主演映画で綴るオードリー・ヘップバーンの生涯①…『ローマの休日』『麗しのサブリナ』『戦争と平和』 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

私は、オードリー・ヘップバーンという女優の大ファンである。

私は、ある時、オードリー・ヘップバーンの魅力にドップリとハマってしまい、

オードリーの主演映画は、ほぼ全て見てしまった。

そして、見れば見るだけ、ますます彼女の魅力の虜になってしまったのである。

 

 

ちなみに、オードリーの映画は、どれも大変面白く、

私は「オードリー映画に、(基本的には)ハズレ無し!!」という結論を得た。

なお、冒頭で「オードリーの映画を、ほぼ全て」と書いたが、あくまでも「全て」ではなく「ほぼ」なので、

必ずしも全部見たわけではないが、主だった映画は殆んど見たと、申し上げておきたい。

というわけで、今回はそんなオードリー・ヘップバーンの映画について、ご紹介して行きたいと思う。

まずは、実質的なデビュー作『ローマの休日』、主演第2作『麗しのサブリナ』、超大作『戦争と平和』の初期3部作について、描いてみる事としたい。

(※なお、彼女の表記を「オードリー・ヘプバーン」と記す場合も有るが、この記事では「オードリー・ヘップバーン」として、話を進める)

 

<オードリー・ヘップバーンの生い立ち…1929年5月4日、オランダ貴族の末裔として生まれ、戦争を辛くも生き延びる~同い年(1929年)のアンネ・フランクと明暗が分かれる>

 

 

 

オードリー・ヘップバーン(Audrey Hepburn)は、1929年5月4日、ベルギーの首都・ブリュッセルに生まれた。

オードリー・ヘップバーンの父親、ジョゼフ・ヴィクター・アンソニー・ラストン(1899~1980)は、ハンガリー帝国のボヘミア出身で、

母親のエラ・ファン・ヘームストラ(1900~1984)は、オランダ貴族の末裔であったが、

母親のエラが、夫のジョゼフの祖先に、第4代ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンという人物が居た事を、家系図から「発見」し、

以後、姓を「ヘップバーン=ラストン」と名乗るようになった。

従って、オードリーの戸籍上の本名は「オードリー・ヘップバーン=ラストン」である。

 

 

オードリーの幼少期に、ドイツでアドルフ・ヒトラーナチスが台頭し、

危険を感じた、オードリーの母親はオランダへ「疎開」したが、これが裏目に出て、後にオランダはナチス・ドイツに占領され、

オードリーの一家は辛酸を嘗めた。

なお、オードリーの父親は、ナチスのスパイとなり、エラとオードリーの母子とは離別してしまった。

その後、戦争が激しくなり、エラとオードリーは息を潜めて隠れ住んでいた。

1945年の終戦時、オードリーは栄養失調で餓死寸前だったが、あわやという所で戦争が終わり、辛くも生き延びた。

 

 

なお、オードリーと似たような境遇だった、オードリーと同い年(1929年)のアンネ・フランクは、ナチスに捕まり、強制収容所で命を落としているが、この時のオードリーは、その事を知る由も無かった。

オードリー・ヘップバーンとアンネ・フランクの明暗を分けたのは、まさに「紙一重」の差だったと言って良い。

 

<バレリーナを目指し奮闘する、オードリー・ヘップバーン~母子で英国へ渡り、成功を目指す~5ヶ国語を話す、驚異の語学力を身に着ける!!>

 

 

オードリー・ヘップバーンは、幼い頃からバレエに打ち込み、バレリーナになる事を夢見ていた。

戦争が激しくなり、一時、バレエのレッスンは中断していたが、戦争が終わり(※当時16歳)、オードリーは再び、バレリーナを目指し奮闘した。

なお、オードリーはベルギーに生まれ、以後、オランダや英国など、各地を行ったり来たりしていたので、その都度、その国の言葉を覚え直さなければならなかった。

そのため、オードリーは何と、英語、フランス語、オランダ語 、イタリア語、スペイン語の5ヶ国語がペラペラになった。

しかし、オードリー曰く「私には、母国語がありません」と、述懐している。

そのような状況であったが、戦後のエラとオードリーの母子は、英国に腰を据え、オードリーはバレリーナになる事を目指し、レッスンに励んだ。

 

<オードリー・ヘップバーンの端役時代①(1948~1951年)~バレリーナの夢破れるも…端役として、いくつかの映画に出演!!~後に、ブレイク前のオードリーの「お宝映像」として「伝説」に>

 

 

 

