本日(12/31)は、平成最後の大晦日である。
大晦日の風物詩といえば、NHK「紅白歌合戦」であるが、
今年(2018年)の「紅白歌合戦」には、サザンオールスターズがNHKホールに来て、
35年振りに、サザンがNHKホールの紅白の舞台に登場する。
今回は、サザンと芸能界、野球界の歴史をまとめた企画の第2回目であるが、
サザンが『いとしのエリー』を引っ提げ、初めて「紅白歌合戦」に出場した1979(昭和54)年にスポットを当てる事としたい。
<1979(昭和54)年、名曲中の名曲『いとしのエリー』の誕生、そして大ヒット!!>
1979(昭和54)年、サザンオールスターズは、デビュー2年目を迎えていた。
サザンは、デビュー1年目の1978(昭和53)年、『勝手にシンドバッド』でデビューし、
そのデビュー曲『勝手にシンドバッド』が、いきなり大ヒットを記録し、デビュー早々、スターの座に就いてしまった。
しかし、曲はヒットしたものの、サザンはあくまでも、「何だかわからないけど、面白い奴ら」といった扱いで、
その音楽性を正当に評価されていたわけではなく、コミックバンド扱いをされていた。
そんなサザンに対する評価を一変させたのが、1979年3月25日にリリースされた、
サザン3枚目のシングル『いとしのエリー』である。
『いとしのエリー』は、もしサザンの名前が歴史に埋没したとしても(そんな事は絶対に有り得ないと思うが)、
『いとしのエリー』という曲だけは、ずっと聴き継がれて行くに違いないというほどの、名曲中の名曲のバラードだが、
「サザン(桑田佳祐)って、こんな素晴らしい曲も作れるのか!!」
と、世間は驚きを持って、この曲を受け止めた。
(サザンオールスターズの3枚目のシングル『いとしのエリー』が、「ザ・ベストテン」で7週連続1位の大ヒット)
そして、『いとしのエリー』は、オリコン最高2位、TBS「ザ・ベストテン」では7週連続1位という大ヒットを記録した。
こうして、サザンは『いとしのエリー』により、真に国民的バンドへ成長する第一歩を歩み始めたと言って良い。
<『いとしのエリー』誕生秘話…桑田佳祐から原由子へ贈られた曲だった!!>
ところで、『いとしのエリー』の「エリー」とは、一体誰の事を指すのかと、当時から話題になっていたが、
「エリー」の名前は、桑田の姉のえり子さんから取られたものであるが、
『いとしのエリー』という曲は、桑田佳祐が、恋人であり、バンドでの音楽的パートナーである原由子に対して贈った曲である。
実は、桑田佳祐と原由子は、サザンがデビューする前から、結婚を前提に交際していた。
しかし、サザンがデビューし、多忙になって行くと、二人の間はギクシャクしてしまい、1979年の1月頃、
桑田が原由子のアパートを訪ね、別れ話を切り出した。
当時、原由子は、些細な事で焼きもちを焼いたり、ワガママを言ったりして、桑田を困らせる事が多くなっており、
「桑田が、何処か遠くへ行ってしまう」という怖さと不安に苛まれていた。
しかし、桑田に「他に、好きな人が出来た」と、別れ話を切り出された時、逆にホッとした気持ちになったという。
原由子は「今まで、本当に有り難う…」という気持ちしか湧いて来ず、
笑顔で別れるつもりだったが、原由子は、涙が勝手に出て来て止まらず、桑田も泣いていた。
最後に、二人は握手をして別れたが、夜中にも、二人は電話越しに励まし合ったが、その時も二人は泣き通しだった。
そして翌朝、桑田はまた原由子を訪ねて来ると、
桑田は原由子の顔を見るなり、開口一番「結婚しよう!ずっと一緒に居よう!」と、改めてプロポーズしたというのである。
結局、桑田と原由子は、一晩だけ別れた後、また付き合う事となった。
その数日後、桑田が原由子に電話し、「曲が出来たよ!」と言って、
電話越しに聴かせた曲こそが、『いとしのエリー』であった。
以上、このエピソードは、後年、原由子が書いた自伝『娘心にブルースを』に書かれているが、
非常に感動的なエピソードであり、名曲誕生の貴重な歴史的秘話であると言って良いであろう。
(ちなみに、『娘心にブルースを』とは、桑田が学生時代に初めて書いたオリジナル曲のタイトルである)
<1979年のサザンの快進撃と、サザン初の紅白出場!!>
『いとしのエリー』が大ヒットした後、1979年のサザンは精力的に活動した。
