サザン史・外伝【連続ブログ小説】「クワタとハラ坊」③(1958~1959) ~「君こそスターだ」 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

桑田佳祐原由子が幼少期を過ごしていた頃、

石原慎太郎『太陽の季節』を書き、「太陽族」が社会現象を巻き起こすと、

その「太陽族」の象徴として、慎太郎の弟・石原裕次郎が登場し、一躍、大スターになった。

そして、それは「湘南」に人々の目が向けられるキッカケともなった。

また、プロ野球界には、長嶋茂雄という、新たなスターも登場した。

 

 

桑田佳祐原由子は、歌が大好きな子供だったが、桑田佳祐原由子が、より一層、音楽に目覚めて行った頃、

日本の芸能界・歌謡界も、次々に新たなスターが誕生し、華やかさを増して行った。

そして、スター達が花盛りの、プロ野球も大いに盛り上がった。

今回は、そんな時代の頃のお話である。

 

<1959(昭和34)年4月…桑田佳祐、恵泉第二幼稚園に入園~当初、泣いて嫌がっていた、内気な桑田少年⇒1週間後、何故か桑田は幼稚園の「人気者」に>

 

 

1959(昭和34)年4月、桑田佳祐は、地元・茅ヶ崎の恵泉第二幼稚園に入園した。

当初、桑田は「夜行癖」がなかなか治らず、幼稚園に入った当初も、毎日、泣いて嫌がっていたという。

桑田の母親は、そんな桑田を、毎日、引っ張るようにして、幼稚園に連れて行っていた。

何とか、幼稚園に行った後も、桑田は1人でポツンとしていた。

だが、それから1週間後、何が有ったのかはわからないが、桑田は何故か、幼稚園の「人気者」になっていた。

やはり、桑田は幼少の頃から、人を惹き付ける何かが有った、という事であろうか。

こうして、以後、桑田佳祐「人気者」、「スター」としての人生を歩んで行く事となるのである。

 

<1959(昭和34)年のヒット曲~美空ひばり、小林旭、村田英雄、三波春夫、三橋美智也、春日八郎などがヒットを飛ばす>

 

 

 

桑田佳祐が、幼稚園児になった1959(昭和34)年は、どのような曲が流行っていたのかといえば、

例えば、美空ひばり『大川ながし』、小林旭『ギターを持った渡り鳥』、村田英雄『人生劇場』、三波春夫『大利根無情』、三橋美智也『古城』、春日八郎『山の吊橋』といったヒット曲が有った。

美空ひばりは、当時22歳にして、早くも歌謡界の女王の座に君臨していたが、当時は演歌や歌謡曲が大いに流行っていた。

そして、村田英雄、三波春夫は、歌謡界のライバルとして、火花を散らす事となるが、遥か後年、桑田佳祐は、サザンオールスターズが出場した「紅白歌合戦」で、三波春夫絡みで、ある「事件」を巻き起こす事となる。

 

<日活映画「石原裕次郎の黄金時代」と、小林旭の台頭~『錆びたナイフ』(1959年)で、石原裕次郎・小林旭が共演~『錆びたナイフ』のレコードは184万枚の大ヒット!!>

 

 

 

さて、1956(昭和31)年に、初主演作『狂った果実』で、一躍、スターになった石原裕次郎であるが、

その後も、石原裕次郎が出演した映画は、軒並み、大ヒットとなった。

日活は、「裕次郎が出る映画は、当たる!」との事で、矢継ぎ早に、石原裕次郎の主演映画を製作し、

1957(昭和32)年には、何と、石原裕次郎9本もの映画に主演した。

様々に設定は変えているが、とにかく裕次郎が出てさえいれば、観客が映画館に押し寄せた。

そして、石原裕次郎「ゴールデン・コンビ」を組んだのが、当時、本当に裕次郎と付き合っていた、裕次郎の恋人・北原三枝であった。

 

 

 

 

