本日(10/8)は、今から22年前の1998(平成10)年10月8日、
我が愛する横浜ベイスターズが、前身の大洋ホエールズが1960(昭和35)年に優勝して以来、悲願の38年振りの優勝を達成した日である。
この日(1998/10/8)、「マジック1」の横浜ベイスターズは、甲子園球場で阪神を4-3で破り、見事に、38年振りのリーグ優勝を成し遂げた。
昨年のこの日(10/8)も、私は、横浜ベイスターズ優勝についての記事を書いたが、
「10月8日」という日付は、ベイスターズファンにとっては、忘れられようにも忘れられない、一生の「記念日」である。
そして、この日が来る度に、「ああ、今年も横浜は優勝出来なかったなあ…」と溜息をつくのが、ベイスターズファンの「お決まり」のパターンであるが、
あの時、横浜ベイスターズは実に38年振りの優勝だった。
その後、そこから更に、あっという間に22年が経ってしまった。
この次、ベイスターズが優勝するのは、一体、いつの日の事であろうか?
<1998(平成10)年10月と、今年(2020=令和2)年10月は、曜日の進行が全く同じ!!~1998(平成10)年10月8日と、本日(2020(令和2)年10月8日)は、「木曜日」>
ところで、これは余談であるが、
横浜ベイスターズが優勝した1998(平成10)年10月と、今年(2020年=令和2年)10月は、
曜日の進行が全く同じである。
22年前の1998(平成10)年10月8日も、今年(2020年=令和2)年10月8日も、どちらも「木曜日」であるが、
本日(10/8)、私はこの事に気付き、「ああ、ベイスターズが優勝した日も、そう言えば木曜日だったな…」と、思い出した次第である。
それと、1998(平成10)年は閏年ではなく、今年(2020年=令和2年)は閏年だったわけだが、
そのため、1998(平成10)年と2020(令和2)年は、2月末までは、曜日が1日分、ずれていた。
しかし、今年(2020年)は閏年で「2月29日」が有ったため、3月以降は、1998(平成10)年と2020(令和2)年は、曜日の進行が全く同じになった。
という事で、そんな偶然もあり、1998(平成10)年10月8日(木)の情景を、私は有り有りと思い出したものである。
<1998(平成10)年は、空前絶後の「神奈川スポーツ・イヤー」!!~年間通して、神奈川県勢のスポーツが覇権を制す~そして、「真打」横浜ベイスターズが「神奈川イヤー」の総仕上げへ邁進!!>
1998(平成10)年といえば、空前絶後の「神奈川スポーツ・イヤー」であり、
とにかく、年間通して、神奈川県勢のスポーツが、ありとあらゆる場面で覇権を制し、
神奈川が、スポーツの天下を取った年である。
まず、前年(1997年)に箱根駅伝で初優勝を達成した神奈川大学が、
この年(1998年)も、前年(1997年)に続いて箱根駅伝連覇を果たしたが、神奈川大学の箱根駅伝連覇達成が、「神奈川イヤー」幕開けを告げる号砲となった。
この年(1998年)の1月、第34回全国大学ラグビー選手権大会で、
神奈川の関東学院大学が、決勝で明治大学を30-17で破り、関東学院が初優勝を達成した。
以後、関東学院のラグビー部は黄金時代を築き、2006(平成18)年度まで、計6度の大学日本一に輝いている。
この年(1998年)の第70回センバツ高校野球大会では、エース・松坂大輔を擁する、神奈川・横浜高校が、圧倒的な強さを見せ、
横浜高校が、1973(昭和48)年以来、25年振りのセンバツ優勝を達成した。
この年(1998年)の横浜高校は、とにかく強く、高校野球史上に残る、無敵の最強軍団だったが、
センバツ優勝は、その幕開けに過ぎなかった。
同年(1998年)7月、第69回都市対抗野球大会で、
エース・川越英隆(後にオリックス入団)を擁する、神奈川県代表の日産自動車が、15年振り優勝を達成した。
箱根駅伝の神大、ラグビー大学選手権の関東学院大、センバツ高校野球の横浜高校に続き、
またしても、神奈川県勢が優勝を果たしたが、8月には、未だに語り継がれる、あの「伝説」が生まれる事となる。
1998(平成10)年8月、「夏の甲子園」、第80回全国高校野球選手権大会で、
