サザン史・外伝(特別編) ~桑田佳祐VS長渕剛⑤…1991~1993年「火種」~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

長渕剛は、1988(昭和63)年に主演したTBSドラマ『とんぼ』が高視聴率を獲得し、

ドラマの主題歌である『とんぼ』も大ヒットして、アーティストとしても俳優としても、その人気は絶頂に達していた。

一方、同年(1988年)にサザンオールスターズ『みんなのうた』で3年振りに活動再開し、

桑田佳祐は1990(平成2)年に映画『稲村ジェーン』で、映画監督に挑戦するなど、精力的な活動を続けていた。

 

 

この頃、長渕剛は、ドラマ『とんぼ』の劇中で、サザンの『みんなのうた』を唐突に批判したり、

1990(平成2)年に初出場した、NHK「紅白歌合戦」で、自分の持ち時間を大幅にオーバーし、他の出演者に迷惑をかけるなど、長渕の「奇行」が目立つようになっていた。

今回は、1994(平成6)年に勃発した「桑田佳祐VS長渕剛」騒動の「開戦前夜」にあたる、1991(平成3)~1993(平成5)年について、描いてみる事としたい。

 

<1990(平成2)年…8月23日、アルバム『JEEP』をリリース、8月25日「長渕剛のオールナイトニッポンスペシャル」で、サザンとユーミンの楽曲を「かっこいい」と褒める>

 

 

1990(平成2)年8月23日、長渕剛は12枚目のオリジナル・アルバム『JEEP』をリリースしたが、

長渕は、そのプロモーションのために、8月25日に「長渕剛のオールナイトニッポンスペシャル」で、

サザンや松任谷由実(ユーミン)の楽曲の事を「かっこいい」と褒める一幕が有った。

かつて、桑田佳祐が自らのラジオ番組で、長渕剛の楽曲を褒めた事が有ったが、長渕も、桑田との関係は悪化はしていたものの、お互いの楽曲については「良いものは良い」と、認める気持ちは有ったという事であろうか。

ともあれ、後の2人の決定的な対立を前にして、このような出来事も有った、という事を、ここに明記させて頂く事としたい。

 

<1991(平成3)年…桑田佳祐「アコースティック・レボリューション」開催、新ユニット「スーパー・チンパンジー」を結成し、新境地を模索>

 

 

1991(平成3)年3月26日、桑田佳祐は、ギターの小倉博和、キーボードの小林武史らと、

新宿の日清パワーステーションというライブハウスで、「アコースティック・レボリューション」というソロ・ライブを開催した。

桑田は、ザ・ビートルズなど、古き良き洋楽のカバーを歌ったが、アコギ(アコースティック・ギター)での演奏を中心としたライブであり、

「シンプルに、音楽を楽しみたい」

という、桑田の意思の表れとも思われた。

 

 

また、同年(1991年)に桑田佳祐は、小倉博和、小林武史ら、「アコースティック・レボリューション」に一緒に出演したメンバーを中心に、

「スーパー・チンパンジー」なる新ユニットを結成し、『クリといつまでも』という楽曲をリリースしたが、この頃、桑田はサザンの活動と並行して、このように色々な事に挑戦しており、新境地を開拓しようとしていた姿勢が伺える。

 

<1991(平成3)年…長渕剛、フジテレビのドラマ『しゃぼん玉』に主演、ドラマ主題歌『しゃぼん玉』も大ヒット!!~長渕と、共演者の清水美砂、国生さゆりの「熱愛報道」も>

 

 

 

 

1991(平成3)年、長渕剛は、同年(1991年)10~12月にかけて、フジテレビで放送されたドラマ『しゃぼん玉』に主演した(全11回が放送された)。

1988(昭和63)年に主演した『とんぼ』では、長渕はヤクザの役を演じたが、『しゃぼん玉』では、長渕は矢島鉄平(通称:ポー)という医師の役を演じ、お金や権力を嫌い、弱者の味方をするという、男気溢れる役どころだったが、当時、人気絶頂だった長渕の主演ドラマという事で、『しゃぼん玉』は高視聴率を獲得した。

 

 

 

同年(1991年)10月25日、長渕剛は、主演したドラマ『しゃぼん玉』と同名の主題歌『しゃぼん玉』をリリースしたが、『しゃぼん玉』はオリコン最高1位、ミリオンセラーの大ヒットとなり、またしても、長渕の人気ぶりを見せ付ける結果となった。

