優勝!!~『燃えよドラゴンズ』で描かれた、優勝メンバーとは!?>

 

 

 

1974(昭和49)年、ウォーリー与那嶺(与那嶺要)監督率いる中日ドラゴンズは、

川上哲治監督率いる巨人との死闘を制し、見事に20年振りの優勝を達成した(※70勝49敗11分 勝率.588で優勝)

1974(昭和49)年10月12日、地元・中日球場で、中日ドラゴンズの20年振り優勝が決定すると、

中日ファンが、どっとグラウンドに雪崩れ込み、中日ファンと選手達が一体となって、ウォーリー与那嶺監督を胴上げしたが、

それだけ、中日ファンは、優勝を待ち焦がれていたのであった。

 

 

 

 

この年(1974年)、中日ファンの青年・山本正之が、

中日を応援するために作詞・作曲した『燃えよドラゴンズ』が、レコード化されて、大ヒットしたが、

『燃えよドラゴンズ』は、1974(昭和49)年の中日ドラゴンズの選手達を簡潔に紹介する内容となっている。

という事で、その『燃えよドラゴンズ』の歌詞に沿って、1974(昭和49)年の中日ドラゴンズの優勝メンバーを、ご紹介させて頂く事としたい。

 

「1番・高木が塁に出て、2番・谷木が送りバント、3番・井上タイムリー、4番・マーチン ホームラン…いいぞ 頑張れ ドラゴンズ 燃えよドラゴンズ!」

 

 

 

1番・二塁手 高木守道(打率.276 15本塁打 47打点 14盗塁)

 

高木守道は、1番打者として「斬り込み隊長」の役割を担い、

守っては、「バックトス」を得意とする堅実な二塁守備で、中日内野陣の中心となった。

無口で寡黙な男だったが、「1番・高木が塁に出て」と歌われた通り、出塁率も高く、

また、「ここぞ!」という場面では勝負強い、やる時はキッチリ仕事をする、頼れるトップバッターであった。

 

 

2番・中堅手 谷木恭平(打率.274 2本塁打 15打点)

 

谷木恭平は、『燃えよドラゴンズ』で「2番・谷木が送りバント」と歌われている通り、

1番・高木守道が出塁した後、キッチリ犠打で二塁に送ったり、時には強打を見せたりと、

貴重な繋ぎ役として、重要な役割を果たした。

ちなみに、谷木は1963(昭和38)年春、北海高校が初のセンバツ準優勝を果たした時のメンバーであり、

立教大学が1966(昭和41)年春に、7年振り優勝した時のメンバーでもある。

つまり、アマチュア時代から「勝ち運」が有る選手だったと言って良い。

 

 

3番・左翼手 井上弘昭(打率.290 18本塁打 58打点 15盗塁)

 

井上弘昭は、広島に1968(昭和43)~1972(昭和47)年に在籍した後、

1973(昭和48)年から中日に移籍して来た選手で、

「3番・井上タイムリー」と歌われた通り、チャンスには滅法強い打者であった。

この後、井上は中日には1980(昭和55)年まで在籍した後、日本ハム(1981~1984年)-西武(1985年)と渡り歩き、

行く先々で、ベテランとして、存在感を発揮した。

 

 

 

 

4番・右翼手 マーチン(打率.269 35本塁打 87打点)

 

マーチンは、来日1年目の、この年(1974年)、打率.269 35本塁打 87打点と、

中日の主砲として打ちまくり、中日打線の中核となったが、

マーチンが4番に座る事により、中日は2年連続「三冠王」王貞治を擁する巨人とも、互角に渡り合う事が出来たのである。

「4番・マーチン ホームラン」と、『燃えよドラゴンズ』で歌われたのは、伊達ではなかった。

 

「5番・谷沢がクリーンヒット、6番・木俣が流し打ち、7番・島谷ヒットエンドラン、8番・広瀬がスクイズバント…いいぞ 頑張れ ドラゴンズ 燃えよドラゴンズ!」

 

 

 

 

5番・一塁手 谷沢健一(打率.290 22本塁打 77打点)

 

谷沢健一は、早稲田大学で、リーグ通算82試合 308打数111安打 18本塁打 63打点 打率.360という成績を残した、早稲田史上に残る天才打者であり、1970(昭和45)年に中日に入団すると、1年目からレギュラーを獲得し、新人王を獲った。

その後も、谷沢は中日の中心打者として活躍し、1974(昭和49)年も「5番・谷沢がクリーンヒット」と歌わている通り、

相変わらず、天才的な打撃センスを発揮して、ヒットを打ちまくり、時にはガツンとホームランも打った。

谷沢は、順調にドラゴンズの中心選手としての階段を歩んでいた。

 

