【今日は何の日?】1992/10/10…ヤクルトスワローズ、14年振り優勝(第1話) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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今から28年前、1992(平成4)年10月10日、

野村克也監督率いるヤクルトスワローズが、初優勝した1978(昭和53)年以来、14年振り2度目の優勝を達成した。

この年(1992年)のセ・リーグは、ヤクルトスワローズ阪神タイガースが、最後の最後まで、優勝を争ったが、

1992(平成4)年10月10日、「マジック1」ヤクルトが、甲子園球場で2位・阪神との直接対決で、阪神を5-2で破り、ヤクルトの優勝が決定した。

 

 

ヤクルト・野村克也監督は、万感の表情で、ヤクルトの選手達から胴上げされ、甲子園で宙を舞ったが、

この日(1992/10/10)、甲子園球場には、阪神の逆転優勝を信じる阪神ファンで埋め尽くされており、ヤクルトファンは、ほんの僅かしか居なかった。

ヤクルトと阪神は、残り2試合で、首位・ヤクルトは2位・阪神に2ゲーム差を付けていた。

10月10日~11日、甲子園球場で、阪神-ヤクルトの2連戦が有ったが、ヤクルトは2試合の内、1つでも勝てば優勝、

阪神は、2試合に連勝して、漸くヤクルトと同率首位になり、その場合、ヤクルトと阪神のプレーオフ(優勝決定戦)が行われる、という状況であった。

 

 

 

 

しかし、ヤクルトは10月10日の試合で、阪神を5-2で破り、阪神の最後の希望を打ち砕き、優勝を勝ち取ったのである。

ヤクルトと阪神は、球史に残るデッドヒートを繰り広げ、阪神にも充分に優勝のチャンスが有ったが、最後は、野村監督率いるヤクルトに凱歌が上がった。

野村監督の胴上げの際に、甲子園の阪神ファンは、怨嗟の気持ちを込めて、一斉に「帰れ!!」コールをしたが、それは虚しく響くだけであった。

という事で、今回は、1992(平成4)年のヤクルト14年振り優勝に、スポットを当ててみる事とするが、まずは、その「第1話」として、1978(昭和53)年~1959(昭和54)年の「広岡ヤクルト」の「天国と地獄」について、描いてみる事としたい。

 

<1978(昭和53)年…広岡達朗監督率いるヤクルトスワローズ、球団創立29年目の初優勝!!⇒日本シリーズでも、ヤクルトが阪急を4勝3敗で破り、ヤクルトが日本一に輝く!!>

 

 

 

 

1978(昭和53)年10月4日、広岡達朗監督率いるヤクルトスワローズは、

「マジック1」で、神宮球場のヤクルト-中日戦を迎えていたが、

ヤクルトが、9-0で中日を破り、ヤクルトスワローズが、球団創立29年目の初優勝を達成した(68勝46敗16分 勝率.596)。

この日、神宮球場を埋め尽くしたヤクルトファンは、ヤクルトの悲願の初優勝に酔いしれ、

ヤクルト初優勝が決まった瞬間、どっとグラウンドに雪崩れ込んだ。

そして、選手とファンが一体となって、見事にヤクルトを初優勝に導いた広岡監督を胴上げした。

 

 

 

 

続いて、ヤクルトスワローズと、それまで3年連続日本一(1976~1978年)に輝いていた、王者・阪急ブレーブスが対決した日本シリーズでも、ヤクルトの勢いは持続し、激闘の末、ヤクルトが4勝3敗で阪急を破り、見事に、ヤクルトが初の日本一を達成した。

初優勝のヤクルトと、王者・阪急では格が違うというか、事前の予想でも、阪急が有利という予想が多かったようであるが、

ヤクルトが前評判を覆し、見事に日本一の座に就いたのである。

 

 

当時、就任3年目だった広岡達朗監督は、弱小球団と言われ、「万年Bクラス」に沈んでいたヤクルトを、見事な手腕で建て直し、遂には日本一の座に就けてしまい、その手腕が絶賛されたが、広岡監督が取った手法とは、

