2016/9/10…広島東洋カープ、25年振り優勝…優勝までの苦節25年(後) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

2016(平成28)年9月10日、広島東洋カープは、25年振りの優勝を達成したが、

そこに至るまでは、実に長い苦難の道のりが有った。

資金面で苦戦する広島は、1991(平成3)年に優勝して以来、主力選手が相次いでFAで流出するなど、

戦力の低下に苦しみ、それが長きにわたる低迷の原因となっていた。

 

 

しかし、広島東洋カープというチームは、それでも、若手選手を鍛え上げ、手塩にかけて選手を育て上げるという方針を、愚直に変えなかった。

それが、2016(平成28)年の優勝に繋がったわけであるが、今回は、2009(平成21)年にカープが「マツダスタジアム」を本拠地として、

2010(平成22)年に野村謙二郎が監督に就任し、以後、徐々にチーム力を付け、2016(平成28)年に、カープが遂に「25年振り優勝」という「大輪の花」を咲かせて行く過程を、「後編」として、描いて行く事としたい。

 

<2010(平成22)年…生え抜きのスター・野村謙二郎が、「12年連続Bクラス」に低迷するカープ再建を期して、監督に就任>

 

 

 

2010(平成22)年、カープ生え抜きのスター選手だった野村謙二郎が、

「12年連続Bクラス」に低迷する広島の再建を期して、ブラウン前監督の後任として、新監督に就任した。

野村謙二郎は、広島が前回優勝した1991(平成3)年に、遊撃手として大活躍し、カープ優勝に貢献した主力選手であった。

野村謙二郎は、「何としても、カープを建て直す!!」という強い決意の下、熱く厳しい指導で、選手達を鍛え上げて行く事となる。

 

<2010(平成22)年の広島東洋カープ①…前田健太が、カープの大エースとして孤軍奮闘し、「沢村賞」を獲得!!~しかし、前田健太以外の投手陣が崩壊…>

 

 

2010(平成22)年、新任の野村謙二郎監督は、「マエケン」こと、エース・前田健太に絶対的な信頼を寄せ、

前田健太を、初の開幕投手に指名すると、前田はその期待に応え、中日との開幕戦で、

8回1失点と好投し、前田は自身初の開幕投手で、見事に勝利投手となった。

 

 

 

 

 

前田健太は、その後もエースとして見事な投球を続け、

同年(2010年)5月15日には、マツダスタジアムで行われた、交流戦の広島-日本ハム戦で、

前田健太(広島)ダルビッシュ有(日本ハム)という、「球界のエース対決」が実現したが、

前田がダルビッシュに投げ勝ち、前田が1-0で完封勝利を挙げ、前田に凱歌が上がった。

 

 

 

結局、この年(2010年)、前田健太は、28試合 6完投2完封 15勝8敗 防御率2.21 174奪三振で、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振と、投手タイトルを独占するという、見事な成績を残し、前田健太は、この年(2010年)の「沢村賞」を文句無しに受賞した。

しかし、前田健太以外の投手陣は奮わず、この年(2010年)の広島投手陣は、前田しか頼れる投手が居ないという状態であった。

 

<2010(平成22)年の広島東洋カープ②…二塁手・東出輝裕、遊撃手・梵英心の「二遊間コンビ」が活躍~梵英心は初の「盗塁王」を獲得!!>

 

 

 

 

現役時代、名ショートとして活躍し、二塁手・正田耕三との「二遊間コンビ」で、

カープの内野守備陣を支えていた野村謙二郎監督は、守備力の大事さを、何よりも熟知している監督であった。

そこで、野村監督は二塁手・東出輝裕、遊撃手・梵英心(そよぎ・えいしん)という「二遊間コンビ」を、カープ内野守備陣の軸に据えて、守備を引き締めたが、東出と梵は、打線でも1、2番コンビとして、チームを牽引した。

 

 

 

なお、梵英心は、この年(2010年)、塁に出れば積極的に走りまくり、

梵英心は、43盗塁で初の「盗塁王」のタイトルを獲得した。

打って良し、守って良し、走って良しの梵は、まさに野村監督が目指す野球を体現する選手であった。

 

<2010(平成22)年の広島東洋カープ③~8月4日の赤松真人&8月22日の天谷宗一郎が、マツダスタジアムで「伝説のスーパーキャッチ」を披露!!~共に横浜ベイスターズ戦でホームラン性の打球をもぎ取る!!>

 

 

 

 

 

 

