1960(昭和35)年秋「早慶6連戦」を描いた、長尾三郎『神宮の森の伝説 60年秋 早慶6連戦』 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

私は、本を読む事が大好きであるが、私の人生に決定的な影響を与えた、1冊の本が有る。

それが、長尾三郎というノンフィクション作家が書いた、『神宮の森の伝説 60年秋 早慶6連戦』という本である。

私は、この本のお陰で、少し大袈裟に言えば、その後の人生を決定付けられたと言っても過言ではないほど、この本に影響を受けた。

 

 

『神宮の森の伝説 60年秋 早慶6連戦』は、1960(昭和35)年秋の東京六大学野球で、

早稲田と慶応が、優勝をかけて激突した、所謂「早慶6連戦」の激闘を描いたものであるが、

一言で言うと、この本はメチャクチャ面白い。

そして、私がノンフィクションというジャンルの面白さを知ったのが、この本である。

というわけで、『神宮の森の伝説 60年秋 早慶6連戦』と、1960(昭和35)年秋の「早慶6連戦」の事について、ご紹介させて頂きたい。

 

<1960(昭和35)年秋…「早慶6連戦」とは何か?~早稲田と慶応が、優勝をかけて6度も戦った、伝説の「死闘」>

 

まず、1960(昭和35)年秋の「早慶6連戦」とは、どんな試合だったのかという事を、簡単に記しておく。

1960(昭和35)年秋の東京六大学野球は、最終カードである早慶戦を前にして、

慶応と早稲田の2校に優勝の可能性が絞られ、早慶戦で両校が優勝を争う状況にあった。

早慶戦を前にした、早慶両校の勝敗は、下記の通りである。

 

①慶応 8勝2敗 勝ち点4

②早稲田 7勝3敗 勝ち点3

 

慶応は、立教、東大、明治、法政を相手に、4カード全てで「勝ち点」を挙げ、早慶戦で「勝ち点」を挙げれば完全優勝、という状況であり、

早稲田は、明治からは「勝ち点」を落としたが、それ以外の3カードで「勝ち点」を挙げ、早慶戦に優勝の望みを繋いでいた。

この早慶戦では、両校が優勝するための条件というのは、

 

・慶応が「勝ち点」⇒慶応が優勝

・早稲田が連勝で「勝ち点」⇒早稲田が逆転優勝

・早稲田が2勝ち1敗で勝ち点⇒早慶両校が9勝4敗の「同率」で並び、「優勝決定戦」

 

というものであり、慶応が、やや有利ではあるが、

早稲田にも、逆転優勝のチャンスは充分に有った。

 

 

そして、結論から先に書いてしまうが、1960(昭和35)年秋の早慶戦は、

早慶両校が6度にわたる「死闘」を繰り広げ、下記のスコアで、早稲田に軍配が上がった。

 

11/6 早稲田〇2-1●慶応

11/7 早稲田●1-4〇慶応

11/8 早稲田〇3-0●慶応

11/9 早稲田△1-1△慶応

11/11 早稲田△0-0△慶応

11/12 早稲田〇3-1●慶応

 

早稲田が、慶応を2勝1敗で下し「勝ち点」を挙げ、早慶両校が9勝4敗という、全くの同率で並び、「優勝決定戦」にもつれ込んだが、

「優勝決定戦」では、1-1、0-0のスコアで、2試合連続で引き分けに終わった後、最後は早稲田が3-1で慶応を破り、早稲田の優勝が決まった。

結局、早慶両校は6度も戦ったが、この戦いは「早慶6連戦」と称され、「伝説」として語り継がれているのである。

 

<『神宮の森の伝説 60年秋 早慶6連戦』の著者・長尾三郎~早稲田の学生として「早慶6連戦」を全て観戦し、その後、週刊誌記者を経て、ノンフィクション作家に>

 

 