1957(昭和32)年末に公開され、翌1958(昭和33)年の正月映画として、爆発的な大ヒットとなったのが、

ご存知、『嵐を呼ぶ男』であるが、この映画の大ヒットにより、石原裕次郎の人気は決定的となった。

そして、裕次郎は、「おいらはドラマー、ヤクザなドラマー」という歌詞で、あまりにも有名な、『嵐を呼ぶ男』の主題歌を歌い、これまた大ヒットとなった。

石原裕次郎は、映画ばかりでなく、歌を出しても、そのレコードは飛ぶように売れたのである。

 

 

 

翌1958(昭和33)年、石原裕次郎は、年間で10本もの日活映画に主演した。

勿論、どの裕次郎映画も大ヒットしたが、裕次郎映画は、様々に設定を変えながら、とにかく裕次郎が生き生きと動いている、というのが最大の魅力である。

その中の一つ、『錆びたナイフ』(1958年)という映画は、裕次郎の兄・石原慎太郎が、裕次郎のために脚本を「当て書き」したものであった。

 

 

そして、石原裕次郎が歌った、『錆びたナイフ』主題歌のレコードは、何と184万枚という大ヒットを記録した。

もはや、石原裕次郎が、「日本一の人気者」である事を疑う者は、誰も居なかった。

 

 

 

なお、『錆びたナイフ』では、石原裕次郎小林旭が共演しているが、

小林旭は、裕次郎よりも4歳年下の、当時21歳の若手俳優であった。

そして、小林旭は、『錆びたナイフ』での好演が評価され、以後、石原裕次郎に次ぐ、日活映画の新たなスター候補となった。

 

<1959(昭和34)年…小林旭『ギターを持った渡り鳥』で大ブレイク!!~小林旭・浅丘ルリ子の「新ゴールデン・コンビ」誕生と、「日活無国籍アクション」の時代>

 

 

そして、小林旭の人気を決定付けたのが、翌1959(昭和34)年に公開された映画『ギターを持った渡り鳥』である。

小林旭は、『ギターを持った渡り鳥』で、文字どおり、ギターを持った「流し」の役を演じ、

見知らぬ土地(※この映画の舞台は、北海道函館市)に来て、その街の女性、浅丘ルリ子と恋に落ち、

その街で暗躍する黒幕をやっつけて、また旅に出る…というような内容であるが、この映画は大ヒットとなった。

 

 

 

 

『ギターを持った渡り鳥』が、何故そんなにヒットしたのかといえば、

何と言っても、「一体、これは、何処の国なんだ!?」と思わせるような舞台設定、その「無国籍性」であろう。

まるで、昔の「西部劇」を見ているような気にさせられるが、このように、リアリティを無視したような映画作りが、観客に大ウケしたのであった。

そして、小林旭が歌った、『ギターを持った渡り鳥』の主題歌は大ヒットしたが、この映画で歌う小林旭は、とてもカッコイイ。

そして、小林旭と共演した浅丘ルリ子も、とても美しい。

という事で、小林旭浅丘ルリ子は、日活の「新ゴールデン・コンビ」となり、以後、小林旭は「渡り鳥」シリーズなど、数々の映画に主演し、「日活無国籍アクション」が、大量に製作される事となった。

 

<1958(昭和33)年の「テレビの申し子」①~『月光仮面』が登場し、爆発的な大ヒット~テレビ黎明期のスーパー・ヒーロー>

 

 

 

 

1958(昭和33)年は、日本の映画人口が史上最高を記録(映画の年間観客動員が11億人を突破)した年でもあったが、

新たなメディアである、テレビが台頭し始めた年でもあった。

そんな新興メディアである、テレビの黎明期を象徴するスーパー・ヒーローといえば、『月光仮面』であった。

広告会社である宣弘社が製作し、TBSが放送した、連続テレビ映画『月光仮面』は、1958(昭和33)年2月に放送開始されると、忽ち、大ヒットとなった。

まさに「月光仮面」は、1958(昭和33)年の「テレビの申し子」であった。

 

 

 

なお、『月光仮面』の原作・脚本を手掛けたのは、川内康範であるが、

川内康範は、「どこの誰かは知らないけれど 誰もがみんな知っている…」で始まる、

あまりにも有名な、『月光仮面』の主題歌も作詞した。

という事で、『月光仮面』の主題歌は、テレビ番組が生んだ、初めての大ヒット曲である。

 