春のセンバツに続き、エース・松坂大輔を擁する横浜高校が優勝し、横浜高校が「春夏連覇」を達成した。
横浜高校は、準々決勝のPL学園との、延長17回の死闘を9-7で制し、準決勝の明徳義塾戦では、0-6のビハインドを、8~9回で引っ繰り返して7-6で大逆転勝利、そして京都成章との決勝戦では、松坂大輔が59年振りに「決勝戦でのノーヒット・ノーラン」を達成するという、伝説の名勝負を立て続けに制し、横浜高校は、見事に春夏連覇まで駆け上がった。
松坂大輔と横浜高校は、神奈川のみならず、日本中を熱狂させたが、実は松坂が決勝でノーヒットノーランを達成し、横浜高校が優勝した試合を、私は横浜駅前の街頭テレビ(?)で、大勢の観客と一緒に見ていた。
その日(1998/8/22)、私は横浜スタジアムの横浜-中日戦を観戦するために、横浜に行っていたのであるが、その試合前に、ちょうど、松坂のノーヒットノーランの試合を見る事が出来たが、あの時の横浜駅前の熱狂は物凄かった。
その時、私はこう思った。
「秋には、ベイスターズが絶対に、これ以上の熱狂を巻き起こすぞ!!」
そう、当時、横浜ベイスターズは38年振りの優勝を目指し、中日ドラゴンズと激しい優勝争いを繰り広げていた。
私は、この日(1998/8/22)、横浜スタジアムの横浜-中日戦という、大事な首位攻防戦を見るために、横浜に行っていたのであるが、
私は、ベイスターズ優勝を固く信じていた。
<1998(平成10)年は、こんな年①…映画『タイタニック』~長野オリンピック~日本代表がサッカーW杯に初出場~参院選で自民党が惨敗し~橋本龍太郎首相が退陣⇒「凡人・軍人・変人」の争いを制し、「凡人」小渕恵三が後継の自民党総裁、首相に就任~「和歌山・毒物カレー事件」etc…>
ここで、1998(平成10)年とは、どんな年だったのか、少しご紹介させて頂く。
まず、前年(1997年)の公開以来、史上空前の大ヒットとなっていた映画『タイタニック』が、
この年(1998年)も、前年(1997年)の勢いそのままに、大ヒット街道を驀進していた。
当時、ジャック(レオナルド・ディカプリオ)とローズ(ケイト・ウィンスレット)の真似をして、
上の写真のようなポーズを取ったカップルも、多かったのではないだろうか。
ところで、ローズはローズでも、私にとってのローズとは、
『タイタニック』のヒロインのローズではなく、
ベイスターズの「マシンガン打線」不動の4番・ローズ(ロバート・ローズ)であった。
ローズほど、チャンスに滅法強く、ファンの期待に必ず応えてくれた選手を、私は他に知らない。
それは、当時を知るベイスターズファンなら、誰もが思っているのではないだろうか。
この年(1998年)の2月、長野オリンピックが開催された。
スピードスケートの清水宏保の金メダル、モーグルの里谷多英の金メダルなど、様々なドラマが有ったが、
やはり、船木和喜、原田雅彦らの、スキージャンプ団体の金メダルが、長野オリンピック最大のハイライトであった。
長野オリンピックは、劇的なドラマの連続であり、文字通り、日本中を熱狂させたと言って良い。
1998(平成10)年6月、サッカー日本代表が、遂にサッカーW杯(フランス大会)に初出場を果たした。
当時のサッカー日本代表の監督は、岡田武史監督、主力選手は、中田英寿、城彰二、中山雅史、川口能活らであったが、長年、日本サッカー界を引っ張って来た「カズ」こと三浦知良(当時31歳)は、残念ながら本選には選ばれず、無念の涙を呑んだ。
しかし、三浦知良は、53歳となった、2020(令和2)年の今もなお、未だに現役というのが、本当に凄い。
こんな選手は、多分もう現れないであろう。
なお、サッカー日本代表は、このW杯では残念ながら3連敗で、グループリーグ敗退となったが、
1998(平成10)年6月、日本中が、サッカーW杯に気を取られている隙に(?)、我が横浜ベイスターズは、スルスルとセ・リーグ首位に浮上し、以後、閉幕まで一度も首位の座は明け渡さなかった。
1998(平成10)年7月12日、参議院選挙で、自民党が惨敗を喫してしまった。
当時の橋本龍太郎首相は、就任当初はとても人気が有ったが、当時は大不況の上、消費税増税(3%⇒5%)を強行した事もあり、