徹底した「管理野球」であり、それは「広岡式海軍野球」とも称された。

では、そんな広岡監督に率いられた、1978(昭和53)年のヤクルトスワローズの優勝メンバーとは、一体どんな選手達だったのか、見てみる事としよう。

 

<1978(昭和53)年のヤクルトスワローズの優勝メンバー①(野手編)>

 

 

 

1978(昭和53)年、ヤクルトスワローズの栄光の初優勝メンバーを、ご紹介させて頂くが、まずは「野手編」である。

彼らは、実に個性溢れる選手達であり、時には、厳しすぎる広岡監督に反発する事も有ったようであるが、

「勝利」という結果を出す事によって、彼らは結束し、遂には優勝を勝ち取ったのである。

 

 

 

1番・ヒルトンは、ヤクルトの春季キャンプにやって来て、テスト入団した選手であるが、

そのバッティングフォームは、極端に低く構えるクラウチング・スタイルであり、お世辞にもスマートなフォームではなかったが、

それでも、ヒルトンはボールにしぶとく食らい付く貪欲な姿勢で、この年(1978年)のヤクルトの「斬り込み隊長」として、

打率.317 19本塁打 76打点という成績を残し、ヤクルト初優勝に大きく貢献した。

ヒルトンこそ、広岡ヤクルトの象徴というか、二塁手の守備も堅実であり、まさに広岡監督好みの、野球をよく知り尽くした好選手であった。

 

 

 

2番・角富士夫(すみ・ふじお)は、この年(1978年)、広岡監督に三塁手に抜擢され、

堅実な三塁守備と、勝負強いバッティングで、ヤクルト内野陣の一角を担った。

この年(1978年)、角は打率.273 7本塁打 29打点の成績を残したが、この後、角は長らくヤクルトの正三塁手として活躍した。

 

 

 

3番・若松勉は、背番号「1」で、「ミスター・スワローズ」とも称された、

まさにヤクルト球団史上に残る名選手であり、小柄な身体でヒットを量産した「小さな大打者」であるが、

若松は、この年(1978年)、打率.341 17本塁打 71打点と、MVP級の大活躍を見せた。

若松の大活躍無くして、1978(昭和53)年のヤクルト初優勝は無かったに違いない。

 

 

若松は、時には広岡監督と衝突する事も有ったというが、最後は広岡監督に心服していたという。

それも、優勝という最高の結果が出たからであるが、そう考えると、やはりプロ野球とは「勝ってナンボ」であると言えよう。

なお、若松の背負った背番号「1」は、その後、「ミスター・スワローズ」の象徴として、若松勉-池山隆寛-岩村明憲-青木宣親-山田哲人へと、受け継がれている。

 

 

 

4番・大杉勝男は、誰もが認める、右の強打者であり、5番・マニエルと共に、ヤクルト打線の中核となった(※大杉とマニエルは、時には4番、5番を入れ替わりで打っていた)。

この年(1978年)、大杉勝男は打率.327 30本塁打 97打点という成績を残したが、大杉の豪快な打撃は、パ・リーグの東映フライヤーズ在籍時から変わらなかった。

更に、大杉は広岡監督の方針で、時には一発狙いではなく、ランナーを返すバッティングに徹したりと、ポイントゲッターとしての役割も果たした。

 

 

 

1978(昭和53)年の大杉勝男で思い起こされるのは、やはり、日本シリーズでの「大事件」であろう。

ヤクルトと阪急が3勝3敗で迎えた日本シリーズ第7戦、大杉勝男は、足立光宏(阪急)から、レフトのポール際に大飛球を放ち、

レフトの線審・冨沢宏哉がホームランと判定したが、この判定に、阪急ナインと、阪急・上田利治監督が猛抗議し、試合は1時間19分も中断してしまった。

 

 

 

しかし、結局、判定は変わらず、ホームランとして試合再開となったが、

大杉は、次の打席で、山田久志(阪急)から、今度は左中間スタンドに、文句無しのホームランを放ち、

結局、ヤクルトが4-0で勝利し、ヤクルトが日本一となったは、この年(1978年)の日本シリーズで、大杉はMVPを獲得した。

という事で、ヤクルトの大杉といえば、この「大事件」が、あまりにも有名である。

(※阪急・上田利治監督は、この騒動と、日本シリーズ敗退の責任を取り、辞任した)

