サザン史・外伝【連続ブログ小説】「クワタとハラ坊」④(1960~1961) ~「シャボン」~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

桑田佳祐原由子が、幼稚園に入った頃、1950年代の終わりは、

日本の音楽界は、演歌や歌謡曲の人気が高かったが、ザ・ピーナッツという新たなスターも誕生していた。

そして、桑田佳祐は幼稚園の「人気者」となり、原由子は、毎日、泥だらけになって遊び回る子供だった。

 

 

そして、時代はいよいよ、1960年代に入り、音楽界、芸能界にも、続々と新たなスターが誕生し、

野球界も、新たな時代の曲がり角を迎えていた。

そんな1960年代初頭、桑田佳祐少年の音楽性が形成されて行った時代に、スポットを当ててみる事としたい。

 

<1960(昭和35)年の出来事①…「安保闘争」で、日本中が大騒ぎになった「政治の季節」~「ダッコちゃん人形」が大流行>

 

 

1960年代の幕開け、1960(昭和35)年は、大変な年になった。

1960(昭和35)年といえば、何と言っても「安保闘争」の年である。

「日米安保条約」の改定を巡り、国民が猛反発し、「安保闘争」が起こったが、

この年(1960年)は、「ダッコちゃん人形」が大流行した年でもあった。

 

 

 

「安保闘争」とは、当時の岸信介首相が、アメリカのアイゼンハワー大統領と共に、

「日米安保条約」を改定し、日本とアメリカの軍事同盟としての面を強化したものであったが、

当時の日本国民は、これを「日本が、また戦争に巻き込まれる可能性が高まった」と捉えた。

そして、日本全国で、広汎な反対運動が起こり、所謂「安保闘争」が起こったが、国会議事堂の周りを、連日、デモ隊が取り囲む事態となった。

その騒乱の最中、東大生・樺美智子が、デモ隊と警官隊に挟まれ、圧死するという、痛ましい出来事も有ったが、結局、「日米安保条約」の改定は成立した。

しかし、日本中に混乱を巻き起こした責任を取り、岸信介は首相を辞任した。

 

 

 

 

 

一方、この年(1960年)に大ブームになったのが、「ダッコちゃん人形」であるが、

小さい子供達や、若い女性が、それこそ「ダッコちゃん人形」に飛び付き、この年(1960年)の夏頃から、「ダッコちゃん人形」は空前の大人気になった。

しかし、何故、「ダッコちゃん人形」が、そんなに流行ったのかは、よくわからない。

日本では、時々、こういう謎のブームが起こる風潮が有るという事であろう。

 

<1960(昭和35)年の出来事②…岸信介首相の後を受け、就任した池田勇人首相が「所得倍増計画」を掲げる~日本は「政治の季節」⇒「経済の季節」へ>

 

 

1960(昭和35)年7月15日、岸信介内閣が総辞職した後を受け、

同年(1960年)7月19日、池田勇人が後継首相に就任し、池田勇人内閣が成立した。

池田勇人首相は、前任の岸信介が、強引な手法で、国民の猛反発を受けた「反省」を活かし、

なるべく「低姿勢」に徹したが、池田勇人は「所得倍増計画」を掲げ、日本の経済成長を押し進める考えを示した。

これにより、以後、日本は「政治の季節」から「経済の季節」へと移って行った。

 

<1960(昭和35)年の出来事③…日本社会党委員長・浅沼稲次郎の刺殺事件が起こる>

 

 

 

日本は、「政治の季節」から、「経済の季節」へ、大きく舵を切ったとはいえ、

「政治の季節」の動乱の余波は有った。

1960(昭和35)年10月12日、東京・日比谷公会堂で、自民党(池田勇人・首相)、日本社会党(浅沼稲次郎・委員長)、民主社会党(西尾末広・委員長)の、3党首による立会演説会で、社会党委員長・浅沼稲次郎が、山口二矢という17歳の右翼少年に刺殺されるという、痛ましい事件が起こった。

白昼堂々、発生した「テロ事件」は、日本中を震撼させた。

なお、この浅沼稲次郎の刺殺事件が発生したのは、後述する大洋ホエールズ-大毎オリオンズの日本シリーズ第2戦が行われている最中であった。

 

<1960(昭和35)年の出来事④…アメリカ大統領選挙で、ジョン・F・ケネディ(民主党)が、リチャード・ニクソン(共和党)を破り、当選~テレビでの公開討論番組が「決定打」に>

 

 

