【感動の名場面】2019/6/4 不屈の男・原口文仁(阪神)、大腸がんから復活の一打!! | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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昨日(6/4)、今年(2019年)のプロ野球交流戦が開幕したが、

その交流戦開幕戦の阪神-ロッテ戦(ZOZOマリンスタジアム)で、感動の名場面が有った。

今年(2019年)の1/24、大腸がんである事を公表し、闘病とリハビリを続けていた、

阪神タイガース原口文仁選手が、代打で出場し、一軍復帰を果たしたが、

復帰初打席で、いきなりタイムリー二塁打を放ち、見事に復活を遂げたのである。

 

 

まさに、原口文仁による魂の一打であり、原口の復活は、阪神ファンのみならず、

全てのプロ野球ファンに、大きな感動を与えた。

私も、昨今のプロ野球の中では、最も魂が震えるような感動を覚えた場面だったと思っている。

そこで、今回は緊急企画として、原口文仁という選手の、これまでの野球人生について、振り返ってみる事としたい。

 

<帝京高校時代、前田三夫監督の薫陶を受け、捕手として活躍~甲子園ベスト8に進出>

 

 

原口文仁(はらぐち・ふみひと)は、1992(平成4)年3月3日、埼玉県大里郡寄居町に生まれた。

原口は、小学校4年生の時に野球を始め、中学時代は寄居リトルシニアで活躍した後、

名門・帝京高校野球部へと進んだ(※ちなみに、原口の帝京高校の1学年上に杉谷拳士(日本ハム)、1学年下には山崎康晃(DeNA)が居た)。

原口は、バッティングの才能はズバ抜けていたが、当初、帝京高校では外野や一塁を守っていたが、守備があまり上手くなかったので、

どのポジションを守っても今一つだったという。

 

そこで、高校2年生の時に、前田三夫監督により、最後に残されたポジションとして、捕手を守るよう、指示されたところ、

これがズバリと当たり、原口はめきめきと頭角を現した。

原口は、責任感が人一倍強く、しかも練習熱心で、チームの司令塔である捕手のポジションにはピッタリであった。

また、原口は埼玉県の実家から、東京都板橋区に有る帝京高校まで、片道2時間もかけて通学していたが、野球部の練習が終わり、帰宅した後も、

父親と共に、夜遅くまでティー打撃の練習を欠かさないなど、野球のために努力を欠かさなかった。

 

 

こうした努力が実り、原口は3年生(2009)年の夏、甲子園出場を果たし、捕手で中心打者として活躍し、

帝京をベスト8(準々決勝)進出へと導いた。

前田三夫監督曰く、原口「捕手になって、アイツの良い所が全て出た」との事であったが、

こうした活躍がプロ野球のスカウトの目に留まり、同年(2009年)のドラフト会議で、原口阪神タイガースからドラフト6位で指名され、原口は、プロ野球の世界へと進む事となった。

 

<原口、背番号「52」でプロ野球人生をスタート…しかし、ヘルニアの悪化により、挫折…育成選手になる>

 

 

原口は、2010(平成22)年、阪神タイガースへ入団し、背番号「52」を背負い、プロ野球人生をスタートさせた。

原口は入団当初は二軍(ウエスタン・リーグ)で腕を磨き、プロ2年目(2011年)には、二軍戦で打率は.329(79打数26安打)で、2本塁打 11打点という成績を残し、得意の打撃を開花させつつあった。

しかし、プロ3年目(2012年)のシーズン開幕当初、原口は腰を痛めるというアクシデントに見舞われた。

後々まで、原口を苦しめる事になる、ヘルニアの発症であったが、これにより、原口は腰の治療に専念する事を余儀なくされた。

そして、この年(2012年)のシーズン終了後、原口支配下選手登録を外され、育成契約を提示されてしまう。

原口は、無念の故障により、大きな挫折を味わった。

 