『しゃぼん玉』もまた、長渕を代表する楽曲の1つと言って良いであろう。

 

 

 

そして、『しゃぼん玉』では、長渕剛国生さゆり、清水美砂といった女優と共演しているが、

長渕は、国生さゆり、清水美砂と交際していたという「熱愛報道」もあった。

長渕は、志穂美悦子と結婚しているため、これが事実だとすれば「不倫」という事になるが、

事の是非はともかくとして、当時、長渕はそれだけ人気が有ったという事であろう。

なお、清水美砂は、桑田佳祐が監督を務めた『稲村ジェーン』の主演女優でもあったが、こんな所でも、桑田と長渕の因縁が有ったわけである。

 

<1991(平成3)年…長渕剛、海外でレコーディングしたアルバム『JAPAN』をリリース>

 

 

1991(平成3)年12月14日、長渕剛は、全編で海外レコーディングを行なったアルバム『JAPAN』をリリースしたが、

長渕の13枚目のアルバムとなった『JAPAN』は、ミリオンセラーの大ヒットとなった。

この頃の長渕は、人気絶頂なのは勿論、アーティストとしても、最も充実した時期だったと言って良いであろう。

 

<1991(平成3)年…脳腫瘍に倒れた「炎のストッパー」津田恒美のために結束し、広島東洋カープが5年振り優勝、日本シリーズでは西武が広島を4勝3敗で破り、2年連続日本一>

 

 

1986(昭和61)年、広島東洋カープは、「炎のストッパー」津田恒美投手の大活躍もあり、

広島が巨人とのデッドヒートを制して、2年振りの優勝を達成した。

広島が優勝を決めた試合で、胴上げ投手となった津田恒美は、達川光男捕手と抱き合い、喜びを爆発させた。

 

 

しかし、広島はそれ以来、優勝から遠ざかってしまい、低迷が続いた。

1989(平成元)年には、チーム再建を託され、「ミスター赤ヘル」山本浩二が広島の監督に就任したが、

1989(平成元)~1990(平成2)年、広島は2位に終わり、優勝を逃していた。

この年(1991年)、就任3年目を迎えていた山本浩二監督は、「今年こそ、優勝する」という、強い意気込みを持っていた。

 

 

ところが、大野豊、津田恒美「ダブル・ストッパー」で臨むと思っていた、山本浩二監督の構想は早々に崩れた。

津田は、全くの不調であり、同年(1991年)の開幕直後、4月14日の巨人戦でリリーフで登板した津田は、滅多打ちに遭い、ノックアウトされてしまった。

津田は、キャンプの頃から、身体の不調を訴えていたのだが、実はこの時、津田は脳腫瘍という、重い病に冒されていたのである。

そして、結果として、この試合が津田のプロ野球選手としての最後の試合になってしまった。

 

 

 

 

その後、広島のストッパーを1人で任された大野豊が奮闘したが、

広島は、首位・中日の独走を許し、一時は優勝絶望となる所まで追い込まれたが、

山本浩二監督が、津田が脳腫瘍に冒され、闘病中である事を、広島の選手達に公表し、

「みんな、津田のためにも、何としても優勝しよう!!」

と、結束を呼び掛けた。

そして、広島は闘病中の津田に届けとばかりに、広島は全員が一致結束し、中日を逆転して、広島は遂に5年振りの優勝を達成したのであった。

 

 

 

一方、パ・リーグの方では、近鉄との激闘を制した西武ライオンズが、2年連続の優勝を達成すると、

日本シリーズでは、2勝3敗とリードされた西武が、6戦目、7戦目に連勝し、西武が逆転で4勝3敗で広島を破り、2年連続日本一の栄冠に輝いた。

この年(1991年)も、西武の強さは際立っていたのであった。

 

<1992(平成4)年…サザンの『涙のキッス』が大ヒット!!「冬彦さんブーム」を巻き起こす>

 

 

1992(平成4)年、サザンオールスターズ『涙のキッス』をリリースしたが、

TBSドラマ『ずっとあなたが好きだった』の主題歌でもある『涙のキッス』は、サザン史上最大のヒット曲となり、サザンの歴史に残る名曲として、時代に刻まれた。

 

 

 

