【今日は何の日?】1970/11/25 三島由紀夫、割腹自殺 ~天才作家・三島由紀夫の生涯~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(11/25)は、今から49年前、作家・三島由紀夫が、衝撃的な割腹自殺を遂げた日である。

1970(昭和45)年11月25日、三島由紀夫は、自らが組織した「縦の会」の会員達と、

自衛隊の市ヶ谷駐屯地に乗り込み、益田兼利総監を人質に取った。

そして、三島は「憲法改正」を訴える演説をした後、それが自衛隊の隊員達に受け入れられない事を見て取ると、その後、割腹自殺をしてしまった。

 

 

というわけで、今回は、この衝撃的な「三島事件」と、

天才作家として活躍した、三島由紀夫の生涯について、ご紹介させて頂く事としたい。

 

<平岡公威(後の三島由紀夫)の生い立ち…1925(大正14年)1月14日、代々の官僚の家系に生まれる>

 

 

平岡公威(ひらおか・きみたけ)、後の三島由紀夫は、1925(大正14)年1月14日、

東京都四谷区(現・新宿区)で、父・平岡梓(当時・30歳)、母・倭文重(しずえ・当時19歳)夫妻の長男として生まれた。

公威は、幼少期には祖母・夏子に溺愛されて育てられたが、夏子は倭文重から公威少年を取り上げるようにして、

専ら、自分の側に置いていたという(※上の写真は、幼少期の公威と、祖母・夏子)

 

 

 

 

公威の祖父にあたる、平岡定太郎(1863~1942)は、東京帝国大学(東大)を経て、福島県知事、樺太町長官などを歴任した、エリート官僚であり、士族・永井岩之丞の娘・夏子(1876~1939)と結婚した。

そして、1894(明治27)年には、長男・が誕生した。

 

 

平岡梓(1894~1976)は、父・定太郎と同じく、東京帝国大学(東大)を経て、農商務省に勤務したという、エリート官僚の道を歩み、

開成中学校校長・橋健三の娘・倭文重(1905~1987)と結婚した。

そして、前述の通り、1925(大正14)年1月14日に、夫妻の間に長男・公威が誕生した。

公威は、このようにエリート官僚の家系に生まれたのであった。

 

<「昭和の元号=三島由紀夫の年齢」~昭和の申し子・三島由紀夫>

 

 

ところで、平岡公威(三島由紀夫)は、1925(大正14)年1月14日生まれであるが、

翌1926年、「大正」という元号が終わり、「昭和」が始まった事により、

偶然にも、「昭和」という元号の年と、年齢が一致するという事となった。

例えば、1926(昭和元年)には「1歳」、1930(昭和5)年には「5歳」というのが、彼の年齢である。

そう考えると、三島由紀夫は、まさに「昭和の申し子」と言っても良いであろう。

(なお、公威が生まれた3年後に妹・美津子、5年後に弟・千之が誕生している)

 

<天才少年・平岡公威…幼い頃から、天才的な文才を発揮した三島由紀夫(学習院初等科時代)>

 

 

公威は、学習院初等科に入ったが、流石は東大卒のエリート官僚の家系に生まれただけあって、

幼い頃から、抜群に勉強が得意な、大変賢い少年であった。

そして、この学習院初等科時代から、作文では大人顔負けの、物凄く上手い文章を書き、先生や級友を驚かせた。

後の天才作家・三島由紀夫の片鱗は、早くもこの頃から見えていたという事であろう。

 

例えば、公威が8歳の時に書いた詩『冬の夜』は、下記の通りである。

 

火鉢のそばで猫が眠つてゐる。
電灯が一室をすみからすみまでてらしてゐる。
けいおう病院から犬の吠えるのがよくきこえる。
おぢいさまが、
「けふはどうも寒くてならんわ」
とおつしやつた。
冬至の空はすみのやうにくろい。
今は七時だといふのにこんなにくらい。
弟が、
「こんなに暗らくつちやつまんないや」
といつた。

 

