【法政人物伝・追悼特別編】関根潤三伝(前編) ~「元祖・投打二刀流」、法政のレジェンド~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

昨日(4/9)、関根潤三氏が享年93歳で亡くなった。

関根潤三といえば、現役時代、近鉄・巨人で「投打二刀流」として大活躍し、

現役引退後は、大洋やヤクルトの監督を歴任、監督を退いた後は、

ソフトで柔和な語り口の解説で人気を集めた人として知られている。

 

 

そして、関根潤三といえば、我が法政野球部の歴史に残る、大投手でもあった。

関根潤三は、1948(昭和23)年秋に、法政を戦後初優勝に導いた、大エースだったのである。

そこで、今回は「法政人物伝」の追悼特別編として、関根潤三の生涯を描いてみる事としたい。

まずは、その「前編」として、関根潤三の現役時代編を、ご覧頂こう。

 

<法政野球部の歴史に残る「5大レジェンド」の1人、関根潤三>

 

 

東京六大学野球で、早稲田と並ぶ、史上最多タイの45度の優勝回数を誇る法政野球部であるが、

その法政野球部の栄光の歴史を語るにおいて、絶対に欠かす事が出来ない人物が、5人居る。

所謂、「法政の5大レジェンド」であるが、その5人は誰かというと、

 

・若林忠志(法政初優勝時の大エース。六大学通算43勝28敗)

・関根潤三(法政戦後初優勝時の大エース。六大学通算41勝30敗)

・田淵幸一(六大学通算最多22本塁打の大打者(※後に高橋由伸(慶応)が更新)

・山中正竹(六大学史上最多勝の「小さな大投手」、通算48勝13敗)

・江川卓(六大学史上2位、通算47勝12敗の「怪物」)

 

という事になるが、いずれも、球史に名を残した偉大なる名選手ばかりであり、

法政の歴史に残る人ばかりである。

 

 

関根潤三は、その「法政5大レジェンド」の1人であるが、

通算40勝投手を5人も輩出した法政の中でも、関根潤三は別格である。

何故かといえば、関根は、大投手であるばかりではなく、打者としても成功した、所謂「投打二刀流」の元祖であり、

プロ野球では、投手と打者の両方でオールスターに出場するという「快挙」も達成した、物凄い選手だったからである。

という事で、そんな関根潤三は、どのような野球人生を歩んで来たのか、振り返ってみる事としたい。

 

<関根潤三の生い立ち~日大三中時代…生涯の恩師・藤田省三と、生涯の親友・根本陸夫との出会い>

 

 

 

関根潤三(せきね・じゅんぞう)は、1927(昭和2)年3月15日、東京の巣鴨に生まれた。

…と書きたいところであるが、この生年月日には、実は注釈が付く。

本当は、関根潤三は1926(大正15)年12月25日に生まれていた。

しかし、その日に大正天皇が崩御したため、役所がお休みになってしまった。

関根潤三の父親はズボラで、そのまま役所に出生届を出すのを忘れてしまい、3ヶ月後に、漸く出生届を出しに行った。

だが、父親がズボラだったお陰で、関根は後年、命拾いする事になるのだから、人生は本当にわからない(※その事については、後述する)。

 

 

 

 

その後、関根潤三は名門・日大三中に進学し、野球部に入部した。

この日大三中時代、関根の生涯を語るにおいて、最重要な人達との出会いを果たしている。

まず、その内の1人は関根の「生涯の恩師」となった藤田省三であるが、

当時、藤田省三は日大三中野球部の監督を務めており、地獄のように厳しい練習を課す、「鬼監督」として知られていた。

関根は、元来、能天気で楽天家だったというが、藤田監督の、鬼のようなシゴキには、流石に音を上げたという。

なお、藤田は当時、母校の法政大学の野球部監督も兼務しており、法政の監督に専念するため、日大三中を去って行ったが、

この後も、藤田と関根の縁は続いて行った。

 

 

