「野球以外の」東京六大学の有名人・著名人③【法政大学・アナウンサー(NHK・日テレ・TBS)編】 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

「野球以外の」東京六大学の有名人・著名人をご紹介する不定期シリーズを、気が向いた時に(?)書いているが、今まで、我が母校の法政大学出身の有名人・著名人を「作家・文化人編」「芸能人・ミュージシャン編」として、お送りして来た。

という事で、シリーズ第3回である今回は、法政OB・OGの「アナウンサー(NHK・日本テレビ・TBS)編」を、ご紹介させて頂く事としたい。

 

 

なお、法政大学には、学生達が戦略的にマスコミ業界への就職を目指すという事で組織されている、

「法政大学 自主マスコミ講座」(1988(昭和63)年創設)というものが存在している。

そして「自主マス」から、多くの学生達が、マスコミへ就職しているが、その「自主マス」について、まずはご紹介させて頂きたい。

 

<1988(昭和63)年…「法政大学 自主マスコミ講座」が開設!!~法政の教職員有志が、マスコミ業界を目指す学生向けに創設した有料講座~代表顧問は稲増龍夫(法政大学・社会学部教授)>

 

 

 

 

1988(昭和63)年、法政大学「法政大学 自主マスコミ講座」(以下・自主マス)が開設された。

「自主マス」は、マスコミ業界への就職を目指す、法政の学生向けに開設された有料講座であり、

当時の、法政大学の教職員有志により創設された。

そして、「自主マス」の代表顧問には、法政の社会学部教授である稲増龍夫が就任した(※稲増龍夫は、現在も代表顧問を務めている)。

 

 

「自主マス」は、マスコミ業界への就職を、戦略的に目指す事が特徴であり、

1年生で基礎、2年生で表現と活字、3年生ではアナウンサーコースを筆頭に、

全部で五つのコースに分かれており、出版や広告、放送業界への就職を目指す学生が、学部の垣根を越えて集まっている。

つまり、マスコミに就職したい法政の学生が集まり、それぞれ切磋琢磨している講座、という事である。

 

<法政「自主マス」3期生・小島奈津子…小島奈津子の成功により、法政「自主マス」の注目度が跳ね上がる!!~「なっちゃん」の愛称で、今もなお活躍を続ける人気者>

 

 

法政の「自主マス」は、1988(昭和63)年の1期生が、早くも大手新聞社への就職を果たしたが、

何と言っても、「自主マス」の名を高めたのは、3期生の小島奈津子(1968~)であろう。

小島奈津子は、「自主マス」の3期生として、マスコミ業界への就職を目指していたが、

1992(平成4)年、超難関を突破し、フジテレビのアナウンサー試験に合格し、フジテレビにアナウンサーとして入社した。

 

 

小島奈津子は、フジテレビ入社当時から、その明るいキャラクターを買われ、

「タモリのボキャブラ天国」「笑っていいとも!」「おはよう!ナイスデイ」といった人気番組に出演し、人気を得ていたが、1997(平成9)年から、「めざましテレビ」のメインキャスターを務め、大塚範一(早稲田OB)との名コンビで、番組の顔となった。

小島奈津子は、明るい笑顔と気さくなキャラクターで、「なっちゃん」と親しまれ、お茶の間の人気者となった。

 

 

2002(平成14)年3月、小島奈津子はフジテレビを退社し、フリーアナウンサーとなったが、

フリーになった後も、数々の番組に出演し、2007(平成19)年4月~以降、TBS「噂の!東京マガジン」で、森本毅郎(慶応OB)とのコンビで、長年、司会を務めている。

というわけで、「なっちゃん」こと小島奈津子の大活躍により、法政「自主マス」の注目度は跳ね上がり、マスコミ業界を目指す学生達が「自主マス」に殺到するようになった。

 

<法政出身のアナウンサー・NHK編①…古野晶子、鈴木奈穂子らが活躍>

 

 

では、法政出身の主なアナウンサーについて、順を追ってご紹介させて頂く事としたい。

まずはNHKからであるが、古野晶子(1980~)は2003(平成15)年にNHKに入局し、

「あさイチ」などの番組を担当している。

主な同期生は一柳亜矢子(学習院女子大学OG)、橋本奈穂子(明治学院大学OG)らである。

 

 

 

