【野球コトバ辞典】江本孟紀「ベンチがアホやから野球でけへん」⇒「総理がアホやから生活でけへん」 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1981(昭和56)年8月26日、阪神タイガース江本孟紀投手は、

甲子園球場での阪神-ヤクルト戦で、阪神が4-2と2点リードした8回表、

2死2、3塁から、水谷新太郎(ヤクルト)に2点タイムリーを浴び、4-4の同点に追い付かれた。

 

 

阪神の中西太監督は、ここで江本の交代を審判に告げ、江本は降板となったが、

降板した江本は、憤懣やるかたない表情であった。

そして、持っていたグラブを、思いっきり投げ付けたのである。

江本は、明らかに怒り心頭であった。

そして、ロッカールームに向かう廊下で、江本は、こう言い放ったのである。

「ベンチがアホやから、野球でけへん!!」

そう、江本は、中西監督ら、当時の阪神の首脳陣に対し、怒りを爆発させたのである。

一体、江本と中西監督との間に、何が有ったのであろうか…?

このような騒動になってしまった原因として、ソリの合わない上司と部下が、同じ職場になってしまったという「悲劇」が有った。

 

<1978(昭和53)年…阪神タイガース、球団史上初の最下位に転落>

 

 

1978(昭和53)年、後藤次男監督率いる阪神タイガースは、

41勝80敗9分 勝率.339という惨憺たる成績に終わり、

阪神は、球団史上初の最下位に転落してしまった。

名門・阪神タイガースは地に落ち、後藤監督も辞任に追い込まれた。

 

<1978(昭和53)年シーズンオフ…阪神の球団社長として、小津正次郎が就任~「コンピュータ付きブルドーザー」「オヅワルド」などと称された、「やり手社長」の登場>

 

 

そこで、阪神は球団を再建するため、阪神電鉄の本社の重役だった小津正次郎を、

阪神タイガースの球団社長として「出向」させた。

小津は、それまでの球団社長と違い、積極的にタイガースの再建のために動き、

田中角栄をもじって「コンピュータ付きブルドーザー」や、「オヅワルド」などとも呼ばれた、「やり手社長」であった。

 

<小津球団社長の「剛腕」…田淵幸一を西武に「放出」し、トレードで真弓明信・若菜嘉晴・竹之内雅史らを獲得⇒「空白の1日」騒動で、江川卓との「トレード」で、巨人のエース・小林繁を獲得>

 

 

 

小津社長は、阪神の球団社長に就任して早々、

主砲・田淵幸一と、古沢憲司投手を西武ライオンズに「放出」し、

見返りとして、真弓明信、若菜嘉晴、竹之内雅史、竹田和史らを獲得する、大トレードを敢行した。

「ミスタータイガース」の田淵の放出は、阪神ファンを仰天させ、猛反発を招いたが、

小津は、「阪神の再建のためには、血の入れ替えが必要」という「信念」を曲げなかった。

 

 

 

 

また、1978(昭和53)年オフといえば、巨人が「ドラフト破り」で、強引に巨人に入団させた江川卓の選手契約が、

プロ野球のコミッショナーから却下され、江川と巨人が世間から大バッシングを受けた、所謂「空白の1日」騒動で有名であるが、

ドラフト会議で、阪神が江川を改めてドラフト1位で指名した後、その後、コミッショナーからの「強い要望」で、

江川を一旦、阪神に入団させた後、巨人のエース・小林繁とのトレードで、江川は巨人に入団、小林繁は阪神に移籍、という措置が取られた際に、阪神側の代表として、大いに「暗躍」したのも、小津であった。

このように、良くも悪くも、小津社長になってからの阪神は、世間を大いに騒がせていた。

 

<1978(昭和53)年オフ…小津社長に「対抗」するため、阪神の選手会長に江本孟紀が就任!!>

 

 

