「セ・パ交流戦」の歴史②(2005)…ロッテが交流戦初代優勝!&おかわり君、ダルビッシュの台頭 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

2004(平成16)年、プロ野球は「球界再編騒動」のすったもんだが有り(詳細は、当ブログの、こちらの記事をご覧頂きたい)、

紆余曲折を経て、大阪近鉄バファローズとオリックスブルーウェーブが合併し、合併球団「オリックスバファローズ」が誕生、

更に、「東北楽天ゴールデンイーグルス」が新規参入し、パ・リーグは6球団制が維持される事となった。

 

 

 

 

そして、翌2005(平成17)年から、プロ野球は新機軸として、「セ・パ交流戦」を導入する事を発表した(メインスポンサーは日本生命で、これは今日に至るまで、ずっと同じである)。

これは、公式戦の最中に、普段は対戦しないセ・リーグとパ・リーグの各球団が対戦するというものであるが、そこでの成績は、チームの勝敗や個人成績なども、全て公式戦の数字として加算され、

また、交流戦は交流戦として順位を決め、優勝チームやMVPも決めるというものである。

長年、ファンからは待望されていた交流戦が、「球界再編騒動」という大騒ぎを経て、遂に始まる事となったのである。

 

<2005(平成17)年、交流戦が開幕!!交流戦での主な出来事…横浜の開幕戦逆転サヨナラ勝利、西武の「おかわり君」が大ブレイク、西口のノーノー未遂、ダルビッシュ、涌井の初勝利…etc>

 

 

2005(平成17)年の5/6(金)、遂にプロ野球史上初の交流戦がスタートした。

史上初の交流戦は、5~6月にかけて、各カードでホーム3試合&ビジター3試合という、計6試合×6カードの36試合が行われる事となったが、いきなり、そんなに沢山の交流戦が見られるという事で、当時のプロ野球ファンはビックリしたと同時に、ワクワクしたものであった。

 

という事で、まずは、記念すべき初めての対戦カードと、その結果を列挙しておく事とする。

 

横浜2-1ロッテ(横浜)、西武13-4広島(広島)、阪神10-2日本ハム(札幌ドーム)、巨人8-6楽天(フルキャストスタジアム宮城)、オリックス6-0中日(スカイマークスタジアム)、ヤクルト-ソフトバンク(神宮)は雨天中止。

 

中でも、特筆すべきは、土砂降りの雨の中で強行された、横浜スタジアムでの横浜-ロッテ戦で、

村田修一(横浜)が、0-1と1点をリードされた9回裏、1死満塁のチャンスで、逆転サヨナラタイムリーを打った事であろう。

横浜は、交流戦でいきなり上々のスタートを切った。

 

 

この年(2005年)の交流戦で、大ブレイクしたのは、西武の「おかわり君」こと、中村剛也である。

中村は、前年(2004年)までは、僅か通算2本塁打に過ぎなかったが、この年(2005年)の交流戦で12本塁打と大爆発し、交流戦の初代本塁打王に輝いた。

中村は、その後、日本を代表するホームランバッターに成長して行くが、2005年の交流戦が、飛躍のキッカケとなった。

中村剛也の、2005(平成17)年の交流戦の成績は、

35試合 打率.271 12本塁打 31打点 OPS.983

という、誠に見事なものであった。

 

 

 

 

また、この年(2005年)の交流戦で忘れ難いのは、西口文也(西武)ノーヒットノーラン未遂である。

5/13の巨人戦で、西口文也は、巨人打線を9回2死までノーヒット・ノーランに封じていた。

しかし、大記録達成まで、あと1人と迫ったと所で、清水隆行(巨人)に、まさかのホームランを打たれてしまい、9回2死という非常に惜しい所で、大記録を逸してしまった。

 

 

 

西口文也といえば、2002(平成14)年8月26日のロッテ戦で、9回2死までノーヒット・ノーランに抑えながら、小坂誠(ロッテ)に初安打を打たれ、大記録を逃し、2005(平成17)年8月27日の楽天戦では、9回終了まで完全試合に抑え込みながら、味方の西武も得点を奪えず、結局、10回表に沖原佳典に初安打を逃し、完全試合を逃している。

西口は、ノーヒットノーランや完全試合の目前に迫りながら、悉く、大記録を逃し続けた、悲運の名投手であった。

 

 

 

また、この年(2005年)の交流戦のトピックとしては、6/15の日本ハム-広島戦(札幌ドーム)で、

同年(2005年)にプロ入りしたばかりの高卒新人・ダルビッシュ有(日本ハム)初登板初勝利を挙げ、

ダルビッシュ有は、大投手としての第一歩を歩み始めた。

 

 

 

また、6/18の交流戦最終戦、ヤクルト-西武戦(神宮)で、ダルビッシュの同期の高卒新人・涌井秀章(西武)が、

記念すべきプロ初勝利を記録し、これまた、名投手としての第一歩を記録した。

このように、交流戦では、若い力が一気に出始めたのが印象的であった。

 

<JP(パウエル)、岩本勉…パ・リーグの投手が、本塁打を記録>

 

 

 

5/11の巨人-オリックス戦(東京ドーム)で、オリックスの「JP」ことジェレミー・パウエル投手が、

投手としては交流戦史上初となるホームランを放った。

すると、5/21の巨人-日本ハム戦(東京ドーム)でも、岩本勉(日本ハム)がホームランを放ったが、

長年、パ・リーグ一筋だった岩本勉にとっては、現役生活で最初で最後のホームランであった(岩本は、交流戦通算3打数2安打 打率.667)。

なお、岩本は、つい先日(2019/6/2)のCSフジテレビの「プロ野球ニュース」で、この時の事を自慢していた(よほど、嬉しかったのだろう)。

 

