【今日は何の日?】1988/10/23…阪急ブレーブス最後の日①~小林一三、宝塚と阪急球団を創設 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

ここ最近、私は「今日は何の日?」と題して、

プロ野球の球団の歴史にまつわる話を、立て続けに書いている。

そして、1988(昭和63)年に、南海ホークスという名門球団が「ダイエー」に「身売り」したという話や、

「10.19」という、後世に語り継がれるロッテ-近鉄の球史に残るダブルヘッダーについての話も書いた。

 

 

そして、その「今日は何の日?」で書いてきた、

プロ野球史の真打登場として、私が書いておきたいのが、阪急ブレーブスの歴史についてである。

阪急ブレーブスは、まさに球史に残る、素晴らしい球団であった。

 

<1988(昭和63)年10月19日…日本中が注目した「10.19」の最中に、阪急ブレーブスが、まさかの身売り発表!!>

 

 

「10.19」の、パ・リーグ優勝をかけた、ロッテ-近鉄のダブルヘッダーの死闘の最中、

阪急ブレーブスが、「オリエントリース」なる会社に「身売り」するという事が発表され、日本中が、アッと驚いた。

それまで、阪急ブレーブスが「身売り」するなどとは、全く噂にも上らなかったからである。

誰も想像もしていなかった、阪急ブレーブスの「身売り」は、本当に衝撃的であった。

何しろ、あの「大阪急」の球団が身売りするとは…と、誰もが驚いた。

 

<1988(昭和63)年当時…実は、「ブレーブス」と「宝塚歌劇団」のどちらかを手放さざるを得ない状況に追い込まれていた(?)、阪急グループ>

 

 

 

阪急グループといえば、阪急電鉄や阪急百貨店などと並び、

「宝塚歌劇団」「阪急ブレーブス」を、二つの柱として、娯楽産業でも名を馳せていた。

そして阪急は、映画の東宝という会社も持っており、まさに盤石の体制に見えていたのだが、

実は、1988(昭和63)年当時、阪急は「ブレーブス」か「宝塚歌劇団」の、どちらかを手放さざるを得ないほど、財政的に厳しかったという。

そして、阪急は熟慮の末、「宝塚」を残し、「ブレーブス」という球団を手放す決断をした。

その結果、水面下で「ブレーブス」の譲渡先を極秘に探し、「オリエントリース」に球団を売却する事とした。

 

<「宝塚を作った男」小林一三…1914(大正3)年、阪急電鉄の創設者・小林一三が「宝塚少女歌劇団」を作る!!>

 

 

 

私は、当ブログで、阪急電鉄の創立者・小林一三(こばやし・いちぞう)の生涯について、記事を書いているが(まだ連載中)、

その小林一三は、阪急電鉄の終点にあたる、宝塚の地に、客寄せの目的で、

1914(大正3)年に「宝塚少女歌劇団」を創設した。

これは、少女だけによる劇団という、画期的な存在であったが、「宝塚」は、阪急電鉄の単なる客寄せに留まらず、年々、成長して行き、やがて多くの人達の心を掴んで行った。

 

 

「宝塚」の創設は、元々、文学青年だった小林一三らしい発想であったが、

「宝塚」は、創設者たる小林一三の想像をも超えて、一大娯楽産業となり、

今日(2019年)もなお、根強い熱狂的なファンに支えられている。

まさに「宝塚」は、小林一三が生み出した「宝」であった。

 

<1936(昭和11)年…小林一三、ライバル・阪神電鉄のタイガースに対抗し、「阪急職業野球団」結成!!~アメリカ大リーグの球場を模した「西宮球場」も誕生!!~「無」から産業を作り出す天才・小林一三>

 

 

1934(昭和9)年12月、日本初のプロ野球チーム・東京巨人軍が誕生し(※読売新聞社が創設)、

翌1935(昭和10)年、阪急電鉄のライバルだった、阪神電鉄大阪タイガースという球団を誕生させると、

当時、アメリカ出張中だった小林一三は、大阪タイガース誕生の情報を聞き、

「我が阪急も、急ぎ、プロ野球チームを作れ!!」

という指令を出した。

こうして、1936(昭和11)年、小林一三の号令の下、結成されたのが、阪急職業野球団であった。

これが、今に続くオリックスバファローズの原型であるが、

巨人、阪神、中日と並んで、阪急⇒オリックスは、プロ野球結成時のオリジナルメンバーの一つである。

 

 

続いて、小林一三は、阪急球団の本拠地として、

アメリカ大リーグのスタジアムである、リグレー・フィールドを模した、

西宮球場という、立派なスタジアムを作り上げた。

これは、大阪タイガースの本拠地・甲子園球場に対抗して作られたものであったが、

西宮球場は、阪急電鉄に乗らないと行けない場所に有り、阪急電鉄の乗客に、ついでに野球の試合も見てもらおうという発想の下、作られた。

 

 

小林一三という男は、何も無い所に、自ら産業を興してしまうという、天才的な経営者であった。

では、小林一三の何がそんなに凄かったのかを、かいつまんで、ご紹介すると、

 

・何も無い、二束三文の土地を安く買い上げ、そこに鉄道を敷く⇒阪急電鉄の創設

 

・阪急電鉄の沿線に、住宅地を作り、サラリーマン向けに住宅を売り出す。そして、月賦払いで支払いをしてもらう⇒住宅ローンという制度の確立。毎月、決まった額が阪急の収入になる⇒住んでいる人は、勿論、阪急電鉄の乗降客なので、その鉄道の収入も入る(※郊外に家を持ち、都心に通うという、サラリーマンの生活様式を作り上げる)

 

・阪急電鉄の始発の大阪・梅田駅に、阪急百貨店を直結させ、買い物をしてもらう。

 

・何にも無い田舎だった、阪急電鉄の終点の「宝塚」に、客寄せのために「宝塚少女歌劇団」を創設⇒阪急電鉄に乗らないと行けない場所に、阪急による娯楽産業を作る。

 

…いかがであろうか。

まさに、何も無い「無」から「有」を生み出してしまう、小林一三マジックであるが、

これらのビジネスモデルは、後年、東急や西武、東武、小田急など、あらゆる私鉄会社が真似をしている。

そのようなビジネスモデルを、明治末期~大正初期に生み出してしまった小林一三は、天才であると言えよう。

阪急球団も、煎じ詰めれば、阪急電鉄の「客寄せ」の手段の一つだったと言える。

 

<初期の阪急球団…慶応OBの小林一三カラーを反映し、宮武三郎・山下実ら、慶応のスター選手を揃える!!>

 

 

小林一三は、かつて、福澤諭吉慶應義塾で学んでいた。

元々、金持ちのボンボンだった小林一三は、金持ちの子弟が多く通っていた慶応で、青春時代を過ごし、

そこで、文学で身を立てる事を夢見るような青年であった(※慶応を卒業後は、小林一三は三井銀行に就職し、そこで経済のイロハを学んだ)。

 

 

そして、初期の阪急球団には、

創設者の小林一三が慶応OBである事を反映してか、

東京六大学野球の慶応で活躍していた、宮武三郎・山下実らのスター選手を揃えた。

西宮球場は、所謂「山の手」にあり、そのような土地柄に相応しく、初期の阪急球団は慶応らしいスマートな野球を目指していたのであろうか。

それはともかく、小林一三の手により、1936(昭和11)年、阪急球団は産声を上げたのであった。

 

(つづく)