本日(9/15)は、今から17年前の、2003(平成15)年9月15日、
星野仙一監督率いる阪神タイガースが、18年振りの優勝を達成した日である。
この年(2003年)、阪神タイガースは、長年にわたる暗黒時代を脱し、遂に優勝の栄光を手にした。
阪神タイガースは、12球団で一番と言っても良いぐらい、熱狂的なファンを多く有している球団であるが、
実に18年もの長い間、その阪神ファンの熱烈な応援に応える事が出来ず、低迷を続けていた。
その阪神が、遂に1985(昭和60)年以来の優勝を成し遂げるまでには、実に長い長い「暗黒時代」が有った。
というわけで、今回は2003(平成15)年の阪神優勝と、優勝に至るまでの、阪神タイガースの苦難の道のりに、スポットを当ててみる事としたい。
では、まずは「前編」として、1985(昭和60)年の阪神優勝の栄光から、吉田義男、村山実監督時代の「第1期暗黒時代」の到来までを、ご覧頂こう。
<1985(昭和60)年10月16日…阪神タイガース、21年振りの優勝!!~1985(昭和60)年の「虎フィーバー」が最高潮に>
1985(昭和60)年10月16日、この年(1985年)、真弓明信、バース、掛布雅之、岡田彰布らの強力打線が火を噴き、
年間通して、快進撃を続けて来た、吉田義男監督率いる阪神タイガースは、遂に、優勝まで「マジック1」に迫っていた。
この日、神宮球場でのヤクルト-阪神戦で、阪神は勝つか引き分ければ、優勝が決まる、という状況である。
ヤクルトの本拠地である筈の神宮球場は、この日、日本全国から詰めかけた阪神ファンで、あっという間に埋め尽くされた。
この試合を見るために、数多くの徹夜組も出ていたが、報道陣が、徹夜で並んでいた阪神ファンに、
「いつから、待っていたのですか?」
と聞いたところ、その阪神ファンは、こう答えた。
「21年前からや!!」
そう、阪神タイガースが、前回に優勝したのは1964(昭和39)年であり、その優勝から、実に21年もの月日が流れていたのである。
その待ちに待った優勝を一目見ようと、神宮球場には全国から阪神ファンが押し寄せていたが、神宮球場にはズラリと警官隊も出動し、厳戒態勢を敷いていた。
さて、この試合であるが、細かな試合経過は省くが、
10回表を終わった時点で、5-5の同点であり、10回裏のヤクルトの攻撃を0点で抑えれば、阪神優勝が決まる、という所まで漕ぎ着けた。
そして、10回裏、阪神の抑えの切り札・中西清起が、最後の打者・角富士夫を投手ゴロに打ち取り、ゲームセット!!
この瞬間、阪神タイガースの21年振りの優勝が決定した。
マウンド上には、あっという間に歓喜の輪が出来上がり、すぐさま、吉田義男監督の胴上げが始まった。
そして、掛布雅之、バースらの、殊勲選手達も、次々に胴上げされたが、
この年(1985年)は、選手としての出番はあまり無かったとはいえ、
ベンチで「ヤジ将軍」として、首脳陣と選手達の間で、チームのまとめ役として働いた川藤幸三も、胴上げされた。
皆、川藤幸三という男の存在の大きさを、認めていたという事であろう。
見事に、阪神タイガースを21年振りの優勝に導いた吉田義男監督は、
実は、この年(1985年)、判で押したように「今年は、土台作り」という言葉を、念仏のように繰り返しているだけで、
なかなか、「優勝」という言葉は口にしなかったが、そんな風に慎重すぎる吉田監督に対し、
シーズン終盤、川藤は、「監督、そろそろ優勝っていう言葉を口に出して、選手の士気を高めて下さい!!」と言って、吉田監督に、ハッキリと「優勝を狙う」という言葉を言わせた、というエピソードも有ったが、
この日、念願の優勝を達成した吉田監督に対しては、最大級の賛辞が贈られた。
中には、「吉田監督は、永久政権だ」と書き立てるマスコミも有った。
何しろ、21年もの長い間、眠りについていた阪神タイガースを蘇らせ、遂には優勝に導いたのだから、吉田監督に対する賛辞も、当然であろう。
<「阪神21年振り優勝」で、大阪の街は大フィーバー!!~「道頓堀ダイブ」が続出し、何故か「カーネル・サンダース」人形が、胴上げされ、道頓堀に投げ込まれる騒ぎに…>
さて、阪神21年振り優勝が決まった途端、この時を待ちに待っていた大阪の街では、歓喜が大爆発した。
そして、阪神優勝が決まった直後から、大阪の街は多くの阪神ファンや、野次馬でごった返し、凄まじいドンチャン騒ぎになった。