古野晶子の1学年下の鈴木奈穂子(1982~)は、2004(平成16)年にNHKに入局したが、

就職試験の際には、TBSも受験していたという。

鈴木奈穂子は、とにかくアナウンス能力が抜群で、落ち着いた話し方は、いかにもNHKアナウンサーらしい。

鈴木奈穂子は、その実力を買われ、「ニュースウォッチ9」、「NHKニュース7」といった、重要なニュース番組のメインキャスターも任されている。

彼女の主な同期生は、井上あさひ(お茶の水女子大学OG)、廣瀬朋美(津田塾大学OG)らである。

 

<法政出身のアナウンサー・NHK編②…オリンピックを11回も実況した名アナウンサー・羽佐間正雄~声優・俳優の羽佐間道夫の兄>

 

 

 

法政出身のNHKアナウンサーとして忘れてはならないのが、スポーツアナウンサーとして大活躍した、羽佐間正雄(1931~)である。

1954(昭和29)年にNHKに入局しら羽佐間正雄は、NHKのスポーツ実況の名アナウンサーとして名を馳せ、

オリンピックに至っては、夏季・冬季合わせて、何と11回も実況を務め、その名調子で、お茶の間に親しまれた。

 

 

 

羽佐間正雄の弟・羽佐間道夫(1933~)は、法政OBではないが、声優・俳優として長年にわたり活躍し、

ナレーターの重鎮として、放送界で重用された。

羽佐間道夫は、洋画の吹き替えでは、シルベスター・スタローン、ポール・ニューマン、マルチェロ・マストロヤンニなどの名優達の声を担当している。

という事で、羽佐間正雄・道夫ともに、声の仕事で一時代を築いた、凄い兄弟であった。

 

<法政出身のアナウンサー・NHK編③…波乱万丈の人生を送る、元NHKの「問題児」、「麿(まろ)」こと登坂淳一>

 

 

元NHKアナウンサーで、現在は、一応フリーアナウンサーという「肩書」の登坂淳一(1971~)は、波乱万丈の人生を送っている。

登坂淳一は、1997(平成9)年にNHKに入局すると、和歌山・大阪などの放送局の勤務を経て、東京放送局のアナウンサーになった。

 

 

 

 

登坂淳一といえば、当初、髪は黒々としていたものの、35歳頃から白髪が目立ち始め、

35歳を過ぎた頃からは、白髪染めも辞めてしまい、ご覧の通り、徐々に白髪を「全開」にさせて行った。

登坂淳一といえば、貴族のような顔立ちで、「麿(まろ)」という愛称で親しまれたが、

2018(平成30)年1月に、NHKを退局する頃には、髪は完全に真っ白になっていた。

 

 

NHKを退局し、フリーアナウンサーになった登坂淳一は、2018(平成30)年4月~以降、

BSフジのニュース番組で、メインキャスターを務める予定であったが、NHK鹿児島放送局に在籍当時の「女性スキャンダル」を、「週刊文春」にスッパ抜かれてしまい、この話はご破算になってしまった。

 

 

その後、登坂淳一は完全に干されてしまい、アナウンサーとしての道は絶たれてしまったかに思われたが、

現在は、開き直ってバラエティー番組に出演し、何とか活路を見出そうとしている。

というわけで、波乱万丈の人生を送る「麿(まろ)」には、今後も頑張って頂きたいものである。

 

<法政出身のアナウンサー・日本テレビ編①…「ザ!世界仰天ニュース」などに出演する、野球好きの久野静香>

 

 

 

久野静香(1989~)は、法政の「自主マス」出身で、2012(平成24)年に日本テレビにアナウンサーとして入社した。

久野静香は、大の野球好きであり、巨人贔屓の日本テレビは、彼女にとって、打ってつけの職場(?)であった。

入社早々に、久野静香は日本テレビ系のCS放送局「G+(ジータス)」で、徳光和夫(立教OB)が司会を務める、巨人のPR番組にアシスタントとして出演した。

 

 

 

 

その後、久野静香「ZIP!」、「NEWS ZERO」などに出演し、

2013(平成25)年~以降は、「ザ!世界仰天ニュース」で、笑福亭鶴瓶、中居正広のアシスタントも務めている。

学生時代、野球見たさに、球場でビールの売り子のアルバイトをやっていたという久野静香は、現在も日本テレビの現役アナウンサーとして活躍中である。

 

<法政出身のアナウンサー・日本テレビ編②…日テレの若手スポーツアナウンサー・平松修造~尾崎里紗、笹崎里菜と同期>

 