 

 

6番・捕手 木俣達彦(打率.322 18本塁打 50打点)

 

木俣達彦は、中日の正捕手として、チームの司令塔となる一方、

打撃でも、打率.322 18本塁打 50打点という、見事な成績を残し、

所謂「打てる捕手」として、中日打線でも、重要な位置を占めていた。

「6番・木俣が流し打ち」と歌われているが、木俣は、流し打ちも出来れば、一発長打も打てる、打撃センス溢れる選手であった。

 

 

 

1960(昭和35)年、県岐阜商から中日に入団した高木守道と、

1964(昭和39)年、中京商-中京大学を経て中日に入団した木俣達彦は、

長年、中日の中心選手として活躍しており、1974(昭和49)年当時には、円熟期を迎えていた。

そして、木俣は正捕手として、星野仙一らの投手陣の信頼も厚く、中日にとっては欠かせない選手であった。

 

 

 

 

7番・三塁手 島谷金二(打率.259 11本塁打 41打点)

 

島谷金二は、1969(昭和44)年に中日に入団し、この年(1974年)、プロ6年目を迎えていたが、

「7番・島谷ヒットエンドラン」と歌われた通り、器用な打者で、三塁でも堅実な守備を見せた。

1974(昭和49)年10月12日の中日-大洋戦、20年振り優勝のウィニングボールとなる、

山下大輔(大洋)の三塁ライナーを捕ったのも、島谷であった。

なお、島谷は1977(昭和52)年、阪急ブレーブスへと移籍している。

 

 

8番・遊撃手 広瀬宰(打率.229 5本塁打 26打点)

 

広瀬宰は、1969(昭和44)~1972(昭和47)年にロッテに在籍した後、

1973(昭和48)年に中日に移籍し、堅実な内野守備で、中日のショートのレギュラーを獲得した。

「8番・広瀬がスクイズバント」と歌われているが、そのような小技も利く一方、

この年(1974年)の日本シリーズ第2戦ではホームランを放ち、14打数5安打1打点を記録している。

1976(昭和51)年に太平洋クラブに移籍し、1981(昭和56)年に引退するまで、ライオンズで渋い活躍を見せている。

 

「星野仙一 強気の勝負、松本・渋谷のミラクル投法、鈴木・竹田の快速球、三沢も稲葉も水谷も…いいぞ 頑張れ ドラゴンズ 燃えよドラゴンズ!」

 

 

 

 

星野仙一(49試合 7完投1完封 15勝9敗10セーブ 防御率2.87)

 

星野仙一は、言わずと知れた中日のエースであり、

1969(昭和44)年に明治大学から中日に入団して以来、「打倒・巨人」に全てを懸けて来た。

1974(昭和49)年、星野仙一は、先発にリリーフに、大車輪の活躍をして、

「沢村賞」と、「初代最多セーブ」を、1人で両方とも獲得し、中日20年振り優勝の原動力となった。

星野の「打倒・巨人」への執念が、遂に実ったが、「星野仙一 強気の勝負」と歌われている通り、

巨人にも真っ向勝負で立ち向かい、その気迫が、中日優勝に繋がったと言って良い。

 

 

 

松本幸行(40試合 11完投3完封 20勝9敗 防御率3.13)

 

松本幸行(まつもと・ゆきつら)は、1970(昭和45)年に中日に入団した左腕投手で、

1972(昭和47)~1973(昭和48)年に、13勝⇒14勝と、2年連続2桁勝利を挙げた後、

この年(1974年)は、遂に20勝を達成し、中日の左のエースとして、優勝に大きく貢献した。

「ミラクル投法」と歌われている通り、松本は、捕手からの返球を受けると、すぐに投げ始めるという投球スタイルで、

相手打者に的を絞らせず、スイスイと投げ切るのが、大きな特徴であった。

 

 

 

「鈴木・竹田の快速球、三沢も稲葉も水谷も…」

と歌われているのは、鈴木孝政、竹田和史、三沢淳、稲葉光雄、水谷寿伸の各投手であるが、

前年(1973年)、千葉・成東高校から中日に入団し、この年(1974年)はプロ2年目の鈴木孝政は、とにかく滅法、球が速く、

鈴木孝政は、1974(昭和49)年には35試合 4勝2敗2セーブ 防御率3.52の成績を残し、優勝に貢献した。

この快速球を武器に、翌年(1975年)以降、鈴木は抑えの切り札として、大活躍して行く事となるのである。

 

