今振り返る…1997(平成9)年の横浜ベイスターズ(中編) ~横浜「真夏の快進撃」の季節~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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1997(平成9)年の横浜ベイスターズは、最大14ゲーム差を付けられていた首位・ヤクルトを、

7~8月の快進撃により、2.5ゲーム差にまで詰め寄るという猛追を見せ、ファンの熱狂させた。

 

 

この年(1997年)、6月末までは低迷していた横浜ベイスターズであったが、

7月に入り、遂にベイスターズは大反攻を開始した。

これが、ベイスターズによる、歴史的な「真夏の快進撃」の季節の始まりだった。

 

<1997(平成9)年のヤクルトスワローズ…「野村再生工場」の集大成の年~野村ヤクルト、開幕から首位を独走!!>

 

 

 

1997(平成9)年のは、野村克也監督ヤクルトスワローズを率いて以来、8年目のシーズンであった。

野村監督率いるヤクルトは、それまでの7年間で、リーグ優勝3度、日本一を2度、成し遂げていたが、前年(1996年)は4位と、Bクラスに低迷していた。

野村監督は、「もう一度、頂点を目指す」と、この年(1997年)に全てをかけていた。

 

 

 

 

この年(1997年)の開幕戦、野村監督率いるヤクルトは東京ドームで、野村監督の宿敵・長嶋茂雄監督が率いる巨人と対決した。

巨人の開幕投手は、それまで開幕戦で3年連続完封勝利を挙げている、大エース・斎藤雅樹である。

野村監督は、斎藤を攻略するべく、前年(1996年)限りで広島を自由契約になり、この年(1997年)、ヤクルトに拾われた小早川毅彦を、開幕スタメンに抜擢した。

そして、野村監督から、徹底的に斎藤の弱点のレクチャーを受け、配球を研究するという秘策を受けた小早川は、

「お前は、1年目に強い。法政でも1年生で優勝、広島でも1年目で新人王。だから、今度も必ず打てる」

と、野村監督に「暗示」をかけられた事もあり、何と、小早川は、斎藤から3打席連続ホームランを放つという大活躍を見せた。

 

 

小早川の大活躍により、開幕戦で巨人を倒したヤクルトは、勢いに乗り、

4/4の開幕戦から4/27まで、15勝6敗という快進撃で首位を独走し、開幕ダッシュに成功した。

なお、野村監督は、4/16の横浜戦(神宮)で14-8で勝利し、監督通算1000勝を達成した。

 

 

 

 

 

野村監督は、吉井理人、田畑一也など、他球団から移籍して来た投手を「再生」させ、

エース級の投手として大活躍させる事に成功、まさに「野村再生工場」の面目躍如であった。

そして、来日当初は「ダメ外国人」のレッテルを貼られていたホージーも、開幕からホームランを量産するという、嬉しい誤算も有った。

こうして、ヤクルトは開幕から首位を走り続け、6月末の段階で、2位・広島に8ゲーム差を付けるという、独走態勢を築いていた。

 

<6月末、ベイスターズ「覚醒」のキッカケ…横浜が巨人に接戦で連勝し、チームに自信が芽生える>

 

 

 

6月下旬、この年のベイスターズの「分岐点」となった、重要な試合が有った。

6/24の時点で、横浜は24勝33敗の借金9で最下位に低迷し、首位・ヤクルトからは14ゲーム差という大差を付けられていた。

しかし、6/25の巨人戦、横浜は波留敏夫のホームランによる1点を、川村丈夫-島田直也-佐々木主浩の投手リレーで守り切り、1-0で横浜が巨人を破った。

この頃、石井琢朗-波留敏夫の1・2番コンビは、他球団の脅威の的となり、島田直也は中継ぎの柱として、ベイスターズ投手陣を支えていた。

そして、最後は「大魔神」佐々木主浩が締めるという、横浜お得意の「必勝パターン」が、見事にハマった形となった。

 

 

翌6/26の巨人戦、横浜は1-0と1点リードして迎えた9回表、前日(6/25)に続いて、佐々木をマウンドに送った。

しかし、佐々木は巨人の代打・石井浩郎(近鉄から移籍)に、移籍第1号となる、まさかの同点ホームランを打たれてしまった。

絶対的抑えの佐々木が打たれ、「必勝パターン」が崩れたベイスターズに、一瞬、嫌な雰囲気が漂い始めた。

 

 