しかし、残念ながら、オードリーのバレリーナへの夢は破れてしまった。

理由は、オードリーはバレリーナになるにしては、背が高すぎたからである。

失意のオードリーだったが、食べて行くためには、お金を稼がなければならない。

そこで、オードリーは舞台に出演するなどして、生活費を稼ぐようになったが、

やがて端役として、いくつかの映画に出演するようになった。

1948年、まずオードリーは『オランダの七つの教訓』(原題:Nederlands in Zeven Lessen)なる映画に、スチュワーデス役で出演した。

なお、端役時代のオードリーが出演していた映画として、後年、これらの映画は、遡って「伝説化」し、「お宝映像」となっているが、

あくまでもオードリーはチョイ役なので、あまり出番は多くはない。

 

 

 

1951年、オードリーは『若気の至り』(原題:One Wild Oat)という映画に、ホテルの受付嬢役で出演した。

この時、オードリーの出番は、検閲で大部分がカットされたというが、オードリーが電話で話す相手の男(スタンリー・ホロウェイ)とは、

後年(1964年)、『マイ・フェア・レディ』で、父娘役として共演している。

 

 

 

 

 

1951年、オードリーは『大いなる遺産』(原題:Laughter in Paradise)という映画に、

煙草売りの娘・フリーダの役で出演した。

ほんのチョイ役とはいえ、オードリーは煙草売りの役が大変似合っており、可愛いのであるが、

この頃は、まだ無名の駆け出し女優に過ぎない。

しかし、後年、オードリーは大スターになったので、『オードリー・ヘップバーンの大いなる遺産』というタイトルで、

まるでオードリーが主役であるかのようなタイトルで、DVD化されている。

なお、この映画に出演したヒュー・グリフィスとは、後年(1966年)、オードリーは『おしゃれ泥棒』で、父娘役として共演した。

 

 

 

1951年に公開された『ラベンダー・ヒル・モブ』(原題:The Lavender Hill Mob)は、

名優アレック・ギネスとスタンリー・ホロウェイが共演した、ヒッチコック映画ばりのサスペンスであるが、

オードリーは、通りすがりの美女(?)というような、ほんのチョイ役である。

しかし、ご覧の通り、オードリーは流石のオーラを見せており、いよいよブレイクは近いという予感を感じさせる。

 

 

 

 

1951年の『若妻物語』(原題:Young Wives' Tale)では、オードリーはキャストの7番目にクレジットされ、

主要キャストの1人として出演し、オードリーは出番は多くはないながらも、ボディコンシャスなスーツを着こなし、確かな存在感を示した。

なお、この映画も、後年『オードリー・ヘップバーンの若妻物語』として、DVD化された。

 

<オードリー・ヘップバーンの端役時代②(1952年)~『初恋』『モンテカルロへ行こう』で、存在感を示したオードリーが、いよいよブレイク前夜を迎える!!>

 

 

 

 

 

1952年は、オードリー・ヘップバーンの女優人生にとって、重要な年となった。

この年(1952年)に出演した映画によって、オードリーは映画関係者に注目され、飛躍の足掛かりを掴んだからである。

まず、オードリーは『初恋』(原題:The Secret People)という映画に出演し、

主役の妹という、準主役のポジションを演じたが、劇中でオードリーは、得意のバレエを披露し、画面に華を添えている。

かつて、バレリーナを目指して猛練習を続けた事が、ここで生きた形である。

なお、この映画も、後年『オードリー・ヘップバーンの初恋』として、DVD化された。

 

 

 

 

 

同年(1952年)に公開された、『モンテカルロへ行こう』(原題:Nous irons à Monte Carlo(フランス語版)、Monte Carlo Baby(英語版))は、

オードリーの出番は多くはないながらも、オードリーの魅力全開といった内容である。

オードリーは、ワガママで自意識過剰なスター女優という役どころであるが、ブロンドのカツラを着けたり、

ご覧のように、あのヘップバーン・カットがよく似合う出で立ちで現れたりと、オードリーが出てくるだけで、画面が華やいでいる。

そして、この映画の撮影で訪れていた、フランスのモンテカルロで、オードリーの女優人生を変える、大きな出会いが有った。

なお、この映画も、例によって『オードリー・ヘップバーンのモンテカルロへ行こう』というタイトルで、DVD化されている(※もはや、お馴染みの手法である)。

 

<『ジジ』(1953年)…オードリー・ヘップバーン、遂に大ブレイク!!~コレット女史が原作の舞台(ブロードウェイ)の主演女優に大抜擢>

 

 