「一発長打の大島君、代打男の江藤君、スイッチヒッター ウイリアム、期待のルーキー 藤波君…いいぞ 頑張れ ドラゴンズ 燃えよドラゴンズ!」

 

 

 

大島康徳は、この年(1974年)は大分・中津工高から中日に入団して、プロ6年目の選手だったが、

「一発長打の大島君」と歌われた通り、長打力が魅力の選手であり、1974(昭和49)年には打率.258 11本塁打 46打点の成績を残したが、まだレギュラーには定着しておらず、「代打の切り札」的存在でもあった。

大島は「意外性の男」と称されていたが、この後、大島は1988(昭和63)年に日本ハムに移籍し、通算2000安打も達成、

1994(平成6)年に引退するまで、現役26年間を全うする、大選手に成長した。

 

 

 

 

「代打男の江藤君」こと、江藤省三は、かつて、中日で大活躍した大打者・江藤慎一の弟であり、

江藤省三は、慶応から1966(昭和41)年に、同期の堀内恒夫らと共に巨人に入団した。

1966(昭和41)~1968(昭和43)年まで、巨人に在籍した後、1969(昭和44)年から、江藤省三は中日に移籍したが、

同年(1969年)限りで、江藤慎一はロッテへと移籍し、江藤兄弟は1969(昭和44)年の1年しか、同じ球団ではプレーしていない。

1974(昭和49)年、江藤省三は、打率.261 1本塁打 9打点で、主に代打として活躍した。

 

 

「スイッチヒッター、ウイリアム」こと、ウイリアムは、前年(1973年)に中日に入団し、打率.264 10本塁打 38打点という成績であり、2年目のこの年(1974年)は、打率.224 4本塁打 27打点と、「助っ人」としては物足りない数字であり、

同年(1974年)限りで中日を退団した。

しかし、『燃えよドラゴンズ』の歌詞には名を残し、中日ドラゴンズの球団史上には名を刻んでいるので、ご記憶の中日ファンも多いであろう。

 

 

「期待のルーキー・藤波君」こと、藤波行雄は、

この年(1974年)、中央大学から中日に入団し、90試合 打率.289(114打数33安打) 1本塁打の成績を挙げ、新人ながら、中日優勝に貢献した。

この3年後の1977(昭和52)年、藤波は「トレード拒否騒動」を起こす事となる。

 

<1974(昭和49)年の日本シリーズ…中日ドラゴンズ、ロッテオリオンズに2勝4敗で敗退、日本一を逃す>

 

 

 

1974(昭和49)年の日本シリーズは、中日ドラゴンズと、ロッテオリオンズの対決となったが、

中日は、20年振りのリーグ優勝で力を使い果たし、また、日本シリーズ前に、

長嶋茂雄の引退試合の当日(1974/10/14)に、地元・名古屋で優勝パレードを行なったのが祟ったのか、

日本シリーズでは、中日はロッテに2勝4敗で敗れ、惜しくも「日本一」は逃してしまった。

この後、中日の「日本一」への挑戦には、更に険しい道のりが待っていた。

 

<1975(昭和50)年の中日ドラゴンズ…中日と広島が激しい優勝争いを繰り広げ、『燃えよドラゴンズV2』がリリースされるも、中日は惜しくも「V2」を逃す~広島カープが、球団創立26年目の初優勝>

 

 

 

1975(昭和50)年、ウォーリー与那嶺監督率いる中日ドラゴンズは、「V2」を目指して開幕したが、

この年(1975年)は、就任1年目の長嶋茂雄監督率いる巨人が、開幕から最下位を独走し、

巨人以外の5球団が、1度は首位を経験するという、混戦の展開となった。

そんな混戦を勝ち抜き、中日は首位戦線に浮上し、この年(1975年)、悲願の初優勝を目指す広島カープと、「V2」を目指す中日ドラゴンズは、シーズン終盤まで、激しい優勝争いを繰り広げた。

 

 

そして、遂に、前年(1974年)の『燃えよドラゴンズ』の「続編」である、

『燃えよドラゴンズ!V2』がリリースされ、この曲の中で、「ドラゴンズ、今年も優勝だ!V2だ!!」と歌われたが、

それ以来、中日ドラゴンズは、「優勝した年」ではなく、「優勝しそうになった年」に、『燃えよドラゴンズ』が、その年バージョンとしてリリースされるのが、「伝統」となって行った。

従って、結果として優勝出来なかった年バージョンの『燃えよドラゴンズ』が、この後、沢山リリースされて行く事となるのである。

 

