【今日は何の日?】6/19は太宰治の「桜桃忌」…太宰治の破天荒な人生について | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(6/19)は、太宰治の誕生日(1909(明治42)年生まれ)にして、

1948(昭和23)年に、太宰治愛人と共に心中し、その遺体が見付かった日である。

その太宰治の誕生日と、遺体が見付かった日にちなみ、毎年6/19は、

太宰治の晩年の作品『桜桃』にちなみ、「桜桃忌」として、太宰治を偲ぶ、多くの人達が集まっている。

 

 

太宰治といえば、言わずと知れた、日本文学史上に残る大作家であり、

私も、太宰治の作品は愛読しているが、それよりも、私が興味を引かれるのは、

太宰治という人が生きた、その破天荒な生涯である。

何しろ、この人は女性には大変モテた人であり、愛人が何人も居たが、何度も心中未遂したりしている。

最後は、未遂ではなく、本当に心中により、享年38歳にして亡くなってしまったが、

今回は、「桜桃忌」にちなみ、太宰治ハチャメチャな生涯に、スポットを当ててみる事としたい。

 

 

<1909(明治42)年6月19日…青森の大地主の息子として生まれる~弘前中学時代に、文学に目覚める>

 

 

 

太宰治(本名・津島修治)は、1909(明治42)年6月19日、青森県北津軽郡金木村で、

父・津島源右衛門と、母・たね(夕子)の六男として生まれた。

太宰の生家である津島家は、「金木のお殿様」と称されるほどの大地主であり、

太宰治は、幼少の頃から何不自由なく育った。

 

 

ボンボン育ちだった太宰治は、子供の頃から学業も優秀であったが、

1923(大正11)年3月、父・源右衛門が亡くなった後、同年(1923年)4月に、名門・弘前中学に進学し、

太宰治は、親元を離れ、下宿生活を送る事となった。

 

なお、弘前中学時代に、太宰治は芥川龍之介、菊池寛、志賀直哉、室生犀星などの作品を愛読したが、

井伏鱒二『山椒魚』には、「座っていられないほどの衝撃」を受けたという。

それらの作品に刺激を受け、太宰は、同級生達と同人誌を創刊し、創作活動を開始している。

(※後年、太宰は井伏鱒二と親交を結ぶ事となる)

 

 

1927(昭和2)年、太宰は弘前高等学校に進学したが、同年(1927年)7月24日、

敬愛する作家・芥川龍之介が自殺し、太宰は物凄い衝撃を受けた。

この芥川龍之介の自殺が、後の太宰治の人生に、大きな影響を与えたと言えよう。

 

<弘前高校時代…本格的に作家を志し、芸者・小山初代と知り合う…そして、1度目の自殺未遂>

 

 

 

さて、優秀な成績で弘前中学を卒業した太宰は、名門・弘前高等学校に進学したが、

芥川龍之介の影響を受けた太宰は、1928(昭和3)年、津島衆二という筆名を名乗り、本格的に創作活動を行なうようになった。

この頃、太宰はプロレタリア文学の影響も受け、左翼活動も行なっていたが、それにより、特高にも目を付けられたという。

そして、この頃、太宰は後年まで長い付き合いとなった、芸者の小山初代と知り合っている。

その後、1929(昭和4)年12月10日、太宰はカルモチンという薬品で自殺を図ったが、未遂に終わった。

後々まで、何度も心中未遂や自殺未遂を行なう、「お騒がせ人生」の第一歩であったが、第1回の自殺未遂の理由は、

一説には、特高の逮捕を免れるためであったという。

 

<太宰治、東大に進学…小山初代との結婚に猛反対され、何故か妻とは全く無関係の女性と心中未遂>

 

 

1930(昭和5)年、弘前高等学校を卒業した太宰治は、東京帝国大学(東大)の文学部仏文科に進学したが、

入学して間もなく、太宰は授業に全く付いて行けなくなってしまうほど、落ちこぼれてしまった。

やがて、授業にも全く出席しなくなった太宰は、実家からの豊富な仕送りのお金で、遊び暮らすようになった。

 

 

この頃、本格的に作家を志すようになっていた太宰は、井伏鱒二に師事し、小説作法を習ったが、

太宰は井伏鱒二を深く敬愛し、生涯にわたり、井伏を慕っていた。

そして、井伏もまた、不肖の弟子・太宰をとてもよく可愛がった。

 

 

同年(1930年)、太宰は、芸者の置屋から連れ出した小山初代との結婚を決め、実家に報告したが、

実家は、太宰が芸者と結婚するのを快く思わず、猛反対した。

太宰は、それでも初代との結婚を強く主張したが、結局、実家から分家除籍される形で、漸く結婚を認められた。

 