<1958(昭和33)年の「テレビの申し子」②~「ゴールデン・ボーイ」長嶋茂雄>

 

 

 

 

1958(昭和33)年の「テレビの申し子」といえば、「月光仮面」と、もう1人、何と言っても長嶋茂雄であろう。

東京六大学野球の立教大学で、「通算8本塁打」のリーグ新記録を達成した後、巨人に入団した長嶋茂雄は、

ルーキー・イヤーの1958(昭和33)年、打率.305 29本塁打 92打点という成績で、新人ながら本塁打王、打点王を獲得する大活躍で、一躍、プロ野球界ナンバーワンのスーパー・スターとなった。

そして、長嶋の活躍は、テレビ中継を通して、全国に届けられ、長嶋茂雄は、「月光仮面」と並び、大衆のヒーローとなった。

 

<1959(昭和34)年4月10日…皇太子・明仁親王(現・上皇陛下)と、美智子妃殿下(現・上皇后陛下)の「世紀の御成婚パレード」「ミッチーブーム」で、「テレビ時代」が到来!!>

 

 

 

 

 

1959(昭和34)年4月10日、皇太子・明仁親王(現・上皇陛下)と、美智子妃殿下(現・上皇后陛下)「御成婚パレード」が行われた。

皇太子と、正田美智子の「御成婚」を巡っては、マスコミが大きく取り上げ、正田美智子の清楚な美しさに注目が集まり、「ミッチーブーム」という、大フィーバーが巻き起こった。

そして、「世紀の御成婚パレード」により、この大フィーバーは頂点に達した。

 

 

 

 

皇太子殿下と美智子妃殿下の「御成婚パレード」は、思わぬ副産物をもたらした。

「御成婚パレード」を一目見ようと、多くの人達がテレビを買ったため、テレビの販売台数が飛躍的に伸びたのである。

その結果、本格的な「テレビ時代」が到来する事となった。

こうして、大衆娯楽の主役が、映画からテレビへと変わろうとしていた。

 

<1959(昭和34)年…ザ・ピーナッツが『可愛い花』でデビュー!!~幼少期の桑田佳祐を夢中にさせた、双子デュオ~ナベプロ社長・渡邉晋がスカウトし、作曲家・宮川泰に育てられ、才能が開花⇒フジテレビ「ザ・ヒットパレード」のレギュラーに抜擢され、その後に『可愛い花』でデビュー>

 

 

 

 

1958(昭和33)年頃、愛知県常滑市出身で、当時17歳だった双子の姉妹、伊藤エミ(本名:伊藤日出代)、伊藤ユミ(本名:伊藤月子)は、「伊藤シスターズ」と名乗り、名古屋市内のクラブやレストランの舞台で、歌を歌っていた。

そんな時、名古屋を訪れていた、ナベプロ(渡邉プロダクション)社長・渡邉晋が、「伊藤シスターズ」のステージを見て、彼女達に惚れ込み、その場でスカウトした。

そして、「伊藤シスターズ」は、作曲家・宮川泰の自宅に下宿し、宮川泰のレッスンを受け、デビューを目指す事となった。

その後、宮川泰の厳しいレッスンの甲斐有って、「伊藤シスターズ」の歌唱力は、メキメキと上達したが、「伊藤シスターズ」は、双子の姉妹という特性を強調するように、「ザ・ピーナッツ」と命名された。

 

 

 

 

1959(昭和34)年4月、ナベプロが全面的に番組制作を担当した音楽番組、

フジテレビ「ザ・ヒットパレード」が放送開始され、ザ・ピーナッツは、同番組のレギュラーに抜擢された。

これにより、ザ・ピーナッツは、一躍、お茶の間の人気者となって行った。

 

 

 

 

 

そして、同年(1959年)4月、日本中が「御成婚パレード」に沸き、

「ザ・ヒットパレード」が放送開始された頃、ザ・ピーナッツは、『可愛い花』で、レコード・デビューを果たした。

以後、ザ・ピーナッツは、スター街道を邁進して行く事となるが、幼少期の桑田佳祐も、ザ・ピーナッツは大好きであり、

桑田は、ザ・ピーナッツに夢中になっていたとの事である。

桑田が、初めて好きになった「アイドル」こそ、ザ・ピーナッツであった。

 