大阪の人達が、こよなく愛する阪神タイガースが、遂に優勝したのだから、その喜びは、ひとしおだったという事であろうが、
遂には、大阪・ミナミの道頓堀に、次々に人々が飛び込む、という騒ぎに発展した。
なお、道頓堀といえば、物凄く汚いドブ川であるが、そんな所に飛び込んでしまうという、「道頓堀ダイブ」が続出するほど、この夜の熱狂は凄まじかったという事である。
そして、恐らくは「バースに似ている」(?)という理由からなのか、
何故か、「カーネル・サンダース」人形が、阪神ファン(※いや、この人達は本当に阪神ファンだったのだろうか…)から胴上げされ、遂には、道頓堀に、そのまま投げ込まれてしまった。
このように、「阪神21年振り優勝」に興奮した人達によって、乱痴気騒ぎが、あちらこちらで起こったのであった。
<1985(昭和60)年11月2日…阪神タイガース、日本シリーズで西武ライオンズを4勝2敗で破り、阪神が球団史上初の「日本一」達成!!~吉田義男監督の名声は、ますます高まり、吉田監督は第1期監督時代(1975~1977年)の「リベンジ」を果たす>
なお、阪神タイガースの勢いは、リーグ優勝だけでは留まらなかった。
この年(1985年)の日本シリーズは、阪神タイガースと西武ライオンズが対決したが、
阪神が、21年振りリーグ優勝の勢いそのままに、西武を4勝2敗で破り、遂に、阪神が球団史上初の「日本一」を達成してしまったのである。
吉田義男監督の名声は、これで、ますます高まったが、吉田監督は、第1期監督時代(1975~1977年)には、思うような結果を残せず(3位⇒2位⇒4位)、退陣していたが、その「リベンジ」を果たした形となった。
まさに、吉田義男にとって、1985(昭和60)年は「人生最良の1年」となった。
しかし、「人生最良の1年」という事は、頂点に立ち、後は下り坂を降りて行くだけ、という言い方も出来る。
だが、吉田監督は、この後に待ち受ける「地獄」を、知る由も無かった。
(※1985(昭和60)年の阪神タイガース…74勝49敗7分 勝率.602(優勝)、日本シリーズでは西武を4勝2敗で破り、「日本一」)
<1985(昭和60)年「阪神21年振り優勝」の最大の立役者、ランディ・バース…打率.350 54本塁打 130打点で「三冠王」を獲得し、「日本シリーズMVP」も獲得~「神様仏様バース様」と、阪神ファンに崇められる>
1985(昭和60)年の、阪神タイガース優勝、そして日本一の最大の立役者となったのは、
何と言っても、ランディ・バースである。
バースは、打率.350 54本塁打 130打点で「三冠王」を獲得したばかりか、
日本シリーズでも、3試合連続ホームランと打ちまくり、阪神の日本一にも大きく貢献し、「日本シリーズMVP」も獲得した。
そのため、バースは阪神ファンから「神様仏様バース様」と、崇められるようになったが、
バースがあまりにも凄かったため、この後、阪神は、長らくバースの「幻影」を追い求める事にもなってしまった(※そして、それは今もなお、続いている)。
<1986(昭和61)年の阪神タイガース…「バース2年連続三冠王」、「ルーキー・遠山昭治の活躍」、「川藤幸三のオールスター出場&現役引退」etc…色々有ったが、60勝60敗10分 勝率.500で3位に終わり、連覇を逃す>
1986(昭和61)年の阪神タイガースは、勿論、「連覇」を目指してスタートしたが、
前年(1985年)の栄光の余韻に、まだ浸り切っていた阪神は、この年(1986年)、あまり目立った補強もしておらず、
吉田監督も「現有戦力で、充分の連覇を狙える」という目論見であった。
しかし、現実はそう甘くはなかった。
他球団としても、前年(1985年)は、阪神にしてやられたが、そうそう簡単に、阪神にばかり勝たせてなるものかと、対阪神の対策を、充分に練っていた。
この年(1986年)の阪神は、前年(1985年)の優勝で、気が緩んでいたというわけでもなかったであろうが、
全体として、投打が噛み合わず、今一つ、波に乗れない状態が続いていた。
まず、主砲・掛布雅之が、4月20日の中日戦で、斉藤学(中日)から手首に死球を受け、骨折で離脱をしてしまったが、
結果として見れば、掛布はそれ以降、全く精彩を欠くようになってしまい、阪神も、勝ったり負けたりで、勝率5割前後をウロウロするような戦いぶりが続いた。
そんな中、「神様仏様バース様」と称された、バースは、1人、気を吐き、