しかし、1-1の同点で迎えた9回裏、ベイスターズは鈴木尚典がサヨナラ打を放ち、

横浜が2-1で巨人に劇的なサヨナラ勝ちで、見事に巨人に連勝した。

佐々木が打たれ、「必勝パターン」が崩れても、勝ち切る事が出来たベイスターズに、この時、微かな自信が芽生えた。

しかし、横浜はその後、阪神に連敗し、6/28の段階でも26勝35敗、借金9の5位(※この時点で、巨人が最下位に転落)、5位・横浜と首位ヤクルトのゲーム差は、14ゲーム差という大差である。

この時点では、この後のベイスターズの快進撃を予想していた者は、誰一人居なかったと言って良いであろう。

 

<7月、遂に横浜ベイスターズが大逆襲!!ベイスターズの「真夏の快進撃」が始まる>

 

 

7月、遂に横浜ベイスターズが目を覚ました。

横浜は、突如、見違えるような快進撃を見せ、猛烈な勢いで勝ち始めたのである。

という事で、まずは7月のベイスターズの戦いのスコアをご覧頂こう(※スコアの右横の人名は、責任投手)。

 

【1997(平成9)年7月の横浜ベイスターズの戦績:13勝5敗】

 

(6/29 横浜〇12-5●阪神(甲子園) 関口(2-3) ※2回裏に9連続得点)

7/1 横浜〇1-0●中日(ナゴヤドーム) 野村(5-6) ※野村-佐々木の1安打完封リレー

7/2 横浜〇6-3●中日(ナゴヤドーム) 川村(6-4)

7/3 横浜〇1-0●中日(ナゴヤドーム) 福盛(1-0) ※福盛が6回無失点でプロ初勝利

7/4 横浜〇9-7●広島(横浜) 関口(3-3) ※鈴木・ローズ・駒田で7安打6打点、佐々木が4連投4連続セーブ

7/5 横浜●8-9〇広島(横浜) 島田(3-4) ※5連投の佐々木が打たれて逆転負け

7/6 横浜〇7-6●広島(横浜) 横山(1-0) ※9回裏2死から波留が逆転サヨナラ打、横山がプロ初勝利

7/8 横浜〇8-2●阪神(甲子園) 野村(6-6)

7/12 横浜〇3-2●ヤクルト(釧路) 島田(4-4) ※鈴木尚典がサヨナラ打

7/13 横浜●3-4〇ヤクルト(帯広) 福盛(1-1)

7/15 横浜〇4-2●巨人(東京ドーム) 三浦(2-3)

7/16 横浜〇9-4●巨人(東京ドーム) 五十嵐(1-0) ※佐伯が代打逆転3ランホームラン

7/17 横浜●3-8〇巨人(東京ドーム) 戸叶(6-3)

7/19 横浜〇8-2●広島(横浜) 福盛(2-1) ※3回裏に一挙6点で逆転勝利

7/20 横浜●1-2〇広島(横浜) マホームズ(0-1)

7/21 横浜〇5-1●広島(横浜) 三浦(3-3)

 

【オールスターブレイク】

 

7/27 横浜●1-3〇阪神(甲子園) マホームズ(0-2)

7/29 横浜〇2-1●中日(ナゴヤドーム) 五十嵐(2-0) ※佐伯が9回表に代打決勝タイムリー

7/30 横浜〇3-1●中日(ナゴヤドーム) 福盛(3-1) ※福盛が7回を自責点0の好投、5割復帰

 

6月終了の時点で、横浜は27勝35敗の借金8という状況だった。

そこで、大矢監督は、ある目標を立てた。それは、

「オールスターまでに、5割復帰」

というものである。

つまり、それまでの借金8から、オールスターまでの期間に、8つ勝ち越すという事であるが、

やや無理気味の目標とはいえ、チームが結束するために、大矢監督は、敢えて高い目標を立てたのであった。

 

<三浦大輔、戸叶尚、福盛和夫…夏場に若手投手陣が台頭!!>

 

 

 

 

大矢監督は、夏場を迎え、投手陣を再編成し、思い切って、20代前半の若手投手達に、先発ローテーションを任せた。

三浦大輔は、1995(平成7)年に8勝8敗という実績を残していたが、それ以外は、怪我で離脱したりして、必ずしも満足行く成績を残せてはいなかった。

しかし、この年(1997年)、7月以降から三浦はまさにエースとしてチームを牽引し、ベイスターズ投手陣の柱となって行った。

戸叶尚も、この年(1997年)から先発ローテーションに入り、安定しれ投球を見せていた。

そして、大矢監督が大抜擢したのが、当時21歳という、入団3年目の福盛和夫であった。

彗星の如く現れた福盛は、トントン拍子に勝ち星を重ね、まさに「シンデレラボーイ」となったが、

当時、三浦は1973(昭和48)年生まれの24歳、戸叶は1975(昭和50)年生まれの22歳、そして福盛は1976(昭和51)年生まれの21歳である。

このように、活きの良い若手投手達が、一気に台頭して行ったのが、この年(1997年)の夏場以降のベイスターズであった。

 