『涙のキッス』といえば、TBSドラマ『ずっとあなたが好きだった』の主題歌としても有名であるが、

『ずっとあなたが好きだった』は、高視聴率を獲得し、その相乗効果で、『涙のキッス』も爆発的な大ヒットを記録したのである。

 

 

 

 

 

『ずっとあなたが好きだった』は、当初は、学生時代に好きだった布施博への思いを引きずったまま、

「冬彦さん」こと佐野史郎と結婚した賀来千香子が、布施博への思いをどうしても抑えきれないという、

賀来千香子布施博のラブストーリーが主軸だったのだが、佐野史郎演じる「冬彦さん」が、お母さんである野際陽子にベッタリの、所謂「マザコン男」であり、その「冬彦さん」の異様なマザコンぶりの方が、視聴者に大いにウケてしまった。

そのため、途中からは脚本が変更され、「冬彦さん」が主役のような、サイコ・サスペンスのような展開になって行ったという経緯が有った。

「冬彦さん」は大ブームとなったが、ともあれ、このドラマの大ヒット以降、「マザコン」という言葉が一般化したほど、このドラマの大ヒットの影響は大きかった。

 

<1992(平成4)年5月15日…長渕剛、ギター1本での伝説の東京ドームライブを開催!!~後の「桑田佳祐VS長渕剛」騒動の伏線に>

 

 

 

 

1992(平成4)年5月15日、長渕剛東京ドームでライブを開催したが、

東京ドームを埋め尽くした6万5000人の大観衆に対し、長渕は、センターステージにたった1人で立ち、

長渕はギター1本のみで、全曲を歌いきり、このライブを全うした。

それでも、ギター1本で歌う長渕に対し、東京ドームに詰めかけた観客は熱狂したが、それだけ、当時の長渕の人気とカリスマ性は、物凄かったという事であろう。

なお、このライブの冒頭で、長渕は超満員の観客に対し、「いらっしゃーい!!」と挨拶したが、実は、これが後の「桑田佳祐VS長渕剛」の伏線になった。

 

<1992(平成4)年10月28日…長渕剛、『巡恋歌'92』を再リリースし、オリコン最高1位の大ヒット!!>

 

 

1992(平成4)年10月28日、長渕剛は、1978(昭和53)年のデビュー曲『巡恋歌』を、

『巡恋歌'92』として再レコーディングし、再リリースしたが、オリコン最高1位という大ヒットとなった。

『巡恋歌』は、長渕のライブの定番曲であり、前述の東京ドームでのライブでも歌われたが、

デビューから14年を経て、レコーディングし直して再リリースしたところ、1978(昭和53)年にはオリコン最高「173位」だった楽曲が、何と、14年後に「1位」になってしまったのであった。

この事は、デビューからの14年間に、長渕が積み上げて来た実績の重みを、端的に表したエピソードであると言えるであろう。

 

<1992(平成4)年…「亀新コンビ」で大フィーバーの阪神と、野村ヤクルトの死闘…ヤクルトが阪神を制し、14年振り優勝!!>

 

 

 

 

 

1985(昭和60)年の21年振りの優勝以降、長く低迷し、1987(昭和62)年以降は、5年間で4度の最下位に低迷し、「ダメ虎」と馬鹿にされていた阪神タイガースが、1992(平成4)年、亀山努、新庄剛志という、所謂「亀新コンビ」というニュー・スターの登場をキッカケに、突如、快進撃を開始した。

阪神は、オールスターに5人(和田豊、久慈照嘉、八木裕、亀山努、パチョレック)がファン投票で選出されるという人気ぶりであり、阪神は7年振りの優勝を目指して、快進撃を続けた。

 

 

 

 

一方、ヤクルトスワローズは、野村克也監督が1990(平成2)年に就任して以来、就任3年目を迎え、

野村監督が「1年目に種を撒き、2年目に水をやり、3年目に花を咲かせる」と宣言していた通り、

この年(1992年)、野村監督率いるヤクルトは、阪神との激闘を制し、見事に14年振りの優勝を達成した。

1992(平成4)年のヤクルトと阪神の激しい優勝争いは、球史に残るものであったが、最後はヤクルトに軍配が上がった。

 

<1992(平成4)年…西武VSヤクルトの日本シリーズで、西武が4勝3敗でヤクルトとの激闘を制し、3年連続日本一!!>

 

 

 