1960(昭和35)年のアメリカ大統領選挙は、ジョン・F・ケネディ(民主党)と、リチャード・ニクソン(共和党)の戦いとなったが、ケネディがニクソンを破り、次期アメリカ大統領に当選した。

その「決定打」となったのが、ケネディとニクソンによる、テレビの公開討論番組でああった。

テレビ映りまで計算して、堂々とした態度を取ったケネディが、顔色が悪く映ったニクソンよりも、視聴者に好印象を与え、それがケネディ支持を増やした要因とされている。

そう考えると、ケネディの勝利は、テレビ時代の到来を象徴する出来事でもあった。

 

<「ロックン・ロール」の大ブーム①~1956年、エルビス・プレスリー登場!!~「ティーン・エイジャー(10代)」のアイドルになった、スーパー・スター>

 

 

 

 

さて、桑田佳祐原由子が生まれた1956(昭和31)年といえば、海の向こう、アメリカで、世界の音楽史を変えてしまうような出来事が有った。

当時21歳のエルビス・プレスリーがデビューすると、エルビス・プレスリーは『Heartbreak Hotel』『Hound Dog』といったヒット曲を連発し、一躍、大人気となった。

エスビス・プレスリーは、それまで黒人の音楽だった「ロックン・ロール」を歌い、全身を使ったパワフルなパフォーマンスを見せたが、エルビスの腰を激しく動かす仕草に、大人達は眉をひそめた。

 

 

しかし、エルビス・プレスリーは、「ティーン・エイジャー(10代)」少年少女からは、圧倒的な大人気となり、熱狂を巻き起こした。

それまで、エルビスのように、10代の少年少女を熱狂させたような歌手は存在しなかったが、エルビスは10代の子達を夢中にさせるカリスマ性が有った。

エルビス・プレスリーの登場により、「ティーン・エイジャー(10代)」という概念が出来た、と言っても過言ではなかった。

それぐらい、エルビスの登場は「革命的」であり、以後、「ロックン・ロール」は大ブームとなり、世界中を席巻した。

 

<「ロックン・ロール」の大ブーム②~1958(昭和33)年、「日劇ウエスタン・カーニバル」で、平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチスの「ロカビリー三人男」が大人気に!!>

 

 

 

 

エルビス・プレスリーの登場と、「ロックン・ロール」の大ブームの余波は、日本にもやって来た。

1958(昭和33)年、ナベプロと東宝の主導で、東京・日比谷の日劇で「日劇ウエスタン・カーニバル」が開催されると、

これに、日本の10代の若い女の子達が飛び付き、連日、日劇は超満員となった。

そして、「日劇ウエスタン・カーニバル」で、大人気となったのが、平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチスの、所謂「ロカビリー三人男」である。

 

 

 

アメリカで、エルビス・プレスリーが10代の若い女の子達を熱狂させたように、

平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチス「ロカビリー三人男」も、日劇の観客席を埋め尽くした若い女性ファン達を虜にした。

彼女達は、キャーキャーと凄まじい嬌声を上げ、中には失神してしまう子も居たようであるが、こんな熱狂は、それまでの日本の音楽界には無い光景であった。

こうして、日米ともに、「ティーン・エイジャー(10代)」が、新たな文化の担い手になる時代が到来したのである。

 

<1960(昭和35)年のヒット曲①…平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチスの「ロカビリー三人男」が相変わらず人気を誇り、「洋楽カバーの日本語版」(『月影のナポリ』(ザ・ピーナッツなど)がヒット・チャートを賑わす~美空ひばり、小林旭も存在感を示す>

 

 

 

そんな経緯を振り返ってみたところで、1960(昭和35)年のヒット曲を見てみると、

平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチスの「ロカビリー三人男」が、相変わらず、人気を誇っていた事がわかる。

山下敬二郎『ダイアナ』は、ポール・アンカの曲のカバーだったが、平尾昌晃『ミヨちゃん』は、オリジナルの楽曲である。

また、当時の日本の歌手は、洋楽のカバー曲を日本語で歌う、という事をよく行なっていたが、前述の『ダイアナ』もそうであり、

ダニー飯田とパラダイスキング『ビキニスタイルのお嬢さん』と、そのB面『ステキなタイミング』も、洋楽カバーの「日本語版」であった。

ザ・ピーナッツ『月影のナポリ』も、この年(1960年)に流行った、洋楽カバーの「日本語版」である。

また、美空ひばりは『哀愁波止場』というヒット曲を飛ばし、小林旭は、海軍小唄が元歌という『アキラのズンドコ節』をヒットさせた。

なお、『ズンドコ節』は、小林旭、ザ・ドリフターズ、氷川きよしが歌い継ぎ、それぞれ大ヒットさせているという、特異な曲である。

 