そして、これは公威が9歳の時に書いた、『大内先生を想ふ』という作文である。

 

ヂリヂリとベルがなつた。今度は図画の時間だ。しかし今日の大内先生のお顔が元気がなくて青い。
どうなさッたのか?とみんなは心配してゐた。おこゑも低い。僕は、変だ変だと思つてゐた。
その次の図画の時間は大内先生はお休みになつた。御病気だといふことだ。ぼくは早くお治りになればいゝと思つた。
まつてゐた、たのしい夏休みがきた。けれどそれは之までの中で一番悲しい夏休みであつた。
七月二十六日お母さまは僕に黒わくのついたはがきを見せて下さつた。それには大内先生のお亡くなりになつた事が書いてあつた。
むねをつかれる思ひで午後三時御焼香にいつた。さうごんな香りがする。
そして正面には大内先生のがくがあり、それに黒いリボンがかけてあつた。
あゝ大内先生はもう此の世に亡いのだ。
僕のむねをそれはそれは大きな考へることのできない大きな悲しみがついてゐるやうに思はれた。

 

いかがであろうか?

これが、本当に8歳や9歳の少年が書く文章であろうか。

全く、三島由紀夫とは子供の頃から、正真正銘の天才であった。

 

<1936(昭和11)年2月26日…「二・二六事件」が勃発~後の三島由紀夫に大きな影響を与えた大事件>

 

 

 

1936(昭和11)年2月26日、陸軍青年将校らが蜂起し、東京を占拠するという、クーデター事件、

所謂「二・二六事件」が勃発した。

蜂起した部隊は、数日後に全て鎮圧されたが、「二・二六事件」は、当時11歳の公威に強烈なインパクトを与え、

後の三島にも、思想的に大きな影響を与えた。

 

<平岡公威、13歳で初の短編小説『酸模(すかんぽ)-秋彦の幼き思い出』を発表~作家・三島由紀夫の原点>

 

 

1938(昭和13)年1月頃、学習院中等科1年の公威は、

当時13歳にして、初の短編小説『酸模(すかんぽ)-秋彦の幼き思い出』を発表した。

以後、公威は、文学を志す仲間達と共に、精力的に文学活動を行ない、同人誌に作品を次々に発表して行った。

というわけで、この作品こそ、作家・三島由紀夫の原点であると言って良い。

 

<1941(昭和16)年…学習院中等科の教師・清水文雄の勧めにより、筆名「三島由紀夫」を名乗り、『花ざかりの森』で作家デビュー!!~1944(昭和19)年、『花ざかりの森』を自費出版>

 

 

 

1941(昭和16)年7月頃、公威は小説『花ざかりの森』を書き上げ、

学習院中等科の国語教師・清水文雄に献上し、読んでもらったところ、

清水文雄は、『花ざかりの森』の、あまりの素晴らしさに衝撃を受けた。

そして、自らが参加する文芸雑誌「文藝文化」に、『文藝文化』を掲載したところ、

『花ざかりの森』は、読者から大絶賛を受けた。

 

 

しかし、公威の父・梓は、公威の作家活動には猛反対していた。

そこで、清水先生は、公威が本名で作品を発表しては、色々と差し障りが有るという事を慮り、

公威に「三島由紀夫」という筆名(ペンネーム)を名付けた。

「三島由紀夫」とは、静岡・三島から見える富士山の頂に、雪が積もっている情景をイメージしたものであり、

清水先生が、公威に対して、「日本一の作家を目指せ!!」という激励の意味を込めたものであった。

以後、公威は終生、「三島由紀夫」という筆名を名乗り続けた。

なお、『花ざかりの森』は、戦争が激化していた1944(昭和19)年、自費出版されたが、

これは、戦争のために、いつ死ぬかわからないので、「遺書」のつもりで出版されたとも言われている。

 

<1944(昭和19)年、三島由紀夫、学習院高等科を首席で卒業し、東大進学~1945(昭和20)年、終戦と、妹・平岡美津子の死去>

 

 