1952年、オードリーが前述の映画撮影のために滞在していたモンテカルロに、

フランス人の女流作家、シドニー・ガブリエル・コレットも、たまたま訪れていた。

コレット女史は、自らが原作の、ブロードウェイに舞台『ジジ』(原題:Gigi)の主演女優を探していたのだが、

ある日、滞在先のホテルで、偶然オードリーを見かけたコレットは、こう叫んだ。

「私の『ジジ』を見付けたわ!!」

あまりにも有名なエピソードであるが、コレットは一目でオードリーを気に入り、

まだ、無名に過ぎなかったオードリー・ヘップバーンを、『ジジ』の主役に抜擢する事を、即座に決めてしまった。

 

 

 

 

こうして、オードリーは、ブロードウェイの舞台『ジジ』の主役を務め、

大役を果たしたオードリー・ヘップバーンの名前は、一躍、有名になった。

そして、『ジジ』に主演したのと、ほぼ同時期、オードリーは更に大飛躍するチャンスを掴む事となった。

 

<『ローマの休日』(1953年)…「妖精」オードリー・ヘップバーン、『ローマの休日』に主演し、世界中にその名を轟かせる!!~オードリー、衝撃の「デビュー」>

 

 

 

 

 

オードリーが『ジジ』に主演し、飛躍の足掛かりを掴んでいた頃、

アメリカのハリウッドでも、オードリーに対する注目が高まっていた。

そして、ハリウッドの大監督、ウィリアム・ワイラーにより、

オードリー・ヘップバーンに対し、次回作への出演のオファーが舞い込んだ。

オードリーは、その映画のスクリーンテストに臨むと、自然に人を惹き付けてしまうような笑顔と、

まるで王族のような、気品溢れる佇まいが、忽ち、ウィリアム・ワイラーを魅了してしまった。

こうして、オードリーは、この映画に主演で抜擢される事が決まった。

この映画こそ、当時24歳だったオードリー・ヘップバーンの名声を不動のものとした、『ローマの休日』(1953年・原題:Roman Holiday)である。

 

 

 

 

『ローマの休日』で、オードリー・ヘップバーンが演じているのは、ヨーロッパの某国のアン王女である。

アン王女は、ヨーロッパ歴訪の真っ最中で、その内の国の1つ、イタリアの首都ローマを訪れるという所から、物語が始まるが、

オードリーは、どう見ても本物の王女様にしか見えず、本当に気品が有る。

『ローマの休日』は、オードリーが主演だからこそ、あのような「名作」になったと言わしめるような、物凄い存在感が有る。

 

 

 

オードリーが演じるアン王女の相手役は、グレゴリー・ペックである。

『ローマの休日』でのグレゴリー・ペックは、新聞記者の役であるが、ある時、公務の連続に嫌気が差したアン王女が、コッソリと滞在先の邸を抜け出し、外の世界に出た後、ひょんな事から、グレゴリー・ペックと出会い、束の間の「休日」を楽しむというのが、『ローマの休日』の物語である。

私は、この『ローマの休日』を初めて見た時から、オードリー・ヘップバーンに完全に魅了されてしまった。

そして、『ローマの休日』は、魅力溢れる、本当に素晴らしい名作中の名作であり、私も大好きである。

というわけで、『ローマの休日』については、また改めて、別の機会で詳しく述べる事としたい。

 

 

ともあれ、『ローマの休日』は、女優オードリー・ヘップバーンの実質的な「デビュー作」であり、

巨匠ウィリアム・ワイラーによって、オードリーの魅力が画面いっぱいに溢れる『ローマの休日』は、世界中で大ヒットし、日本でも「ヘップバーン・カット」が大流行するなど、オードリーは「妖精」と称され、一躍「時の人」となった。

オードリーは、『ローマの休日』で「世界の恋人」となったのである。

 

<『麗しのサブリナ』(1953年)…オードリーの主演第2作、ハンフリー・ボガートとウィリアム・ホールデンという大金持ちの兄弟を魅了するサブリナ役で、またまた大ヒット!!~オードリー、ジバンシーと出会い、あの「サブリナパンツ」を生み出す!!>

 

 

『ローマの休日』の大ヒットを受け、『ローマの休日』を製作したパラマウントは、

直ちに、オードリーの主演第2作を企画・製作した。

それが、ビリー・ワイルダー監督作品の『麗しのサブリナ』(1953年・原題:Sabrina)である。

 

 

 

