【今日は何の日?】1996/10/6…長嶋巨人「メークドラマ」完結!奇跡の大逆転優勝(前編) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(10/6)は、今から24年前の、1996(平成8)年10月6日、

長嶋茂雄監督率いる巨人が、夏場まで首位を独走していた、広島東洋カープとの最大11.5ゲーム差を引っ繰り返し、遂に、長嶋巨人奇跡の大逆転優勝、所謂「メークドラマ」が完結した日である。

この日(1996/10/6)、長嶋巨人は「マジック1」で、当時、巨人と最後まで優勝を争っていた中日ドラゴンズと、ナゴヤ球場で対決し(※この頃、広島は既に優勝争いから脱落していた)、

巨人が、5-2で中日を破り、前述の通り、長嶋監督の「メークドラマ」が成就したのであった。

 

 

だが、一口に「メークドラマ」と言っても、

ここに至るまでには、実に様々な紆余曲折が有り、長嶋巨人「メークドラマ」は、まさに波乱万丈であった。

という事で、今回は1996(平成8)年の長嶋巨人「メークドラマ」に、スポットを当ててみる事としたい。

それでは、その「前編」として、まずは1980(昭和55)年10月21日、当時の第1期長嶋監督の、衝撃の「解任」劇から、話を始める事とする。

 

<1980(昭和55)年10月21日…巨人・長嶋茂雄監督、突然の「解任」劇~長嶋監督の無念の「退任」会見に日本中に衝撃が走り、読売・報知新聞の「不買運動」に発展>

 

 

 

1980(昭和55)年10月21日、日本中に衝撃が走った。

巨人の長嶋茂雄監督(当時44歳)が、突如、「退任」を発表する記者会見を開いたのである。

当時、長嶋監督は、1975(昭和50)年以来、巨人の監督を6年間、務めていたが、

「6位(最下位)⇒優勝⇒優勝⇒2位⇒5位⇒3位」

という結果であり、直近の3年間は、優勝を逃していた。

しかし、前年(1979年)シーズンオフの、「地獄の伊東キャンプ」により、長嶋監督は若手選手を厳しく鍛え上げた事もあり、

巨人の次代を担う若手選手達に台頭の兆しは見えており、長嶋監督は大きな手応えを感じていた。

そして、長嶋監督は、翌1981(昭和56)年こそ、「V奪回」を目指していたのだが、その矢先での、突然の「退任」だったのである。

しかし、この頃、長嶋監督の「資質」が問われ、長嶋監督の進退について、マスコミでも公然と騒がれており、巨人OB達が、「長嶋解任」に動いているという噂も有った。

つまり、これは誰がどう見ても、事実上の「解任」だったのである。

 

 

 

長嶋監督は、記者会見では、

「男として、ケジメをつけたいという、その一言でございます」

と毅然として話し、努めて明るく振る舞っていたが、その目は真っ赤に充血しており、明らかに無念さが滲んでいた。

有り体に言えば、「言わされてる感」バリバリといった所である。

先日、別の記事でも書いた事だが、実は、この時に、当時、西武ライオンズの監督を務めていた、根本陸夫は、長嶋監督に対し、

「記者会見には、自分は巨人軍の長嶋茂雄と思うのではなく、立教大学の長嶋茂雄だと思って、臨みなさい」

というアドバイスを贈っていたという。

もし、そのアドバイスが無かったら、長嶋監督は、果たして、この時、どうなっていたか…。

長嶋監督は、根本のアドバイスを忠実に守り、腸が煮えくり返っている所を、グッと堪えて、最後まで爽やかに、

「俺は、立教大学の長嶋茂雄だ」

という心持ちで、記者会見に臨んだ。

そして、色々と言いたい事が有ったのを、全て飲み込んで、長嶋茂雄は、巨人から去って行った。

 

 

 

巨人の親会社の読売新聞としては、巨人OB(※川上哲治らが暗躍していたという)の意を汲み、

なかなか優勝出来ない長嶋監督に業を煮やして、遂には、長嶋監督に、その詰め腹を切らせた、という所であった。

しかし、読売新聞には、一つ大きな誤算が有った。

それは、長嶋茂雄という男が、読売が思っていた以上に、ファンから絶大な人気が有ったという事である。

当時、日本中に山のように居た、巨人ファン、長嶋ファンは、

「よくも、長嶋監督を解任したな!!」

と、読売に対して、大激怒し、怒り心頭であった。

そして、遂には読売・報知新聞の「不買運動」にまで発展してしまった程であったが、

この時、読売新聞は、長嶋茂雄という「球界の宝」を、ぞんざいに扱う事は大変危険だという事を、嫌と言う程、思い知った。

 