『神宮の森の伝説 60年秋 早慶6連戦』の著者である長尾三郎は、

1960(昭和35)年秋の「早慶6連戦」を、早稲田の学生として、6試合全て、神宮球場で観戦していたという。

長尾三郎は、その後、早稲田を中退し、週刊誌記者となった後、ノンフィクション作家として活躍した。

なお、1938(昭和13)年生まれの長尾三郎は、「早慶6連戦」の当時は22歳であった。

 

<文学青年・映画青年だった長尾三郎と、「風月堂」で出会った人々~長尾三郎、早稲田への進学を決意>

 

 

1938(昭和13)年、福島県に生まれた長尾三郎は、父親が国鉄の鉄道マンだったが、

父親の仙台への転勤を機に、少しグレてしまい、高校時代は、あまり勉強もせずに遊び歩いていたという。

遊び歩いていたといっても、彼は映画や文学が大好きな「映画青年」「文学青年」であり、

学校の勉強はしないかわりに、「悪友」達と沢山映画を見たり、好きな文学を読み漁ったりしていた。

そんな長尾三郎は、高校を出た後も、進学も就職もせず、ブラブラと遊んでいた。

1958(昭和33)年、高校を卒業して2年目の長尾三郎は、田舎を飛び出し、東京に出て、下北沢に有った喫茶店「風月堂」で、住み込みのアルバイトとして働き始めた。

 

 

その「風月堂」に、常連客として来ていたのが、森鴎外の娘・森茉莉であった。

森茉莉は、世俗の事には、あまり関心が無いような独特な雰囲気を漂わせており、

「風月堂」には、いつも買い物籠をぶら下げ、フラリとやって来ては、「風月堂」のコーヒーを飲みながら、小説を書いたりなどをしていたという。

長尾三郎は、徐々に森茉莉と親しくなり、世間話などをするようになって行った。

 

 

 

「風月堂」の常連客の中には、当時、早稲田の文学部の教授で、フランス映画が専門という飯島正も居た。

長尾三郎は、飯島正とも熱心に映画談義をするようになっていたが、その内に、飯島正に「君ほど、映画を沢山見ている若者も珍しいな。君、こんな所は早く辞めて、早稲田に来て、映画を本格的に勉強したらどうかね?」と、冗談交じりで言われたりした。

 

 

 

 

当時、「風月堂」は、下北沢の他に、渋谷道玄坂、新宿にも店を構えており、

長尾三郎も、渋谷道玄坂や新宿の「風月堂」にも、よく店を手伝いに行かされたが、

新宿の「風月堂」は、女優を志す女の子達がウェイトレスとして働いており、長尾三郎は、そんな彼女達と共に、映画談義、演劇談義を交わすのも楽しみにしていた。

 

 

 

 

 

新宿の「風月堂」は、当時、若い芸術家や作家、俳優・女優などの溜まり場になっており、

文化サロン、芸術サロン的な趣が有ったが、その中には、谷川俊太郎、寺山修司、天本英世、岸田今日子などなど、

とにかく錚々たる顔ぶれの人達が居て、長尾三郎も、大いに刺激を受けた。

当時の「風月堂」は、店主が大量のレコードを所有しており、店内には、ありとあらゆるジャンルの音楽が流れ、

時にはレコード・コンサートなども行われていたというが、そういった雰囲気が、若き芸術家達を惹き付ける魅力の源になっていたのかもしれない。

 

 

そんなある日の事、野球の「早慶戦」が行われた日、新宿「風月堂」に、「早慶戦」を観戦していた早稲田の学生達が、大挙してやって来た事が有った。

長尾三郎は、当時は知らなかったというが、「早慶戦」が行われると、早稲田の学生達は、主に新宿に繰り出し、慶応の学生達は、主に銀座に繰り出して、それぞれ、グループで酒を飲んだりして大騒ぎする、「夜の早慶戦」というものが有り、その「夜の早慶戦」の余波が、「風月堂」にもやって来たのであった。

彼らは、自分の将来も決めかねて、悶々としている長尾三郎から見れば、若さに溢れ、強烈な輝きを放ち、まさに青春そのものに見えたという。

 

 