『麗しのサブリナ』で、オードリーが演じるのは、

大富豪のララビー家で、フェアチャイルドという運転手の娘、サブリナ・フェアチャイルドである。

サブリナは、最初、ララビー家の次男で、プレイボーイのウィリアム・ホールデンに片思いをしているが、

「イモ娘」といった感じで、彼には見向きもされないでいる(※とは言っても、ご覧の通り、メチャクチャ可愛いのであるが)。

そして、叶わぬ片思いに絶望したサブリナは、車庫でガス自殺を試みるが、危ない所を、ララビー家の長男、ハンフリー・ボガートに助けられる。

 

 

 

その後、失恋(?)の痛手を癒すため、パリに行ったサブリナは、

パリで自分を磨き、暫く経った後、ビックリするぐらい素敵なレディに「変身」して、ララビー家に帰って来るのである。

なお、パリに行って以降のサブリナ(オードリー)の衣装を手掛けたのが、当時、まだ無名だった新進デザイナーの、ユベール・ド・ジバンシーであるが、ジバンシーとオードリーは、以後、終生の親友同士となった。

 

 

 

さて、見違えるような素敵なレディになって帰って来たサブリナを見て、

遊び人の次男、ウィリアム・ホールデンも、忽ち、サブリナにメロメロになってしまった。

やっと、自分の思いが叶い、サブリナも夢心地となるが、やがて、次男の方よりも、

実直でカタブツの長男、ハンフリー・ボガートの方に惹かれて行く…というようなストーリーであるが、

大金持ちの兄弟を魅了するサブリナという役も、オードリーにはピッタリであった。

 

 

なお、『麗しのサブリナ』で特筆すべきは、ある場面でオードリーが披露した衣装が、

「サブリナパンツ」として注目され、以後、世界中で大ヒットしたという事である。

オードリーは、時代の先端を行くファッションリーダーでもあった。

というわけで、『ローマの休日』に続き、『麗しのサブリナ』も大ヒットさせたオードリーの名は、いよいよ高まった。

ちなみに、『麗しのサブリナ』で共演したウィリアム・ホールデンとオードリーは、一時、熱愛関係にあったが、

2人の結婚観の違いもあって、残念ながら破局してしまうという出来事もあった。

 

<『オンディーヌ』(1954年)…オードリー・ヘップバーンとメル・ファーラーが共演した舞台~公演中に、オードリーは『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を受賞!!>

 

 

 

 

1954年、オードリー・ヘップバーンは、『オンディーヌ』(原題:Ondine)という舞台に主演した。

この舞台で、オードリーはメル・ファーラーという俳優と共演したが、実はオードリーは前々から、メル・ファーラーの大ファンであり、

オードリーにとって、憧れの人であった。

そして、前述の通り、ウィリアム・ホールデンと破局し、傷心のオードリーは、今度はメル・ファーラーと急接近し、2人は恋人同士となった後、『オンディーヌ』での共演後に電撃結婚した。

なお、『オンディーヌ』では、オードリーは「水の精」を演じているが、流石は「妖精」オードリーの面目躍如と言えよう。

 

 

この『オンディーヌ』の公演中、オードリー・ヘップバーンは、『ローマの休日』で、見事にアカデミー主演女優賞の栄冠を手にした。

そして、『オンディーヌ』の衣装のまま、授賞式に臨んだオードリーは、栄光のオスカー像を手にしている。

 

<『戦争と平和』(1956年)…トルストイ原作の超大作で、主役のナターシャを演じ、ヘンリー・フォンダ、メル・ファーラーと共演!!~オードリー初のカラー作品>

 

 

 

 

1956年、オードリー・ヘップバーンは、ロシアの文豪トルストイが原作の超大作『戦争と平和』(原題:War and Peace)に、

主役のナターシャ役で出演したが、オードリーは、この超大作でも堂々たる主役ぶりであり、

多数のキャストを束ねる「座長」のような佇まいで、女優としての貫禄を示した。

 

 

 

 

『戦争と平和』は、波乱万丈の物語であるが、主要キャストのナターシャ役をオードリー・ヘップバーン、

ナターシャが思いを寄せるアンドレイ・ボルコンスキー公爵役を、オードリーの「リアル夫」メル・ファーラー、

そして、ナターシャの幼馴染で、ナターシャに思いを寄せる青年ピエール役をヘンリー・フォンダが、それぞれ演じている。

なお、『ローマの休日』『麗しのサブリナ』はモノクロだったが、『戦争と平和』は、オードリー初のカラー作品となった。

言うまでもなく、オードリーはモノクロで見ても可愛いが、カラーで見ると、更に可愛いのである。

という事で、超大作の主役を務めたオードリーは、この後、更に大女優への道を歩んで行く事となる。

 

(つづく)