日本の景気は、ドン底まで落ち込んでしまった。
そのため、経済的失政の責任を問われる形で、自民党は参院選で大敗を喫してしまったが、この結果を受け、橋本龍太郎首相は、終始、厳しい表情をしていた。
そして、橋本龍太郎首相は、参院選敗北の責任を取り、首相を退陣した。
その後、橋本龍太郎の後継を決める、自民党総裁選が行われたが、
その候補者3人を指して、当時、田中真紀子が「凡人・軍人・変人」と評した。
即ち、「凡人」=小渕恵三、「軍人」=梶山静六、「変人」=小泉純一郎の3人であるが、
この時は「凡人」小渕恵三が、この争いを制し、自民党総裁⇒首相に選ばれた。
なお、これも余談であるが、橋本龍太郎、小泉純一郎は慶応OB、小渕恵三は早稲田OBである。
そして、小泉純一郎が首相の座に就くのは、この3年後であるが、無派閥で一匹狼の小泉純一郎が首相になるとは、
そして、小泉純一郎があれだけ大人気になろうとは、この時、誰も予想していなかった。
1998(平成10)年7月25日、世間を震撼させた「和歌山毒物カレー事件」が起こった。
夏祭りのカレーの鍋に、毒物が入れられ、4人が死亡、62人が中毒症状となったが、
当初「青酸カレー事件」と称されていたものの、実は毒物は青酸ではなく、砒素だった事が、後に判明している。
そして、この事件以来、夏祭りでカレーを作る自治体は無くなった。
<1998(平成10)年は、こんな年②…1998(平成10)年5月2日、X JAPANのhideが享年33歳で死去>
1998(平成10)年5月2日、X JAPANのギタリスト、hideが享年33歳で亡くなった。
hideは、自宅マンションの寝室で、ドアノブに掛けたタオルで首を吊って、呼吸停止した状態で発見されたが、
何故、こういう事になってしまったのかは、よくわからない。
しかし、一つ言えるのは、偉大なミュージシャンが、あまりにも若くして亡くなってしまい、それは日本の音楽界の大きな損失だったという事である。
築地本願寺でのhideの葬儀には、数万人のファンが集まり、hideとの別れを惜しんだが、この事件は、私にとっても、本当に衝撃的であり、未だに忘れる事は出来ない。
私が、この年(1998年)4月、法政大学に入学してから、1ヶ月も経たない内に起こった、大事件であった。
<1998(平成10)年は、こんな年③…宇多田ヒカル、浜崎あゆみ、椎名林檎、aiko、MISIA、モーニング娘。~「花の1998年組」の「平成の歌姫」達が、一斉にデビュー>
1998(平成10)年は、hideの死という、悲しい出来事も有ったが、
この年(1998年)は、日本の音楽界には、新たなスター達が一斉に登場した年でもあった。
以前、別の記事(『サザンオールスターズと野球界の40年・1998年編』)でも書いたが、
この年(1998年)、宇多田ヒカル、浜崎あゆみ、椎名林檎、aiko、MISIA、モーニング娘。という、「平成の歌姫」たちが、一斉にデビューを果たした。
彼女達は、まさに「花の1998年組」と呼ぶに相応しい大活躍を見せたが、彼女達は、私とは、ほぼ同年代であり、私としても、この方達には、色々と思い入れが有る。
「花の1998年組」には、これからも、まだまだ頑張って頂きたいものである。
<1998(平成10)年の私~法政大学に入学し、横浜ベイスターズ応援サークル(※法政ではなく、色々な大学の学生により結成)に入る!!>
1998(平成10)年は、私にとって、節目の年となった。
まず、法政大学に入学したという事であるが、当時の法政といえば、今のように小綺麗な大学ではなく、
小汚くて雑然として、妙に活気が有った頃であり、大学中をビラやタテカン(立て看板)が埋め尽くす、一種、異様な雰囲気であった。
「何だか、えらい所に来てしまったな…」
と、私は思ったが、私が在学中に、法政にはボアソナードタワーという高層校舎も出来て、どんどん綺麗になって行った。
従って、私が入学した頃が、法政が雑然とした、昔の雰囲気を色濃く残していた、最後の時代でもあった。
なお、今までこのブログでも何度か書いて来たが、上の写真に写っている法政の校舎は、今は全く無くなっている。
この20年余で、法政もすっかり雰囲気が変わってしまったが、母校として、法政にはますます発展して頂きたいと、私は願うばかりである。