打率.389 47本塁打 109打点で、何と、バースは「2年連続三冠王」を達成してしまった。
まさに、バースは別格とも言うべき存在であったが、彼が素晴らしいのは、このように、優勝した翌年にも、また「三冠王」を獲ってしまった、という事であろう。
なお、バースの「打率.389」は、未だに破られていない、1シーズンにおける、日本プロ野球史上最高打率である。
この年(1986年)の阪神の明るい話題といえば、
八代第一高校出身の、高卒ルーキー・遠山昭治が、27試合 8勝5敗 3完投2完封 防御率4.22と、
新人らしからぬ、堂々たる投球で、見事な成績を残したという事であろう。
遠山は、阪神ファンの期待を一身に集める存在となったが、この後、遠山は長い間、低迷し、苦しみ抜く事となる。
阪神一筋19年、「ナニワの春団治」と称され、阪神ファンから愛された男・川藤幸三は、
この年(1986年)、代打だけで、49打数13安打 打率.265 5本塁打 13打点と、
「代打でシーズン5本塁打」という、プロ入り以来最高の成績を残し、プロ19年目にして、初のオールスターに出場した。
オールスターでは、川藤は代打で登場し、二塁打性の当たりを放ちながら、あまりの鈍足で、二塁の手前でアウトになってしまい、
二塁ベース上で、川藤は苦笑いをするという一幕もあったが、これを花道として、川藤は19年の現役生活に別れを告げ、現役引退した。
このように、1986(昭和61)年の阪神も、色々な話題は有ったが、
結局、1年通して、今一つ、チーム状態は上向かず、60勝60敗10分 勝率.500で3位に終わり、阪神は「連覇」を逃した。
「まあ、優勝した翌年やし、しゃーないわ。また来年や、来年!!」
阪神ファンは、この頃は、まだそんな風に楽観的であった。
しかし、阪神の本当の「地獄」は、その翌年(1987年)から始まる事となるのである。
<1987(昭和62)年…頼れる投手は、キーオただ1人で、投打共に完全にチームは「崩壊」し、41勝83敗6分 勝率.331という球団史上最悪の成績で、9年振り「最下位」~吉田義男監督は「辞任」に追い込まれる>
1987(昭和62)年、吉田義男監督体制は3年目を迎えたが、
前年(1986年)は不覚を取り、「連覇」を逃してしまった阪神は、勿論、「V奪回」を目指していた。
しかし、現実は、誠に残酷であり、この年(1987年)、阪神は投打共に壊滅的な惨状で、チームは完全に「崩壊」してしまったのである。
この年(1987年)も、阪神には、真弓明信、バース、掛布雅之、岡田彰布という、
2年前(1985年)の優勝メンバーは健在であり、また、西武から田尾安志も移籍して来るなど、
打撃陣は、それなりの陣容が整っているかに思われたが、彼らは、揃いも揃って、軒並み成績を落とし、
阪神打線は、年間通して、全く機能しなかった。
阪神投手陣も崩壊し、この年(1987年)、頼れる投手といえば、
新外国人のマット・キーオぐらいなものであり、阪神はキーオにおんぶに抱っこの状態であった。
キーオは、阪神が酷いチーム状態だったにも関わらず、孤軍奮闘し、11勝14敗 防御率3.80という成績を残した。
というわけで、打ってもダメ、守ってもダメ、走ってもダメ、何もかもダメダメだった、
1987(昭和62)年の阪神タイガースの戦績は、下記の通りである。
4月 4勝10敗2分
5月 7勝17敗
6月 6勝15敗
7月 3勝12敗
8月 9勝13敗3分
9月 10勝11敗1分
10月 2勝5敗
合計 41勝83敗6分 勝率.331(最下位)
というわけで、1987(昭和62)年の阪神は、全月間で負け越し、
良い所が全く無く、41勝83敗6分 勝率.331という、球団史上最悪の成績で、ダントツ最下位に終わってしまった。
あの、1985(昭和60)年の優勝は、一体何だったのか、と思わせるような、酷い負けっぷりである。
球団というのは、強くするのには時間がかかるが、弱くなるのは、あっという間であるという事を、この頃の阪神は、如実に表していた。
そして、吉田義男監督は、最下位転落の責任を取らされる形で、「辞任」に追い込まれてしまったが(※吉田監督は、報道陣とも対立し、マスコミからは「ドケチ」などと、散々な言われようであった)、
2年前、あれほど「神様」のように崇め奉られていた吉田監督が、それから僅か2年で、どん底まで転落し、阪神を追い出される形になろうとは、一体、誰が予想したであろうか?