<原口、背番号「124」の育成選手に…相次ぐ故障に苦しみ、3年間(2013~2015年)の育成選手生活を送る>

 

 

 

原口が、育成選手として球団から提示された背番号は「124」だった。

そもそも、「育成選手」というのは何かについて、簡単にご説明しておくと、

プロ野球には「支配下選手」「育成選手」という、2種類の選手が居る。

プロ野球の球団には、選手の数は「1球団70人まで」という制限が有り、その70人の枠内に居る選手が「支配下選手」である。

一方、「育成選手」というのは、その70人の枠外の選手であり、二軍の試合に出る事は出来るが、一軍の試合に出場する事は出来ない。

 

元々、文字通り、球団が若手選手を育成するために作られた制度ではあったが、

原口のように、故障が長引いたりした場合、一旦、支配下登録を外れ、育成選手に「格下げ」になる場合も有る。

しかし、育成選手には「最長2年までしか契約されない」という制限が有り、その期間が経過して、球団が契約を更新しなければ、その時点で、その選手はクビになってしまう。

つまり、育成選手は、限られた時間の中で、何としても結果を出して、球団に認められ、支配下選手にならなければならないという、非常に厳しい立場である。

 

 

原口は、球団から期待されていたので、一応、毎年オフになると、育成契約を更新されていたが、

2013(平成25)年には、打撃練習の際に死球を受けて、左手の尺骨を骨折、2014(平成26)年秋のフェニックスリーグ(二軍の教育リーグ)では、右肩を脱臼するという大怪我をするなど、毎年のように怪我に苦しんだ。

その都度、原口は必死に怪我を克服し、復活を目指した。原口は、持ち前の明るさと、不屈の精神力で、前向きに努力を続けていた。

 

<2016(平成28)年、原口、遂に3年振りに支配下選手に復帰!!背番号「94」を背負う~原口、どん底から這い上がり、大活躍!!>

 

 

2016(平成28)年、遂に、原口の努力が実る時がやって来た。

同年(2016年)のキャンプ終盤、原口は一軍のキャンプに合流すると、シーズン開幕後の4/27、原口遂に3年振りに支配下選手登録された。

原口は、どん底から這い上がり、遂に、3年振りに日の当たる場所へと帰って来た。それも、原口にとって初めての一軍の舞台であった。

この年(2016年)から阪神の監督に就任した金本知憲は、原口の潜在能力を、とてもよく買っていたのである。

原口は、背番号「124」の育成選手から、背番号「94」の支配下選手となったが、当初はそのユニフォームが間に合わず、背番号「82」山田勝彦コーチのユニフォームを借りて、試合に出場していた。

 

 

 

遂に、念願の一軍の舞台に立った原口は、4/29のDeNA戦(甲子園)から、スタメンで捕手として出場すると、以後、大活躍を見せ、

5月には、打率.380 5本塁打 17打点という大活躍を見せ、見事に月間MVPを受賞した。

育成選手出身者の月間MVPというのは、史上初の快挙であった。

 

 

 

 

その後も、原口は大活躍を続け、遂には同年(2016年)のオールスターゲームにも、監督推薦で出場を果たした。

阪神勢は、他に藤浪晋太郎、岩貞佑太、高山俊もオールスターに出場したが、育成選手というどん底から這い上がった原口に、特に注目が集まった。

なお、この時のオールスターでは、帝京高校の1年後輩・山崎康晃(DeNA)と、夢のバッテリーを組んでいる。

結局、原口はこの年(2016年)、107試合に出場、打率.299 11本塁打 46打点という好成績を残し、阪神の正捕手の座を掴んだ。

 

<2017~2018年の原口…怪我と戦いながら、代打や捕手・一塁手として活躍!!>

 

 

 

 