1944(昭和19)年、三島由紀夫は学習院高等科を首席で卒業し、

東京帝国大学(東大)法学部に進学した。

東大進学後、三島は徴兵検査に合格し、軍隊に入隊したが、幸いにも、三島は最前線に送られる事はなく、

1945(昭和20)年8月15日、日本は戦争に敗れ、終戦の時を迎えた。

三島は、言いようの無い虚脱感に襲われたが、終戦直後、1945(昭和20)年10月23日、

三島の3歳年下の妹・平岡美津子は、17歳の若さで、腸チフスのために亡くなった。

妹と大変仲が良かった三島は衝撃を受け、そして深い悲しみに沈んだ。

妹・美津子の早すぎる死は、三島の生涯にとって、忘れようにも忘れられない、痛恨事であった。

 

<1946(昭和21)年…三島由紀夫、川端康成の知遇を得て、『煙草』を発表~三島由紀夫と川端康成の「師弟関係」の始まり>

 

 

戦争が終わり、茫然自失としていた上、妹の死の悲しみも癒えない三島ではあったが、

東大での学業の傍ら、再び精力的に文学活動を再開した。

しかし、当時、三島は文壇では無名の存在であり、いくら作品を書いても、出版社に持ち込んではボツになるという繰り返しであった。

そんな時、戦前、三島の『花ざかりの森』を読み、三島に注目し、三島に手紙を送っていた川端康成を、三島は訪ねた。

三島は、藁にもすがる思いだったが、この時、三島が書いた『煙草』という短編を読んだ川端康成は、この作品を絶賛した。

そして、文芸誌「人間」に、『煙草』を掲載させるよう、川端が強力に働きかけ、『煙草』が無事掲載されると、各方面から大絶賛され、

三島は、漸く文壇での足掛かりを築く事が出来た。

 

 

このように、三島由紀夫にとって、川端康成はまさに「恩人」であり、

三島は生涯、川端の事を師として仰いでいた。

もし、川端が居なかったら、果たして三島が世に出ていたかどうかはわからず、

そういう意味でも、川端との出会いは、三島にとって、大きな分岐点だったと言って良い。

 

<1946(昭和21)年12月…太宰治VS三島由紀夫のバトルが勃発!!~太宰と三島、生涯ただ一度の出会いで、三島は太宰に「僕は貴方の文学は嫌いです」と言い放つ>

 

 

 

1946(昭和21)年、当時、大人気作家だった太宰治と、文壇デビューして間もない三島由紀夫は、

当時の編集者の計らいにより、出会いを果たした。

当時、太宰は取り巻き達と毎晩のように大酒を飲んでいたのだが、その酒席を三島が訪ねたのである。

 

 

ところが、三島は太宰に向かって、面と向かって、

「僕は、貴方の文学が嫌いなんです」と、言い放った。

あまりの物言いに、その場は凍り付き、太宰も「そんなに嫌いなら、来なけりゃいいじゃねえか」と、憮然として言った。

実は、三島は「自らの弱さを売りにするような」太宰の文学が、前々から嫌いであり、一言、言ってやりたいと、ずっと思っていたのであった。

 

 

 

なお、太宰と三島の「喧嘩」は、現在公開中の映画『人間失格 太宰治と3人の女たち』でも描かれているが、

この2年後(1948年)、太宰は愛人と心中してしまったため、太宰と三島の「出会い」は、この一度きりで終わってしまった。

しかし、文学史上の巨人同士が出会っていたという事は、非常に興味深い。

(※なお、太宰は芥川賞の選考委員だった川端により、芥川賞に選んでもらえず、川端を恨んでいたというのも、三島・川端の関係とは非常に対照的で、これまた面白い)

 

<1947(昭和22)年…三島由紀夫、東大を卒業~高等文官試験に合格し、大蔵省に入省~三島、官僚と作家の「二足の草鞋」を履く>

 

 

 