<「大魔神」佐々木主浩、獅子奮迅の大活躍!!~病床の父に捧げる、気迫の投球>

 

 

 

当時のベイスターズの絶対的な抑えの切り札・佐々木主浩は、

1995(平成7)~1996(平成8)年に、2年連続で最優秀救援救援投手のタイトルを獲得していたが、

抑えの切り札のパイオニア・江夏豊には、「優勝しないチームの抑え投手が獲ったタイトルなんて、意味が無い」と、バッサリ切り捨てられていた。

そんな事も有り、佐々木は、何としても優勝したいという思いを強く持っていた。

そんな中、1997(平成9)年のシーズンを迎えたが、6月に佐々木の父親は病に倒れ、危篤状態になってしまった。

佐々木は、父親が入院している病院と、球場を行き来するという、壮絶な毎日を送ったが、

病床の父親に届けとばかりに、この年(1997年)は、例年以上に、物凄い気迫の投球を見せていた。

 

 

7月に入り、佐々木は7/1~7/4にかけて、「4連投4連続セーブ」という、凄まじい投球を見せた。

5連投目となった7/5の広島戦では、流石に疲労が出たのか、打たれてしまい、逆転負けを喫したが、

それ以降、佐々木は全くと言って良いほど、打たれなくなった。

つまり、「佐々木が出て来れば、横浜が勝つ」という「神話」が、完全に作られていった。

しかし、7/7、佐々木の父親は、帰らぬ人となった。

 

<島田直也、五十嵐直樹、横山道哉…佐々木に繋ぐ前のリリーフ陣も充実!!>

 

 

 

 

そして、抑えの切り札・佐々木に繋ぐ前の、中継ぎ陣も充実していた。

それが、島田直也、五十嵐英樹、横山道哉らであり、彼らは、連日、ブルペンで投げ込みを行ない、

僅差の展開では、連日のようにマウンドに上がり、そして数々のピンチを切り抜けて行った。

そんな鉄壁のリリーフ陣の奮闘が有ったからこそ、佐々木という絶対的ストッパーが活かされたのだから、彼らの力は非常に大きかった。

 

<7月、「マシンガン打線」が炸裂し、逆転勝ちを連発!!そして、7月に13勝5敗の快進撃で、7月末に遂に5割復帰!!~7/21、この年(1997年)2度目の観戦>

 

 

 

7月、暑い夏場の季節の到来と共に、ベイスターズの「マシンガン打線」は猛打を発揮し、打ちに打ちまくった。

7/6の広島戦では、5-6とリードされた9回裏2死2、3塁の場面で、波留敏夫が見事に逆転サヨナラ2点タイムリーを放つなど、

各打者が、「ここぞ!」という所で、勝負強い打撃を見せた。

とにかく、この年(1997年)の夏場以降、ベイスターズの選手達の集中力は、物凄いものであった。

 

 

 

7月、突如として勝ち始めたベイスターズの雄姿を、私はどうしても見たくなり、

7/21に、私は横浜スタジアムの横浜-広島戦を見に行った。

私にとっては、この年(1997年)、2度目の観戦であったが、受験生だからとか、そんな事は関係無かった。

「今年のベイスターズを見ずして、他に何を見ようというのか」

というのが、当時の私の偽らざる心境だった。

そして、この試合、横浜は5-1で広島を破ったが、先発の三浦大輔が6回途中まで1失点と好投し、

5-1と、横浜が4点リードして迎えた6回表2死満塁のピンチで、2番手として登板した関口伊織が、そのピンチを見事に切り抜けた。

(なお、この時、私は直接グラウンドを見るのが恐ろしくて、スタンドの裏のテレビで、その場面を見ていた)。

 

 

その試合が、ベイスターズにとって前半戦最後の試合だったが、ベイスターズは前半戦を終わって38勝39敗と、惜しくも、目標の5割到達には一歩及ばなかったものの、借金はわずか「1」にまで減らしていた。

そして、前半戦終了時点で、3位・横浜と首位・ヤクルトのゲーム差は、まだ9.5ゲーム差も有った。

しかし、オールスター明けに、横浜は中日に1敗した後、阪神に連勝し、遂に40勝40敗で、勝率5割に到達した。

これが、8月の横浜ベイスターズの、歴史的快進撃の号砲となったのであった。

 

(つづく)