長尾三郎には高校時代に、同級生に2人の親友が居り、彼らも早稲田に行っていたが、

前述のように、長尾三郎は、高校を出た後も、進学も就職もせず、「風月堂」でアルバイトをしていたのだが、

前年(1957年)、長尾三郎が東北地方や北陸地方を、当てもなく放浪していた時、彼らが、東京の下宿に、長尾三郎を迎い入れて、温かくもてなしてくれたという。

そこには、2人の同級生の他、彼らのもう1人の友人も居たが、彼らの友情に感激した長尾三郎は、この時、彼らが通っていた早稲田大学に行きたいと、強烈に思ったというのである。

その後、森茉莉に、「風月堂」を辞める事を伝えると、森茉莉も「貴方、早稲田が好きなんだから、早稲田に行ったら?」と言って、長尾三郎の背中を押してくれた。

 

 

長尾は、その後に実家に戻り、両親にこれまでフラフラしていた事を詫び、「早稲田に行きます」と、その決意を述べた。

父親は「お前の人生だ。好きにしろ」と言い、母親は泣いていたという。

こうして、長尾三郎は本格的に受験勉強に取り組み、1959(昭和34)年、早稲田の文学部演劇学科に入学した。

結果として、長尾は「2浪」の末に早稲田に入ったという事となるが、あの親友達からは2年遅れの事であった。

 

<長尾三郎が見た「早慶6連戦」と、その時代~激動の1960年代の幕開け~「60年安保闘争」「池田勇人内閣の登場」「浅沼委員長刺殺事件」「ケネディ大統領当選」「大洋ホエールズ初優勝」「相撲の柏鵬時代の幕開け」「プロレスのジャイアント馬場とアントニオ猪木の登場」「映画・ヌーヴェルヴァーグの台頭」etc…>

 

 

 

『神宮の森の伝説 60年秋 早慶6連戦』は、このように、様々な紆余曲折を経て、早稲田に入った、長尾三郎という1人の青年の目を通して、「早慶6連戦」を描いたものであるが、この本は、「早慶6連戦」の事も克明に記しているのは勿論、彼の目を通して、当時の日本の世相をも描き出している。

1960年代の幕開けとなった、1960(昭和35)年という年は、まさに様々な出来事が有った、激動の年であった。

 

 

 

 

1960(昭和35)年といえば、何と言っても「60年安保闘争」の年として記憶されるが、

日米安保条約の改定を巡り、国民的な反対運動が起こり、デモ隊が連日、国会議事堂を取り囲むという事態になった。

結局、日米安保条約は改定され、それを花道に岸信介首相(※安倍晋三の祖父)が退陣した後、

「寛容と忍耐」「所得倍増計画」を掲げ、池田勇人が後継の首相に就任し、国民の反発を招かないよう、「低姿勢」に徹したが、これを機に、日本は「政治の季節」から「経済の季節」に、大きく舵を切った。

また、この年(1960年)の10月12日、社会党・浅沼稲次郎委員長が、山口二矢という右翼青年に刺殺されるという、衝撃的な事件が有ったが、この事件は「動乱の年」となった1960(昭和35)年を象徴していた。

 

 

1960年のアメリカ大統領選挙では、民主党のジョン・F・ケネディが、共和党のリチャード・ニクソンを破り、

ケネディが、次期アメリカ大統領に選ばれたが、当時、43歳という若きケネディは、「ニュー・フロンティア・スピリッツ」を掲げ、

アメリカの新時代到来を予感させ、当時、日本でも大いに話題になっており、ケネディと、彼の夫人のジャクリーンは、一躍「時の人」となっていた。

 

 

それと、この話ばかり何度も何度も書いて申し訳無いが、

『神宮の森の伝説 60年秋 早慶6連戦』にも書いてある事なので、またまたご紹介させて頂くが、

1960(昭和35)年といえば、それまで6年連続最下位に沈んでいた、「万年最下位」の大洋ホエールズが、三原脩を新監督に迎え、一躍、初優勝⇒日本一を達成するという「三原マジック」が、世間をアッと言わせた年でもあった。

