今から42年前、1978(昭和53)年10月4日、
広岡達朗監督率いるヤクルトスワローズが、球団創立29年目にして、初優勝を達成した。
この日、「マジック1」で、ヤクルトスワローズは本拠地・神宮球場でヤクルト-中日戦を迎えたが、
ヤクルトが9-0で中日を破り、遂に悲願の初優勝を達成した。
この日(1978/10/4)、ヤクルトの本拠地・神宮球場は超満員だったが、ヤクルト初優勝が決まった瞬間、
観客が、どっと神宮球場のグラウンドに雪崩れ込み、ヤクルトの選手達やファンが一体となって、
広岡監督を胴上げし、グラウンドはまさに、お祭り騒ぎとなった。
という事で、今回は1978(昭和53)年のヤクルトスワローズ初優勝までの道のりを描いてみたいと思うが、
私は、既にこのブログで「ヤクルトスワローズドリームゲームと、ヤクルト球団50年史」というタイトルで、ヤクルト球団史については「連載中」である。
しかし、そこではヤクルトスワローズの前身・「国鉄スワローズ」については、本当にサラッとしか触れていないので、
今回は、まずは「国鉄スワローズ」の物語から、書かせて頂く。
という事で、「序章」として、まずは「国鉄」の歴史と、「国鉄スワローズ」誕生までの経緯を、ご覧頂くとしよう。
<1872(明治5)年10月14日…「新橋~桜木町」間で、日本初の鉄道が開業!!>
1872(明治5)年10月14日、「新橋~桜木町」間で、日本初の鉄道が開業された。
当時、日本は「明治維新」で近代化を押し進めている真っ最中だったが、
鉄道開設も、日本という国家が近代化するための、重要な要素の一つであった。
鉄道開業の日、最初の列車には、ご覧の通り、明治天皇をはじめ、公家や政府高官などが盛装して乗り込み、
実に物々しい雰囲気だったという。
という事で、日本初の鉄道の始発駅となったのは「新橋停車場」であり、
今でも、JR新橋駅前には、蒸気機関車が飾られているが、
後に制定された『鉄道唱歌』の歌詞が「汽笛一声 新橋を はや我が汽車は離れたり…」から始まるのは、
まさに、日本の鉄道が新橋から走り始めたからである。
ところで、これは全くの余談であるが、
かつて、新橋にはヤクルト本社が有り、その社屋には「ヤクルトホール」なる物が有ったが(※2020(令和2)年春、ヤクルト本社がウォーターズ竹芝に移転した事に伴い、閉鎖)、
遥か後年、国鉄スワローズ⇒サンケイアトムズを、ヤクルトが買収した事を思えば、
日本の鉄道発祥の地・新橋にヤクルト本社が有ったというのも、何かの縁であると言えるのではないだろうか。
前述の通り、日本初の鉄道は「新橋~桜木町」間を走ったが、
現在も、桜木町の横浜みなとみらい地区には「汽車道」という物が有る。
これは、かつてこの場所を走っていた、港への貨物輸送の線路の跡だという。
そして、「桜木町」は、現在の横浜DeNAベイスターズの本拠地・横浜スタジアムが有る、「関内」駅の隣であり、横浜の地は、明治時代の野球伝来の頃から、野球が盛んな土地であった。
後述するが、新橋の地は、日本初の野球チーム「新橋アスレチックス」が結成された場所でもある。
という事で、遥か昔の明治時代から、新橋と横浜は、何かと野球に縁が有ったという事である。
<1878(明治11)年…アメリカ帰りの鉄道技師・平岡凞が、勤務先の新橋鉄道局内で、日本初の野球チーム「新橋アスレチックス」結成!!~日本で2番目に結成された野球チーム「徳川ヘラクレス倶楽部」と、盛んに対抗戦を行なう>
1878(明治11)年、アメリカ帰りの鉄道技師で、工部省鉄道局に勤務していた、
鉄道技師・平岡凞(ひらおか・ひろし)が、勤務地である新橋鉄道局内で、
日本初の野球チーム「新橋アスレチックス(新橋アスレチック倶楽部)」を結成した。
平岡凞は、元々、田安徳川家に仕えていた家老の平岡家の出身であり、非常に裕福であった。
そのため、アメリカ留学も可能であったが、平岡はそこで野球というスポーツを知り、
