1988(昭和63)年、長渕剛が主演を務めた、TBSドラマ『とんぼ』の劇中で、
長渕剛はサザンオールスターズの『みんなのうた』が流れているのを聴き、
「そんなクソみたいな曲消せ、このヤロー!!」と言い放った。
今回は、何故、『とんぼ』でそんな場面が出て来たのか、という事から、話を進める事としたい。
そして、桑田佳祐と長渕剛の2人の関係は、一体どうなって行くのか、時系列で描いて行く事とする。
<1988(昭和63)年6月25日…サザンオールスターズ、デビュー10周年記念日に『みんなのうた』で、3年振り活動再開!!~カップリング『おいしいね~傑作物語』では、自嘲気味に「復活劇」を歌う>
1988(昭和63)年6月25日、サザンオールスターズは、デビュー10周年の記念すべき日に、
シングル『みんなのうた』をリリースし、華々しく、3年振りに活動再開を宣言した。
サザンの活動再開は、派手に喧伝され、ファンからも大歓迎されたのだが、
実は、『みんなのうた』のカップリングである『おいしいね~傑作物語』では、
「おいしいね そりゃ見事だね グッと産業ロックの陽が昇る」
などと、所謂「ビジネス優先」での「復活劇」を、桑田佳祐が自嘲気味に歌っている。
とりあえず、そろそろ復活を…という、レコード会社からの要望により、復活した形とはなったが、
もしかしたら、桑田としても、このサザン復活を、何処か醒めた視点で見ていた、という面は有ったかもしれない。
<1988(昭和63)年10月…長渕剛、TBSドラマ『とんぼ』に主演!!~ヤクザ役で新境地を開拓し、長渕の舎弟役で哀川翔がデビュー、長渕の妹役・仙道敦子と共演>
1988(昭和63)年10月、TBSで放送開始されたドラマ『とんぼ』に、長渕剛が主演した(10~11月にかけて、全8回が放送された)。
『とんぼ』での長渕は、小川英二という名のヤクザの役であり、長渕にとって、初のヤクザの役だったが、
それまでに、長渕が主演した『家族ゲーム』『親子ゲーム』などで演じて来た、好青年や、良き「父親」の役とは、全く違う役であった。
なお、『とんぼ』第1話は、長渕剛が演じる小川英二が、刑務所から出所して来る所を、
長渕の舎弟・水戸常吉を演じる哀川翔が出迎える所から始まるが、哀川翔は、このドラマがデビュー作である。
また、長渕の妹・小川あずさ役を仙道敦子が演じているが、仙道敦子は哀川翔の恋人役でもあった。
『とんぼ』での、長渕のヤクザ役は強烈なインパクトが有ったが、
『とんぼ』以降の長渕のパブリック・イメージは、まるでヤクザかチンピラのような物になってしまった、と言っても過言ではない。
それだけ、長渕にとってはハマリ役だった、という事であろうか。
<『とんぼ』での「大事件」…長渕が、サザンオールスターズ『みんなのうた』を「クソ曲」呼ばわりし、罵倒!!~何故、そのような場面が!?>
さて、前回の記事でも書いたのだが、長渕がサザンの『みんなのうた』をディスる場面について、もう少し詳しく書いておくと、
『とんぼ』第1話で、長渕の舎弟・哀川翔が、長渕の車の運転手を務める場面が有るが、そこでカーラジオから流れていたのが、サザンの『みんなのうた』である。
以下、長渕剛と哀川翔の間では、下記のようなやり取りが有った。
長渕「おい、何だその曲は?」
哀川「今、一番売れてる曲なんですよ。ナウいですよね!」
長渕「そんなクソみたいな曲消せ、このヤロー!!日本人舐めくさってんのか、このヤロー!!」(※長渕、後部座席から、哀川翔の運転席を蹴り上げる)
哀川「す、すみません…」
長渕剛は、サザンの『みんなのうた』を「クソみたいな曲」呼ばわりしてしまったわけだが、
この場面は、『とんぼ』の本筋には、何の関係も無く、話の流れにとっては、有っても無くても良いような場面であった。
では、何故わざわざ、こんな場面を入れたのかといえば、それは、長渕がサザン(桑田佳祐)の事を気に入らなかったからではないだろうか。
いや、当時のTBSのプロデューサーが、桑田と長渕の微妙な関係を知っていて、敢えて、面白がってこんな場面を入れたのかもしれない。
いずれにしても、もし桑田がこの場面を見ていれば、あまり面白くはなかった筈である。
<1988(昭和63)年…長渕剛が主演のドラマ『とんぼ』の主題歌『とんぼ』がミリオンセラーの大ヒット!!1988(昭和63)年~1989(平成元)年かけて、ヒット・チャート上位を独走>
1988(昭和63)年10月26日、長渕剛は、自らが主演するドラマ『とんぼ』と同名の主題歌『とんぼ』をリリースしたが、『とんぼ』は、オリコン5週連続1位、最終的にはミリオンセラーとなるなど、1988(昭和63)~1989(平成元)年にかけて、ヒット・チャート上位を独走した。