このように、思い付いたら何をやり出すかわからない、小津社長に対し、阪神の選手達は戦々恐々としていた。

そこで、首脳陣に対しても、臆せずに物申す性格の(「一言多い」ともいうが)江本孟紀が、阪神の選手達に推されて、阪神の選手会長に就任した。

江本は、1976(昭和51)年に南海から阪神に移籍して来た「外様」だったが、

阪神のエースとして活躍しており、しかも、

「球団社長にも、ズケズケ物を言ってくれるのは、江本しか居ない!!」

と、当時の阪神の選手達からは、妙に「信頼」が厚かったという事であろう。

 

 

選手会長に就任した江本は、前述の「トレード」で阪神に移籍して来た小林繁を温かく迎い入れ、

小林が、阪神でやりやすいような環境を整える事に努めた。

江本は、うるさ型の性格ではあったが、真っ直ぐな気性で、情に厚いタイプでもあった。

 

<1979(昭和54)年…阪神の監督に、ドン・ブレイザーが就任!!~小林繁が22勝9敗、対巨人戦8連勝の大活躍!!~江本は8年連続二桁勝利を達成し、阪神は4位に浮上>

 

 

1979(昭和54)年、阪神の新監督として、かつて南海ホークスで野村克也監督の「右腕」として活躍した、ドン・ブレイザーが就任した。

ブレイザーは、阪神の球団史上初の外国人監督だったが、これも、小津社長の「阪神改革」の一環であった。

 

 

 

江本は、この時のブレイザー監督の就任を歓迎した。

何故なら、江本曰く「ブレイザーは、外人だから、変なお世辞を言わなくても済む」という事だったらしい。

ブレイザー監督も、エースの江本には、いかに気持ち良く投げさせるか、という事に腐心していたようである。

 

 

 

一方、不本意な形で巨人から阪神にトレードされた小林繁は、巨人戦に並々ならぬ闘志を燃やしていた。

小林繁は、この年(1979年)、22勝9敗1セーブ 防御率2.89、対巨人戦8連勝(8勝0敗)という、素晴らしい成績を残した。

江川が、すっかり「悪役」になったのに対し、小林は当初「悲劇のヒーロー」のような扱いを受けたが、

小林は、実力で、見事に巨人を見返したのである。

 

 

江本も、1979(昭和54)年は12勝12敗6セーブ 防御率4.38という成績であり、

江本は、これで「8年連続二桁勝利」を達成した。

江本は、密かに「10年連続二桁勝利」を目指していたが、その目標まで、あと一歩であった。

阪神は、彼らの活躍もあり、この年(1979年)は61勝60敗9分 勝率.509で4位に浮上した。

 

<1979(昭和54)年ドラフト会議…岡田彰布(早稲田)が、「相思相愛」の阪神にドラフト1位指名!!>

 

 

1979(昭和54)年のドラフト会議は、東京六大学野球の早稲田で、主砲として大活躍していた岡田彰布が、超目玉となっていた。

岡田は、生まれも育ちも大阪であり、大阪の北陽高校から早稲田に進学し、早稲田のスターになっていたが、

岡田は子供の頃からの阪神ファンだったという。

岡田は、阪神への入団を熱望していたが、ドラフトでは複数球団による1位指名が予想され、岡田の願いが叶うかどうかは、わからなかった。

 

 

 

 

そして、1979(昭和54)年オフのドラフト会議では、予想どおり、岡田への1位指名が重なり、

在阪4球団を含む6球団が、岡田を1位指名したが、何と、阪神が抽選で岡田を引き当ててしまった。

憧れの阪神がクジを当てたのを見て、岡田は満面の笑みを浮かべたが、地元のスター候補の獲得成功に、阪神ファンも、狂喜乱舞した。

「これで、阪神の主砲は決まりや!!」

まだプロで1球も打っていない岡田に、早くも、阪神ファンは期待に胸を膨らませた。

 

<1980(昭和55)年開幕当初…ブレイザー監督は、岡田をなかなか使わず、ヒルトンを二塁手で起用し、「岡田を使え!!」と、ブレイザー監督への非難が殺到!!>

 

 

 