1947(昭和22)年、東大を優秀な成績で卒業した三島由紀夫は、高等文官試験に合格し、

同年(1947年)、大蔵省に入省し、祖父と父に続いて、東大卒業⇒官僚という、エリート官僚の道を歩み始めた。

しかし、三島は官僚になったとはいえ、文学の道を諦めたわけではなかった。

 

 

三島は、大蔵省に務める傍ら、執筆活動を続けた。

つまり、官僚と作家という「二足の草鞋」を履いた生活を続けたわけだが、

父・梓は、相変わらず三島の作家活動には反対であった。

しかし、三島は作家活動を辞めず、睡眠時間を削ってまで、作品を書き続けた。

そんな中、1948(昭和23)年夏、三島は駅のホームで睡魔に襲われ、線路に転落するという目に遭った。

幸い、電車は来ず、大事には至らなかったが、この事件により、父・梓も漸く三島の作家活動を認め、

「わかった、作家になる事を許してやる。そのかわり、日本一の作家になれ」と、言い渡した。

そして、三島は大蔵省を辞め、遂に作家専業で生きて行く事を決意した。

 

<1949(昭和24)年…三島由紀夫、『仮面の告白』を発表、大ベストセラーとなり、文壇の寵児となる!!>

 

 

1949(昭和24)年、作家一本でやって行く事を決意しら三島由紀夫は、

背水の陣のつもりで、長編小説を書き上げた。

それが、『仮面の告白』であるが、『仮面の告白』は、大ベストセラーとなり、文壇でも絶賛され、

三島由紀夫は、遂に不動の人気作家としての地位を確立したのであった。

 

<三島由紀夫、『潮騒』(1954年)、『金閣寺』(1956年)など、ベストセラーを続々発表!!~押しも押されもせぬ大作家に>

 

 

 

その後、三島由紀夫は『潮騒』(1954年)、『金閣寺』(1956年)など、

話題作、大ヒット作を次々に発表し、三島は押しも押されもせぬ大作家となって行った。

三島の、明晰な文体と、華麗な文章は、まさに余人を以て代え難いものであり、

まさに、三島由紀夫は文壇でも唯一無二の作家であり、常に話題の人であり続けた。

 

<三島由紀夫は同性愛者?~1951(昭和26)年、三島由紀夫と丸山明宏(美輪明宏)の出会い>

 

 

 

ところで、三島由紀夫は同性愛者であるとされ、実際、同性愛をテーマにした作品も発表しているが、

1951(昭和26)年、三島由紀夫は、美少年・丸山明宏(1935~、後の美輪明宏)と出会った。

三島と丸山明宏はすぐに意気投合し、生涯、親しく付き合ったが、二人の間にどのような感情が有ったのかは、よくわからない。

 

 

 

なお、三島は、江戸川乱歩が原作の『黒蜥蜴』を、丸山明宏のために、

戯曲として仕立て上げ、丸山明宏に提供しているが、

『黒蜥蜴』は、美輪明宏のライフワークとなっているのは、ご存知の通りである。

 

<1956(昭和31)年…三島由紀夫と石原慎太郎の出会い>

 

 

1956(昭和31)年、『太陽の季節』でデビューしたばかりの石原慎太郎と、三島由紀夫が対談を行なった。

最初は和やかだったものの、段々と話が合わなくなり、その内、三島は居合で石原を威嚇(?)しようとしたが、

三島が持って来て、エイヤっと振り上げた刀が、鴨居に当たってしまい、刃が欠けてしまったという。

石原慎太郎曰く、「あの人は、運動神経が無いからね」との事であった。

 

<1958(昭和33)年…三島由紀夫、日本画家・平岡寧の娘・平岡遥子と結婚~三島由紀夫は「両性愛者」だった?>

 

 

1958(昭和33)年、三島由紀夫は、お見合いで知り合った、日本画家・平岡寧の娘・平岡遥子(1937~1995)と結婚した。

三島と遥子の間には、長女・紀子、長男・威一郎が誕生し、三島夫妻は仲睦まじく暮らしたが、

三島はどうやら「両性愛者」だったと思われる。

 