『とんぼ』は、長渕のキャリアの中でも、最大級のヒット曲となったが、以後、長渕のカリスマ性は、ますます高まって行った。
<1988(昭和63)年…星野仙一監督率いる中日ドラゴンズが6年振り優勝!!>
1988(昭和63)年、セ・リーグは、当時42歳の星野仙一監督率いる中日ドラゴンズが6年振りの優勝を達成した。
星野監督は、あの「1983ナゴヤ事変」が有った、中日の本拠地・ナゴヤ球場で宙を舞ったが、優勝の瞬間、中日ファンが大挙してグラウンドに雪崩れ込み、ナゴヤ球場は大混乱となってしまったという出来事には、いかにも、時代を感じさせる。
<1988(昭和63)年…「10.19」ロッテVS近鉄の死闘、南海ホークスと阪急ブレーブスの終焉、西武が3年連続日本一>
1988(昭和63)年のパ・リーグは、様々な話題に彩られた。
王者・西武ライオンズに対し、仰木彬監督率いる近鉄バファローズが果敢に挑み、近鉄が西武を猛追したが、
近鉄はシーズン最終戦、10月19日の川崎球場でのロッテ-近鉄のダブルヘッダーで、連勝すれば優勝の所、第2試合で時間切れ引き分けに終わり、惜しくも優勝を逃した。
この時の死闘は「10.19」として、後々まで語り継がれる事となった。
また、この年(1988年)は、南海ホークス、阪急ブレーブスという、パ・リーグの老舗の名門球団が、
相次いで身売りを発表し(南海⇒ダイエー、阪急⇒オリックス)、世間に衝撃を与えたが、
南海ホークスと阪急ブレーブスの終焉は、時代の変わり目を感じさせる出来事であった。
結局、この年(1988年)のプロ野球は、近鉄の猛追をかわして優勝した西武ライオンズが、日本シリーズでも中日を4勝1敗で破り、3年連続日本一を達成し、「常勝軍団」ぶりを見せ付けたが、長渕が『とんぼ』で活躍していた頃、このように、プロ野球も熱く燃えていたのである。
<1989(平成元)年、サザンオールスターズ『さよならベイビー』で、通算26枚目のシングルにして初のオリコン1位達成!!>
1989(平成元)年、サザンオールスターズは、通算26枚目のシングル『さよならベイビー』で、意外にもサザン初のオリコン1位を達成した。
このように、サザンもまた、前年(1988年)の「復活」以降、再び大活躍するようになっていたが、サザンと長渕は、全くタイプの異なる楽曲で、それぞれのファンを魅了していたのである。
<1989(平成元)年…長渕剛、通算11枚目のオリジナル・アルバム『昭和』がミリオンセラーの大ヒット!!>
1989(平成元)年3月25日、元号が「昭和」から「平成」に変わった直後、長渕剛は、通算11枚目のオリジナル・アルバム『昭和』をリリースしたが、『昭和』はミリオンセラーの大ヒットとなり、長渕のアーティストとしての人気ぶりを、改めて印象付けた。
『昭和』は、長渕なりの、「昭和」という時代へオマージュを捧げたアルバムだったが、「平成」という新たな時代を迎えても、長渕の快進撃は続く事となった。
<1989(平成元)年…巨人が近鉄を「3連敗からの4連勝」で破り、奇跡の逆転日本一!!~「ブライアントの奇跡の4連発」でリーグ優勝した近鉄、惜しくも日本一を逃す>
1989(平成元)年のセ・リーグは、前年(1988年)に退任した王貞治監督の後を受け継ぎ、
藤田元司監督が就任した巨人が、「藤田マジック」と称された藤田監督の見事な采配の下、結束力を高め、2年振りにリーグ優勝した。
一方、この年(1989年)のパ・リーグは、前年(1988年)に「10.19」で惜しくも優勝を逃した近鉄バファローズが、
前年(1988年)の悔しさを晴らし、シーズン最終盤の西武-近鉄のダブルヘッダーで、ブライアントの4打数連続ホームランという大爆発が有り、西武を粉砕すると、そのままの勢いで、近鉄が奇跡の逆転優勝を果たした。
こうして、日本シリーズは巨人-近鉄の対決となったが、巨人が「3連敗から4連勝」という離れ業を演じ、
見事に、巨人が奇跡の逆転日本一の座に就いた。
一方、近鉄は悲願の初の日本一目前で、またしても涙を呑む事となってしまった。
<1990(平成2)年…桑田佳祐、映画監督に挑戦!!初の監督作品『稲村ジェーン』公開、サザンが歌う主題歌『真夏の果実』が大ヒット!!>
1990(平成2)年、桑田佳祐は映画監督に挑戦し、桑田佳祐の初の監督作品である、映画『稲村ジェーン』が公開された。
『稲村ジェーン』は、その内容をビートたけしに酷評されるなど、賛否両論を巻き起こしたが、興行的には大ヒットしている。
桑田佳祐もまた、それまでの地位に安住せず、新たな分野へ、果敢に挑戦してみせたが、その姿勢は素晴らしいものであると言えよう。
