【今日は何の日?】1967/10/1…阪急ブレーブス、球団創立32年目の初優勝(前編) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(10/1)は、今から53年前の1967(昭和42)年10月1日、

西本幸雄監督率いる阪急ブレーブスが、球団創立32年目にして、遂に悲願の初優勝を達成した日である。

阪急ブレーブスは、京都・西京極球場で、遂に初優勝の時を迎え、西本幸雄監督の歓喜の胴上げが行われた。

 

 

1967(昭和42)年10月1日を迎えた時点で、阪急ブレーブス「マジック2」だったが、

この日(1967/10/1)、京都・西京極球場で阪急-東映戦のダブルヘッダーが行われ、

大阪球場では、2位の西鉄ライオンズが、南海-西鉄線のダブルヘッダーを戦っていた。

阪急は、ダブルヘッダー第1試合で東映を破り、「マジック1」とすると、

2位・西鉄は南海と1勝1敗となり、この結果、阪急ブレーブス対東映フライヤーズとのダブルヘッダー第2試合の最中に、阪急初優勝が決定したのである。

 

 

 

阪急ブレーブスは、この初優勝をキッカケに、以後、リーグ優勝10度、日本一3度という名門球団となって行くが、

1967(昭和42)の初優勝は、「強い阪急」への第一歩となった。

…というわけで、今回は「阪急ブレーブス初優勝」について描かせて頂くが、

このブログでは、現在も「1988/10/23…阪急ブレーブス最後の日」というタイトルで、

阪急ブレーブス球団史について「連載」しており、そこで詳しく書いているので、今回は、その「ダイジェスト版」として、「阪急初優勝」への道のりについて、描いてみる事としたい。

今回は、その「前編」であるが、阪急球団の創設~「阪急ブレーブス」への改称という、「1リーグ時代」の物語について描く。

それでは、まずは阪急球団の生みの親・小林一三に、ご登場頂こう。

 

<「阪急・宝塚・東宝を作った男」小林一三~庶民の生活様式を確立させた、天才起業家>

 

 

 

このブログでは、もう既に沢山登場しており、このブログにおける、お馴染みの人物であるが、

小林一三(こばやし・いちぞう)は、紆余曲折を経て、1910(明治43)年に「箕面有馬電軌鉄道」、後の「阪急電鉄」を創設した。

天才起業家・小林一三は、鉄道開業と共に、その鉄道沿線の土地を分譲し、何も無かった土地に、阪急電鉄が所有する街を作ってしまい、日本で初めて「住宅ローン」を作り、阪急電鉄は、「鉄道収入」と共に、「家賃収入」も得るというビジネスモデルを作った。

「阪急電鉄」が、ゼロから作った街に建てられた住宅地に住むのは、主に、大阪の中心地に通うサラリーマン家庭である。

つまり、「サラリーマン家庭が郊外に住み、そこから都会に通勤する」という潮流を、小林一三が作り出したというわけである。

これは、今の時代に続く生活様式であり、小林一三とは、何と先見の明が有る人物だったのであろうかと、つくづく感心してしまう。

 

 

 

 

 

「阪急電鉄」は、梅田駅-宝塚駅間で開業されたが、

梅田は大阪の中心地であり、沢山の人が住んでいたものの、

当時の宝塚といえば、鄙びた温泉地であり、どちらかと言えば、寂れた土地だった。

そこで、小林一三は、「阪急電鉄」の終点である宝塚への「客寄せ」のため、

1914(大正3)年、女の子だけで歌劇を行なう集団、「宝塚少女歌劇団」(後の「宝塚歌劇団」)を創設した。

そして、華やかな「宝塚」は大評判となり、その歴史は今もなお続いている、というのは皆様もご存知の通りである。

 

 

 

 

1929(昭和4)年、小林一三は、「阪急電鉄」梅田駅に直結する、

「阪急百貨店」をオープンさせたが、これは小林が、

「電車を降りたお客さんが、そのまま買い物が出来るようにすれば、便利じゃないか!?」

と、「お客さん目線」で考え付いた事を、実行したものである。

「阪急電鉄」の利用客が、そのまま「阪急百貨店」でも買い物をしてくれるという事になれば、阪急には、ますます莫大な収入が入る事になる。

このように、ターミナル駅に百貨店を直結させるというのは、今では色々な私鉄会社が当たり前のようにやっているが、

最初に、このビジネスモデルを思い付いたのも、小林一三であった。

小林というのは、本当に物凄いアイディアマンである。

 