帰国後も、アメリカのスポルディング社から、野球用具の提供を受けたり、ルールブックを取り寄せたりしていたが、
自ら、仲間達のユニフォーム一式を揃え、遂に「新橋アスレチックス」を結成するに至った。
という事で、鉄道発祥の地である新橋で、日本初の本格的な野球チームが結成されたというのは、何とも興味深い。
一方、平岡家が使えていた、田保徳川家は、当時、徳川達孝という人物が家督を継いでいたが、
この徳川達孝は、平岡凞の影響を受けて、野球というスポーツに興味を持ち、
遂に、「新橋アスレチックス」に対抗して、日本で2番目の野球チーム「徳川ヘラクレス倶楽部」を結成してしまった。
そして、月に一度のペースで、「新橋アスレチックス(新橋アスレチック倶楽部)」対「徳川ヘラクレス倶楽部」の対抗戦も行なわれたが、
「新橋アスレチックス」の本拠地の、新橋の「保健場」というグラウンドが、その対抗戦の舞台となり、両チームの対決には、多くの観客も集まり、大いに盛り上がったという。
なお、「新橋アスレチックス」は、10年ほど活動した後、惜しくも1887(明治20)年、解散になってしまったが、日本野球の黎明期に、「新橋アスレチックス」が果たした役割は、非常に大きいものが有った。
<1906(明治39)年…「鉄道国有法」の制定~全国の17の私鉄が「国有化」され、「国鉄」が誕生~日本全国に鉄道網が張り巡らされ、日本全国に「国鉄支局」が誕生⇒やがて、各「国鉄支局」で野球部が結成>
1906(明治39)年、「鉄道国有法」が制定され、
当時、日本全国に有った、17の私鉄の路線が、全て「国有化」された。
これにより、「国鉄」が誕生したが、これは、当時、日本にも「産業革命」の波が押し寄せ、
官営の「八幡製鉄所」や、海運業の「日本郵船」の発展と併せ、
鉄道も国有化する事により、日本の近代化を、更に押し進めようとする、日本政府の意図が有ったようである。
そして、「鉄道国有法」制定により、日本全国に鉄道網が張り巡らされる事となったが、
これにより、日本全国各地に「国鉄支局」が出来た。
その後、各「国鉄支局」に野球部が誕生し、「国鉄」では盛んに野球が行われた。
つまり、日本の鉄道と野球は、この頃から切っても切り離せない関係が有ったのである。
<1921(大正10)年…「第1回全国鉄野球大会」開催!!~遂に「国鉄」の全国野球大会が開催される~第1回の優勝は門鉄(門司鉄道局)⇒以後、戦前は1940(昭和15)年まで開催>
全国の「国鉄」の野球熱は、高まるばかりであったが、
1921(大正10)年、遂に「国鉄野球」の全国大会である、「第1回全国鉄野球大会」が開催されるに至った。
これは、1927(昭和2)年に第1回が開催された「都市対抗野球大会」よりも、6年も早いが、それだけ、当時の「国鉄」の野球熱は盛んだったという事であろう。
なお、同年(1921年)の「第1回全国鉄野球大会」は、決勝で門鉄(門司鉄道局)が札鉄(札幌鉄道局)を4-0で破り、門鉄が初代優勝チームとなった。
その後、「全国鉄野球大会」は、戦前は1940(昭和15)年まで開催され、優勝回数は、門鉄7回、名鉄4回、東鉄、大鉄、仙鉄、広鉄が各2回、本省1回、という記録が残っている。
<1935(昭和10)年…藤本定義監督率いる東鉄(東京鉄道局)が、巨人に2勝!!~巨人の国内巡業(36勝3敗1分)の「3敗」の内の「2敗」が東鉄~巨人は三宅大輔監督を解任し、藤本定義監督を招聘>
ところで、この頃の東鉄(東京鉄道局)は、プロ野球史を変えるような「金星」を挙げている。
1935(昭和10)年、結成間もない東京巨人軍(巨人)は、アメリカ遠征を終え、国内巡業を行なったのだが、
その国内巡業で、巨人は日本全国の実業団チームと試合を行ない、36勝3敗1分という成績であった。
巨人の、その「3敗」の内の「2敗」は、当時、早稲田出身の藤本定義監督が率いていた東鉄(東京鉄道局)相手のものだったのである(※残りの1敗は、熊本鉄道局)。