 

平松修造(1992~)は、その名の通り、母親が松岡修造の大ファンだった事から、「修造」と名付けられたというが、

法政の「自主マス」を受講し、2015(平成28)年には、難関を突破し、日本テレビのアナウンサー試験に合格し、

日本テレビにアナウンサーとして入社した。

 

 

 

 

平松修造は、名前の通りのスポーツ好きであり、日本テレビにも、スポーツアナウンサー志望として入社したが、

平松修造の同期生には、尾崎里紗(西南学院大学OG)、笹崎里菜(東洋英和女学院大学OG)が居る。

笹崎は、何かと世間を騒がせていたが、平松修造は、箱根駅伝のレポーターを務めたり、「news every」でスポーツキャスターを務めたりと、着実に実績を積み重ねている。

なお、元テレビ朝日アナウンサーの池谷麻依とは、法政の同期生で、アナウンサーとしても同期であった。

 

<法政出身のアナウンサー・日本テレビ編③…法政大学アナウンス研究会の創設者・若林健治~法政「自主マス」の講師も務めたが…>

 

 

若林健治(1958~)は、法政に在学中に「法政大学アナウンス研究会」を創設するなど、積極的に活動し、

1981(昭和56)年に中部日本放送に入社したが、その後、「プロレス実況をやりたい」という一心で、

1984(昭和59)年に、中部日本放送を退社し、同年(1984年)、日本テレビに中途入社した。

そして、若林は念願どおり、日本テレビでプロレス実況の名アナウンサーとして、長年活躍した。

 

 

2007(平成19)年12月31日、若林健治は日本テレビを退社し、フリーアナウンサーとなり、

その後は「若林健治アナウンススクール」を主宰し、一時は法政の「自主マス」の講師も務めていたが、

色々とスキャンダルを巻き起こし、現在は表舞台から遠ざかっている。

それにしても、アナウンサーで顔が売れている人は、何かと注目度が高く、大変である。

 

<法政出身のアナウンサー・TBS編①…学生時代から「ミスコン」に出まくっていた堀井美香~小島慶子、小川知子と同期入社の「花の1995年組」~現在は、久米宏とラジオでコンビを組む>

 

 

堀井美香(1972~)は、現在もTBSアナウンサーとして活躍しているが、

彼女の経歴は、なかなか華やかである。

というより、堀井美香は、法政在学中から、かなりハッキリと、派手な世界で活躍する事を目指していた人だった。

 

 

堀井美香は、学生時代から、数々の「ミスコン」に出場し、

行く行くは芸能界で活躍するという事を、ハッキリと目標に掲げていたようである。

堀井美香は、1995(平成7)年にTBSに入社した後、下世話なゴシップ雑誌に、

数々の「ミスコン」に出場していた事を書き立てられ、次々に「お宝写真」が掲載されたりしていたが、

念願どおり、マスコミ(TBS)に入社する事が出来た彼女にとっては、どこ吹く風だったと思われる(※本人が何も言っていないので、わからないが)。

 

 

 

 

 

堀井美香は、前述の通り、1995(平成7)年にTBSに入社したが、

堀井美香のTBSの同期入社組というのが、なかなか濃い人達である。

彼女の同期の1人は小島慶子(学習院大学OG)であり、小島慶子は、美人アナウンサーとして活躍した(※現在はフリーになっている)。

 

 

 

もう1人の同期生は、有名女優と同姓同名の小川知子(慶應義塾大学OG)であるが、

小川知子は、現在もTBSの現役アナウンサーとして活躍中である。

というわけで、堀井美香、小島慶子、小川知子という「逸材」が揃った、TBSアナウンサー30期生は「花の1995年組」と称されている。

 

 

 

堀井美香は、前述のように、「ミスコン」荒らし(?)だったという経歴だった事もあり、

TBS入社当時は、どちからといえばバラエティー色が強いイメージであり、

「CDTV(COUNT DOWN TV)」で、CGキャラクターでランキング紹介を行なったりしていた。

若い頃の彼女は、アイドル的な存在だったと言って良い。

 

 

 