<長嶋茂雄の「浪人時代」①…1981(昭和56)年、「長嶋チルドレン」が躍動し、藤田元司監督率いる「トロイカ巨人」が8年振り日本一~長嶋茂雄、特に職にも就かず(?)、「文化人」として様々な活動を行なう>

 

 

 

長嶋茂雄が、巨人監督を退任した翌1981(昭和56)年、

巨人は、藤田元司監督、王貞治・助監督、牧野茂ヘッドコーチという、

所謂「トロイカ体制」で、新たなスタートを切ったが、

その「トロイカ巨人」は、長嶋監督が「地獄の伊東キャンプ」で厳しく鍛え上げた、

江川卓、西本聖、中畑清、篠塚利夫らの、所謂「長嶋チルドレン」が躍動し、新人・原辰徳の大活躍もあって、巨人が8年振り日本一を達成した。

この時、当の長嶋茂雄は、果たして、どんな心境で、それを見守っていたのであろうか。

勿論、教え子達が活躍するのは嬉しかったであろうが、出来れば、自分が監督を務めていたかった、という気持ちは有ったに違いない。

そして、それは多くの長嶋ファンにとっても、同じ心境であった。

 

 

だが、長嶋茂雄は、もはや巨人の人間ではない。

長嶋茂雄は、巨人監督退任以降は、巨人からは距離を置き、

以後、「文化人」として、様々な活動を行なった。

 

 

 

何しろ、長嶋茂雄といえば、その知名度は絶大である。

従って、長嶋は色々な人達や、あらゆる団体から引っ張りだこだったのだが、

長嶋も、自由な立場で、世界中を見て回ったり、様々な場所に顔を出したりして、

すっかり、「文化人」としての活動を楽しんでいるように見えた。

また、長嶋は外出する時は、一切、財布を持たないという「伝説」が有った。

何しろ、長嶋には大勢の「タニマチ」が居り、しかも、それは著名な財界人・経済人ばかりであった。

彼らは、長嶋を囲んで、長嶋に食事をご馳走したりするだけで大喜びしていた。

だから、長嶋は自分では何もお金を持たなかった…という「伝説」である。

事の真偽はともかく、それだけ、長嶋茂雄という人物は、抜群の人気が有ったという事だけは確かであった。

そして、長嶋は特に職にも就かなかったが(?)、それでも、常にあちらこちらを飛び回る、多忙な日々を過ごしていた。

という事で、「文化人」時代の長嶋茂雄は、とても不思議な存在だったと言って良い。

 

<長嶋茂雄の「浪人時代」②…大洋から長嶋茂雄に「熱烈ラブコール」!!~長嶋茂雄の親友・関根潤三が、長嶋監督までの「繋ぎ」として、大洋の監督を務めるが…>

 

 

だが、知名度も人気も抜群の長嶋茂雄を、プロ野球界が、いつまでも放っておく筈もない。

長嶋茂雄に対しては、「是非とも、ウチの球団で監督をやって欲しい」というオファーが、

水面下では、かなり沢山有ったという。

中でも、長嶋茂雄の招聘に、最も熱心に動いたのは、横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)であった。

 

 

 

当時(1982(昭和57)年)、大洋の監督を務めていたのは、現役時代から長嶋茂雄の親友であり、

「第1期長嶋監督時代」に、巨人のヘッドコーチや二軍監督として、長嶋をサポートしていた、関根潤三であった。

関根潤三は、「大洋が、ミスター(※長嶋茂雄)を招聘するというのであれば、自分は、それまでの繋ぎでも構わない」とまで言っていたが、

つまり、当時の大洋は、それだけ本気で長嶋の招聘に本腰を入れており、長嶋も、一時は「大洋監督就任」に、気持ちが大きく傾いた事も有った。

しかし、結局、最終的には、長嶋茂雄「大洋監督就任」は、実現には至らなかった。

大洋ファンの私としても、もし、この時、長嶋茂雄が大洋の監督を引き受けていたら…という事は、非常に気になる所ではある。

もし、それが実現したら、プロ野球の歴史も大きく変わっていたに違いないのである。

だが、長嶋としては、心の何処かで「いつか、また巨人の監督に復帰したい」という思いが有り、その気持ちが有ったからこそ、他球団の監督を引き受ける事は出来なかったのかもしれない。