つまり、実業団である東鉄(東京鉄道局)が、プロ野球の巨人相手に「2勝」もしてしまったのだが、
巨人は、この「2敗」を問題視して、初代監督だった三宅大輔(慶応OB)を解任してしまい、その代わりに、巨人に「2勝」した東鉄(東京鉄道局)の監督だった藤本定義(早稲田OB)の手腕を見込んで、巨人の新監督として招聘した。
以後、藤本定義監督の下、巨人は「第1期黄金時代」を築いて行く事となるが、もし、東鉄(東京鉄道局)が巨人に2つも勝っていなければ、藤本定義が、巨人の監督に招聘される事は無かったであろう。
そう考えると、東鉄(東京鉄道局)が、プロ野球の歴史をも変えてしまったと言っても過言ではない。
そして、これは当時の「国鉄野球」のレベルの高さを示す出来事でもあった。
<1936(昭和11)年…「第10回 都市対抗野球大会」で、門鉄(門司鉄道局)が初優勝~北九州では、「八幡製鉄所VS門鉄(門司鉄道局)」の対抗戦「製門戦」が大人気に>
1936(昭和11)年、「第10回 都市対抗野球大会」で、門鉄(門司鉄道局)が、遂に初優勝を達成した。
前述の通り、門鉄(門司鉄道局)は「国鉄野球」の中では、最も強かったが、「都市対抗野球」では、なかなか優勝する事が出来なかった。
しかし、遂に、国鉄の鉄道局が、都市対抗野球の頂点に立ったのである。
ちなみに、以後、国鉄(現JR)のチームが、「都市対抗野球」で優勝するまでには、長い年月を要する事となった。
なお、当時、九州では「八幡製鉄所VS門司鉄道局」の対抗戦である、
所謂「製門戦」が大人気となり、両チームが人気を二分していたが、
今に至る、九州の野球熱の高さには、このように、当時の実業団野球の発展が、かなり寄与していた。
そして、いつの世も、野球というスポーツは、良きライバル同士が白熱した戦いを繰り広げる時に、より一層、盛り上がって行くものである(※前述した「新橋アスレチックス(新橋アスレチック倶楽部)VS徳川ヘラクレス倶楽部」の対抗戦や、「早慶戦」など、そういう例は沢山有る)
<1930(昭和5)~1943(昭和18)年…東海道本線を走った、国鉄の特急「つばめ」号~後に「国鉄スワローズ」の球団名の由来となった、「つば九郎」の遠い先祖!?>
ところで、1930(昭和5)年~1943(昭和18)年にかけて、
東海道本線を走っていたのが、当時、「国鉄」の象徴的存在だった、特急「つばめ」号である。
「つばめ」号は、東京-神戸間を、最速9時間で走り、「超特急」とも称され、
当時の庶民にとって、憧れの列車であり、日本人なら、誰もが知っている列車であった。
「国鉄といえば、つばめ号」
というのは、「国鉄」のパブリックイメージでもあった。
後に、「国鉄」がプロ野球に参入した時、
球団名は、「つばめ」号から取って、「国鉄スワローズ」となった。
従って、その「国鉄スワローズ」の流れを汲む、
現在の「東京ヤクルトスワローズ」のマスコット、「つば九郎」の遠い先祖こそ、特急「つばめ」号である、という言い方も出来る。
という事で、歴史の綾というのは、思わぬ所で、色々な所で繋がっているので、本当に面白いものである。
<1949(昭和24)年6月1日…日本政府が経営する「官製国鉄」⇒日本政府が出資する公共企業体「日本国有鉄道」に生まれ変わる!!~戦後の新生「国鉄」が新装開店>
1949(昭和24)年6月1日、それまで、日本政府が直接運営していた、「官製国鉄」に代わり、
新たに、日本政府が出資する公共企業体として、「日本国有鉄道」が誕生した。
つまり、それまでの「国鉄」と、特殊法人としての「国鉄」は、運営母体が異なるという事となるが、いずれにせよ、日本国が運営する鉄道であるという事には、変わりはない。
だが、新生「日本国有鉄道」誕生により、「国鉄」は、より一層、庶民の生活に寄り添う、公共性を増したという事は言えるであろう。
なお、この「国鉄」は、1987(昭和62)年に民営化され、「JR」に変わるまで、続く事となった。