 

星野仙一は、1975(昭和50)年もエースとして大活躍し、

この年(1975年)、星野仙一は、40試合6完投3完封 17勝5敗4セーブ 防御率2.77という素晴らしい成績を残した。

勝率.773は、この年(1975年)のセ・リーグ最高勝率であった。

 

 

この年(1975年)、抑えの切り札に抜擢された鈴木孝政は、

67試合 9勝8敗21セーブ 防御率2.98で、初の「最多セーブ」のタイトルを獲得した。

前述の通り、滅法、球が速かった鈴木に、各球団の打者は手を焼いたが、

「リリーフエース」となった鈴木は、中日ファンにとって頼もしい存在であった。

なお、鈴木孝政を抑えに抜擢したのは、近藤貞雄・投手コーチであり、

「鈴木は球が速いから、球が少々、真ん中に行っても、平凡な打者には打たれない」

というのが、その抜擢の理由だったという。

鈴木は、その期待に、見事に応えたのであった。

 

 

 

井上弘昭は、この年(1975年)、打率.318 18本塁打 65打点の成績を残し、

山本浩二(広島)と、最後の最後まで、首位打者を争ったが、

最終的には、打率.318の山本浩二に、1厘差で及ばず、井上は惜しくも首位打者のタイトルを逃してしまった。

10月18日の広島-中日戦で、井上は満塁の場面で代打で登場したが、何と、広島バッテリーは満塁で井上を敬遠してしまった。

プロ野球史上初の「満塁敬遠」で、井上は惜しくもタイトルを獲得出来ず、涙を呑んだのであった。

 

 

なお、この年(1975年)、広島と中日の優勝争いは、最後まで続いたが、

最後は、広島カープが中日ドラゴンズを僅かに上回り、広島カープが、球団創立26年目にして、悲願の初優勝を達成した。

中日ドラゴンズは、惜しくも「V2」を逃し、広島の引き立て役となってしまった(※69勝53敗8分 勝率.566で2位)。

 

<1976(昭和51)年の中日ドラゴンズ…「人工芝ノイローゼ」で、後楽園での巨人戦に全敗し、4位に終わる~谷沢健一が初の「首位打者」、鈴木孝政が「2年連続最多セーブ」&「最優秀防御率」獲得!!>

 

 

 

 

1976(昭和51)年の中日ドラゴンズは、2年振りの優勝を目指していたが、

2年前の優勝メンバーが揃っていたものの、この年(1976年)に中日は大苦戦してしまった。

その原因は、この年(1976年)から後楽園球場で使用された「人工芝」であった。

 

 

1976(昭和51)年、後楽園球場は、プロ野球史上初めて、「人工芝」を使用する事となったが、

「人工芝」は、一枚めくると下はコンクリートであり、「人工芝」では、球が異様に弾んだりした。

そのため、本拠地・ナゴヤ球場(※1975年に、中日球場から改名)が土のグラウンドである中日は、

慣れない「人工芝」に大苦戦してしまい、中日は、この年(1976年)、後楽園での巨人戦に全敗を喫してしまった。

その「人工芝ノイローゼ」が響いて、中日はこの年(1976年)、54勝66敗10分 勝率.450の4位と、Bクラスに低迷してしまったが、

その責任を取る形で、当時、ウォーリー与那嶺監督とも対立していた、近藤貞雄ヘッドコーチが辞任してしまった。

 

 

中日がBクラスに低迷する中、エース・星野仙一は、40試合6完投3完封 10勝6敗 防御率3.93と、

二桁勝利という最低限の役割を果たしたが、全体的には不振の1年であった。

星野が、あまり勝てないとなれば、中日が苦戦するのも、止むを得なかった。

 

 

 

そんな中、抑えに定着して2年目の鈴木孝政は、60試合 7勝8敗26セーブ 防御率2.98で、

2年連続の「最多セーブ」と、何と、リリーフ投手ながら規定投球回数に達し、「最優秀防御率」のタイトルも獲得してしまった。

今のプロ野球では到底考えられない事であるが、当時のストッパーは、チームがリードしていれば、

7回ぐらいから登板しており、極端に言えば「勝てる試合では、2イニングでも3イニングでも投げる」というのが、抑え投手の役割であった。

鈴木は、その「酷使」にも耐え、相変わらずの快速球で、快進撃を続けたのである。

 

 

中日に入団して3年目のマーチンは、この年(1976年)、打率.281 40本塁打 104打点という、

来日以来、最高の成績を挙げたが、マーチンは、日本に来てから打撃技術が向上し、

日本で花開いた外国人選手の典型であった。

 