 

 

 

 

1932(昭和7)年、小林一三は、「宝塚」を東京に進出させ、「東京宝塚劇場」を創設したが、

1937(昭和12)年には「東京宝塚劇場」を元に「東宝映画」も創設した。

このように、小林一三は、一代で「阪急・宝塚・東宝」を作り上げた、伝説の起業家だったのである。

私は、これまで、このブログで小林一三の業績について、これでもかとばかりに、沢山書いて来たが、

私が最も尊敬する経済人といえば、やはり、ダントツで小林一三なのである。

何故なら、彼はあくまでも庶民の目線で物事を捉え、庶民の生活を向上させ、庶民に生活の楽しみを与える事に一生を捧げた人であり、その姿勢に、私は非常に共感を覚えるからである。

 

<1936(昭和11)年1月23日…小林一三、巨人・阪神に次ぐ、3番目のプロ野球チーム「阪急球団(阪急軍)」を創設!!~アメリカ大リーグのシカゴ・カブスの本拠地「リグレー・フィールド」を元に、1937(昭和12)年5月1日、阪急の本拠地「阪急西宮球場」も竣工>

 

 

さて、小林一三というのは、大変な野球好きであり、

「阪急電鉄」の事業を拡大する傍ら、様々な形で野球と関わっていた。

その小林一三「野球熱」を、更に高めるような出来事が有った。

1934(昭和9)年、ベーブ・ルースを中心とする、全米オールスターチームが来日し、

その全米軍と対決するために結成された、全日本軍を母体として、

同年(1934年)、今に続くプロ野球における、最初の球団である「大日本東京野球倶楽部」、後の巨人軍が、読売新聞社により、創設されると、

翌1935(昭和10)年には、2番目の球団として、阪神電鉄により「大阪タイガース」が創設された。

 

 

 

こう言っては何だが、阪急電鉄と比べると、阪神電鉄などは、

企業としての規模は、お話にならないぐらい、ダントツの差が有った(※勿論、阪急の方が、阪神を遥かに上回っていた)。

鉄道の営業距離だけを比べてみても、阪急阪神とは雲泥の差が有った。

その阪神に、球団創設で先を越された小林一三は、

「我が阪急も、直ちに球団を作れ!!」

と号令を下し、その小林一三の命を受け、1936(昭和11)年1月23日、プロ野球の3番目の球団として「阪急球団(阪急軍)」が創設された。

 

 

 

 

また、大阪タイガースの本拠地として、阪神電鉄が「甲子園球場」という、「東洋一の大球場」を建設したのに対抗して、

阪急は、アメリカ大リーグのシカゴ・カブスの本拠地「リグレー・フィールド」を参考に、

1937(昭和12)年5月1日、阪急の本拠地として「阪急西宮球場」という、立派なスタジアムを竣工させた。

以後、「阪急西宮球場」は、阪急の数々の名勝負の舞台となり、幾多の名選手達が、ここで輝きを放つ事となった。

 

<慶應義塾出身の小林一三の影響により、「慶応カラー」が強かった、初期の阪急球団~慶応の大スター、宮武三郎・山下実が阪急の「創立メンバー」となり、初代監督は慶応OBの三宅大輔>

 

 

 

 

ところで、阪急球団の創設者・小林一三慶應義塾の出身だったため、

初期の阪急球団は、小林一三の影響もあり、「慶応カラー」が非常に強かった。

宮武三郎・山下実は、東京六大学野球の慶応の大スターとして、昭和初期に「慶応黄金時代」を築いていたが、その宮武三郎・山下実は、阪急球団の創立メンバーとなった。

 

 

また、「大日本東京野球倶楽部」、後の巨人軍の初代監督を務めながら、

読売新聞による球団経営の方針と対立し、巨人の監督を解任されていた三宅大輔が、阪急の初代監督に就任したが、

この三宅大輔も、慶応OBであった。

つまり、阪急球団とは「慶応カラー」を前面に出し、「山の手のお洒落な球団」というイメージで、その歴史のスタートを切ったという事である。

 