しかし、堀井美香は、歳を重ねるにつれて、落ち着いた雰囲気になって行き、

今では、TBSラジオ「久米宏 ラジオなんですけど」で、久米宏(早稲田OB)の「相方」のパーソナリティを務めている。

TBSは、元々はラジオ局であり、ラジオがメインだったため、今でも、どんなに売れっ子のアナウンサーでも、

必ず、ラジオ番組も担当するのが「伝統」である。

なお、堀井美香は、現在はベテランとして落ち着いた雰囲気であるとは書いたが、今でも、このラジオ番組では天然ボケぶりを発揮し、

度々、久米宏に突っ込まれているというのは、ご愛嬌である。

 

<法政出身のアナウンサー・TBS編②…父親はアメリカ人、母親は日本人の「ハーフ」宇賀神メグ~出水麻衣に憧れ、2018(平成30)年にTBSに入社>

 

 

学生時代に、タレント活動を行なっていた宇賀神メグ(1995~)は、

父親がアメリカ人、母親が日本人という「ハーフ」である。

宇賀神メグは、法政大学生命科学部生命機能学科に在学していたが、どうやら「自主マス」出身ではないようである。

 

 

では、何故、宇賀神メグがアナウンサーを志したのかといえば、

TBS「王様のブランチ」に出演していた出水麻衣(上智大学OG)が、とても楽しそうなのが強く印象に残り、

宇賀神メグは、出水麻衣に憧れ、アナウンサーを目指すようになった。

そして、彼女は「テレビ朝日アスク」で訓練を受け、アナウンサーを目指した。

 

 

 

そして、宇賀神メグは、2018(平成30)年に、TBSアナウンサー試験を突破し、

TBSにアナウンサーとして入社を果たしたが、タレント活動を経てのTBS入社というのは、

「セミプロ」だった堀井美香を彷彿とさせる。

法政には、そのような系譜が有るという事であろうか。

なお、宇賀神メグは、2019(平成31)年2月~、「人生最高レストラン」の2代目アシスタントを務めている。

 

<法政出身のアナウンサー・TBS編③…法政在学中にアメリカ留学し、「国際派」を売りにTBSに入社した生島ヒロシ~軽妙な喋りで、フリーアナウンサーとしても一世を風靡>

 

 

 

宮城県気仙沼市出身の生島ヒロシ(1950~)は、気仙沼高校を卒業後、法政大学経営学部に入学した。

しかし、生島ヒロシが法政在学中の1971(昭和46)年、学園紛争が激化したため、生島ヒロシは、単身渡米し、

カリフォルニア州立大学ロングビーチ校ジャーナリズム科に留学し、同校を卒業した後、帰国してTBSの入社試験を受けた。

その際に、生島ヒロシは、持ち前の弁舌を駆使し、「これからの日本のマスコミには、僕のような国際派が必要ですよ」と堂々と主張し、その結果、生島ヒロシは見事にTBSの入社試験を突破し、1976(昭和51年)にTBSに入社した。

なお、生島ヒロシの同期入社には松宮一彦(日大芸術学部OB)らが居たが、生島は、ラジオ番組のパーソナリティとして、軽妙な喋りを披露し、人気を博した。

 

 

生島ヒロシは、TBSアナウンサーとして活躍した後、

1989(平成元)年3月でTBSを退社し、フリーアナウンサーとなったが、

その後も、軽妙な喋りはますます冴えて、フリーとしても大活躍した。

1990(平成2)年4月~1993(平成5)年9月まで、テレビ朝日「ミュージックステーション」で、タモリ(早稲田OB)、有賀さつき(フェリス女学院大学OG)と共に、MCを務めている。

 

 

 

生島ヒロシは、TBS退社後、「生島企画」を立ち上げ、最高経営責任者として、実業家としても成功しているが、

末弟の生島淳(早稲田OB)は、スポーツライターとしても活躍している。

なお、2011(平成23)年3月11日、「3.11」の東日本大震災では、妹を津波で亡くすという悲しい出来事も有った。

生島ヒロシは、悲しみを乗り越え、より一層、仕事に邁進する事を誓ったという。

 

 

その後も、「ライザップ」のCMに出演し、見事にダイエットに成功するなど、

生島ヒロシは、今もなお、フリーアナウンサー、タレントとして大活躍し、現役で第一線として活躍しているが、

法政を飛び出し、アメリカへ渡り、アナウンサーへの道を切り開いたという生島ヒロシのバイタリティーは、

いかにも法政らしい「進取の気性」を体現していると言えよう。

 

(「法政大学・アナウンサー(フジテレビ、テレビ朝日、テレビ東京)編に、つづく)