 

<長嶋茂雄の「浪人時代」③…長嶋茂雄の長男・長嶋一茂、「プロ野球に入って、親父の無念を晴らす!!」という一念で、立教大学へ⇒1988(昭和63)年、長嶋一茂、ドラフト1位でヤクルトスワローズ入団!!>

 

 

長嶋茂雄の長男・長嶋一茂(まがしま・かずしげ)が誕生したのは、1966(昭和41)年1月26日の事である。

稀代のスーパースター・長嶋茂雄の長男として生まれた長嶋一茂は、大変なワンパク坊主だったようであるが、

父親譲りで、小さい頃から、運動神経は、とても良かったようである。

 

 

 

 

1974(昭和49)年、長嶋茂雄が現役引退し、翌1975(昭和50)年から、長嶋が巨人の監督を務める事になった時、

長嶋茂雄は、息子・一茂に対し、「今度、パパは監督をやるんだけど、背番号は何が良いと思う?」と聞いた。

すると、一茂は「現役時代の背番号『3』を2つ掛けて、3×3で『9』が良い!」と言ったという。

長嶋茂雄「うーん、『9』だと監督っぽくないから、『90』にしようか!」と言って、

第1期監督時代には、「背番号90」を付けた、という経緯が有った。

 

 

 

 

1980(昭和55)年、前述の通り、長嶋茂雄は突如、巨人の監督を「解任」されてしまった。

当時、中学生だった一茂は、偉大なる父親が、巨人の監督をクビになったのを見て、物凄いショックを受けたという。

そして、彼はこの時、こう誓った。

「いつか、絶対に自分もプロ野球に入って、親父の無念を晴らしてやる!!」

一茂は、本気でプロ野球を目指す事を決意したのである。

 

 

 

 

そして、長嶋一茂は、立教高校を経て、1984(昭和59)年、父親と同じ立教大学に進学した。

「あの、ミスターの長男が、ミスターと同じ立教に入った!!」

当時、マスコミは大騒ぎとなったが、一茂も、「何としても、プロ野球に入る!!」という一念で、懸命に努力した。

そして、長嶋一茂は、立教時代(1984~1987年)に、東京六大学野球で、通算101試合出場、382打数86安打 打率.225 11本塁打 54打点という成績を残した。

「通算11本塁打」は、時代が違うとはいえ、父・長嶋茂雄の立教時代の「通算8本塁打」を、上回っている。

一茂は、4年時には立教の主将も務め、「4番サード長嶋」として、大活躍した。

長嶋一茂は、遂に実力で、この年(1987年)のプロ野球のドラフト会議の「目玉」となったのである。

 

 

1987(昭和62)年のドラフト会議で、長嶋一茂ヤクルトスワローズにドラフト1位指名され(※ヤクルトと大洋がドラフト1位で競合し、抽選の結果、ヤクルトが交渉権獲得)、遂に、念願のプロ野球入りを果たした。

長嶋一茂の背番号は、偉大なる父・長嶋茂雄の現役時代と同じ『3』であった。

こうして、一茂はプロ野球に入る事となったが、本人以上に、父親の長嶋茂雄が、息子・一茂のプロ入りを喜んだというのは、言うまでもない。

なお、この時、ヤクルトの監督を務めていたのは、あの関根潤三であった。

関根潤三は、長嶋家とは、とことん縁が有る運命だったようである。

 

<長嶋茂雄の「浪人時代」④…1988(昭和63)年、長嶋一茂が颯爽とデビュー!!1988(昭和63)年4月27日、長嶋一茂、「プロ初安打=特大のプロ初本塁打」を放つ!!~しかし、その後は伸び悩み、野村監督就任以降、出番は激減…>

 

 

1988(昭和63)年、プロ野球の世界に飛び込んだ長嶋一茂であるが、

何しろ、あの「ミスター」の長男という事もあり、一茂の行く所、常に黒山の人だかりで、

長嶋一茂は、常にその一挙手一投足が注目される存在となっていた。

当時、ヤクルトという球団の人気も急上昇していたが、長嶋一茂の入団により、ヤクルトはますます、人気球団となって行った。

 