ところが、ブレイザー監督は、期待の新人・岡田を、なかなか起用しなかった。

岡田は、早稲田時代は三塁手を守っていたが、当時の阪神には、不動の三塁手・掛布雅之が居た。

そこで、ブレイザー監督は、岡田を二塁手にコンバートしたが、その二塁手として、ブレイザー監督は、前ヤクルトのヒルトンを獲得し、

開幕してからも、岡田ではなく、ヒルトンを起用し続けた。

この起用に対し、阪神ファンは不満を募らせ、ブレイザー監督への非難が殺到した。

ヒルトンが登場すると、阪神ファンからは一斉に「岡田!!岡田!!」と、「岡田コール」が起こる始末であった。

 

 

ブレイザー監督とて、勿論、岡田をわざと干していたわけではなく、

まだ新人だった岡田を、じっくり起用したいというつもりだったようである。

しかし、阪神ファンは、岡田を全然使わないブレイザー監督に、怒りを爆発させた。

「岡田を出せ!!」

と、ブレイザー監督には、毎日、阪神ファンから罵声が浴びせられた。

ブレイザー監督とヒルトンは、すっかり阪神ファンから「悪者」扱いされてしまったのである。

 

<1980(昭和55)年5月14日…遂に、ブレイザー監督は「退任」~小津球団社長が、ブレイザー監督を事実上の「更迭」>

 

 

 

そんなゴタゴタもあり、1980(昭和55)年の阪神は、開幕から不穏な空気が漂っていた。

それでも、阪神は5月14日の段階で、13勝12敗1分 勝率.520と、それなりに健闘していたが、

ブレイザー監督が起用し続けたヒルトンが、開幕から大不振だった事もあり、

阪神の小津球団社長は、ヒルトンをクビにしてしまい、後釜として、別の選手(ボウクレア)を獲得してしまった。

これに対し、ブレイザー監督は「フロントの現場介入は許せない!!」と、阪神のフロントに怒りを爆発させ、

5月15日、ブレイザー監督は、シーズン途中で「退任」してしまった。

表向きは、ブレイザー監督による「退任」だったが、誰がどう見ても、小津社長による、事実上の「更迭」であった。

こうして、阪神の「伝統」とも言える「お家騒動」が、またしても起こってしまったのである。

 

<1980(昭和55)年…ブレイザーの「後任」として中西太コーチが監督に「昇格」するし、岡田は新人王を獲得する大活躍!!…しかし、中西監督と江本は、全くソリが合わず>

 

 

 

 

ブレイザー監督の「退任」を受け、後任として、中西太コーチが、新たに監督として「昇格」した。

新監督となった中西太は、岡田を積極的に起用すると、岡田はその期待によく応え、

岡田は、プロ1年目となる、この年(1980年)は打率.290 18本塁打 54打点という成績を残し、

岡田は見事に「新人王」を獲得した。

しかし、阪神は中西監督の就任後、坂道を転がり落ちるように負け続け、

結局、1980(昭和55)年の阪神は54勝66敗10分 勝率.450で5位という成績に終わった。

 

 

更に、江本にとっては運が悪い事にというか、

江本と中西監督は、全くソリが合わず、悉く対立してしまい、反目し合うようになってしまった。

江本は、気持ちが切れてしまったのか、この年(1980年)は8勝15敗 防御率4.78という、不本意な成績に終わった。

これで、目標としていた「10年連続二桁勝利」も、夢と消えてしまい、すっかりモチベーションを失った江本は、一時は「引退」も考えたが、

もう一度、気持ちを奮い立たせ、翌1981(昭和56)年のシーズンに臨む事となった。

 

<1981(昭和56)年…開幕から起用法が安定せず、中西監督に対する不満を募らせた江本~両者の「確執」は爆発寸前に>

 

 

 