 

太宰は、実家から除籍された事に、酷く落胆した。

そして、人生に絶望した太宰は、同年(1930年)11月28日、銀座のバー「ホリウッド」の女給・田部シメ子と、鎌倉・腰越の海で心中を図った。

太宰は、田部シメ子とは知り合って日も浅かったが、この、妻とは全く無関係の女性と、何故か、衝動的に心中しようとしてしまったようである。

しかし、この時は太宰は生き残り、田部シメ子だけが亡くなるという結果となってしまった。

相手だけを死なせてしまった事は、太宰の心に深い傷を負わせたが、この後も、まだまだ太宰の「お騒がせ人生」は続く事となる。

 

<太宰治、遂に作家デビュー!!…しかし、就職に失敗し絶望、またも自殺未遂…そして、「第1回芥川賞」に落選し、激怒>

 

 

 

1933(昭和8)年、太宰治『列車』『魚服記』などで、初めて太宰治の筆名を使い、作家デビューを果たした(※それまでは、本名の津島修治を名乗っていたが、この記事では便宜上、これまでも太宰治という表記とした)。

太宰治は、新進作家として、早くも文壇で注目を集めたが、都新聞社(現・東京新聞)の入社試験に失敗し、

またしても人生に絶望した太宰は、自殺を図ったが、またもや一命を取り留めた(※第3回目の自殺未遂)。

 

 

 

1935(昭和10)年、「文藝春秋」を創刊した菊池寛は、文壇振興のため、

かつての盟友・芥川龍之介、直木三十五の名を冠した、「芥川賞」「直木賞」を創設した。

太宰は、敬愛する芥川龍之介の名を冠した「芥川賞」の受賞を熱望していたが、太宰の作品『晩年』は、意に反して、「第1回芥川賞」に落選してしまい、栄えある「第1回芥川賞」受賞作は、石川達三『蒼氓』に決定した。

 

 

 

太宰は、この結果に激怒し、「芥川賞」の選考委員の川端康成に対し、

「おい川端、ふざけるな」と、長文の抗議文を送りつけたが、無論、結果は覆らなかった。

更に、第3回芥川賞の際には、太宰は「もはや新人に非ず」として、候補からも外されてしまい、太宰は更に落胆した。

(※同年(1935年)、太宰は学費未納により、東大をクビ(除籍)になった)

 

<1937(昭和12)年、太宰治と初代の心中未遂…そして離婚>

 

 

その後、太宰は自暴自棄になり、酒と薬物に溺れるようになったが、妻の初代はどうして良いかわからず、太宰の師である井伏鱒二に泣きついた。

1936(昭和11)年10月、井伏は太宰を東京武蔵野病院に強制入院させたが、その間、初代は津島家の親類の画学生と不貞行為(※不倫)をしてしまった。

ハッキリ言って、太宰の自業自得だと思われるが、退院後、この事を知った太宰は、またしても人生に絶望し、

翌1937(昭和12)年3月、太宰と初代は心中を図った。しかし、この時は2人とも生き残り、この心中未遂の後、太宰と初代は離婚した(※太宰の通算2度目の心中未遂、4度目の自殺未遂)。

 

<1938(昭和13)年、太宰治と石原美知子が結婚…太宰の精神状態が安定し、名作を次々に生み出す!!>

 

 

1938(昭和13)年、太宰治井伏鱒二の紹介により、山梨県甲府市の地質学者・石原初太郎の四女・石原美知子と知り合い、

翌1939(昭和14)年1月8日、井伏鱒二を媒酌人として、太宰美知子は結婚した。

太宰にとって、2度目の結婚となったが、太宰美知子は大変仲が良く、太宰の精神状態は漸く安定した。

そして、この年(1939年)から太宰美知子の夫妻は、亡くなるまで東京・三鷹の地に居を構えた(※戦争が激化し、疎開していた時期を除く)。

 

 

 

 

太宰と美知子は、3人の子宝に恵まれたが、

2人の間に生まれた次女の里子は、後に作家・津島佑子として、文壇にデビューを果たした。

津島祐子は、太宰治の作家としてのDNAを受け継いでいたのであった。

 

 

美知子との結婚により、精神的安定を得る事が出来た太宰は、1930年代後半~1940年代前半にかけて、

『走れメロス』『富嶽百景』などの名作を次々に発表し、文壇での太宰治の名声は不動のものとなった。

今日、太宰治の作品と聞いて、多くの人達が思い浮かべるのは、この時期の作品であろう。

 