<1960(昭和35)年のヒット曲②…安保闘争の「象徴」と称された『アカシアの雨がやむとき』(西田佐知子)と、橋幸夫の出世作『潮来笠』>

 

 

 

西田佐知子『アカシアの雨がやむとき』は、何とも気怠い「アンニュイ」な雰囲気の楽曲だったが、

その「アンニュイ」な感じが、「安保闘争」に敗れ、無力感が漂っていた、当時の若者達の心情にフィットして、この時代を象徴する楽曲となった。

なお、西田佐知子は、後に関口宏と結婚している。

 

 

また、この年(1960年)は、橋幸夫『潮来笠』という大ヒット曲も有ったが、

『潮来笠』は、所謂「股旅物」の演歌であり、これが橋幸夫の「出世作」となった。

橋幸夫は、この後、様々なタイプの楽曲を歌いこなすスターとなって行く事となる。

 

<1960(昭和35)年のヒット曲③…『誰よりも君を愛す』(松尾和子&和田弘とマヒナスターズ)が、「第2回日本レコード大賞」受賞>

 

 

 

 

この年(1960年)、「第2回日本レコード大賞」を受賞したのは、

『誰よりも君を愛す』(松尾和子&和田弘とマヒナスターズ)である。

松尾和子がメイン・ボーカルで、和田弘とマヒナスターズを従え、歌った楽曲であるが、

その物悲しく哀愁を帯びたメロディーが、多くの人達の心を打った。

なお、遥か後年、原由子がメイン・ボーカルで、和田弘とマヒナスターズの楽曲『愛して愛して愛しちゃったのよ』がカバーされている。

 

<名優・上原謙の息子で、「湘南ボーイ」(※茅ヶ崎出身で、桑田佳祐と同郷)、「慶応ボーイ」の加山雄三、黒澤明監督作品『男対男』(主演:三船敏郎)でデビュー!!>

 

 

1960(昭和35)年、名優・上原謙の息子で、「慶応ボーイ」、そして桑田佳祐と同郷の茅ヶ崎出身の「湘南ボーイ」でもある加山雄三が、黒澤明監督作品で、三船敏郎が主演した映画『男対男』でデビューを飾った。

「慶応ボーイ」「湘南ボーイ」といえば、石原裕次郎もそうだったが、そう考えると、加山雄三は、石原裕次郎の直系の「後輩」でもある。

そして、実際に石原裕次郎と加山雄三は、親交が有ったとの事である。

というわけで、加山雄三の登場により、この後、「湘南」は更に注目を集めて行く事となる。

 

<1960(昭和35)年12月2日…石原裕次郎・北原三枝夫妻の結婚式~「日活ゴールデン・コンビ」が、華やかにゴールイン>

 

 

 

 

1960(昭和35)年12月2日、石原裕次郎北原三枝夫妻が結婚式を挙げた。

石原裕次郎と北原三枝は、「日活ゴールデン・コンビ」として、24本もの映画で共演して来たが、

結婚を機に、北原三枝は女優業を引退し、以後、妻として裕次郎を支えて行く事となった。

 

<大活躍した、野球界の「桑田」~1959(昭和34)年、桑田武(大洋)が、新人ながら「31本塁打」で「新人のシーズン最多本塁打記録」を樹立~1986(昭和61)年に清原和博(西武)に並ばれるも、未だに残るプロ野球記録>

 

 

 

 

1959(昭和34)年、中央大学から大洋ホエールズに入団した、新人・桑田武は、新人ながら「31本塁打」を放ち、

桑田武は「新人のシーズン最多本塁打記録」を樹立した。

このように、野球界では「桑田」姓の選手が、記録的な大活躍をしていた。

 

 

 

なお、遥か後年、1986(昭和61)年に、PL学園出身の清原和博(西武)が、

新人ながら、シーズン「31本塁打」を放ち、1959(昭和34)年の桑田武と並び、「新人のシーズン最多本塁打」のタイ記録を作ったが、桑田武の記録は、未だに破られていない。

このように、今から61年前に桑田武によって打ち立てられた記録は、誠に偉大であった。

 