 

 

 

1988(昭和63)年4月27日、神宮球場のヤクルト-巨人戦で、

長嶋一茂は、遂にガリクソン(巨人)から「プロ初安打」を放ったが、それはバックスクリーンへの特大の「プロ初本塁打」であった。

この時、神宮球場は、ヤクルトファンは勿論、巨人ファンからも、大拍手が送られたが、それだけ、球団の垣根を越え、

長嶋一茂という選手には、物凄い人気が有ったのである。

 

 

だが、その後、長嶋一茂は、プロ野球の厚い壁に苦しんだ。

一茂は、パワーは素晴らしい物が有ったが、彼は「ボールを怖がる」という、致命的な弱点が有った。

常に、身体ごとボールにぶつかって行った、ファイターの長嶋茂雄とは、まさに対照的だった。

そのため、一茂は打撃でも守備でも、今一つ、伸び悩んでしまったのである。

特に、一茂のプロ入り3年目、1990(平成2)年に、野村克也がヤクルトの監督に就任して以降は、

一茂の出番は、目に見えて、激減して行った。

いつしか、一茂は「親の七光り」「とても、プロ野球のレベルに達していない」などと、ファンからも厳しい評価を受けるようになってしまった。

長嶋一茂は、大きな挫折を味わい、自らの理想と現実のギャップに、苦しむようになっていた。

 

<長嶋茂雄の「浪人時代」⑤…1991(平成3)年、読売新聞のトップ・「販売の神様」務台光雄が死去し、「怪物」渡邉恒雄が読売の実権を握る~読売の「政権交代」で、「長嶋復帰」の機運が高まる~そして、同年(1991年)、伝説の「ヘイ、カール事件」発生!?>

 

 

 

1991(平成3)年、巨人の親会社・読売新聞社で、重要な出来事が有った。

同年(1991年)4月30日、読売のトップで、「販売の神様」と称されていた務台光雄が、享年94歳で亡くなったのである。

当時、巨人のオーナーは、巨人の創立者・正力松太郎の息子・正力亨だったが、実質的には、務台光雄が、巨人のオーナーのような存在になっていた。

そして、この務台光雄は、実は長嶋監督の事をあまり評価しておらず、1980(昭和55)年の長嶋監督解任も、最終的には務台が決断したと言われている。

その務台光雄が亡くなったという事は、巨人でも大きな動きが有るという事を意味していた。

 

 

そして、務台光雄に代わって、読売のトップとして踊り出て来たのが、

長年、政治部で記者を務め、歴代の総理大臣とも懇意にして来たという、

あの「怪物」ナベツネこと、渡邉恒雄であった。

学生時代(※東大在学中)、一時期、日本共産党のシンパとして活動し、党内の権力争いのノウハウを習得していたという「ナベツネ」は、遂に、この時、読売の「実権」を握った。

「ナベツネ」の登場と、読売の「政権交代」により、巨人の、そしてプロ野球の歴史は大きく動く事となる。

そう、「その時歴史は動いた」のである。

 

 

 

 

 

一方、長嶋茂雄はといえば、1980(昭和55)年の巨人監督解任以来、

その「浪人生活」は10年以上に及び、「文化人」としての活動も、集大成を迎えようとしていた。

読売のトップが、務台光雄から渡邉恒雄(ナベツネ)へと代わったのと同じ、1991(平成3)年、長嶋茂雄は、「世界陸上」のレポーターを務めたが、

この時、陸上界のスーパースター、カール・ルイスの大活躍を見て、興奮した長嶋が、カール・ルイスに対し、

「ヘイ、カール!カール!!」

と、何度も呼び掛ける様子が、テレビを通して、全国のお茶の間に届けられ、強烈なインパクトを残した。

「やっぱり、長嶋さんは面白いなあ」

当時、私も、所謂「ヘイ、カール事件」をテレビで見ていて、大笑いしたものであるが、この時、実は長嶋茂雄巨人監督復帰への道筋は、着々と整えられていた。

 

<1992(平成4)年10月12日…長嶋茂雄、遂に12年振りに巨人監督に復帰!!~巨人戦のテレビ視聴率低迷に対し、読売のトップ・渡邉恒雄(ナベツネ)が「長嶋復帰」を決断>

 

 