<1941(昭和16)年…太宰治、太田静子と知り合う…やがて、太田静子と「不倫の恋」に落ちる>

 

 

 

1941(昭和16)年、太宰の小説を愛読しており、太宰のファンだった、開業医の娘である太田静子という女性が、太宰にファンレターを書いたところ、

太宰から、思いがけず「良かったら、会いにいらっしゃい」という返事が来た。

そして太宰に会いに行った太田静子太宰は、忽ちにして、熱烈な恋に落ちてしまった。

太宰は、美知子との間に幸せな家庭を築いていたが、「それはそれ、これはこれ」という事であろうか。

 

 

 

やがて、太平洋戦争が激しさを増す中でも、太宰は創作活動を続け、『津軽』『お伽草子』などの名作を次々に発表した。

その間も、太宰太田静子の関係は続いており、太宰の妻の美知子は疑惑の目を向けていたが、戦争の激化により、太宰と太田静子の関係も、自然に途絶えたようであった。

 

<1945(昭和20)年、終戦…1947(昭和22)年、太宰治は『斜陽』で大ベストセラー作家に!!…その間、太田静子と再会(娘の太田治子が誕生)、新たな愛人・山崎富栄とも知り合う>

 

 

 

 

1945(昭和20)年8月15日、長かった戦争が終わると、程なくして、太宰治は旺盛な創作活動を再開した。

この頃、太宰治は、織田作之助、坂口安吾、壇一雄らの作家達と共に、「無頼派」「新戯作派」などと称され、

文壇のスター的存在となっていた。

 

 

1947(昭和22)年、太宰治は、没落貴族を描いた『斜陽』を発表したが、

『斜陽』空前の大ベストセラーとなり、「斜陽族」という流行語をも生み出した。

太宰は、押しも押されもせぬ、超人気作家となっていた。

 

 

 

 

なお、戦後間もなく、太宰は離れ離れになっていた太田静子と再会したが、

1947(昭和22)年11月22日には、太宰太田静子の間に、娘の治子が誕生した。

この娘こそ、後に作家となった太田治子であったが、太宰は後に、治子を自分の娘として認知した。

 

 

同年(1947)年3月27日、太宰は美容師の山崎富栄と知り合った。

山崎富栄は、大変な美人だったが、太宰一目見るなり、山崎富栄にゾッコンとなった。

そして、2人は熱烈な恋に落ちてしまった…いやはや、ここまで来ると、何も言葉は無いが、太宰というのは、余程、女性を惹き付ける魅力が有ったのに違いない。

 

<1948(昭和23)年…『人間失格』『桜桃』の発表…そして6月19日、太宰と山崎富栄が玉川上水で心中(完遂)>

 

 

 

1948(昭和23)年、太宰治『人間失格』、『桜桃』などの作品を発表した。

『人間失格』は、太宰の自伝的作品であるが、太宰が、小説に仮託して、それまでの破天荒で波乱万丈な人生を赤裸々に描いており、大変面白く、とても読み応えの有る作品である。

私も、太宰の作品は色々と読んだが、結局、『人間失格』が最も出来が良く、面白いと思っている。

 

 

 

そして、同年(1948年)6月13日、太宰は愛人の山崎富栄と共に、玉川上水で心中を図った。

その後、2人の遺体は、奇しくも太宰の誕生日と同じ6月19日に発見されたが、

今度こそ、未遂とは成らず、太宰は亡くなっていた。通算3度目の心中、5度目の自殺の企図であったが、それが太宰の年貢の納め時となり、心中は「完遂」されたのである。

こうして、太宰のハチャメチャな人生に、終止符が打たれたのであった。

 

<6月19日は「桜桃忌」…全国から太宰ファンが集まる日>

 

 

 

太宰は、三鷹に暮らしていたが、太宰が暮らした町、三鷹の禅林寺に、太宰の墓が建てられた。

そして、太宰の遺体が見付かった6月19日は、いつしか「桜桃忌」と称され、毎年、多くの太宰ファンが、太宰を偲んで、太宰の墓に集まるようになった。

太宰の墓石には、『桜桃』にちなんで、サクランボがはめ込まれたりしているが、今もなお、太宰は多くの人達を惹き付ける存在であると言えよう。

ちなみに、私も「桜桃忌」の日ではないが、太宰の墓参りに行った事が有る。

太宰の墓は、彼が望んだ通り、森鴎外の墓の向かい側に有り、2人の偉大な作家は、すぐ近くで永遠の眠りに就いている。

 

というわけで、太宰にご興味が有る方は、是非とも訪ねて頂ければと思っている。