 

 

 

大相撲では、1960(昭和35)年の3月場所で、栃錦、若乃花の横綱同士が、千秋楽で全勝同士で対決するという「栃若全勝決戦」が有り、若乃花が栃錦を破り、優勝を果たしたが、その後、栃錦は引退し、「栃若時代」に幕が下ろされた。

それと入れ替わるように、柏戸、大鵬という新鋭が台頭し、この年(1960年)の11月場所で、2人の初対決が実現したが、

相撲の世界は、「栃若時代」から「柏鵬時代」へと移り変わろうとしていた。

 

 

 

 

当時、プロ野球と並ぶ人気を誇っていたプロレスは、力道山の全盛時代だったが、

この年(1960年)、力道山が率いる日本プロレスに、ジャイアント馬場、アントニオ猪木が入門した。

力道山の下で、厳しい修行に耐えた馬場と猪木は、その後、日本のプロレス界の人気を二分する存在になって行った。

 

 

 

 

1960年には、映画の世界にも、「新しい波」が押し寄せていた。

フランス語で「新しい波」を意味する、「ヌーヴェルバーグ」という新しい潮流が、映画界を席巻し、

ジャン・リュック・ゴダール監督『勝手にしやがれ』、フランソワ・トリュフォー監督『大人は判ってくれない』といった映画が、批評家から絶賛されていた。

 

 

かと思えば、「ヌーヴェルバーグ」の若い監督達からは、「もう終わった人」と思われていた、

巨匠、ルネ・クレマン監督も、同年(1960年)、アラン・ドロンを主演に抜擢した『太陽がいっぱい』という名作を世に放ち、

『太陽がいっぱい』は、世界的に大ヒットしていた。

…というわけで、キリが無いので、この辺にしておくが、『神宮の森の伝説 60年秋 早慶6連戦』には、「早慶6連戦」は勿論、このような当時の世相も沢山描かれており、とても面白い。

従って、読んでいるだけで、1960(昭和35)年という時代を追体験出来るような、優れた作品である。

 

<1960(昭和35)年秋、「早慶6連戦」で6試合中5試合を完投し、早稲田を優勝に導いた「鉄腕」安藤元博>

 

 

さて、1960(昭和35)年秋の「早慶6連戦」であるが、慶応には清沢忠彦、角谷隆、三浦清、丹羽宏という、4人の好投手が居たのに対し、

早稲田は、頼れる投手といえば、当時3年生だった安藤元博ただ1人であり、早稲田の石井連蔵監督は、安藤を信頼し、とにかく安藤を投げさせまくった。

その結果、安藤は「早慶6連戦」で、第2戦を除く5試合を1人で完投するという、超人的な活躍を見せた。

 

 

その結果、安藤元博の力投により、最後には早稲田が慶応を破り、早稲田が優勝したわけであるが、

たった1人で早稲田のマウンドを守り、気力で投げ続けた安藤という男の奮闘は、『神宮の森の伝説 60年秋 早慶6連戦』という本を読んでいても、非常に胸に迫るものがあった。

安藤は、間違いなく1960(昭和35)年という時代を代表する「英雄」だったと言って、間違いない。

 

<とても臨場感が溢れる『神宮の森の伝説 60年秋 早慶6連戦』の文章…私も「こんな臨場感が溢れる文章が書けるようになりたい」と、憧れる>

 

 

その『神宮の森の伝説 60年秋 早慶6連戦』という本は、長尾三郎が、当時の世相なども交えながら、

「早慶6連戦」の試合の模様を、克明に描いているが、彼は、前述の3人の友人達と共に、神宮球場の早稲田側の学生席で、6試合全てを観戦していた(※途中で、長尾の恋人(※後の夫人)も加わる)。