<1960(昭和35)年のプロ野球~三原脩監督率いる大洋ホエールズ、「三原マジック」で、「6年連続最下位」(万年最下位)から「奇跡の日本一」に登り詰める!!>

 

 

 

さてさて、このブログでは、もう何度書いたかわからないほど、お馴染みすぎるお話であるが、

1960(昭和35)年、それまで「6年連続最下位」に沈み、「万年最下位」と揶揄されていた大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の監督に、西鉄ライオンズを「3年連続日本一」に導いた「名将」三原脩監督が就任した。

なお、当時、大洋ホエールズは、川崎球場を本拠地として使用していたが、あまりにも弱い球団であり、「負け犬根性」が染み付いていた。

三原脩監督は、そんな大洋ホエールズの選手達の特性を見極め、彼らに自信を植え付けると、適材適所の見事な用兵を見せた。

 

 

すると、大洋ホエールズは、大混戦のセ・リーグを勝ち抜き、

見事に、「6年連続最下位」から、一気に大洋ホエールズは初優勝を達成した。

この大洋のまさかの優勝に、世間はビックリ仰天した。

 

 

 

 

そればかりではなく、大洋ホエールズは、日本シリーズでも、超強力な「ミサイル打線」を擁していた大毎オリオンズを、全て1点差の4連勝で破り、大洋が「日本一」を達成してしまった。

大洋の「奇跡の日本一」は、世間をアッと言わせ、見事な三原監督の采配は「三原マジック」と称された。

この時、桑田佳祐と原由子は、幼少の頃だったため、恐らく、大洋の初優勝は覚えてはいないと思われる。

 

<桑田佳祐が影響を受けたテレビ番組①~1961(昭和36)年…NHK「夢であいましょう」放送開始~黒柳徹子、渥美清、永六輔、中村八大、坂本九らが出演した、良質な音楽バラエティ番組>

 

 

 

桑田佳祐は、小さい頃から「テレビっ子」であった。

そんなテレビ大好きの桑田少年に、決定的な影響を与えた番組が有った。

そんな番組の1つが、1961(昭和36)年4月に放送開始された、NHK「夢であいましょう」というバラエティ番組である。

「夢であいましょう」は、黒柳徹子がレギュラー出演していたが、他にも個性的な出演者が、色々と顔を揃えていた。

 

 

 

 

「夢であいましょう」の主な出演者は、黒柳徹子、渥美清、永六輔、中村八大、坂本九など、

今見ても、錚々たる顔ぶれであるが、「夢であいましょう」は、音楽とコントを融合させたような、

上品で良質なバラエティ番組であり、この番組には、桑田佳祐も大きな影響を受けた。

そして、黒柳徹子は、後年、サザンオールスターズとも、深い関わりを持つ事となるのである。

 

<桑田佳祐が影響を受けたテレビ番組②~1959(昭和34)年、脚本:青島幸男、永六輔出演:ハナ肇とクレイジー・キャッツの「おとなの漫画」(フジテレビ)>

 

 

 

 

1959(昭和34)年、フジテレビで放送開始された「おとなの漫画」は、青島幸男、永六輔が脚本を書き、

ハナ肇とクレイジー・キャッツが出演した番組であるが、月曜~土曜日のお昼の時間帯に放送された、10分間の帯番組であり、

様々な時事ネタを取り込んだ、社会風刺のコントが、毎日放送されていた。

桑田少年は、この「おとなの漫画」が大好きだったという。

 

<桑田佳祐が影響を受けたテレビ番組③~1961(昭和36)年6月に放送開始された「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ)~「ザ・ピーナッツ」と「ハナ肇とクレイジー・キャッツ」が出演した、音楽あり、コントありのバラエティ番組>

 

 

 

 

 

 

そして、1961(昭和36)年6月、桑田佳祐少年に、決定的な影響を与えた番組が放送開始された。

それが、日本テレビの「シャボン玉ホリデー」というバラエティ番組である。

桑田少年は、とにかく「シャボン玉ホリデー」が大好きであった。

何しろ、桑田が大好きな、ザ・ピーナッツ、そして、ハナ肇とクレイジー・キャッツが出演していたからである。

 

 

桑田佳祐は、「シャボン玉ホリデー」の面白さ、素晴らしさについて、後年、こう語っている。

 

「『シャボン玉ホリデー』で、ザ・ピーナッツなんかが歌ってた曲あるでしょ。簡単なジャズみたいなの。あれ、大きいわけ、俺にとっては」

 