 

 

 

 

「赤鬼」と称された、5番・マニエルは、大杉と共に、ヤクルト打線の主砲として大活躍し、

この年(1978年)、マニエルは打率.312 39本塁打 103打点という成績を残し、ヤクルト優勝の原動力となった。

大杉勝男、マニエル(※時には、その逆の順番)と並ぶヤクルト打線の中軸は、他球団の脅威の的であった。

 

 

なお、マニエルは、前述の日本シリーズ第7戦での、大杉の「疑惑のホームラン」の後、

1時間19分の中断の直後の打席で、左中間スタンドにホームランを放ち、集中力の高さを見せ付けた。

流石は、マニエルはアメリカ大リーグでも活躍した選手である。

 

 

 

しかし、マニエルは広岡監督とは、どうにもソリが合わず、

この年(1978年)のシーズン終了後、広岡監督はマニエルをクビにしてしまった。

その理由としては、「いくら打っても、守れない、走れないの選手は要らない」というものであったが、

あれだけ活躍し、優勝に大きく貢献したにも関わらず、クビにされてしまうとは、これはまさに「異常事態」であった。

 

 

 

6番・杉浦亨は、この年(1978年)、広岡監督にレギュラーに抜擢されると、

左打席から放たれる、弾丸ライナーの鋭い打球で、その地位を不動のものとした。

この年(1978年)、杉浦は打率.291 17本塁打 67打点の成績を残したが、

この年(1978年)のシーズン終盤(9月20日)、杉浦亨は星野仙一(中日)から劇的な逆転サヨナラ3ランを放つと、その翌日(9月21日)にもサヨナラ犠牲フライを放つなど、勝負強さが光った。

そして、この杉浦の勝負強さは、1992(平成4)年の日本シリーズ第1戦での、あの伝説の「代打サヨナラ満塁ホームラン」へと繋がって行くのである。

 

 

 

7番・捕手の大矢明彦は、ヤクルトの正捕手として、広岡監督の、そしてヤクルト投手陣の絶大な信頼を集めていた。

大矢の好リードが有ったればこそ、ヤクルト投手陣は存分に活躍する事が出来たと言って、間違いない。

大矢は、この年(1978年)、打率.268 7本塁打 44打点と、打つ方でも活躍したが、

大矢が背負った背番号「27」は、根来広光-大矢明彦-古田敦也へと受け継がれる、スワローズの正捕手の伝統の背番号である。

 

 

 

8番・水谷新太郎は、その守備力を買われ、広岡監督にショートのレギュラーとして重宝されたが、

広岡監督は、現役時代は名ショートだったため、やはり、しっかり守れる選手が好みであった。

なお、水谷はこの年(1978年)、打率.290 1本塁打 17打点という成績を残した。

 

 

 

1978(昭和53)年のヤクルトは、控え選手も充実していた。

三塁手で、角富士夫と併用されていた、「ライフルマン」船田和英(※かつて「ライフルマン」という西部劇が有り、船田はその俳優に似ていると言われた)、は、勝負強いバッティングと、強肩を活かした三塁守備で、重要な戦力となっていた。

この年(1978年)、船田和英は打率.271 8本塁打 25打点という成績を残している。

 

 

広岡監督に、代打の切り札として重宝された永尾泰憲は、

この年(1978年)は打率.211 0本塁打 17打点という成績であったが、控え内野手として、貴重な戦力となった。

この後、永尾はヤクルト-近鉄-阪神と渡り歩き、バイプレーヤーとして渋い活躍を続けた。

 

 

近鉄時代、三原脩監督に「伊勢大明神」というニックネームを付けられていた伊勢孝夫は、

ヤクルトでも、代打の切り札として、相変わらず「大明神」ぶりを発揮し、

この年(1978年)は、打率.262 2本塁打 16打点という成績を残し、しばしば、良い場面で打った。

後に、伊勢孝夫はヤクルトの打撃コーチとして、数々の好打者を育てている。

 

<1978(昭和53)年のヤクルトスワローズの優勝メンバー②(投手編)>

 