<1949(昭和24)年…誕生したばかりの新生「国鉄」で次々に発生した、「国鉄三大事件(国鉄三大ミステリー)」とは!?~未だに多くの謎が残る、3つの怪事件>
ところで、あまりにも有名な話だが、
1949(昭和24)年、誕生したばかりの、新生「国鉄」を揺るがす大事件が、立て続けに起こった。
それは即ち、「国鉄三大事件(国鉄三大ミステリー)」であるが、その大事件について、順を追って、ご紹介させて頂く。
まず、1949(昭和24)年7月5日に発生したのが、「下山事件」である。
この日(1949/7/5)、当時の国鉄総裁・下山定則が、出勤途中に失踪し、
翌日(7/6)の朝、国鉄常磐線の北千住-綾瀬駅間で、下山定則の轢死体が発見された。
この事件については、当初から謎が多く、まず、事件なのか事故なのか、自殺なのか他殺なのかについてすら、よくわかっていない。
後に、作家・松本清張が、「下山事件」については、詳しく調べ、ノンフィクションも書いたが、
恐らく、限りなく「謀殺」に近いのではないかと、彼は書いている。
そして、松本清張以外にも、沢山の人達が、「下山事件」の真相に辿り着こうと、この謎に挑んで来た。
しかし、色々と不明な点も多く、「下山事件」から70年以上が経過した今も、真相は闇の中である。
「下山事件」が発生して間もなく、
1949(昭和24)年7月15日、今度は、国鉄の中央本線・三鷹駅で、
無人電車が突然暴走し、街に突っ込むという大事件が起こった。
所謂「三鷹事件」であるが、この「三鷹事件」により、死者6名、重軽傷者20名が出ている。
この「三鷹事件」も、後に、多くの人が事件について調べているが、色々と謎が多く、未だに真相は明らかになっていない。
そして、1949(昭和24)年8月17日、「下山事件」「三鷹事件」が起こってから1ヶ月後、
今度は、国鉄・東北本線の松川-金谷川駅間で、故意にレールが外され、列車が脱線するという、
所謂「松川事件」が発生したが、「松川事件」では、死者3人が出た。
「松川事件」も、先の「下山事件」「三鷹事件」と同様に、色々な人達が取材し、調べているが、これまた、その謎は解き明かされていない。
以上、この「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」こそが、
「国鉄三大事件(国鉄三大ミステリー)」と称され、未だに謎が解明されていない「怪事件」として、
今もなお、多くの人達の関心を集めているが、事件の真相は明らかになっていない事だけは共通している。
そして、これらの事件により、当時、日本国民の「国鉄」に対するイメージは、著しく悪化してしまった。
<1949(昭和24)年11月26日…プロ野球が2リーグ「分裂」!!~そして、「国鉄」にもプロ野球参入の動きが!?>
こうして、新生「国鉄」が激震に見舞われていた頃、
プロ野球界も、未曽有の激動期を迎えていた。
そう、それこそが、「国鉄三大事件」が起こった年の秋、
1949(昭和24)年11月26日の、「プロ野球2リーグ分裂」である。
プロ野球は「セ・リーグ」「パ・リーグ」に分かれ、新たなスタートを切る事となったが、
このドサクサに紛れ、当時、多くの企業がプロ野球に参入し、プロ野球は既存の8球団から、一挙に倍近くに球団数が増える事となった。
そして、元々「国鉄野球」の伝統が有り、野球熱が高かった「国鉄」でも、
このプロ野球分裂騒動を受け、「国鉄も、プロ野球に参入しよう!!」という機運が高まった。
不慮の死を遂げた下山定則の後を受け、「国鉄」総裁に就任していた加賀山之雄が、無類の野球好きだった事もあり、
「国鉄」が、プロ野球に参入しようかという「土台」は固まっていた。
それに、あの「国鉄三大事件」で、最悪となってしまった、「国鉄」に対する日本国民のイメージ回復のためにも、野球は打ってつけである、という声が有ったのも、確かなようである。
いよいよ、「国鉄スワローズ」誕生の時が近付いていた。
(つづく)