1992(平成4)年、当時、巨人は「第2期藤田監督時代」の4年目を迎えていたが、

当時、巨人戦のテレビ視聴率は低迷し、「巨人人気の低下」が囁かれるようになっていた。

その状況に鑑みて、読売のトップの座に就いていた渡邉恒雄(ナベツネ)は決断した。

「長嶋茂雄を、巨人の監督に復帰させよう!!」

そして、巨人は藤田監督を退任させ、長嶋茂雄に対し、監督復帰のオファーをした。

勿論、この時を待ち焦がれていた長嶋茂雄は、このオファーを受け入れ、巨人監督就任を受諾した。

 

 

 

「長嶋茂雄、12年振りに巨人監督に復帰!!!!」

1992(平成4)年10月12日、長嶋茂雄は、遂に12年振りに巨人監督に復帰する事を、記者会見で発表した。

あの屈辱の「退任」会見から12年、色々有ったが、長嶋茂雄遂に巨人に帰って来たのである。

そして、12年間、この時を待ちに待っていた、全国の長嶋ファンが大喜びしたというのは、言うまでもない。

 

<1992(平成4)年のドラフト会議の超目玉、「ゴジラ」こと星稜高校の松井秀喜~「高校通算60本塁打」、「甲子園での5打席連続敬遠」で、一躍、「時の人」に>

 

 

 

ところで、この年(1992年)のドラフト会議の超目玉となっていたのが、

「ゴジラ」こと、星稜高校の松井秀喜であった。

松井秀喜は、高校生離れした規格外のバッティングで、「高校通算60本塁打」を放っていたが、

松井の放つ打球は、凄まじい勢いでスタンドへと突き刺さり、その打球は、まさに「超高校級」であった。

 

 

 

その松井秀喜「名声」を、ある意味、不動のものとしたのが、

1992(平成4)年夏の甲子園、松井秀喜の高校3年夏の大会の、星稜-明徳義塾戦である。

この時、明徳のバッテリーは、強打者・松井秀喜との勝負を徹底的に避け、

何と「5打席連続敬遠」を敢行し、結果として明徳が星稜を3-2で破ったが、

この明徳の戦略は、「果たして、高校野球で、これは有りなのか!?」と、明徳に対しては非難が殺到し、激しい議論となった。

皮肉にも、松井はバットを一度も振らないで、「怪物」ぶりを発揮したという事になるが、ともあれ、松井と星稜は、これで無念の敗退となってしまった。

その松井秀喜は、プロ野球入りを希望していたが、松井の意中の球団は阪神タイガースだったという。

そして、運命のドラフト会議の日を迎えた。

 

<1992(平成4)年11月21日…ドラフト会議で、巨人・長嶋監督が4球団の競合で、松井秀喜を抽選で引き当てる!!~松井秀喜は巨人に入団し、球史に残る「長嶋茂雄・松井秀喜」の「師弟コンビ」が誕生>

 

 

 

1992(平成4)年11月21日、プロ野球ドラフト会議が開催された。

注目の松井秀喜は、巨人、阪神、中日、ダイエーの4球団からドラフト1位で指名されたが、

この4球団の競合から、何と、巨人監督に就任したばかりの長嶋茂雄が、見事に抽選を引き当てたのである。

松井の当たりクジを引いた長嶋監督は、ご覧の通り、ニンマリ笑ってガッツポーズをした。

「流石は、長嶋監督!!!!」

今風に言えば、「持ってる男」という事であろうが、やはり長嶋監督はタダ者ではないと、この時、多くの人が思ったのではないだろうか。

 

 

 

一方、松井秀喜は、意中の球団の阪神ではなく、巨人の長嶋監督が抽選を引き当てた事により、

ちょっと複雑な表情を見せていたが、長嶋監督は、ドラフト会議の会場から、

即座に、松井に電話をかけ、「一緒に、巨人で戦おう!!」と、熱いラブコールを送った。

長嶋監督の「速攻」により、松井の腹も決まり、松井は巨人入団を決意した。

 

 

こうして、長嶋監督は、12年振りに巨人監督に復帰して早々、

松井秀喜という大物新人を入団させる事に成功したが、

ここから、球史に残る「長嶋茂雄・松井秀喜」の「師弟コンビ」が誕生したのである。

「第2期長嶋監督時代」は、早速、幸先良いスタートとなった。

 

(つづく)