1992(平成4)年の日本シリーズは、パ・リーグ3連覇を果たした西武ライオンズと、

14年振りのセ・リーグ優勝を達成したヤクルトスワローズの対決となったが、

西武が、ヤクルトとの激闘に次ぐ激闘を制し、4勝3敗で西武がヤクルトを破り、3年連続日本一となった。

この年(1992年)の日本シリーズは、プロ野球史上最高と言っても過言ではないほどの名勝負と言って良いであろう。

 

<1993(平成5)年…桑田佳祐、『真夜中のダンディー』をリリース!!~翌1994(平成6)年の『孤独の太陽』に繋がる名曲~サザン年越しライブの第一声は「いらっしゃい」>

 

 

1993(平成5)年10月6日、桑田佳祐は6年振りのソロ・シングル『真夜中のダンディー』をリリースし、桑田ソロとしては初のオリコン1位を達成したが、『真夜中のダンディー』は、翌1994(平成6)年にリリースされる事となる、ソロ・アルバム『孤独の太陽』の先行シングルであった。

この曲は、桑田佳祐「第2期ソロ活動」の先駆けとなった曲であり、桑田の新境地開拓を示す名曲である。

 

 

また、同年(1993年)12月31日~翌年(1994年)1月1日かけて、サザンオールスターズは横浜アリーナで、「しじみのお味噌汁」と題された年越しコンサートを開催したが、その1曲目『チャコの海岸物語』で、桑田佳祐が発した第一声は「いらっしゃーい!!」であった。

これは、前年(1992年)の長渕の東京ドームでのライブの第一声と全く同じだが、ただの偶然の一致か、それとも…。

いずれにしても、これは翌年(1994年)の大騒動の伏線となるのである。

 

<1993(平成5)年…長渕剛、TBSドラマ『RUN』に主演し、主題歌『RUN』(アルバム『Captain of the Dhip』が大ヒット!!~しかし、相田みつをの詩集からの盗作騒動が起こる>

 

 

 

 

1993(平成5)年、長渕剛は、同年(1993年)10~12月にかけて放送された、TBSドラマ『RUN』に主演し、

同名のドラマ主題歌『RUN』をリリースしたが、オリコン最高1位で、またしてもミリオンセラーの大ヒットとなった。

この頃、長渕の曲は、出せば大ヒットするという絶好調の状態だったが、『RUN』は、11月1日にリリースされた14枚目のアルバム『Captain of the Ship』の先行シングルとしてリリースされたものであり、アルバムもまた大ヒットを記録した。

 

 

しかし、好事魔多しというか、この頃、『RUN』の冒頭の歌詞は詩人・相田みつをの詩集から、その一節をパクったものであるという、盗作疑惑が起こり、長渕は、「盗作」を認め、謝罪した。

この「盗作騒動」もまた、翌年(1994年)の「桑田VS長渕騒動」の伏線の一つとなったが、様々な「火種」を抱えたまま、あの大騒動が起こった1994(平成6)年という年がやって来る事となるのである。

 

<1993(平成5)年7月20日…オールスター当日に「最後のストライク」を決め、津田恒美がこの世を去る>

 

 

 

 

1993(平成5)年7月20日、プロ野球のオールスター第1戦のテレビ中継で、

実況アナウンサーから、「津田恒美が、脳腫瘍のために享年32歳で亡くなった」という事が発表された。

この時、初めて津田が脳腫瘍で闘病していた事が公表されたのだが、後に夫人の津田晃代が手記を発表し、そこには、

「ツーちゃん(※晃代夫人が呼んでいた、津田の愛称)はオールスター当日に亡くなり、多くのプロ野球ファンに旅立ちを知ってもらうという、『最後のストライク』を決めた」

と書かれていた。

若くして亡くなった津田に対し、野球界全体やファン全体は、悲しみに包まれたが、津田恒美の真っ直ぐな生き方は、今もなお、多くの人達の心に残っている。

 

<1993(平成5)年…ヤクルトスワローズが前年(1992年)のリベンジを果たし、15年振り日本一!!>

 

 

1993(平成5)年は、前年(1992年)に続き、ヤクルト西武がリーグ優勝を果たし、

2年連続で、ヤクルトと西武が日本シリーズで激突したが、ヤクルトが前年(1992年)の雪辱を果たし、見事に、ヤクルトが4勝3敗で西武を破り、「打倒西武」の宿願を達成したヤクルトが15年振り日本一の座に就いた。

 

(つづく)