「『シャボン玉ホリデー』のポップ性には、凄く影響を受けた。あの番組の裏には、ミュージカルがあったでしょ。歌って踊ってコントやって…。あの番組、原点だと思うんだ、俺なんかの世代にとって。あの音楽性と娯楽性のギャップみたいなのがあるじゃない。そこがいいのね。その"間(あいだ)"が好きなんだよね」

 

「『シャボン玉ホリデー』が、何であんなに面白かったのかってえとさ、やってる人がミュージシャンだったり、植木等みたいなお坊さんだったり、青島幸男のような作家だったり、いろんな分野の人だったじゃない?それが知性というか、魅力だったんじゃないかなあって、今思うんだ」

 

桑田佳祐が、そのように評した通り、「シャボン玉ホリデー」は、音楽性と娯楽性が高度に融合した、とても面白いバラエティ番組であった。

 

 

 

また、桑田佳祐は、ザ・ピーナッツの楽曲が、日常に溢れていたとも語っている。

「ザ・ピーナッツは、毎日のように見てたからね。テレビつければ、『ザ・ヒットパレード』とか『シャボン玉ホリデー』とか、CMとかね。夏、海に行けば、(曲が)スピーカーで流れてたしね」

桑田佳祐にとって、とにかくザ・ピーナッツは身近な存在であり、彼の少年時代は、ザ・ピーナッツ無しでは語れないものであった。

そんなザ・ピーナッツが出演している「シャボン玉ホリデー」は、前述の通り、桑田佳祐の人生に決定的な影響を与えたのである。

 

<「サザンの勝手にナイト」「メリー・クリスマス・ショー」「桑田佳祐の音楽寅さん」~桑田佳祐が追求した、「音楽バラエティ番組」>

 

 

 

 

後年、桑田佳祐は、「サザンの勝手にナイト」(1984年)、「メリー・クリスマス・ショー」(1986・1987年)、「桑田佳祐の音楽寅さん」(2000~2001年など)等、サザンや桑田のソロとして、何度か番組製作を行なっているが、いずれの番組でも、桑田が目指したのは、あくまでも「音楽バラエティ番組」であった。

それは、桑田佳祐が幼い頃にみた「シャボン玉ホリデー」が影響しているというのは、間違いないところである。

やはり、「シャボン玉ホリデー」が、桑田に与えた影響は絶大であった。

 

<1961(昭和36)年のヒット曲①…「第3回日本レコード大賞」を受賞した、フランク永井『君恋し』、石原裕次郎・牧村旬子『銀座の恋の物語』、小林旭『北帰行』、村田英雄『王将』etc>

 

 

 

1961(昭和36)年のヒット曲は、「第3回日本レコード大賞」を受賞した、フランク永井『君恋し』や、

「元祖デュエット・ソング」として、今も根強い人気を誇る、石原裕次郎・牧村旬子『銀座の恋の物語』、小林旭『北帰行』、村田英雄『王将』などの大ヒット曲が有った。

いずれも、日本歌謡史に残る、名曲ばかりである。

 

<1961(昭和36)年のヒット曲②…坂本九『上を向いて歩こう』~作詞:永六輔、作曲:中村八大、歌:坂本九の「六八九」トリオで作られた、NHK「夢であいましょう」が発祥の名曲~翌1962(昭和37)年、日活で同名タイトルで映画化(坂本九、吉永小百合、浜田光夫らが出演>

 

 

 

1961(昭和36)年には、日本音楽史上に残る、歴史的な名曲が誕生している。

それが、坂本九『上を向いて歩こう』である。

『上を向いて歩こう』は、作詞:永六輔、作曲:中村八大、歌:坂本九の「六八九」トリオにより作られ、

同年(1961年)のNHK「夢であいましょう」で初披露された楽曲である。

当初は、それほど売れていたわけではなかったが、ジワジワと売上枚数を伸ばし、気が付けば、大ヒット曲になっていた。

 

 

なお、『上を向いて歩こう』の大ヒットを受け、翌1962(昭和37)年、同名タイトルの映画『上を向いて歩こう』が日活で製作されたが、

坂本九、吉永小百合、浜田光夫らが出演した青春映画であり、この年(1962年)に東京・南千住に建てられた、大毎オリオンズの本拠地・東京スタジアムも映っている。

ちなみに、今でも『上を向いて歩こう』をカラオケで歌うと、この映画の映像が見られるので、もしご興味が有れば、ご覧頂きたい。

 