2010(平成22)年の広島東洋カープを象徴するプレーといえば、やはり、何と言っても、これを挙げなければならない。

それは、赤松真人天谷宗一郎「伝説のスーパーキャッチ」である。

まず、2010(平成22)年8月4日、マツダスタジアムで行われた広島-横浜戦で、広島の齊藤悠葵(さいとう・ゆうき)が、村田修一(横浜)に、左中間のホームラン性の大飛球を打たれたが、センターの赤松真人が、この打球を一直線に追い掛けると、フェンスに駆け上がり、何と、打球がスタンドに入る直前で、振り向きざまに捕ってしまったのである。

 

 

 

まるで「スパイダーマン」のような、赤松真人の超ファインプレーであるが、

ホームラン性の打球を捕ってしまった赤松は、そのままヒラリと、身のこなしも軽く、グラウンドに飛び降りた。

一方、打たれた齊藤悠葵は、半ばホームランと観念していた打球を、赤松がまさかのキャッチをしたのを見て、

「ウソっ!?捕ったの!!??」

というような、ビックリした表情をしていた。

 

 

 

 

 

 

 

赤松の超スーパーキャッチは、10年に1度ぐらいの超ファインプレーかと思われた。

しかし、その僅か2週間後、2010(平成22)年8月22日、同じく松田スタジアムでの広島-横浜戦で、

またしても齊藤悠葵が、今度はハーパー(横浜)にホームラン性の大飛球を打たれたが、

この試合でセンターを守っていた天谷宗一郎が、フェンスに完全によじ登り、エビ反りの態勢になりながらも、この打球を捕ってしまったのである。

齊藤悠葵は、天谷宗一郎による信じられない超ファインプレーを見て、「マジかよ!!!??」というような表情をしていたが、

僅か2週間の間に、プロ野球史上に残るような「超スーパーキャッチ」が、赤松真人、天谷宗一郎という、別々の選手により、成し遂げられたという事になる。

しかも、共に打たれた投手が同じ齊藤悠葵投手だったというのだから、凄い話である。

 

 

 

齊藤悠葵は、当時、「同姓同名」の斎藤佑樹(当時、早稲田大学)が、「持ってる男」と言われていた(?)のを受けて、「ある意味、僕も持ってますね!」と言って、笑っていたが、この後、マツダスタジアムでは、赤松真人、天谷宗一郎の「モニュメント」も作られたほどであった。

それにしても、横浜ベイスターズは、2度までも「伝説のスーパーキャッチ」の引き立て役になってしまったのだから、これも、ある意味では凄い事であった。

 

<2010(平成22)年の広島東洋カープ④~投打が噛み合わず、野村謙二郎監督の就任1年目は5位に終わり、広島は「13年連続Bクラス」に沈む>

 

 

 

このように、2010(平成22)年の広島東洋カープは、色々と話題の多い年ではあったが、

全体として見れば、投打が噛み合わず、不振の1年となってしまい、

結局、2010(平成22)年は、広島は58勝84敗2分 勝率.408で5位に終わり、これで広島は「13年連続Bクラス」に沈んでしまった。

野村謙二郎監督の、カープ再建への道のりは、まだまだ険しかった。

 

<2011(平成23)~2012(平成24)年の広島東洋カープ…5位(2011年)⇒4位(2012年)に終わり、通算「15年連続Bクラス」に低迷~栗原健太が「2ヶ月連続月間MVP」獲得(2011年)、野村祐輔が「新人王」を獲得(2012年)、丸佳浩が台頭するなど、徐々にチーム力は上向き始める>

 

 

2011(平成23)年は、3月11日に発生した「東日本大震災」の影響により、開幕が遅れたが、

広島は開幕から好調で、一時、首位に立つなど、リーグ2位で交流戦を迎えたが、広島は苦手の交流戦で最下位と惨敗し、

広島は、リーグでも一気に5位まで転落してしまった。

 

 

しかし、そこから広島は反撃に転じ、2004(平成16)年以降、毎年、2桁本塁打を放ち、

カープの主砲として活躍していた栗原健太が、この年(2011年)は8~9月に「2ヶ月連続月間MVP」を獲得するという大活躍で、

広島は、8月終了時点で首位ヤクルトに3.5ゲーム差の3位にまで浮上し、一時は優勝を狙える位置に付けていた。

 

 

しかし、その後、広島はそこから故障者続出で、以後、6勝16敗1分と大失速してしまった。

広島としては、エース・前田健太が10勝12敗と負け越し、不振だった事も響いたが、

結局、この年(2012年)も広島は3年連続の5位に終わり、通算「14年連続Bクラス」に沈んだ。

 

 