その後の原口は、持病の腰痛などもあり、捕手としてフル出場する事は難しくなった。

しかし、原口は勝負強い打撃を活かし、代打の切り札としても活躍し、また、原口は一塁手などでも出場し、捕手としては、梅野隆太郎と併用という形で出場した。

原口は、怪我とも懸命に戦い続け、2018(平成30)年には、代打としてシーズン23安打という、驚異的な記録も残したが、これは右打者としては阪神史上最多記録であり、プロ野球全体でも、史上3位の大記録であった。

2017~2018年の2年間は、原口は下記の成績を残している(2016~2018年の3年間は、阪神は金本監督時代である)。

 

2017(平成29)年 73試合 打率.226 6本塁打 25打点

2018(平成30)年 82試合 打率.315 2本塁打 19打点

 

<2019(平成31)年1月24日…原口、大腸がんを公表>

 

 

 

2019(平成31)年から、阪神は金本知憲に代わり、矢野燿大が新監督に就任した。

矢野監督も、原口には期待していたが、その矢先の同年(2019年)1月24日、その原口が大腸がんである事を公表するという、衝撃的なニュースが有った。

このニュースは、球界全体や、プロ野球ファンに大きなショックを与えたが、その後、ファンからは次々に原口に激励のメッセージが届いた。

阪神は勿論、球界全体で、原口が病を克服し、グラウンドに帰ってくる事を願っていた。

これまで、何度も挫折を乗り越えて来た原口なら、また絶対に帰って来ると、皆、彼の事を信じていたのであった。

 

<2019(令和元)年6月4日…遂に帰ってきた原口文仁…原口、代打で出場し、見事に復活のタイムリー二塁打を放つ!!>

 

 

 

 

そして昨日(6/4)、原口遂に、待っていた皆の前に帰って来た。

交流戦の開幕カード、ロッテ-阪神戦(ZOZOマリンスタジアム)で、阪神が7-3とリードした9回表、1死3塁の場面で、矢野監督は、原口を代打で起用した。

原口が代打で登場すると、この日、詰めかけていた阪神ファンのみならず、ロッテファンからも大拍手と大歓声が起こった。

みんなが、苦しい闘病生活の末、遂に帰って来た原口に、惜しみない声援を送っていた。

 

 

 

 

 

すると原口は、レイビン(ロッテ)の高目の速球を捉え、見事に、レフトの頭上を超えるタイムリー二塁打を放った。

原口は、二塁ベースに猛然とヘッドスライディングをしたが、原口の見事な復活の一打に、ZOZOマリンスタジアムの阪神ファンのスタンドは、興奮の坩堝と化していた。

そして、ロッテファンからも、大きな拍手が起こった。

 

 

 

 

 

原口の、見事な復活の一打に、多くの阪神ファンが、感動の涙を流していた。

そして、ベンチへと戻って来た原口を迎える矢野監督の目にも、光るものが有った。

私も、この場面を見て、本当に胸を打たれるものが有ったが、やはり、不屈の男・原口文仁に、運命の女神が微笑んだという事であろう。

 

<大反響を呼んだ、原口の感動の復活劇…頑張れ!!原口文仁>

 

 

 

 

 

 

原口文仁の感動の復活劇は、各メディアでも大きく取り上げられ、日本中の野球ファンの感動を呼んだと言って良いであろう。

大の阪神ファンとして知られている、声優の渡部優衣も、現地で観戦しており、「見ていて、涙が止まらなかった」とコメントした。

また、帝京高校の先輩・石橋貴明「これからも帝京魂を見せてくれ!」と、原口にエールを送った。

皆、原口の復活に、心から祝福の意を表しているようであった。

 

 

というわけで、最後に、原口文仁の応援歌の歌詞をご紹介して、この記事を締めくくる事としたい。

それは、不屈の男、原口文仁の、これまでの野球人生を凝縮したものであると言えるであろう。

これからも、私も野球ファンの一人として、原口の活躍を心から願っている。

 

「ここに立つ為に 鍛え抜いた日々よ 原口のすべて 魅せろ奮わせろ」