<1961(昭和36)年のヒット曲③…植木等(ハナ肇とクレイジー・キャッツ)『スーダラ節』(作詞:青島幸男、作曲:萩原哲晶)~「わかっちゃいるけどやめられない」!?「無責任男」植木等が誕生した、歴史的「名曲」!!~NHK「歴史秘話ヒストリア」でも『スーダラ節』誕生秘話が紹介される>

 

 

 

 

もう1つ、1961(昭和36)年に誕生した大ヒット曲といえば、

ハナ肇とクレイジー・キャッツの植木等が歌った『スーダラ節』である。

『スーダラ節』は、作詞:青島幸男、作曲:萩原哲晶により、作られた楽曲であるが、

「チョイト一杯のつもりで飲んで いつの間にやらハシゴ酒…」

という歌詞から始まる、お気楽サラリーマンが主人公(?)の曲である。

主人公は、結局は色々と失敗してしまうが、最後は「スイスイスーダラダッタ スラスラスイスイスイ…」という調子で締めてしまう。

何処までも、「お気楽」な曲に思われた。

 

 

 

しかし、当初、植木等は『スーダラ節』を歌う事に、難色を示した。

植木等は、ハナ肇とクレイジー・キャッツの一員であるが、先程、桑田佳祐も言っていた通り、お寺のお坊さんの息子である。

つまり、根は至って真面目な男だった。

植木等は、「こんなふざけた歌は、歌いたくない。こんな歌を歌ったら、俺の人生は大きく変わってしまう(悪い方向に)」と言って、なかなか歌いたがらなかった。

 

 

 

しかし、植木等の父で、僧侶の植木徹誠は、悩む息子に対し、こう言った。

「この歌の歌詞は、素晴らしい。『わかっちゃいるけどやめられない』というのは、仏教の教えにも通じる、人間の本質を見事に言い表している」

この言葉を聞いた植木等は、遂に『スーダラ節』を歌う事を決意した。

しかし、レコーディングはなかなか上手く行かず、最後に、半ば投げやりで、ヤケクソで適当に歌ったテイクが採用され、それが、前代未聞の爆発的な大ヒットになったというのだから、面白い。

 

 

 

こうして、『スーダラ節』の大ヒットにより、植木等、そして、ハナ肇とクレイジー・キャッツは、大ブレイクを果たしたが、

この顛末は、つい先日、NHK「歴史秘話ヒストリア」でも紹介されていた。

そして、少年時代の桑田佳祐は、ザ・ピーナッツと共に、ハナ肇とクレイジー・キャッツの大ファンだったというのは、既に述べた通りである。

 

<1961(昭和36)年…東宝映画『大学の若大将』公開~加山雄三「若大将」シリーズのスタート!!~「若大将」加山雄三と、星由里子の名コンビが誕生>

 

 

 

1961(昭和36)年、加山雄三が主演の『大学の若大将』が公開されたが、

この映画は大ヒットし、以後、加山雄三主演の「若大将」シリーズが作られる事となった。

なお、加山雄三と、ヒロイン・星由里子は、以後、「名コンビ」として、「若大将」シリーズを彩った。

また、すき焼き屋のお坊ちゃんという役どころの加山雄三が通う「京南大学」のモデルは、勿論、慶応(慶應義塾大学)である。

 

<1961(昭和36)年のプロ野球~「権藤・権藤・雨・権藤」の中日との激闘を制し、川上巨人が優勝⇒「ドジャース戦法」の巨人が南海を4勝2敗で破り、6年振り「日本一」>

 

 

1961(昭和36)年のプロ野球は、中日ドラゴンズの新人・権藤博投手が、

来る日も来る日も投げまくり、その酷使ぶりは「権藤・権藤・雨・権藤」という言葉を生んだほどであったが、

その権藤博がエースだった中日と、就任1年目の川上哲治監督率いる巨人が激しい優勝争いを繰り広げ、

最後は、巨人が中日を僅か1ゲーム差で振り切って優勝した。

 

 

 

そして、巨人と南海が対決した日本シリーズは、

巨人が4勝2敗で南海を破り、巨人が6年振り「日本一」の座に就いた。

巨人は、まともに打てる選手が長嶋茂雄ただ1人という布陣であったが、その分、投手力と守りを固め、

「ドジャース戦法」と称されたスモール・ベースボールで、巨人が頂点に立った。

…というわけで、桑田佳祐の音楽的ルーツが形成された経緯を見て来たが、次回は、原由子の音楽の「目覚め」について、描く予定である。

 

(つづく)