そして、もう1人が、関根の「生涯の親友」となった、根本陸夫である。

根本陸夫は、1926(大正15)年11月20日、茨城県水戸市生まれであり、本来、関根とは同い年だったのだが、

根本陸夫は「札付きのワル」として知られ、通っていた旧制・茨城中学を「放校」(クビ)になってしまい、

日大三中に、関根の1学年下として、編入して来たという。

なお、関根は左利きながら、当初のポジションは二塁手であり、やがて投手に転向し、捕手だった根本とバッテリーを組んだ。

こうして、関根と根本の、生涯にわたる付き合いが始まったであった。

(※関根潤三-根本陸夫のバッテリーは奮闘したものの、日大三中時代は、残念ながら一度も甲子園に出場する事は出来なかった)

 

<関根潤三、藤田省三の誘いで法政大学に進学…「昭和生まれ」だったお陰で、兵役を免れ、命拾い>

 

 

1944(昭和19)年、関根潤三は、日大三中時代の「恩師」藤田省三からの誘いで、法政大学に入学した。

というよりも、関根は藤田監督には全く頭が上がらず、藤田の前では、関根は常に直立不動であり、

この時も、関根は藤田に「おい関根、お前も法政に来い」と言われ、「ハイ!!」と返事をする事しか出来なかったという。

ちなみに、藤田省三の兄・藤田信男も、かつて法政野球部の監督を務めており、藤田兄弟といえば、法政野球部の重鎮である。

その藤田に誘われたのだから、関根も「ハイ!!」と言うしか無かった。

 

 

だが、関根が法政に入った頃は、太平洋戦争が激化しており、とても野球どころではない状況だった。

関根も、危うく「学徒出陣」で召集されるところだったが、関根曰く、当時、「大正生まれ」は召集され、「昭和生まれ」は召集されなかったという。

つまり、戸籍上は「1927(昭和2)年3月15日生まれ」だった関根は、危うく兵役を免れたというのであるが、もし、父親が関根の事を「大正生まれ」として届けていれば、関根も徴兵されていた可能性は高かったという。

「もし、そうだったら、僕は間違いなく、戦争で死んでいただろうね」と、後年、関根は語っている。

つまり、関根は父親がズボラだったお陰で、辛くも「命拾い」をしたという事になる。

そして、1945(昭和20)年8月15日、日本は敗れ、長かった戦争は終わったが、その日の夜には、街には早くも、若いカップルが溢れ、デートを楽しんでいたと、関根は証言している。

長く苦しかった時代が終わり、人々は久し振りの解放感に浸っていたのであった。

 

<戦後、関根潤三は法政のエースとして成長!!~根本陸夫と「再会」し、再び関根潤三-根本陸夫のバッテリーが「復活」>

 

 

長かった戦争が終わると、1946(昭和21)年、東京六大学野球が再開された。

関根潤三は、戦後初の試合で、藤田監督に5番・ライトとして抜擢されると、その試合で3安打2打点の活躍を見せた。

その後、東北・北海道遠征の際に、法政OBの若林忠志のアドバイスにより、本格的に投手に転向した関根は、投手としての才能も開花させて行った。

 

 

一方、その頃、根本陸夫は、終戦後は日大に在籍し、東都大学リーグで首位打者を獲得するなど、活躍していたが、

実は根本は、同時に立教大学にも籍を置いていた事がバレてしまい、日大をクビになった。

そこで、日大三中時代の「恩師」藤田監督の誘いを受け、根本は法政に転入して来たため、ここで関根と根本は「再会」を果たした。

根本は、捕手として、来る日も来る日も、関根の投球練習に付き合っていたが、ある日、関根が根本のユニフォームのお尻が、血で真っ赤になっているのに気が付いた。

これは、根本が関根の投球練習に、ずっと付き合っていたため、立ったり座ったりしている内に、痔になってしまったという事であった。

「根本は、文句も言わずに、僕の投球練習に付き合ってくれた。だから、投手・関根潤三が成功出来たのは、全部、根本のお陰」と、関根は語っている。

 

 