<1959(昭和34)年12月27日…水原弘『黒い花びら』(作詞:永六輔、作曲:中村八大)が、「第1回日本レコード大賞」受賞>

 

 

 

 

 

1959(昭和34)年12月27日、「第1回日本レコード大賞」授賞式が行われ、

水原弘『黒い花びら』(作詞:永六輔、作曲:中村八大)が、記念すべき「第1回 日本レコード大賞」を受賞した。

桑田佳祐が幼稚園で人気者になっていた頃、水原弘が栄冠を手にしたわけであるが、永六輔、中村八大のコンビは、

この後、歌謡界で更に大きな花を咲かせる事となる。

 

<日本のテレビ黎明期を彩った、海外ドラマ『ローハイド』(※若き日のクリント・イーストウッドの出世作)~幼少期の桑田佳祐、『ローハイド』の主題歌を歌いまくる!?>

 

 

 

ところで、黎明期の日本のテレビは、まだコンテンツも少なく、

しかも、映画会社の大手5社(松竹、日活、東宝、大映、東映)は、テレビ局と「対立」し、

邦画をテレビで放送する事を禁じていたため、テレビ局は、放送時間の「穴埋め」に苦労していた。

そこで、テレビ局は、海外ドラマを買い付けて、放送する事としたため、初期のテレビでは、海外ドラマ(アメリカ製)を沢山放送していたが、

その中の1つ、『ローハイド』は、1959(昭和34)~1965(昭和40)年にかけて放送され、大人気となった。

『ローハイド』は、若き日のクリント・イーストウッドも出演し、彼の出世作となったが、幼い頃の桑田佳祐も、『ローハイド』には夢中になり、桑田は、よく『ローハイド』の主題歌を歌いまくっていたという。

こんな所にも、彼の「洋楽志向」が、よく表れていると言って良いであろう。

 

<1959(昭和34)年のプロ野球①~王貞治が巨人に入団し、「ON」が巨人で顔を揃え、長嶋茂雄が「天覧試合サヨナラホームラン」で、日本国民の「英雄」に~「天覧試合」(1959(昭和34)年6月25日)は、サザンがデビューする「19年前」>

 

 

1959(昭和34)年、早稲田実業をセンバツ初優勝(1957年春)に導いた、王貞治が巨人に入団した。

これにより、一足先に巨人に入団していた長嶋茂雄王貞治「ON」コンビが顔を揃えたが、

「ON」と並び称されるようになるのは、もう少し先の話である。

 

 

 

 

1959(昭和34)年6月25日、後楽園球場で行われた巨人-阪神戦を、昭和天皇香淳皇后が観戦し、

プロ野球史上初の「天覧試合」が実現したが、長嶋茂雄は、この大舞台で、村山実(阪神)から、劇的なサヨナラホームランを放った。

長嶋茂雄は、サヨナラホームランを含む4打数3安打2本塁打という大活躍だったが、長嶋の「天覧ホーマー」は、テレビ中継を通して、日本全国のお茶の間にも届けられ、長嶋は、一躍、日本の「英雄」になった。

なお、この試合では、王貞治も起死回生の同点2ランホームランを放ち、「ONアベックホームラン」の記念すべき第1号となった。

ところで、1959(昭和34)年6月25日という日付に注目して頂きたいのだが、これは、サザンオールスターズ『勝手にシンドバッド』でデビューする、19年前にあたる。

しかし、勿論この時は、誰もそんな事を知る由も無かった。

 

<1959(昭和34)年のプロ野球②~南海ホークスが、杉浦忠の「4連投4連勝」で、巨人を破り、悲願の「日本一」達成!!~「涙の御堂筋パレード」が行われる>

 

 

 

 

1959(昭和34)年の日本シリーズは、巨人-南海の対決となった。

巨人-南海の日本シリーズは、5度目の対決だったが、南海ホークスはそれまで、巨人には1度も勝てていなかった。

しかし、この年(1959年)の日本シリーズは、「シーズン38勝4敗」という超人的な大活躍を見せた、南海ホークスのエース・杉浦忠が、日本シリーズでも「4連投4連勝」の離れ業を見せ、遂に南海が悲願の「日本一」を達成した。