そして、もう一つ、私にとって大きな出来事だったのは、
横浜ベイスターズの応援サークルに入った事である。
当時、法政大学には、横浜ベイスターズの応援サークルなどという物は無く、
一時は、私が自分で作ろうとも思ったが、自分でベイスターズの応援サークルを探し、
そして、様々な大学の学生によって結成されたという、ベイスターズ応援サークルに入った。
以来、そのサークルで、私は横浜スタジアムに通い、ベイスターズの試合を沢山見たが、
このブログでお馴染みの(?)、私の先輩・Aさんとは、この年(1998年)に、このサークルで知り合って以来の、長い付き合いである。
<1998(平成10)年10月8日…横浜ベイスターズ、38年振り優勝!!~横浜スタジアムの「パブリック・ビューイング」で、ベイスターズ応援サークル仲間と共に、横浜38年振り優勝の感激を分かち合う>
1998(平成10)年10月8日、横浜ベイスターズは、38年振り優勝まで、「マジック1」に迫っていた。
この日(1998/10/8)、横浜ベイスターズは、甲子園球場で阪神戦を行なっていたが、
横浜スタジアムでは、そのベイスターズの試合をオーロラビジョンに映し、観客席を無料開放するという、「パブリックビューイング」を行なった。
サークルの先輩の内の1人は、甲子園までベイスターズの応援に行っていたが、それ以外の、私達、ベイスターズ応援サークルのメンバーは、横浜スタジアムの行き、ベイスターズの戦いを見守った。
なお、プロ野球での「パブリックビューイング」というのは、恐らく、この時が初めてだったのではないだろうか(※それまでは、こんな企画は聞いた事が無かった)。
試合開始当初は、横浜スタジアムも、空席が沢山有ったが、試合が終盤になり、ベイスターズが優勝に近付くにつれて、観客席は、いつの間にか超満員になっていた。
そして、横浜ベイスターズは阪神を4-3で破り、見事に38年振り優勝を達成した。
9回裏2死、「大魔神」佐々木主浩が、最後の打者・新庄剛志をフォークボールで空振り三振に打ち取った瞬間、
横浜ベイスターズの38年振りの優勝が決定し、甲子園に多数詰めかけていた横浜ファンが、そして、横浜スタジアムで戦況を見守っていた観客達から、一斉に大歓声が上がった。
横浜ベイスターズを率いていた権藤博監督が、ベイスターズの選手達から胴上げされたが、
権藤監督は、人差し指を1本立て、「ナンバーワン」のポーズを取り、権藤監督は、とても軽やかに、優雅に甲子園の夜空で、宙を舞った。
私達、ベイスターズの応援サークル仲間も、皆、とても感動し、その光景を目に焼き付けたが、
私も、この時の感激は本当に忘れられない。
「まさか、自分が生きている間に、ベイスターズが優勝する所が見られるなんて…」
と、半ば夢を見ているような心境でもあった。
そして、遂に「いつか、横浜が優勝する所を見たい!!」という、夢が叶ったわけであるが、
若造の私などとは比べ物にならないぐらい、長い間、この時を待ち望んでいた、大洋ホエールズ以来の年配のファンは、皆、涙を流して喜んでいたものである。
そして、あれから、もう22年が経ってしまった…。
<1998(平成10)年10月26日…横浜ベイスターズ38年振り日本一と、「神奈川イヤー」のその後と、「ゆず」と、松坂大輔のドラフト会議と、流行語大賞と…etc>
その後、横浜ベイスターズと西武ライオンズが日本シリーズで対決したが、
38年振りの優勝の勢いそのままに、横浜ベイスターズが、西武ライオンズを4勝2敗で破り、
見事に、横浜ベイスターズが、38年振り日本一を達成した。
1998(平成10)年10月26日、日本シリーズ第6戦で、横浜が西武を2-1で破り、日本一を達成したが、
この試合は、私はベイスターズ応援サークル仲間と一緒に、幸運にも、横浜スタジアムで観戦する事が出来た。
これもまた、一生の思い出である。
そして、1998(平成10)年11月3日、横浜市内で、横浜ベイスターズの優勝パレードが行われたが、この日は素晴らしい秋晴れであり、私達ベイスターズ応援サークルも、このパレードも勿論、見に行った。
この日、横浜地方は、使い古された表現で言うと、まさに「晴れ、時々、紙吹雪」という天気だったが、