 

 

1978(昭和53)年のヤクルトスワローズの投手陣も、豪華メンバーであった。

広岡達朗監督と、森昌彦ヘッドコーチは、巨人での現役時代、それぞれ名ショートと名捕手として活躍していたが、

だからこそ、勝つためには投手力、守備力が大事であるという事を、よくわかっており、投手陣の整備に全力を挙げていた。

ヤクルトの打撃陣は確かに強力だったが、投手陣の奮闘が有ったからこそ、1978(昭和53)年のヤクルト初優勝は実現したのであった。

という事で、1978(昭和53)年のヤクルトスワローズの優勝メンバーの「投手編」である。

 

 

 

 

 

松岡弘(まつおか・ひろむ)は、1970年代、ヤクルトが弱小球団と言われ、「万年Bクラス」だった頃から、ヤクルトのエースとして孤軍奮闘していたが、

この年(1978年)、松岡弘は、43試合 16勝11敗2セーブ 防御率3.75と、まさにヤクルトの大黒柱として奮闘し、

10月4日のヤクルト初優勝決定の試合では、松岡は完封勝利を挙げ、見事に胴上げ投手となった。

 

 

 

ヤクルトと阪急の日本シリーズでは、松岡弘は4試合に登板し、2勝2セーブと大活躍したが、

前述の、大杉の「疑惑のホームラン」が有った、第7戦では、1時間19分という長い中断が有ったにも関わらず、

松岡は、最後の最後まで集中力を切らさず、4-0で完封勝利を挙げ、松岡はリーグ優勝に続き、日本一の胴上げ投手にもなった。

 

 

 

左腕の安田猛は、全く力感の無い、飄々とした投球スタイルで、

時には、人を食ったようなスローボールを投げるなど、相手打者を翻弄したが、

安田はスタミナも抜群で、この年(1978年)は47試合 15勝10敗4セーブ 防御率3.93と、先発にリリーフにと、大車輪の活躍をした。

恐らく、安田は広岡監督が最も信頼した投手だったのではないだろうか。

 

 

 

前年(1977年)に、王貞治に、世界新記録となる「通算756号ホームラン」を打たれ、

「王に756号を打たれた鈴木」として、すっかり有名になってしまった鈴木康二朗(すずき・やすじろう)であるが、

それは、王から逃げずに、真っ向勝負を挑んだ結果でもあった。

 

 

 

その鈴木康二朗は、この年(1978年)は13勝3敗1セーブ 防御率4.11という成績を残し、

ヤクルトの先発陣の一角として、優勝に大きく貢献した。

「王に756号を打たれた鈴木」は、その翌年(1978年)に、ヤクルト初優勝の重要メンバーの1人となっていたのである。

 

 

1978(昭和53)年のヤクルトには、二桁勝利を挙げた投手が4人居た。

松岡弘、安田猛、鈴木康二朗と、もう1人が井原慎一朗である。

井原慎一朗は、リリーフとして活躍し、58試合 10勝4敗4セーブ 防御率3.38という成績を残し、

広岡監督に、大事な場面を任された井原であるが、見事にその期待に応えた。

 

 

梶間健一は、前年(1977年)、新人ながら、先発にリリーフにと大活躍を見せたが(44試合 7勝7敗1セーブ 防御率3.34)、

この年(1978年)は、47試合 3勝8敗2セーブ 防御率5.34と、成績を落とした。

しかし、貴重な左腕として、広岡監督に重宝され、優勝メンバーの一員となった。

 

<1978(昭和53)年、ヤクルトスワローズを頂点に導き、「バラ色のシーズンオフ」を過ごした広岡監督だったが…>

 

 

というわけで、1978(昭和53)年、「万年Bクラス」だったヤクルトスワローズを頂点に導き、

まさに「バラ色のシーズンオフ」を過ごした広岡監督だったが、

翌1979(昭和54)年、思わぬ「落とし穴」に、嵌ってしまう事になるのである。

 

<1979(昭和54)年のヤクルトスワローズ①…「ヤクルト-大洋」の開幕戦で、松岡弘が田代富雄(大洋)に3打席連続ホームランを浴び、そこから「開幕8連敗」と、最悪のスタート>