「日本一」達成直後、杉浦忠「静かに1人で泣きたい」という名言を吐いた。

 

 

 

南海ホークスは、「日本一」を記念し、地元・大阪で「御堂筋パレード」を行なったが、

南海の「親分」こと鶴岡一人監督の悲願が叶った、晴れのパレードは、

「涙の御堂筋パレード」と称され、後世の語り草となった。

 

<「ガキ大将」だった兄・原茂男の威光を笠に着た!?「いばりん坊」で元気いっぱいの女の子、原由子~「天吉」は関内、原家の自宅は根岸に有り、兄妹ゲンカしながらも楽しく過ごした、少女時代>

 

 

さて、一方、原由子であるが、原由子の両親が営む天ぷら屋「天吉」は、横浜・関内に有ったが、

その頃、原家が住む自宅は根岸に有り、お店と自宅は離れていた。

「天吉」の周りは、原由子が小さい頃は、横浜市庁舎こそ有ったものの、他には大岡川というドブ川と、原っぱしか無く、

どちらかといえば、寂しい場所だったという。

しかし、その後、「天吉」の周りには大きなビルが立ち並ぶようになり、今や近くには高速道路も通る、賑やかな都会になってしまった。

 

 

 

 

なお、余談であるが、「天吉」はJR関内駅の北口のすぐ目の前に有る。

一方、関内駅の南口の、すぐ目の前に有るのが、横浜DeNAベイスターズの本拠地・横浜スタジアムであるが、

原由子の幼少期には、勿論、横浜スタジアムは無かった。

それどころか、前述の通り、「天吉」の周りには、当時は何も無かったようである。

 

 

その頃、原由子は、とにかく元気いっぱいな女の子だった。

原由子の4歳年上の兄・原茂男は、近所の「ガキ大将」だったようであるが、

原由子は、本人曰く、そんな兄貴の威光を笠に着て(?)、とにかく威張りまくっていた、「いばりん坊」の子供だったようである。

「ウチなんか、天ぷら屋だもんねー」

「ウチのパパなんか、PTA会長だもんねー」

などと言いながら、とにかく、原由子は意味も無く威張りまくっていたようであるが、

彼女は、有り余るぐらい元気いっぱいで、日が暮れるまで走り回り、遊び回っていた。

根岸の家に帰ってからも、茂男と由子の兄妹は、プロレスごっこや、新聞紙を丸めてのチャンバラごっこ、座布団を丸めてのボクシングごっこなどをやりながら、兄妹揃って、暴れまくっていたという。

 

 

しかし、時には、兄妹ゲンカのようになってしまう事も有った。

例えば、兄のパンチが、妹の顔面に決まると、流石に彼女も泣き出しそうになったが、そんな時は、決まって、兄は慌てて、妹のほっぺたと目尻をつねり、無理矢理、笑顔を作らせたり、挙句の果てには、妹の身体をくすぐって、何が何でも、泣かさないようにしていたという。

 

 

 

妹に対し、随分と酷い事をする兄貴であるが、これは、茂男お母さんの前では、どうしても「良い子」でいたかったらしく、「良い子」ぶるために、何としても妹を泣かさないようにしていたため、だったようである。

何しろ、原兄妹のお母さんは、怒ると鬼のように怖かったというが、茂男は、とにかく「お母さん子」であり、何としても「良い子」であり続けようとしていた。

ちなみに、「妹を絶対に泣かさないゾ作戦」は、原由子が高校生になる頃まで続いていたというのだから、凄い。

そんなこんなで、原由子は、小さい頃から、元気いっぱいの楽しい日々を送っていたが、原由子が幼稚園に入ってからも、彼女の暴れっぷりは収まらなかった。

「もう少し、女の子らしくして欲しい…」

彼女の両親は、溜息をついたが、原由子が幼稚園に入った後、彼女の人生を一変させるような「出会い」が有った。

 

(つづく)