そんな中、野村監督は、プロ4年目の丸佳浩(まる・よしひろ)を外野のレギュラーとして抜擢し、

丸佳浩は、この年(2011年)、131試合 打率.241 9本塁打 50打点という成績を残した。

丸の台頭は、カープとしては明るい材料であった。

 

 

 

 

2012(平成24)年、広陵高校では甲子園で準優勝、明治大学では、通算65試合 30勝12敗 358奪三振 防御率1.92で、明治の大エースとして活躍したという輝かしい実績を引っ提げ、野村祐輔がドラフト1位でカープに入団した。

野村祐輔は、その期待に応え、この年(2012年)、9勝11敗 防御率1.98で、見事に「新人王」を獲得した。

広島は、この年(2012年)、開幕から健闘し、1997(平成9)年以来、15年振りに前半戦を3位で折り返したものの、

後半戦で広島は失速してしまい、結局、61勝71敗12分 勝率.462で4位と、「15年連続Bクラス」に終わった。

しかし、次々に新戦力が台頭し、カープは徐々にチーム力を高めて行っているというのは、確かであった。

 

<2013(平成25)年の広島東洋カープ①…16年振りのAクラス(3位)と、球団史上初のCS(クライマックスシリーズ)進出が決定!!>

 

 

 

2013(平成25)年の広島東洋カープは、開幕4連敗という苦しいスタートを切り、

その後、一旦は勝率5割に戻したものの、4月19日に借金生活に転落して以降、一度も、シーズンで勝率5割以上には戻せなかった。

一時は借金「14」にまで膨らみ、前半戦を5位で折り返した広島は、後半戦は、中日、DeNAと激しい3位争いを演じた。

そして、前年(2012年)途中に広島に入団し、11本塁打を放ち、この年(2013年)は、怪我や打撃不振などで、長らく鮮烈を離脱していたエルドレッドが、9月に一軍に昇格すると、打ちまくり、エルドレッドキラに打線を牽引されたカープは、9月の9連戦で7勝2敗と大きく勝ち越した。

 

 

 

 

 

 

 

こうして、9月には、ハープは中日、DeNAとの3位争いで優位に立つと、

9月25日、広島は、ナゴヤドームで2-0で中日を破り、遂に16年振りのAクラス(3位)と、球団史上初のCS(クライマックスシリーズ)進出を決定した。

カープの勝利が決まった瞬間、ナゴヤドームに詰めかけていたカープファンは、まるで優勝が決まったように、喜びを爆発させた。

何しろ、15年連続でBクラスに沈んでいたカープが、遂に16年振りにAクラス、しかもCS進出を決めたのだから、喜びもひとしおであった。

 

 

 

 

広島の「16年振りAクラス」と「球団史上初のCS(クライマックスシリーズ)進出」は、大きな話題になり、新聞の「号外」や、「カープCS進出決定記念号」まで出される騒ぎになったが、

それだけ、カープが長い間の低迷から脱したという事に、大きな意義が有ったという事であろう。

(※2013(平成25)年の広島東洋カープ…69勝72敗3分 勝率.489で3位)

 

<2013(平成25)年の広島東洋カープ②…名選手・前田智徳が現役引退>

 

 

2013(平成25)年のカープにとって、大きなニュースといえば、

カープ一筋24年の名選手・前田智徳が、遂に現役引退したという事であろう。

度重なる怪我にも負けず、通算2000安打も達成した天才打者・前田智徳の引退により、カープの一つの時代が終わった。

 

<2013(平成25)年の広島東洋カープ③…CS(クライマックスシリーズ)ファーストステージで、広島が阪神に連勝し、広島がファイナルステージ進出決定!!>

 

 

 

2013(平成25)年のCS(クライマックスシリーズ)ファーストステージは、甲子園球場で阪神-広島の対決となったが、ご覧のように、いつもは阪神ファンでギッシリ埋まる甲子園が、この時は、球場の左半分を真っ赤に染めるほど、カープファンで埋め尽くされ、カープに大声援を送った。

そして、その大声援に後押しされるように、カープはまずは初戦で阪神に8-1で快勝した。

 

 

 

 

 

そして、続く第2戦でも、カープは終盤に猛攻を見せ、広島が7-4で阪神に逆転勝ちを収め、

この結果、カープはCSファーストステージを突破し、遂にファイナルステージ進出を決めた。

カープの勝利が決まった瞬間、甲子園の左半分を真っ赤に染めたカープファンは、万歳三唱の嵐で、カープの選手達を称えた。

まさに、チームとファンが一体になっての勝利だったと言って良い。

 