 

 

 

 

初優勝の翌年、1979(昭和54)年のヤクルトスワローズは、当然、「連覇」を目指していた。

広岡監督としても、「連覇」の手応えは有ったと思われるが、

弱小チームだったヤクルトが一気に頂点まで駆け上がってしまった事への「反動」が懸念されていた。

 

 

 

 

その不安は、いきなり現実の物となった。

1979(昭和54)年の開幕戦は、神宮球場でのヤクルト-大洋戦だったが(※この試合、神宮球場は超満員であり、解説の金田正一「プロ野球も変わったねえ!」とコメントした。巨人戦以外で満員になるというのは、当時、それだけ珍しい事であった)、

開幕投手を任された、エース・松岡弘が、田代富雄(大洋)に、3打席連続ホームランを喫してしまったのである。

 

 

開幕戦を落としたヤクルトは、一気に調子がおかしくなってしまった。

何と、ヤクルトは「開幕8連敗」を喫してしまい、スタートから大きく躓いてしまったのである。

「去年(1978年)の、あの日本一は何だったのか…」

最悪なスタートに、ヤクルトファンは大きく失望し、広岡監督も、「打つ手無し」といった渋い表情を浮かべるばかりであった。

 

<1979(昭和54)年のヤクルトスワローズ②…マニエルをクビにした代わりに獲得したスコットが大活躍!!~5月26日、阪神-ヤクルトのダブルヘッダー(甲子園球場)で、2試合に跨って「サイクル本塁打」の快挙達成>

 

 

 

終始、苦戦が続いた、1979(昭和54)年のヤクルトだったが、明るい話題も有った。

マニエルをクビにした代わりに獲得した、新外国人選手のスコットが、打率,272 28本塁打 81打点という成績を残したのである。

マニエルには及ばないものの、まずは及第点と言える活躍だったが、スコットが強烈な印象を残したのは、1979(昭和54)年5月26日の、阪神-ヤクルトのダブルヘッダー(甲子園球場)であった。

スコットは、2試合に跨って、第1試合で2ラン・満塁、第2試合でソロ・3ランという、「サイクル本塁打」を達成したのである。

日本プロ野球では、1試合で「ソロ・2ラン・3ラン・満塁」という、全ての種類のホームランを打つ「サイクル本塁打」は、まだ誰も達成していないが、この時のスコットは、それに最も近付いたと言って良い。

ともかく、スコットの活躍は、この年(1979年)のヤクルトの、数少ない好材料の1つだった。

 

<1979(昭和54)年のヤクルトスワローズ③…後の「1980年代のヤクルトのエース」尾花高夫の台頭>

 

 

前年(1978年)、ヤクルトに入団し7試合 1勝0敗 防御率4.15という成績だった尾花高夫は、

この年(1979年)、プロ2年目で、36試合 2完投1完封 4勝9敗 防御率4.93という成績を残した。

この年(1979年)は、投手陣が壊滅状態だったため、まだプロ2年目だった尾花にも数多くの出番が有ったが、

後の「1980年代のヤクルトのエース」尾花高夫は、後の飛躍の土台を、この年(1979年)に築いた。

 

<1979(昭和54)年のヤクルトスワローズ④…森昌彦、植村義信の両コーチの解雇に激怒した広岡監督、シーズン途中でヤクルト監督を辞任~投打共に壊滅状態のヤクルト、48勝69敗13分 勝率.410で「日本一の翌年に最下位」に沈む(※1960年⇒1961年の大洋以来、史上2度目)~「広岡ヤクルト」体制の崩壊>

 

 

1979(昭和54)年のヤクルトスワローズは、やはり「開幕8連敗」が響いてしまい、全く浮上の気配が無く、

前年(1978年)に、せっかく日本一になったにも関わらず、この年(1979年)は、開幕から最下位を独走してしまった。

ヤクルトは、また元の弱小球団に逆戻りしてしまったが、8月14日にヤクルト球団は森昌彦、植村義信の両コーチを解雇してしまった。

開幕から、なかなか勝てず、チーム内でも「不協和音」が有ったが、中でも森と植村は選手からの評判も悪く、そのため、球団がその2人に詰め腹を切らせたのである。

これは、広岡監督にも諮らず、ヤクルト球団が独自に行なった事であり、この仕打ちに広岡監督は激怒した。

そして、まだシーズン中だったにも関わらず、8月17日、広岡達朗監督はヤクルト監督を辞任してしまった。

 