1981(昭和56)年の開幕前、中西監督は、江本に対し、

「今年は、抑えをやってもらう」と告げ、江本も了承した。

江本は、その事については、特に不満は無かったが、この年(1981年)の阪神は、開幕から負けが込み、

抑えの筈の江本の出番は、なかなか回って来なかった。

しかも、中西監督の江本に対する起用法は安定せず、ロングリリーフをやらせてみたり、

そうかと思えば、大量ビハインドで負けている試合に、江本を「敗戦処理」で使ってみたりと、メチャクチャな起用が続いた。

これに、江本はすっかり嫌気が差してしまった。

阪神のエースだった男のプライドはズタズタである。

 

 

 

まして、江本と中西は、全く馬が合わず、元々、気が合わなかったが、二人の間柄はすっかり冷え切っていた。

有り体に言えば、全くソリが合わない上司の職場に居て、部下がすっかりやる気を無くしたという事であろう。

私にも経験が有るが、そういう状態になると、仕事へのモチベーションは全く上がらなくなってしまうものである。

たとえ、人間的には合わない部下でも、部下の能力を最大限に発揮させられなければ、その上司は「失格」であろう。

要するに、中西太は、「監督になってはいけない人だった」と、後に江本は語っている。

ともあれ、江本と中西監督は冷戦状態に陥り、両者の「確執」は爆発寸前になっていた。

 

<そして、「事件」は起こった!!~1981(昭和56)年8月26日…江本が中西監督に対する不満を爆発させ、大激怒!!⇒「ベンチがアホやから野球でけへん!!」と言い放ち、そのまま阪神を退団、現役引退へ…>

 

 

さてさて、そのような「伏線」が重なった末に、遂にあの「事件」が起こった。

1981(昭和56)年8月26日、甲子園球場での阪神-ヤクルト戦で、江本は久々に先発すると、絶好調の投球を見せた。

そして、阪神が4-1と3点をリードし、8回表を迎えたが、全力で飛ばしていた江本にも疲れの色が見え始め、ヤクルトに3連打を浴び、4-2とリードは2点に縮まった。

 

 

「そろそろ、交代かな…」

江本はそう思ったが、いくら打たれても、阪神ベンチは、江本を代えるつもりは無いようだった。

しかし、4-2と2点リードし、なおも2死2、3塁という場面で、江本は、次の打者(水谷新太郎)を四球で歩かせるのか、

それとも勝負するのか、ベンチの指示を仰ごうとしたが、江本がベンチを見ると、何と、中西監督の姿は、何処にも無かった。

中西監督は、この大事な場面で、指揮権を「放棄」し、逃亡してしまったのである。

 

 

いくら打たれても、リリーフを用意して、江本を助けようとしなかったばかりか、一番苦しい場面で、中西監督は、江本を見捨てたのであった。

これには、江本も堪忍袋の緒が切れ、マウンド上で、怒りを収める事が出来なくなっていた。

「あのオッサン、許さんぞ!!」

江本の頭に、カーっと血が上った。

 

 

 

 

そのように、冷静さを欠いたままでは、良いピッチングなど出来る筈もない。

気持ちの整理が付かないまま、水谷と勝負した江本は、水谷に痛恨の同点2点タイムリーを浴び、試合は4-4の振り出しに戻ってしまった。

ここで、阪神ベンチは漸く、江本の交代を告げたが、勝利投手の権利まで無くなり、江本は怒りを爆発させた。

そして、ベンチに帰る時に、グラブを投げつけたというのが、冒頭の場面である。

江本は、ロッカールームに向かう途中の廊下で、

「ベンチがアホやから、野球でけへん!!」

という「捨て台詞」を吐き、これを聞いていた記者により、翌日、この「暴言」が、デカデカと、スポーツ新聞の1面に掲載されてしまった。

 

 

阪神球団は、江本の「舌禍事件」を重く見て、

江本に厳重注意を与え、「謹慎10日間」という処分を下そうとしたが、

当時は、既にシーズン終盤であり、ここで10日間も謹慎したら、

身体を元に戻すのに、1ヶ月はかかってしまう。

そんな事をしていたら、シーズンが終わってしまう。

ここで、完全に気持ちが切れてしまった江本は、シーズン中にも関わらず、阪神を退団し、そのまま現役引退してしまったのであった。

以上が、球史に残る、江本の「ベンチアホ事件」の顛末である。

 