<宿命のライバル「阪急VS阪神」~「阪神阪急定期戦」は、1936(昭和11)年~1988(昭和63)年まで続く、「もう一つの伝統の一戦」に⇒2006(平成18)年10月1日、阪急・阪神は経営統合され「阪急阪神ホールディングス」が誕生、因果は巡る!!>

 

 

慶応といえば、学生野球における「伝統の一戦」として、早稲田と慶応が対決する「早慶戦」が有るが、

プロ野球における「伝統の一戦」といえば、「巨人-阪神戦」が有名である。

しかし、阪急にとって最大のライバルといえば、やはり阪神であった。

「阪急VS阪神」は、お互いに、絶対に負けられない相手として、球団創立当初から、激しいライバル心を燃やしていた。

 

 

そして、プロ野球においては、非常に珍しい事ではるのだが、

「阪急VS阪神」は、シーズン中の公式戦としての対決とは別に、

公式戦開幕前や、シーズンオフに、わざわざ「阪神阪急定期戦」を開催していた。

プロ野球チーム同士が、公式戦とは別に「定期戦」を開催するというのは、本当に珍しい。

つまり、阪急と阪神は、それだけライバル心が強かったという事であるが、

この「阪神阪急定期戦」は、1936(昭和11)年9月12日に、第1回の対戦を迎え、

このシリーズは3戦が行われ、阪急が2勝1敗で阪神を破った。

 

 

以後、「阪急阪神定期戦」は、毎年、必ず開催されたが、

毎回、両電鉄会社から、甲子園や西宮に多数の応援団が動員され、大いに盛り上がった。

しかし、1950(昭和25)年に、セ・パ両リーグに分裂し、阪神がセ・リーグ、阪急がパ・リーグに所属すると、

「阪神阪急定期戦」の盛り上がりは、徐々に下火になって行き、やがては、ただのオープン戦のような扱いになってしまった。

だが、阪急と阪神は、遂に日本シリーズでは一度も対決出来なかったため、「阪神阪急定期戦」は、両球団が対決する、貴重な対決でもあった。

そして、1936(昭和11)年~1988(昭和63)年(※阪急がオリックスに身売りした年)まで、

「阪神阪急定期戦」は毎年、必ず開催され(※両リーグに分裂した1950(昭和25)を除く)、下記の通算成績が残っている。

 

阪神タイガース 75勝

阪急ブレーブス 69勝

12分  

阪神優勝28回 阪急優勝21回 無勝負9回 雨天中止1回

(※1979(昭和54)年まで、1シリーズで勝ち越した球団を「優勝」としたが、1980(昭和55)年以降は、決着を着けず)

 

 

 

なお、阪急ブレーブスが初優勝を飾った1967(昭和42)年から39年後、

そして、阪急ブレーブスオリックスに身売りしてから18年後、

2006(平成18)年10月1日(※阪急初優勝の記念日)に、阪急阪神遂に経営統合され、「阪急阪神ホールディングス」が誕生し、

阪急は阪神を傘下に収めてしまったが、実は小林一三も、生前、阪神を吸収合併する事を考えていたというが、その時は実現しなかった。

しかし、因果は巡るというか、事実上、遂に阪神阪急の軍門に下った。

全く、歴史の綾というのは、実に面白いものである。

 

<1936(昭和11)~1944(昭和19)年の阪急球団…戦前の阪急は、1941(昭和16)年の「2位」が最高で、優勝は成らず>

 

 

 

 

 

さて、話を阪急球団の歴史に戻す。

1936(昭和11)~1944(昭和19)年にかけて、戦前のプロ野球は、

巨人阪神の2球団が常に優勝を独占しており、阪急は一度も優勝出来なかった。

前述の、宮武三郎・山下実「慶応コンビ」や、巨人キラーの天保義夫、「野口四兄弟」の長兄・野口明など、阪急には数々の名選手も在籍していたが、阪急は、どうしても優勝には手は届かなかった。

阪急は、初代監督:三宅大輔(1936~1937秋)の後、2代目監督は、やはり慶応OBの村上実(1937秋)が務めた後、3代目監督:山下実(1938春~1939)が指揮を執ったが、その間、阪急は最高でも3位止まりであった。

 

 

1941(昭和16)年、4代目監督:井野川利春監督の下、

阪急は「2位」になったが、これが戦前における阪急の最高順位であった。

つまり、阪急は巨人・阪神に次ぎ、いつも良い所までは行くが、優勝は出来ないという立ち位置の球団であった。

 