<横浜、創設1年目の楽天に6戦全勝!!…2005年交流戦唯一の、カード全勝を記録>

 

 

 

この年(2005年)、交流戦限定ユニフォームを着て戦った横浜ベイスターズは、

創設1年目の東北楽天ゴールデンイーグルスに対し、ホームとビジターの6試合に全勝した。

この年(2005年)の交流戦で、カード6戦全勝というのは、横浜-楽天戦のみであったが、

横浜は、「新球団の楽天には、負けられない」という思いが強かったのであろうか。

ともあれ、横浜は楽天戦での6戦全勝の甲斐も有って、初年度(2005年)の交流戦は19勝17敗と勝ち越しに成功するという健闘を見せた。

 

 

一方、楽天はこの年(2005年)にプロ野球に新規加入したばかりであり、

楽天は、交流戦で11勝25敗、シーズン通しても38勝97敗1分 勝率.281と大苦戦した。

言い方は悪いが、当時は「寄せ集め」とも言われた急造チームでもあり、致し方ない面も有った。

なお、楽天戦は、口の悪いファンには「ボーナスステージ」などと言われてしまっていた。

つまり、楽天戦に負けるというのは、非常に痛いと言われていたのであった。

 

<交流戦前は首位を走っていた中日…交流戦に大苦戦し、「降竜戦」と揶揄される>

 

 

2005(平成17)年の中日は、落合博満監督体制の2年目であり、

落合中日は、前年(2004年)のリーグ優勝に続き、リーグ連覇を狙っていた。

そして、交流戦前の段階でリーグ首位を走り、好調な戦いぶりを見せていた。

 

 

ところが、交流戦直前、5/5(金)の中日-ヤクルト戦で、

中日の主砲、タイロン・ウッズが、藤井秀悟(ヤクルト)に頭部付近に死球を食らった事に激昂し、

ウッズは、藤井にパンチを見舞うという事件を起こし、退場処分となった。

そして、ウッズは連盟から「出場停止10試合」という、重い処分を受ける事となってしまった。

 

 

 

当初、落合監督は「交流戦は、5割で乗り切れれば良い」と語っていたが、

主砲のウッズを欠いて戦うという影響は非常に大きく、中日は大苦戦を強いられ、「5割で良い」どころの騒ぎではなくなった。

5/24~5/26には、中日は地元のナゴヤドームで、前述の通り、当時は最弱球団と言われていた楽天に、同一カード3連敗(2-3、2-6、3-15を食らうという、屈辱的な結果に終わってしまった。

このように、中日は交流戦では15勝21敗と大きく負け越してしまい、交流戦が終わる頃には、交流戦を21勝13敗2分で乗り切った阪神に、セ・リーグ首位の座を明け渡していた。

中日は、大苦戦した「交流戦」をもじって「降竜戦」と揶揄される、非常に残念な結果となってしまったのであった。

 

<川上憲伸(中日)の完全試合未遂…8回2死、李承燁のホームランで大記録達成は成らず>

 

 

 

そんな中、5/20のロッテ-中日戦(千葉マリンスタジアム)で、川上憲伸(中日)が、

ロッテ打線を、8回2死まで完全試合ペースに抑え込むという、素晴らしい投球を見せた。

川上憲伸は、大記録まで、あと4人に迫っていたが、8回2死から、李承燁(ロッテ)がホームランを放ち、川上の完全試合を阻止した。

結局、試合は7-1で中日が勝ったが、川上が許した安打は、この1本のみであり、非常に惜しい投球であった。

 

<2005(平成17年)、ロッテが交流戦の初代優勝チームに輝く!!…勢いに乗り、ロッテは「六冠」を達成!!>

 

 

 

 

 

というわけで、様々な話題が有った、初年度(2005年)の交流戦であるが、

ボビー・バレンタイン監督率いる千葉ロッテマリーンズが、ソフトバンクや阪神などの追撃をかわし、初代の交流戦優勝チームとなった。

初代の交流戦優勝のロッテの成績は、24勝11敗1分 勝率.686という、素晴らしいものであった。

そして、交流戦初代MVPには小林宏之(ロッテ)が選出された。

 

 

リーグ同士の対戦成績としても、パ・リーグが105勝104敗7分と、1つ勝ち越したが、

この後、交流戦の歴史は、パ・リーグがセ・リーグを常に圧倒し続ける事になるというのは、皆さんご存知の通りである。

 

 

 

そして、ロッテは交流戦優勝を機に勢いに乗り、シーズン2位からプレーオフで西武、ソフトバンクを破り、31年振りのリーグ優勝を果たすと、

日本シリーズでも阪神を4連勝で破り、31年振りの日本一、更に、アジアシリーズも制覇するなど、2軍のイースタンリーグ優勝、ファーム日本選手権優勝も合わせ、何と「六冠」(交流戦、リーグ優勝、日本一、アジアシリーズ制覇、イースタンリーグ優勝、ファーム日本一)を達成するという、素晴らしい1年となった。

現在、ロッテの本拠地・ZOZOマリンスタジアムには、2005年のロッテの「六冠」を顕彰するモニュメントが建てられ、ファン達の間では名所として有名である。