そして、『稲村ジェーン』の主題歌として、サザンオールスターズは『真夏の果実』をリリースしたが、
『真夏の果実』は、サザン史上に残る、名曲中の名曲であると言って良い。
この頃、サザンの音楽性は、比類なきまでに高まっており、歴史に残る名曲を次々に発表して行った。
<1990(平成2)年7月25日…長渕剛、「夜のヒットスタジオ」で『巡恋歌』を披露…圧巻のパフォーマンスで見る者を圧倒する>
1990(平成2)年7月25日、長渕剛はフジテレビ「夜のヒットスタジオ」に出演し、デビュー曲『巡恋歌』を披露したが、
普段のライブでのスタイルのように、ギター1本とブルースハープで、迫力満点に歌い、ギターの早弾きも披露するという、圧巻のパフォーマンスを見せた。
この時、司会の古舘伊知郎、加賀まりこをはじめ、WINKなどの共演者達も、長渕の歌とギターに、ただただ見入っているのが印象的であった。
長渕剛は、前述の『とんぼ』の大ヒット以降、更にカリスマ性を高めていたが、それは、このように誰も真似出来ないほどの、長渕のギターの素晴らしい腕前と、オリジナリティ溢れる楽曲が有ったればこそであろう。
<12月31日…長渕剛、第41回NHK「紅白歌合戦」に初出場するも、ベルリンからの生中継で、NHKスタッフに暴言!!~目立ち始めた、長渕剛の「奇行」、そして割を食った植木等『スーダラ伝説』>
1990(平成2)年12月31日、長渕剛は第41回NHK「紅白歌合戦」に初出場を果たし、
ドイツのベルリンの壁からの生中継という、破格の待遇で出演した。
この時、NHKホールから、ベルリンでの状況を聞かれた長渕は、
あろう事か、生中継で「ここのスタッフは、タコばっかりですわ」と、NHKスタッフを批判するという「暴挙」に出た。
更に、長渕はこの生中継で『親知らず』『いつかの少年』『乾杯』の3曲を歌ったが、
これは、予定時間をオーバーしてのパフォーマンスであり、段取りがキッチリと決まっている「紅白」としては、有り得ない事であった。
そのため、割を食ったのが、この年(1990年)、『スーダラ伝説』が大ヒットし、
リバイバル・ブームを巻き起こして、紅白出場を果たしていた、植木等である。
長渕の、度を越したパフォーマンスのせいで、植木等のせっかかくの特別ステージの時間が、大きく削られる事となってしまったのである。
長渕も、NHKスタッフの段取りに苛立ち、色々と言いたい事も有ったのかもしれないが、長渕は他の出演者の事も、もっと考えるべきだったのではないだろうか。
ましてや、植木等は、前述の『とんぼ』では、長渕剛と仙道敦子の兄妹の父親代わりとなった人物を演じている。
長渕も、そんな植木等の晴れ舞台の事も、もっと考慮すべきではなかったか。
大体、言いたい事があるなら、何も「紅白」ではなく、自分のライブで自分のファンに向かって、好きなだけ、いくらでも言えば良いではないかと、私は思う。
あの『とんぼ』での唐突なサザン批判といい、この頃、徐々に長渕の「奇行」が目立つようになって来ていた。
この先、長渕剛という男は、一体どのような方向へと向かって行くのであろうか!?
<1990(平成2)年…西武ライオンズが巨人をストレートの4連勝で破り、2年振り日本一奪回!!~前年(1989年)の西武・堤義明オーナーの「やりたければどうぞ」発言に対し、結果を出して見せ付ける、意地の日本一>
西武ライオンズは、1989(平成元)年、優勝を目前にしながら、最後の最後に近鉄に逆転され、
結局、近鉄、オリックス、西武の三つ巴の優勝争いの中、最終的には西武は「5連覇」を逃し、「3位」に終わってしまった。
そして、同年(1989年)のシーズン終了の報告で、西武・森祇晶監督は、西武の総帥・堤義明オーナーから、
「監督がやりたいんであればどうぞ。また頑張って下さい」「11ゲーム差離されたのを追い付いたっていうけど、そもそも11ゲームも離されたのがおかしい」「私は不満だけど、連盟としては西武が負けて、パ・リーグが盛り上がったから良かったと思ってるんじゃないですか」
などと、次々に厳しい言葉を浴びせられた。
所謂、堤オーナーの「やりたければどうぞ」発言であるが、
森祇晶監督は、ここで辞めたりせず、逃げないでチーム再建に立ち向かい、
翌1990(平成2)年、森監督は見事に西武を独走で2年振りのリーグ優勝に導くと、日本シリーズでも巨人をストレートの4連勝で破り、2年振り日本一の座に就いた。
堤オーナーの嫌味にも負けず、結果で黙らせた森監督は、負け犬のままでは終わらず、まさに男の意地を見せたと言って良い。
さて、西武の森監督のように、音楽業界で結果を出し続ける男、桑田佳祐と長渕剛は、この後、更なる紆余曲折を辿る事となるが、その話は、また次回のお楽しみである。
(つづく)