全く、人生とは何が起こるかわからないものであるが、吉田監督は、「栄光の頂点」と「失意のどん底」を、短期間で両方とも味わうという、誠に稀有な体験をした人物である、という事だけは確かである。
<1987(昭和62)年シーズンオフ…吉田義男監督の「辞任」を受け、村山実が阪神の新監督に就任>
1987(昭和62)年シーズンオフ、吉田義男監督の「辞任」を受け、
かつての阪神のエース・村山実が阪神の新監督に就任した。
村山実は、かつて、1970(昭和45)~1972(昭和47)年に、阪神の「選手兼任監督」を務めていた事が有り、
それ以来、15年振りの阪神復帰であったが、愛する古巣・タイガースのために、村山は一肌脱ぐ覚悟を決めたのである。
<1988(昭和63)年の阪神タイガース…「第2次村山政権」がスタートし、野田浩司をドラフト1位で獲得、和田豊・大野久・中野佐資の3人を「少年隊」と名付けて売り出す~しかし、「バース解雇」「掛布引退」などでチームは崩壊し、阪神は51勝77敗2分 勝率.398で「2年連続最下位」に終わる>
1987(昭和62)年オフ、就任したばかりの村山実・新監督は、
将来の阪神のエース候補として、野田浩司をドラフト1位で獲得した。
村山監督は、野田に大きな期待をかけ、積極的に起用したが、プロ1年目、野田はプロの壁に苦しみ、3勝13敗 防御率3.98という成績に終わっている。
自ら、永久欠番である、背番号「11」を背負った村山監督は、
熱血漢らしく、「自分が、阪神を建て直す!!」という意気に燃えていたが、
この時期、阪神は新旧交代の過渡期にあり、村山監督も、苦労が絶えなかった。
そして、人一倍、涙もろい村山監督は、勝っては泣き、負けては泣き、といった感じであったが、それだけ、情熱家だったという事であろう。
村山監督は、阪神再建のため、若手選手を積極的に起用したが、
和田豊・大野久・中野佐資の3人を「少年隊」と名付け、彼らを積極的に売り出した。
そして、「少年隊」の3人は、それなりの成績を残し、阪神ファンに希望を与えた。
だが、阪神ファンを絶望のどん底に突き落とす出来事も有った。
あの「神様仏様バース様」こと、ランディ・バースが、長男の病気(水頭症)の治療のため、
シーズン途中で帰国すると、その治療費の請求などを巡って、バースと阪神球団は鋭く対立してしまった。
そして、6月27日、バースは遂に阪神を解雇されてしまった。
阪神としても、苦渋の決断ではあっただろうが、あの大功労者のバースが、最後はこんな形で退団してしまったという事に対し、阪神ファンは皆、ガックリと落ち込んだ。
そして、「バース問題」で心労が重なった、阪神の古谷真吾・球団社長が、
飛び降り自殺してしまうという、何とも痛ましい出来事も有った。
球団側と選手側の板挟みに遭い、精神的に追い詰められた末の、悲劇的な結末であったが、
この事件は、阪神の選手達にも大きな衝撃を与えた。
古谷球団社長が亡くなった後、「弔い合戦」として臨んだ試合で、阪神は勝利し、
村山監督は、試合後、涙を流したが、この頃には、またしても阪神は投打ともに「崩壊」しており、
この年(1988年)も、阪神は最下位を独走していた。
熱血漢・村山実監督を以てしても、阪神タイガースの再建は、もはや容易な事ではなくなっていた。
更に、追い打ちをかけるように、当時、村山監督との「確執」が噂されていた掛布雅之も、
当時33歳の若さにして、現役引退を表明し、10月10日、またシーズン途中だったにも関わらず、
甲子園球場での阪神-ヤクルト戦を最後に、掛布は引退してしまった。
こうして、バースが解雇され、掛布も引退した阪神は、1985(昭和60)年の「V戦士」が、1人また1人と、チームを去って行く事となってしまった。
というわけで、1988(昭和63)年の阪神タイガースの戦績は、下記の通りである。
4月 9勝9敗
5月 11勝10敗1分
6月 5勝13敗
7月 7勝11敗
8月 8勝16敗1分