なお、根本は見た目どおりの(?)コワモテで、学生の頃から、ヤクザも震え上がらせたという「武闘派」だったというが、

根本曰く、「僕は、見た目はヤクザだけど、中身は紳士。潤ちゃんは、見た目は紳士だけど、中身はヤクザだよ」と言っていたという。

根本が評した通り、関根は、外見はソフトだが、実は気性が激しく、かなり短気だったと、多くの人が証言している。

ちなみに、根本は学校を何度かクビになったため、関根とは同い年ながら、学年は関根の2つ下になってしまった。

なので、根本は関根の事を、先輩として立てて、「潤ちゃん」と呼んで慕っており、関根も、「後輩」の根本の事を可愛がった。

ともあれ、関根は、根本のサポートもあり、投手としての腕前を上げ、やがて法政のエースに成長して行った。

 

<1948(昭和23)年秋…関根潤三、9勝1敗(9完投)で、法政を戦後初優勝に導く!!>

 

 

こうして、サウスポーとしての、しなやかな投球フォームと、見た目からは想像もつかないような(?)剛速球を武器に、

法政の大エースとなった関根潤三は、1948(昭和23)年秋、シーズン9勝1敗(9完投)という抜群の成績を挙げ、見事に、法政を戦後初優勝の栄冠へと導いた。

当時の東京六大学野球は、ほぼ早稲田か慶応が優勝を独占していたが、そんな「早慶独占」に風穴を開け、法政に栄冠をもたらしたのは、

間違い無く、関根の力投が有ったればこそである。

日大三中以来の、関根の「恩師」藤田省三も、きっと誇らしかったに違いあるまい。

 

<法政時代、六大学通算41勝30敗、打者として通算93安打…「投打二刀流」として大活躍した、関根潤三>

 

 

結局、関根潤三は、法政時代(1946~1949年)に、投手として通算41勝30敗、打者としても、通算350打数93安打、打率.266、0本塁打、38打点という成績を残し、

打者としてのセンスも見せ付け、「投打二刀流」として、大活躍した。

1949(昭和24)年秋には、来日したサンフランシスコ・シールズとの試合で、関根は延長13回を1人で投げ抜き(※試合には惜敗)、

六大学でも、シーズン133回2/3を投げるという「鉄腕」ぶりを見せた(※シールズ戦での完投が祟り、翌々日の明治との試合に敗れ、法政は惜しくも戦後2度目のリーグ優勝は逃してしまった)。

まさに、関根潤三は法政野球部史上に残る「レジェンド」となったのである。

 

<1950(昭和25)年…関根潤三、新球団「近鉄パールス」に、藤田省三監督に誘いにより、入団、プロ入りを果たす!!>

 

 

1950(昭和25)年、プロ野球は2リーグに「分裂」したが、

その「分裂」したプロ野球のパ・リーグの新球団の1つ、「近鉄パールス」の初代監督として、

法政の監督を務めていた藤田省三が就任した。

近鉄の初代監督となった藤田は、法政時代の教え子や、六大学で活躍した選手達に声を掛け、チームを編成した。

 

 

その中には、当然、関根潤三も含まれていた。

「おい関根、お前も近鉄に来い」と、藤田監督に言われた関根は、

例によって例の如く、直立不動で「ハイ!!」と返事をするしか無かった。

こうして、関根は新球団「近鉄パールズ」で、プロ入りを果たしたのであった。

 

<関根潤三、プロ1年目に肩を痛め、不振に終わるも、そこから一念発起し、近鉄のエースとして活躍!!~1953(昭和28)年、投手として、オールスターに選出>

 

 

関根潤三は、元来、ちょっといい加減な性格であり、

プロ野球に入ってからも、「野球は遊び半分で、ナメている所があった」と、関根自身は振り返っている。

そのせいか、関根はプロ2試合目の登板で肩を痛めてしまい、以後、本来の投球が出来なくなってしまった。

そして、関根のプロ1年目は4勝12敗 防御率5.47という惨憺たる成績に終わってしまい、近鉄もダントツ最下位と、散々な結果であった。

 

 

 

「このままでは、イカン」と、流石に関根も目の色を変えて、野球に取り組むようになったが、

プロ2年目(1951年)は7勝11敗 防御率3.43、プロ3年目(1952年)は5勝16敗 防御率3.52という結果であった。

防御率は向上したが、当時の近鉄は、如何せん、打線も貧弱であり、好投すれども、なかなか援護が無かったのである。

なお、1952(昭和27)年には、関根から2年遅れで、根本陸夫も近鉄に入団し、関根と根本は、またまたバッテリーを組んだ。

 