<安倍晋三首相へ告ぐ!!~「新しい生活様式?冗談じゃない!!」~大体、いつまで続けるつもりなのか!?>

 

 

 

 

さて、江本の事件について、長々と書いてきたが、

今回、私が最も言いたい事は、ここから先である。

安倍晋三首相が、「緊急事態宣言」を延長し、「これからの1ヶ月は、コロナ終息に向けての1ヶ月」と言っていたが、それと同時に、「新しい生活様式」なるものを発表した。

曰く、「誰と何処で会ったかメモしろ」「食事は横並びでしろ」「人とは会話するな」

などと、「あれもダメ、これもダメ」というような事を、国民に強要するような内容である。

これを知って、私が率直に思ったのは「新しい生活様式?冗談じゃない!!」というものである。

大体、この「新しい生活様式」とやらは、一体、いつまでやる必要が有るのか、どれぐらいの期間を想定しているのか、という視点が欠けている。

それに、こんな窮屈な生活を強要するばかりで、終息への道筋が示せていないのだから、呆れるばかりである。そもそも、今の時点で、かなり「自粛」生活が長引き、経済的に苦境に陥っている人も多い。

そこへ持って来て、この発表なのだから、今、日本国民は、この「新しい生活様式」とやらを見て、心底ウンザリしているのではないか。

 

<今の日本は、戦前の日本ソックリ…空虚な「標語」だけで戦争に勝てるのか!?~安倍首相は「数字・ファクト・ロジック」で、国民にコロナ終息の道筋を示すべし!!>

 

 

 

 

私の見る所、今の日本は、戦前の日本にソックリである。

戦前の日本は、「欲しがりません勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」「進め1億火の玉だ」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」などと、

やたらと空虚な「標語」を連発し、「気合いが有れば、戦争に勝てる」という、「精神論」に終始していた。

しかし、結果はどうなったかと言えば、皆様もご存知の通り、日本は悲惨な敗戦を喫した。

今の日本も、政府は、国民に対し、「とにかく我慢しろ」という、「精神論」の一点張りになってはいないだろうか。

 

 

 

「コロナを感染拡大させないために、家に居ましょう」「ステイホームして下さい」

と言うのは良いが、そうする事によって、具体的に、何を目指しているのか、どういう効果が得られるのか、

そして、どれぐらいの期間を想定しているのか、政府は、その道筋を示すべきではないか。

 

 

 

 

私の尊敬する、出口治明さんは、何事も「数字・ファクト・ロジック」が大事だと言っている。

安倍首相以下、政府に今、最も欠けているのは、国民を納得させる「数字・ファクト・ロジック」である。

それをしっかりと示さない限り、「ステイホーム」だの「新しい生活様式」だの、そんな精神論を言われても、虚しいだけである。

大体、国民を絶望させるばかりで、明るい方向に導けない時点で、リーダーとしては「失格」ではないだろうか。

 

<安倍首相に一言言いたい!!「総理がアホやから、生活でけへん!!」>

 

 

という事で、色々と書いてきたが、私が最も言いたいのは、次の一言である。

「総理がアホやから、生活でけへん!!」

安倍首相、精神論はもう沢山なので、具体的で、かつ国民に希望を与えるような道筋を示して頂きたい。

それが出来なければ、お辞めになってはいかがだろうか。

 

 

という事で、こんな事で、法政の大先輩である江本氏の「名言」(?)を引用してしまい、申し訳無いが、

「新しい生活様式」を聞いて、すぐに私の頭に思い浮かんだのが、この台詞だったのである

一国の総理を「アホ」と言って申し訳無いが、結果が出せず、国民を苦しめるだけの首相なら、責任を取って辞めるしかないのではないかと、私は思う。

なお、件の中西監督は、不振の責任を取って、1981(昭和56)年限りで、阪神の監督を辞任している。