 

 

1943(昭和18)年、阪急の監督は井野川利春から西村正夫に交代したが、

同年(1943年)、西村正夫監督の下、阪急は7位という不振に終わった。

翌1944(昭和19)年、西村監督率いる阪急は3位と健闘し、ここで戦前の阪急球団の歴史は、一旦、幕を閉じた。

1945(昭和20)年、戦争が激化し、プロ野球は休止に追い込まれたからである。

(※なお、西村正夫は、戦後の1954(昭和29)~1956(昭和31)年にも、2度目の阪急監督を務めている)

 

<戦後の阪急球団…1946(昭和21)年、プロ野球が復活!!~同年(1946年)、阪急に野口二郎・今西錬太郎・青田昇らが加入し、1947(昭和22)年、「阪急ブレーブス」と改称!!~1949(昭和24)年、阪急は戦後初の「2位」に>

 

 

 

1945(昭和20)年8月15日、昭和天皇「玉音放送」により、長かった太平洋戦争の終わりが告げられたが、

翌1946(昭和21)年、8球団により、休止していたプロ野球が「復活」の時を迎えた。

そして、戦争が終わったと同時に、小林一三は、阪急電鉄や阪急百貨店、宝塚歌劇団や東宝映画を復活させたが、阪急球団も、いち早く活動を再開している。

 

 

 

 

1946(昭和21)年、戦前から引き続き、西村正夫監督が指揮を執る阪急球団に、

野口二郎(※「野口四兄弟」の次兄)、今西錬太郎、青田昇らの好選手が、続々と入団して来た事もあり、阪急球団は、陣容を整えたが、同年(1946年)、阪急は8球団中4位に終わっている。

なお、この時、青田昇が、巨人から阪急に移籍して来た事により、阪急と縁が出来た事が、後の阪急初優勝の伏線となるのである。

 

 

 

翌1947(昭和22)年、阪急球団は、開幕前に「阪急ベアーズ」と改称したが、

「阪急ベアーズ」は、オープン戦での成績も悪く、また、「ベアー」という単語は、投資の世界でも演技が悪いとの事で、同年(1947年)4月18日、阪急は改めて、球団名を「阪急ブレーブス」と改称した。

1947(昭和22)年、「阪急ブレーブス」としての最初のシーズンで、西村正夫監督の下、阪急は4位に終わると、

翌1948(昭和23)年、阪急の監督は浜崎真二(※これまた、慶応OB)に交代すると、同年(1948年)、阪急は4位だったが、翌1949(昭和24)年、阪急は独走で優勝した巨人に16ゲーム差を付けられたとはいえ、戦後初の「2位」となった。

 

 

というわけで、ここまでで1リーグ時代の阪急の歴史は終わったが、

この間(1936~1949年)、阪急は1941(昭和16)年と1949(昭和24)年の「2位」が最高順位であり、1リーグ時代には、阪急は一度も優勝を果たす事は出来なかった。

そして、この後、阪急は「2リーグ分裂」の激震に巻き込まれる事となる。

 

<1949(昭和24)年11月26日…プロ野球が「セ・リーグ」「パ・リーグ」の2リーグに分裂!!~阪急ブレーブスは「パ・リーグ」に所属>

 

 

 

さてさて、これまた、このブログで何度も書いてきたネタではあるが、

1949(昭和24)年のシーズン中から、プロ野球は新球団・毎日オリオンズの加盟を巡り、

既存の8球団が、毎日の加盟の賛成派・反対派に分かれ、激しく対立するようになった。

そして、紆余曲折を経て、1949(昭和24)年11月26日、遂にプロ野球は2リーグに「分裂」する事態となった。

 

 

 

 

そして、プロ野球は「セントラル・リーグ(セ・リーグ)」「パシフィック・リーグ(パ・リーグ)」に分かれ、それぞれ、新たなスタートを切ったが、阪急ブレーブスは、新球団・毎日オリオンズ加盟賛成派が中心の「パ・リーグ」に所属する事となった。

以後、阪急ブレーブスは、「パ・リーグ」の一員となったが、この後、阪急は1967(昭和42)年10月1日に初優勝の時を迎えるまで、苦闘の時代を過ごして行く事となるのである。

 

(つづく)