沿道には、恐らく数十万人が押し寄せたのではないだろうか。
この感激から、はや22年…いや、「嘆き節」(?)は、それぐらいにしておこう。
「神奈川イヤー」は、まだまだ続いていた。
甲子園春夏連覇を達成した、松坂大輔の横浜高校は、何と、この年(1998年)の国体でも優勝してしまった。
これで、松坂の代の横浜高校は、新チーム結成以来、「公式戦44戦全勝」という、空前絶後の大記録を打ち立てたが、
恐らく、今後、高校野球で、この記録を破るチームは、出て来ないのではないだろうか。
それだけ、この年(1998年)の横浜高校の強さは、圧倒的であった。
1998(平成10)年の「神奈川イヤー」を締めくくったのは、サッカー・Jリーグの横浜フリューゲルスの「奇跡」である。
当時、Jリーグには、横浜を本拠地とするチームは、横浜マリノスと横浜フリューゲルスという、2つが有った。
しかし、横浜フリューゲルスが、横浜マリノスと「合併」され、消滅する事になってしまったのである。
そのため、1998(平成10)年度の「天皇杯」が、横浜フリューゲルスの最後の大会となり、このトーナメントで負けた瞬間、チームの歴史は終わってしまうという状況だったが、何と、横浜フリューゲルスは最後まで勝ち進み、翌1999(平成11)年1月1日の決勝でも勝利し、見事に、横浜フリューゲルスが、「有終の美」を飾る、「天皇杯」優勝を達成した。
まさに、「神奈川イヤー」を締めくくるに相応しい、感動的な出来事であった。
しかし、サッカー界で「合併」騒動が有った数年後、2004(平成16)年に、プロ野球でも近鉄とオリックスの「合併」騒動が起きるとは、この時、まだ誰も知る由も無かった。
1998(平成10)年の横浜といえば、この年(1998年)、横浜・伊勢佐木町の松坂屋の前で、
よく路上ライブを行なっていた、フォーク・デュオの「ゆず」(北川悠仁・岩沢厚治)がデビューしている。
「ゆず」は、その後、大ブレイクを果たすが、後に、「ゆず」の原点である、この松坂屋で、「ゆず」は凱旋ライブも行なった。
なお、伊勢佐木町の松坂屋は、2008(平成20)年、144年間という長い歴史にピリオドを打った。
ちなみに、この松坂屋も、ベイスターズ優勝時には、ベイスターズ優勝セールなどを行ない、大いに賑わっていたが、
時代の流れには逆らえず、残念ながら閉店となった次第である。
そして、この年(1998年)のドラフト会議は、勿論、松坂大輔が「超目玉」だったが、
横浜、西武、日本ハムの3球団がドラフト1位で指名をして、競合により抽選が行われた結果、
西武ライオンズの東尾修監督が、当たりクジを引いた。
つまり、西武の東尾監督が、日本シリーズで横浜に敗れた「リベンジ」を果たしたわけだが、
横浜の権藤監督は、見るからに落胆し、ガックリと肩を落としていた。
この時、松坂は、渋い表情をしており、「意中の球団は、横浜ベイスターズでした」と、記者会見で明かしている。
だが、結局、西武の東尾監督が、自らの現役時代の「通算200勝達成」のウィニングボールを、松坂に与えるなど、
熱心に口説いた事もあり、松坂は西武に入団する事となった。
正直、私も横浜が松坂をドラフトで獲れなかったのには、とてもガッカリしたが、もし、この時、松坂が横浜に入っていたら、
間違いなく、その後のプロ野球の歴史は大きく変わっていた筈である。
この時、ベイスターズの「ツキ」は、完全に逃げて行ってしまったと言ったら、言い過ぎだろうか。
なお、この年(1998年)の流行語大賞に選ばれたのは、ベイスターズ優勝の象徴となった、「ハマの大魔神」であったが、
横浜駅構内には、ベイスターズ優勝を祈願するため、「大魔神」佐々木主浩の腕を象った「御神体」が置かれた「ハマの大魔神社」が作られ、多くのベイスターズファンが、優勝祈願に訪れた(勿論、私も参拝(?)した)。
その他、前述の田中真紀子の「凡人・軍人・変人」という言葉や、そう言えば、流行っていたなという、パイレーツの「だっちゅーの」なども選ばれている。
という事で、1960(昭和35)年の大洋ホエールズ優勝~1998(平成10)年の横浜ベイスターズ優勝に至る物語については、また改めて書かせて頂く予定である。
(つづく)