9月 7勝10敗
10月 4勝8敗
合計 51勝77敗2分 勝率.398(最下位)
阪神は、4月、5月は、そこそこ健闘したものの、
「バース騒動」が有った6月以降は、大幅に負けが込み、
結局、この年(1988年)に阪神は、51勝77敗2分 勝率.398で、「2年連続最下位」に終わってしまった。
村山監督の苦悩の色は、濃くなるばかりの1年であった。
<1989(平成元)年の阪神タイガース…新外国人・フィルダーが38本塁打と大活躍するも、「自爆」で骨折し、パリッシュ(ヤクルト)にホームラン王を攫われる~岡田彰布が、「天覧試合」30年後(1989.6.25)の阪神-巨人戦で、意地の「逆転満塁ホームラン」~阪神は54勝75敗1分 勝率.419の5位で、最下位は脱出したが、村山監督は辞任⇒後任監督は中村勝広に>
1989(平成元)年、元号も「昭和」から「平成」に代わり、
村山実監督も2年目を迎え、この年(1989年)こそ、阪神は上位進出を目論んでいたが、
まずは、「2年連続最下位」からの脱出こそが、当時の阪神の、当面の目標であった。
そんな阪神に、当時25歳だった、セシル・フィルダーという新外国人選手が入団したが、
フィルダーは、阪神の石井晶・打撃コーチの辛抱強い打撃指導の甲斐有って、
日本の投手達の変化球攻めにも、徐々に慣れて行き、やがて、ガンガンと打ちまくって行った。
フィルダーは、あのバースが付けていた背番号「44」を背負っていたが、まさしく「バースの再来」と言って良いほどの、大活躍であった。
だが、この頃の阪神は、いくらフィルダー1人が打ちまくった所で、
どうにもならないほど、戦力的には厳しい状態であり、相変わらず、低空飛行が続いていた。
村山監督も、ベンチで腕組みをして、難しい顔をして黙り込む場面が多くなっていた。
そんな村山実監督が、留飲を下げたのは、1989(平成元)年6月25日、
甲子園球場での、阪神-巨人戦である。
この日は、村山実が長嶋茂雄(巨人)に劇的なサヨナラ本塁打を打たれた、あの「天覧試合」(1959(昭和34)年6月25日)から、ちょうど30年目という節目の日だったのであるが、何と、この試合で、岡田彰布が、ガリクソン(巨人)から、劇的な逆転満塁ホームランを放ったのである。
これには、村山監督も大感激であり、やはりというか、感極まって涙を流していた。
そんな出来事も有ったが、阪神は全体としてみれば、投打共に不振であった。
しかし、フィルダーは1人、気を吐き、シーズン終盤、フィルダーは38本塁打で、36本塁打のパリッシュ(ヤクルト)に2本差を付け、ホームラン王争いのトップを走っていたものの、何と、9月14日の巨人戦で、三振した事に腹を立て、バットを地面に叩きつけた際に、そのバットが跳ね返って来て、右手の小指を骨折してしまうという、前代未聞の事件を起こしてしまった。
これで、フィルダーは戦列を離脱し、そのまま帰国⇒退団してしまったが、その後、パリッシュは6本塁打を追加し、結局、パリッシュが42本塁打で、逆転でホームラン王のタイトルを獲った。
フィルダーとしてみれば、「自爆」により、せっかくのタイトルを逃してしまった形となった。
というわけで、1989(平成元)年の阪神タイガースは、
54勝75敗1分 勝率.419という成績で、この年(1989年)、大不振で最下位に沈んだ大洋のお陰で、何とか最下位を脱出し、5位に浮上したものの、3年連続Bクラスに終わってしまった。
そして、村山監督は、成績不振の責任を取り、僅か2年で「辞任」してしまった。
村山実監督の「辞任」の後を受け、当時、阪神の二軍監督として、「帝王学」を学んでいた、中村勝広が、後任監督に就任し、
阪神タイガースの再建は、中村勝広・新監督に託される事となった。
こうして、吉田・村山監督時代の「第1期暗黒時代」の到来の後を受け、中村監督時代が始まる事となるが、
それは、阪神の「暗黒の1990年代」の幕開けに過ぎなかったのである。
(つづく)