<三島由紀夫とボディビル…三島、安部譲二との出会い(1955年頃)により「肉体改造」~後に、安部譲二をモデルに『複雑な彼』(1966年)を発表>

 

 

1955(昭和30)年頃、三島は行き着けのゲイバーで、用心棒をしていた安部譲二(1937~2019)と出会った。

安部譲二は、用心棒として、タチの悪い酔客を取り鎮めたりしていたが、

三島は、安部の腕前を見込んで、安部の紹介によりボクシングジムに通うようになった。

そして、ヒョロヒョロだった三島は、この出会いを機に、ボディビルで身体を鍛え、「肉体改造」を行なうようになった。

 

 

なお、三島は、1966(昭和41)年に、安部譲二をモデルとした小説『複雑な彼』を発表したが、

安部譲二は、後に『塀の中の懲りない面々』で作家デビュー、ベストセラー作家となった。

 

 

そして、三島の「肉体改造」は、見事に成功した。

三島は筋肉ムキムキになり、好んで、自らの肉体美をグラビア写真で発表したりしていたが、

何事も、とことんやり通す、三島らしいエピソードであると言えよう。

しかし、三島の「肉体改造」は、周囲の人を戸惑わせたという。

 

<1960(昭和35)年…三島由紀夫、映画『からっ風野郎』に主演!!~三島、若尾文子と共演し、ヤクザ役を熱演>

 

 

 

1960(昭和35)年、三島由紀夫は大映映画『からっ風野郎』に主演し、

若尾文子との共演で、ヤクザ役を熱演した。

当時、三島は大人気作家であったが、三島はもはや作家の枠を超え、時代を代表する大スターとなっていた。

 

<1968(昭和43)年…川端康成、ノーベル文学賞を受賞!!~三島も、師・川端の受賞を喜んだが…>

 

 

 

1968(昭和43)年、川端康成が、日本人初のノーベル文学賞を受賞した。

師・川端康成の受賞を、勿論、三島も大いに喜んだが、

三島も、ノーベル文学賞候補として、度々話題になっており、もしかしたら、三島としては、ちょっと複雑な心境だったかもしれない。

 

<1968(昭和43)年…三島由紀夫、私設軍隊「楯の会」を結成~しかし、世間の失笑を買う>

 

 

1968(昭和43)年、憂国の念を深くした三島由紀夫は、私設軍隊である「楯の会」を結成した。

三島なりに、日本という国を憂い、日本という国を愛するが故の行動であったが、

「楯の会」結成当時、世間の反応は冷ややかであり、「三島さん、一体どうしちゃったんだ」と、世間の失笑を買ってしまった。

しかし、この「楯の会」が、後に大事件を引き起こす事となった。

 

<1968(昭和43)年…三島由紀夫VS東大全共闘>

 

 

 

 

 

1968(昭和43)年といえば、学生運動の全盛期だったが、

同年(1968年)、三島は母校の東大を訪れ、東大全共闘との討論会に臨んだ。

三島と、東大全共闘との考え方の隔たりは大きかったが、

三島は彼らに対し「君達の思想は認めないが、その行動力は絶対に認めます」と言っている。

何も行動しない知識人よりも、行動する君達はずっと偉いと、三島は述べたのであった。

 

<1970(昭和45)年11月25日…三島由紀夫と「楯の会」、自衛隊市ヶ谷駐屯地で、総監を人質に取り、三島は割腹自殺>

 

 

 

そして、その2年後の1970(昭和45)年11月25日、冒頭で書いた通り、

三島は「楯の会」のメンバー達と、市ヶ谷駐屯地に乗り込み、総監を人質に取り、三島は「改憲」を訴える演説を行なった後、

三島は割腹自殺し、メンバーに介錯され、壮絶な死を遂げた。

三島由紀夫、享年45歳。

まさに、時代を駆け抜けた大作家の、あまりにも鮮烈な生涯は、数多くの作品と共に、今もなお、強烈な光を放っている。