 

1953(昭和28)年、関根潤三は、シーズンでは10勝15敗 防御率3.16と、負け越してしまったが、

当時のファンは、関根の力投を評価し、同年(1953年)、関根は遂にファン投票で選出され、

投手として、初のオールスター出場を果たした。

だが、近鉄は4年連続最下位と低迷し、その責任を取って、藤田監督は近鉄の監督を辞任した。

 

 

その後も、関根は投手として活躍を続け、

1954(昭和29)年には、キャリアハイとなる、16勝12敗 防御率2.44、1955(昭和30)年には14勝16敗 防御率3.54、1956(昭和31)年には9勝11敗 防御率2.94という結果を残し、関根は近鉄の「エース」として君臨した。

しかし、関根は徐々に、投手としての自らの能力に限界を感じるようになっていた。

 

<1957(昭和32)年…関根潤三、投手を「廃業」し、打者に「転向」!!~投手として、通算65勝94敗 防御率3.43の成績を残す>

 

 

1957(昭和32)年のシーズン中、関根は、盟友・根本陸夫に、

「俺、投手は辞めるよ。バッターに転向するよ」と告げた。

根本は特に反対はしなかったというが、投手としての限界を感じていた関根の意思を尊重していたという事であろう。

関根は、当時の近鉄監督・芥田武夫にも、投手「廃業」を申し出ると、当初、難色を示されたが、

「クリーンアップ並みに打てたら、認めても良い」という「条件」を出された。

 

 

すると、関根は、野手として出場した初戦で、1本塁打を含む3安打、次の試合で2安打、3試合目では3安打と大活躍した。

こうして、首脳陣に、打者としての適性を認められた関根は、正式に打者へと「転向」したのである。

 

 

なお、関根潤三の、投手としての成績は、通算65勝94敗 防御率3.43というものであったが、

関根は「プロに入ってすぐ、肩を壊しちゃって、そこからは、ずっと誤魔化しのピッチングだった。投手・関根は、プロ1年目で終わっていたんだよ」と、語っている。

ともあれ、関根は投手を「廃業」し、打者・関根が誕生した。

 

<打者に転向した関根潤三…クリーンアップとして大活躍し、打者としてもオールスター出場を果たす!!>

 

 

さて、晴れて打者に「転向」した関根潤三は、その初年度となる1957(昭和32)年、打率.284 6本塁打 39打点の成績を残すと、以後、近鉄打線の中軸に座り、打者としても大活躍した。

 

 

1959(昭和34)年、近鉄の新監督に、巨人での現役時代に「猛牛」と称された千葉茂が就任したが、

それを機に、近鉄パールスは、球団名を「近鉄バファロー」へと改称した(※1962(昭和37)年以降は「近鉄バファローズ」)。

関根は、球団名は変わっても、相変わらず近鉄の主軸打者として活躍を続けた。

 

 

関根は、1959(昭和34)年、打率.291 5本塁打 38打点、リーグ最多の9三塁打という好成績を残したが、

その9本の三塁打の中には、稲尾和久(西鉄)の、対同一カード最多連勝記録を「22」でストップさせる、

貴重なサヨナラ三塁打となる一打も有った。

同年(1959年)、関根は監督推薦でオールスター出場を果たし、史上初めて、投手と打者の両方で、オールスター出場を果たす事となった。

 

 

1963(昭和38)年、関根潤三は、打者として初めて、オールスターにファン投票で選出されたが、

これにより、関根は「プロ野球史上初めて、投手と打者の両方で、ファン投票でオールスターに選ばれた選手」となったが、

これは、後に大谷翔平(日本ハム)が達成するまで、長らく、史上唯一の記録であった。

なお、関根は、この時も含め、投手として1度、打者として4度、計5度もオールスターに出場を果たした、超一流選手である。

 

 