この本を読むと、試合の描写も非常に迫力が有り、当時の神宮球場のスタンドの様子も、有り有りと思い浮かべる事が出来る。

「自分も、こんな臨場感の有る文章を、書けるようになりたい!!」

私は、この本を初めて読んだのは、高校生の頃だったが、この人が書く文章に、強烈に憧れたものである。

なので、この本は何度も何度も読み返した。

いつしか、私は「早慶6連戦」を自分でも体験したような気になっていたが、それぐらい、この本を読むと、「早慶6連戦」の事がわかってしまうのである。

 

<『東京六大学(出来れば早稲田)に行って、東京六大学野球を観戦し、いつか、こういう文章を書きたい』と決意!!~2013(平成25)年春の「法明V決戦」で、その目標が(少しだけ)叶う?>

 

 

このブログで、何度か書いている通り、私は東京六大学に行き、東京六大学野球を、当事者として観戦したいという事を「目標」にするようになっていた。

そして、出来れば早稲田に行きたいとも思ったが、早稲田には受からず、結果として、縁有って法政大学に入った。

そして、私は神宮で、法政の試合を沢山見たが、やはり私が思っていた通り、東京六大学野球というのは、本当に面白かった。

私は、法政に入った事により、東京六大学野球という世界に、ますますハマって行った。

 

 

 

先程、私は、長尾三郎が書いた「早慶6連戦」の本を読み、

「いつか、自分もこんな臨場感が有る文章を書けるようになりたい!!」と思った、という事を述べたが、

2013(平成25)年春、私は、あの「早慶6連戦」にも匹敵する(※と、私は思っている)、

「法明V決戦」について、文章を書こうと決意し、そして、このブログを書いたというわけである。

勿論、長尾三郎の域には全然達していないが、私も、「法明V決戦」について書く事が出来て、その目標を、少しだけ叶える事が出来たのかなとは思う。

というわけで、1冊の本が、私の人生に大きな影響を与えた、という意味が、おわかり頂けたのではないかと思うが、

このブログを生んだのも、遡れば『神宮の森の伝説 60年秋 早慶6連戦』という本に行き着く、という言い方も出来よう。

 

<エピローグ~その後の安藤元博と長尾三郎…安藤元博は1996(平成8)年、長尾三郎は2006(平成18)年に死去>

 

 

最後に、この本の「後日談」について、ご紹介させて頂く。

『神宮の森の伝説 60年秋 早慶6連戦』は、その後、文庫化されたが、

その文庫版では、「早慶6連戦」の英雄だった安藤元博が、1996(平成8)年、悪性リンパ腫により亡くなったという事が「追記」されている。

安藤は、プロ野球(東映、巨人)に短期間、在籍した後、現役引退後は野球からは離れ、建設業界で働いていたが、1996(平成8)年、悪性リンパ腫という病に冒された。

安藤は、病が悪化し、身体が激痛に襲われても、家族や仲間達にも、一言も弱音を漏らさなかったという。

 

 

 

安藤の元には、「早慶6連戦」を共に戦った仲間達が、次々に集まった。

その中には、当時の早稲田の監督で、安藤を信頼し、安藤を投げさせまくった、あの石井連蔵も居たが、

石井連蔵は、衰弱し、安藤が痺れを訴えていた、安藤の右手をさすり、

「大丈夫だ。俺がさすったら、必ず治る」

と、安藤を励ましたとう。

しかし、安藤元博は壮絶な闘病の末に、享年56歳の若さで、この世を去った。

そして、安藤の棺には、『神宮の森の伝説 60年秋 早慶6連戦』の本が納められたという。

安藤と長尾三郎は、この本の取材を通して、親交を深めていたのであった。

この安藤の闘病を記したくだりは、とても涙なしには読めないものである。

 

 

 

長尾三郎は、植村直巳寺山修司などを題材に、多数の優れたノンフィクション作品を書いたが、

2006(平成18)年、長尾三郎も、癌により、享年68歳で亡くなった。

という事で、『神宮の森の伝説 60年秋 早慶6連戦』という素晴らしい本を残し、「早慶6連戦」の激闘を描き、私に、人生の方向性を示してくれた長尾三郎という作家に、改めて深い感謝の意を捧げたい。