<2013(平成25)年の広島東洋カープ④…CS(クライマックスシリーズ)ファイナルステージで、広島は巨人に3連敗し、終戦>

 

 

 

 

 

こうして、広島はCSファイナルステージへと駒を進め、リーグ優勝した巨人と対決したが、

ファイナルステージでは、広島は2-3、0-3、1-3で巨人に3連敗を喫し、ここで「終戦」となった。

惜しくも、カープの「下克上」は成らなかったが、このように、2013(平成25)年のカープは大きな爪痕を残したのであった。

野村謙二郎監督がチームを率いて4年目で、カープは大きな成果を残した。

 

<2014(平成26)年の広島東洋カープ①…74勝68敗2分 勝率.521で、2年連続3位(貯金を作ってのシーズン終了は13年振り)&CS進出を決定するも、野村謙二郎監督が退任⇒CSファーストステージで阪神に1敗1分で敗退>

 

 

 

2014(平成26)年の広島東洋カープは、74勝68敗2分 勝率.521で、2年連続3位を確保したが、

広島が、貯金を作ってシーズン終了するのは、2001(平成13)年以来、13年振の快挙であり、2年連続CS進出を決定したという事で、

この時期、カープはハッキリと地力を付け、優勝を狙える位置まで来ていた。

しかし、ここで、カープを5年間、率いて来た野村謙二郎監督が退任を表明したのである。

ここまで来たら、カープを優勝させるまで、野村監督に率いて欲しいと思っていたファンも多かったであろうが、彼としても、色々と思う所が有ったのであろう。

 

 

 

 

そして、CSファーストステージは、前年(2013年)に続き、阪神-広島の対決となったが、

広島は、今度は0-1、0-0と1敗1分で敗退し、野村謙二郎監督の「有終の美」を飾る事は出来なかった。

しかし、野村謙二郎監督は、「146試合、よく頑張ってくれた」と言って、選手達を称えた。

こうして、どん底だったカープを見事に再建した野村謙二郎監督は、カープを去って行く事となった。

 

<2014(平成26)年の広島東洋カープ②…新井貴浩、黒田博樹が7年振りに広島に復帰!!>

 

 

 

 

 

2014(平成26)年のシーズンオフ、カープにとっては、非常に大きな出来事が有った。

まず、2007(平成19)年オフに、FAで広島から阪神に移籍した新井貴浩が、阪神を退団し、7年振りに広島に復帰する事になったのである。

新井は、「優勝を経験してみたい」との事で、阪神に移籍したものの、皮肉な事に、阪神在籍の7年間(2008~2014年)で、一度も優勝を経験する事は出来なかった。

そして、古巣のカープは躍進し、どうやら優勝を狙える所までは来たが、一方の新井は、年々、成績は下降気味であり、遂に阪神の戦力構想から外れてしまったのである。

その新井が、「もう一度、勝負出来る環境に身を置きたい」との事で、年俸は大幅に下がったものの、広島に復帰する事となり、11月14日に新井の復帰会見が行われた。

 

 

 

 

 

 

一方、新井貴浩と同じく、2007(平成19)年オフに、FAで広島からアメリカ大リーグのロサンゼルス・ドジャースに移籍した黒田博樹は、

その後、ロサンゼルス・ドジャース-ニューヨーク・ヤンキースで活躍していたが、新井の復帰と同じタイミングの、2014(平成26)年オフ、

黒田博樹は、大リーグの高額オファーを蹴って、古巣のカープに復帰する事を発表した。

「遂に、黒田がカープに帰って来る!!」

黒田博樹の、男気溢れる決断に、カープファン達は涙を流さんばかりに喜んだ。

こうして、黒田と新井という、かつてのカープの投打の柱が、期せずして、7年振りに揃ってカープに帰って来る事となった。

 

<2014(平成26)年の広島東洋カープ③…緒方孝市が、広島の新監督に就任>

 

 

 

そして、2014(平成26)年オフには、退任した野村謙二郎監督に代わり、

野村監督の下、外野守備総合コーチを務めていた緒方孝市が、カープの新監督に就任した。

こうして、カープの優勝への夢は、緒方監督に託される事となった。

 

<2015(平成27)年の広島東洋カープ…69勝71敗3分 勝率.493で4位に終わり、緒方監督はファンの期待を裏切る~前田健太は2度目の「沢村賞」を獲得するも、FAで退団し、ロサンゼルス・ドジャースへ移籍>

 

 