 

 

結局、この年(1979年)のヤクルトは、48勝69敗13分 勝率.410で最下位に終わったが、

「日本一の翌年に最下位」というのは、1960(昭和35)年⇒1961(昭和36)年の大洋ホエールズ以来、史上2度目の屈辱であったが、まさにヤクルトは2年間で、「天国と地獄」の両極端を味わってしまった。

こうして、一度はプロ野球界の頂点に立った「広岡ヤクルト」体制は、アッサリと崩壊してしまった。

この後、ヤクルトスワローズは、あの1978(昭和53)年の初優勝は、何かの間違いであったかのような(?)、弱小球団に逆戻りして、長い長い低迷期を迎える事となってしまう。

 

<「余談」~1979(昭和54)年のマニエルと近鉄バファローズ…マヤクルトをクビにされた、マニエルの大活躍で、西本幸雄監督率いる近鉄バファローズが初優勝!!>

 

 

 

さて、ここからは「余談」であるが、「広岡ヤクルト」体制が崩壊した1979(昭和54)年の、マニエル近鉄バファローズについて、ご紹介させて頂く。

1978(昭和53)年、広岡監督と対立し、ヤクルト初優勝に大きく貢献しながらも、ヤクルトをクビにされたマニエルは、

翌1979(昭和54)年、近鉄バファローズへと移籍した。

近鉄の西本幸雄監督は、冷徹な広岡達朗監督とは対照的な、人間味溢れる指揮官であり、マニエルと西本監督は、非常に馬が合った。

 

 

また、パ・リーグには指名打者制度が有り、マニエルは苦手な外野守備に就く事なく、

指名打者として打撃に専念する事が出来たため、マニエルの打撃は威力を増した。

「新しいボスのために」と意気込むマニエルは、この年(1979年)、開幕から48試合でホームラン24本、打率.378と、凄まじい猛打を炸裂させ、マニエルの活躍もあり、近鉄は前期優勝に向け、首位を独走していた。

 

 

 

しかし、1979(昭和54)年6月9日のロッテ戦で、マニエルは八木沢荘六(ロッテ)から顔面に死球を受け、

マニエルは、顎を複雑骨折するという、大怪我を負ってしまった。

それは、顎の骨がグチャグチャに砕ける程の酷い怪我であり、マニエルは緊急手術を受けた。

このマニエルの離脱により、近鉄は失速し、大ピンチに陥ったが、それまでの貯金が物を言って、何とか前期優勝を果たした。

 

 

マニエルの手術は成功したが、暫くは絶対安静の状態が続いた。

しかし、マニエルは僅か14試合欠場しただけで、強引に戦列に復帰すると、

顔面を保護するため、マニエルは、ヘルメットにアメフトのようなフェースガードを付け、試合に臨んだ。

結局、この年(1979年)、マニエルは打率.324 37本塁打 94打点という成績で、本塁打王を獲得したが、

もし、あの死球が無ければ、「三冠王」を獲っていてもおかしくないぐらいの打棒であった。

 

 

 

その後、前期優勝の近鉄バファローズと、後期優勝の阪急ブレーブスが対決し、プレーオフ(優勝決定戦)が行われ、近鉄がストレートの3連勝で阪急を破り、近鉄バファローズが、球団創立30年目の初優勝を達成した。

つまり、マニエル1978(昭和53)年ヤクルト⇒1979(昭和54)年近鉄と、2年連続で、両球団の初優勝に貢献したのである。

という事で、西本幸雄監督を胴上げを実現し、嬉しそうに西本監督と肩を組むマニエルを、果たして、広岡達朗はどんな心境で見ていたのであろうか。

それはともかく、マニエルとはやはり物凄い選手だったというのは確かである。

 

(つづく)