 

 

 

 

 

 

谷沢健一は、この年(1976年)、背番号を「14」から「41」に変更したが、

その甲斐有ってか、谷沢は大打者・張本勲(巨人)との激しい首位打者争いを制し、

最後は、谷沢健一(打率.3548)-張本勲(打率.3547)と、僅か「1毛差」で、谷沢が張本を上回り、

谷沢健一が、見事に初の「首位打者」のタイトルを獲得した。

なお、「1毛差」というのは、勿論、首位打者争いにおける、史上最少の僅差での決着である。

 

 

あの「一発長打の大島君」こと大島康徳は、

この年(1976年)、「シーズン代打本塁打7本」の、日本新記録を達成し、

打率.251 11本塁打 33打点という成績を残した。

大島は、レギュラー獲得まで、あと一歩に迫っていた。

 

 

そして、この年(1976年)、同志社大学から、中日に入団したのが、好打者・田尾安志であった。

田尾安志は、この年(1976年)、新人ながら打率.277 3本塁打 21打点の成績を挙げ、田尾は新人王を獲得した。

…というわけで、このように、1976(昭和51)年の中日ドラゴンズは、個々の選手は活躍したものの、

チーム全体としては、今一つの結果に終わってしまったのである。

 

<1977(昭和52)年の中日ドラゴンズ…大物メジャーリーガー、ウィリー・デービスが加入し、大活躍するも、中日は3位に終わり、ウォーリー与那嶺監督は退陣>

 

 

 

 

1977(昭和52)年、ウォーリー与那嶺監督が中日ドラゴンズを率いて、6年目のシーズンを迎えていたが、

中日は、1974(昭和49)年に優勝して以来、なかなか優勝から遠ざかってしまっており、

そろそろ、ウォーリー与那嶺体制で2度目の優勝を…と、中日ファンも待ち望んでいた。

 

 

 

 

この年(1977年)、中日ドラゴンズに、1人の大物メジャーリーガーが入団した。

その名は、ロサンゼルス・ドジャースなどで活躍した、1940年生まれで、当時37歳のウィリー・デービスである。

ウィリー・デービスは、メジャーリーグ通算2,561安打と、桁違いの実績を残して来た、大物中の大物であった。

 

 

 

当時、中日には、1974(昭和49)年以来、中日の主砲として活躍していたマーチンが居たが、

デービスにとっては、マーチンなど小物も小物であり、

「お前か、マーチンって奴は?」と、デービスはマーチンなど鼻にも引っ掛けない態度であった。

「イエス・サー!!」マーチンも、デービスの前では、直立不動だったという。

 

 

 

 

そのウィリー・デービスは、流石の大活躍を見せ、

5月14日の巨人-中日戦では、何と、史上初の「ランニング満塁ホームラン」を記録するなど、

走・攻・守にわたり、「格」の違いを見せ付け、72試合 打率.306 25本塁打 63打点という成績を残した。

僅か72試合しか出場していないにも関わらず、この成績は驚異的だが、

何しろ、デービスはムラっ気が多く、首脳陣が、練習態度を注意しても、

「この俺を誰だかわかってるのか?俺はウィリー・デービスだぞ」

などと言い、首脳陣の事など、ハナから舐めてかかっていたという。

マーチンも、デービスにはすっかりビビッてしまい、彼には近寄らないようになっていた。

こうして、デービスは成績は素晴らしかったが、チームの和を乱してしまい、この年(1977年)限りで中日を退団し、翌1978(昭和53)年にはクラウンライターへと移籍してしまった。

 

 

 

そんな中、エース・星野仙一は42試合 18勝13敗5セーブ 防御率3.52という、流石の成績を残し、

リリーフエース・鈴木孝政は、57試合 18勝9敗9セーブで、見事に「3年連続最多セーブ」を獲得した。

 

 

 

しかし、この年(1977年)の中日ドラゴンズは、64勝61敗5分 勝率.512で3位に終わり、

ウォーリー与那嶺監督は、惜しまれつつ、この年(1977年)限りで、中日監督を退任した。

ウォーリー与那嶺監督は、1972(昭和47)年の就任以来、6年間で、

「3位⇒3位⇒優勝⇒2位⇒4位⇒3位」

と、常に中日を上位に進出させ、1974(昭和49)年には中日20年振り優勝を実現させ、名古屋の地を熱狂させた、偉大な監督だったが、遂に退任の時を迎え、中日ドラゴンズの一つの時代が終焉を迎えたのである。

 

(つづく)