緒方孝市が新監督に就任し、新井貴浩、黒田博樹が復帰した事もあり、

2015(平成27)年のカープは、優勝に向けて、ファンの期待も大きく高まっていたが、

カープは、シーズン通して、今一つ波に乗れず、69勝71敗3分 勝率.493で4位に終わってしまった。

緒方監督の采配に対しても、ファンからは批判が殺到したが、それだけ、優勝への期待が大きく、その期待が裏切られてしまったという事の反動も有ったのであろう。

 

 

 

 

また、カープ不動のエース・前田健太は、この年(2015年)、15勝8敗 防御率2.09という見事な成績を挙げ、

前田は2度目の「沢村賞」を獲得したが、前田は、この年(2015年)限りで、FAでカープを退団し、アメリカ大リーグのロサンゼルス・ドジャースに移籍してしまった。

チームはBクラスに終わり、またしても、主力の流出の憂き目に遭い、カープファンとしては、散々な1年になってしまったが、翌2016(平成28)年、広島東洋カープは、遂に「大輪の花」を咲かせる時を迎える事となる。

 

<2016(平成28)年の広島東洋カープ①…田中広輔・菊池涼介・丸佳浩の「タナキクマル」の1~3番トリオが大活躍!!>

 

 

 

 

 

2016(平成28)年の広島東洋カープは、それまでの苦節25年の鬱憤を、全て爆発させるような快進撃を見せ、開幕から快進撃を見せ、終始、ぶっちぎりで首位を独走した。

その原動力となったのが、まずは、田中広輔・菊池涼介・丸佳浩「タナキクマル」の1~3番トリオである。

この3人が、縦横無尽に大暴れする事により、カープ打線は活気付き、得点力は大幅にアップした。

 

<2016(平成28)年の広島東洋カープ②…新井貴浩が「通算2000安打」を達成!!>

 

 

 

2016(平成28)年4月26日、紆余曲折を経てカープへと帰って来た男・新井貴浩が、

遂に「通算2000安打」を達成し、カープファンから大きな祝福を受けた。

前年(2015年)に復帰し、自力でレギュラーの座を確保していた新井は、この年(2016年)は「タナキクマル」の後の4番を打ち、カープ打線の中核となった。

 

<2016(平成28)年の広島東洋カープ③…鈴木誠也が、6月17~19日のオリックス3連戦で「2試合連続サヨナラ本塁打」&「3試合目は決勝本塁打」の、「神ってる」大活躍!!>

 

 

 

 

 

2016(平成28)年6月17~19日、広島-オリックス3連戦で、

鈴木誠也が、「2試合連続サヨナラ本塁打」&「3試合目は決勝本塁打」という、神がかり的な大活躍を見せた。

この活躍を、緒方監督は「神ってる」と表現したが、この「神ってる」は2016(平成28)年のカープを象徴する言葉となり、同年(2016年)の流行語大賞も受賞してしまった。

 

<2016(平成28)年の広島東洋カープ④…黒田博樹が「日米通算200勝」を達成!!>

 

 

 

2016(平成28)年7月23日、黒田博樹「日米通算200勝」を達成し、黒田は新井と共に喜びを分かち合った。

共に一旦はカープを離れたものの、またカープで共に戦う事となった黒田と新井という「戦友」同士が、

期せずして、この年(2016年)、揃って「名球会」入りを果たしたというのも、何かの縁であろう。

 

<そして、2016(平成28)年9月10日…遂に、広島東洋カープが25年振り優勝!!~苦節25年の苦労が報われ、カープが「大輪の花」を咲かせる>

 

 

 

 

そして、2016(平成28)年9月10日、「マジック1」で、敵地・東京ドームに乗り込んだカープは、

先発・黒田博樹の好投と、「神ってる男」鈴木誠也の2打席連続ホームランなどで、広島が6-4で巨人を破った。

広島東洋カープ、悲願の25年振り優勝達成!!!!

優勝が決まった瞬間、東京ドームのみならず、全国のカープファンは歓声を上げ、長年の夢が叶ったカープファン達は、喜びのあまり、その場で泣き崩れる者も多かった。

 

 

 

 

 

 

 

カープ25年振りの優勝が決まり、緒方監督が胴上げされ、東京ドームで宙を舞ったが、

緒方監督に続き、優勝の立役者となった黒田博樹、新井貴浩も、次々に胴上げされた。

それは本当に感動的な光景だったが、黒田と新井は、感極まって抱擁し、優勝の感激に浸った。

こうして、2016(平成28)年9月10日、広島東洋カープは苦節25年の苦労が報われ、「大輪の花」を咲かせたのである。

(※2016(平成28)年の広島東洋カープ…89勝52敗2分 勝率.631(優勝))