そして、関根は、打撃ベスト10入りを5度も果たすという、好打者ぶりを発揮したが、

とにかく、野球センスが抜群だったのは間違いない。

というわけで、関根潤三が本格的に打者に転向した1957(昭和32)年以降の打撃成績は、下記の通りである。

 

1957(昭和32)年 125試合 429打数122安打 打率.291 6本塁打 39打点 

1958(昭和33)年 59試合 213打数54安打 打率.254 1本塁打 17打点

1959(昭和34)年 116試合 412打数120安打 打率.291 5本塁打 38打点 ☆

1960(昭和35)年 112試合 390打数110安打 打率.282 2本塁打 32打点 ☆

1961(昭和36)年 128試合 435打数123安打 打率.283 9本塁打 49打点

1962(昭和37)年 126試合 465打数144安打 打率.310 9本塁打 49打点 ☆

1963(昭和38)年 144試合 506打数150安打 打率.296 12本塁打 66打点 ☆

1964(昭和39)年 122試合 357打数81安打 打率.227 5本塁打 25打点

(☆=オールスター出場)

 

ご覧の通り、関根は本塁打数こそ多くはないが、

シュアなバッティングで、毎年、確実に100安打以上を打ち、チャンスに強い打撃を発揮する、うるさいバッターだった事がわかる。

長打が少なく、「ピストル打線」と称された、当時の近鉄の中では、関根は貴重なポイントゲッターであった。

 

<1965(昭和40)年…関根潤三、巨人に移籍!!~長嶋茂雄と出会い、「無二の親友」に>

 

 

1965(昭和40)年、関根潤三は、巨人・川上哲治監督に乞われ、トレードで巨人に移籍した。

関根は、選手としては衰えを見せていたとはいえ、ベテランの関根に、若手の見本となる事を期待していたようである。

 

 

というのも、この年(1965年)、巨人は国鉄スワローズの大エース、金田正一も獲得しており、

川上監督は、他球団で実績の有るベテランを獲得する事で、戦力的には勿論、彼らに、生きた教材となる事を期待していた。

関根も、近鉄に入ってからは、ずっと関西暮しだったが、久方ぶりに東京に帰って来て、心機一転といった心境であった。

 

 

 

 

関根潤三は、この年(1965年)、成績こそ、90試合 199打数48安打 3本塁打 20打点に終わったが、

ベテランらしい渋いバッティングで、しばしば勝利に貢献する一打を放ち、川上巨人V9の1年目の「V1」に、大きく貢献した。

そして、関根が感激した事は、巨人の選手達は、関根の入団に際して、事前に関根の事を「お父さん」と呼ぶ事を示し合わせており、

関根が、巨人に溶け込みやすいよう、気遣ってくれていた事だったという。

 

 

関根は、巨人に移籍した事により、長嶋茂雄と出会ったが、

関根と長嶋は、妙に馬が合い、以後、2人は「無二の親友」となった。

長嶋は、関根の事を「おっさん」と呼び、関根は長嶋を「ミスター」と呼んだが、

その間柄は、終生変わらなかった。

 

<関根潤三、1965(昭和40)年限りで、遂に現役引退…「投手で通算65勝94敗」、「打者で通算1137安打」を記録した、「元祖・投打二刀流」~半世紀後に登場した、大谷翔平の先駆けに>

 

 

 

そして、関根潤三は、1965(昭和40)年限りで、遂に現役引退し、グラウンドに別れを告げた。

関根潤三は、「投手として通算65勝94敗」(※244試合 1345回1/3  65勝94敗 防御率3.43)、「打者として通算1137安打」(※1417試合 4078打数1137安打 打率.279 59本塁打 424打点)と、堂々たる通算成績を残し、「投打二刀流」として、球史に名を残した。

 

 

 

関根潤三の現役引退から半世紀後、大谷翔平(日本ハム)という天才選手が現れ、

「投打二刀流」として、球界を沸かせているが、大谷が活躍するにつれて、

「投打二刀流」の大先達、関根潤三の存在も、クローズアップされるようになって行った。

「元祖・投打二刀流」関根潤三は、法政が生んだ、まさに偉大なる球界のレジェンドだったのである。

 

(「関根潤三伝」(後編)に、つづく)