4月5日、2枚目のアルバム『TENナンバーズ・からっと』をリリースすると(『いとしのエリー』が収録された、このアルバムも大ヒット)、
(サザンオールスターズの2枚目のアルバム『TENナンバーズ・からっと』。ジャケット写真の桑田は、この直前にプロデューサーと大喧嘩し、怒った表情で写っている。隣の原由子も、緊張した表情に見える)
7月25日には、同アルバムからシングル・カットされた4枚目のシングル『思い過ごしも恋のうち』と、
10月25日に、後年、桑田が「この曲で、プロとしてやって行く自信が付いた」と語る、
5枚目のシングル『C調言葉に御用心』をリリースした。
いずれも、初期サザンを代表する名盤、名曲揃いであるが、
サザンは、3~6月にかけて、全国50箇所を回る「春50番コンサート」、
8月には、ビーチ・ボーイズなども出演した、江ノ島のジャパン・ジャムに日本代表として出演した。
更に、サザンは9~12月にかけても全国42箇所を回る全国ツアーを行なうなど、
テレビ、ラジオ、雑誌などの各メディアにも引っ張りだこの中、多忙ながらも充実した日々を送った。
(1979年、サザンは『いとしのエリー』で紅白歌合戦に初出場)
そして、1979年の締めくくりとして、サザンは『いとしのエリー』を引っ提げ、
大晦日の「紅白歌合戦」に初出場を果たしたのである。
こうして、サザン大活躍の1979年は、瞬く間に過ぎて行った。
<1979(昭和54)年の大ヒット曲…西城秀樹『YOUNG MAN(Y.M.C.A)』など>
1979(昭和54)年は、様々な歌手やアーティストが、多彩なヒット曲を放った。
まずは、桑田佳祐と同学年の西城秀樹の『YOUNG MAN(Y.M.C.A)』が、
TBS「ザ・ベストテン」で、史上最高の9999点(つまり、満点)を獲得するなど、9週連続1位の大ヒットを記録した。
また、デビュー当時のサザンのライバルだった、世良公則&ツイストが、『性(サガ)』で、
『宿無し』『銃爪』に続き、3曲連続1位のヒット曲を放つと、
ゴダイゴも、『ガンダーラ』『モンキー・マジック』(いずれも、日本テレビのドラマ『西遊記』のテーマ曲)、
『ビューティフル・ネーム』『銀河鉄道999』など、大ヒットを連発し、快進撃を見せた。
(日本テレビで放送された『西遊記』。左から西田敏行、夏目雅子、堺正章、岸部シロー)
また、西城秀樹、野口五郎との「新御三家」の一角、郷ひろみの『マイレディー』や、
この年、レコード大賞を受賞した、ジュディ・オングの『魅せられて』、
さだまさしの『関白宣言』、アリスの『チャンピオン』も、この年(1979年)のヒット曲であり、
サザンの『いとしのエリー』がオリコン2位だった時、オリコン1位だったのが、小林幸子『おもいで酒』であった。
そして、円広志の『夢想花』、松坂慶子の『愛の水中花』、久保田早紀『異邦人』など、
結果としては、最初で最後のヒット曲ではあるが、いずれも爆発的に売れた名曲もあった。
また、坂本龍一、細野晴臣、高橋幸宏により結成されたYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)が、
名盤の誉れ高い、アルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』をリリースしたのも、この年(1979年)だった。
まだまだ、沢山有りすぎてご紹介しきれないが、
放送2年目を迎えた、TBS「ザ・ベストテン」や、フジテレビ「夜のヒットスタジオ」、日本テレビ「紅白歌のベストテン」など、生放送の歌番組も花盛りであり、
サザンや上記の歌手達も、それらの番組に毎週のように出演し、番組を盛り上げた。
そして、テレビ出演によって、レコードがますます売れるという好循環が有り、当時はまさに、テレビと音楽業界が共同で、多数のヒット曲を生み出した時代であった。
<1979(昭和54)年のヒット曲ランキング~TBS「ザ・ベストテンより>
それでは、TBS「ザ・ベストテン」における、「年間総合ランキング」の「ベスト10」をご紹介させて頂く。
【1979(昭和54)年「ザ・ベストテン」年間総合ベスト10】
①『おもいで酒』(小林幸子)
②『いとしのエリー』(サザンオールスターズ)
③『夢追い酒』(渥美二郎)
④『カリフォルニア・コレクション』(水谷豊)
⑤『燃えろいい女』(ツイスト)
⑥『関白宣言』(さだまさし)
⑦『YOUNG MAN(Y.M.C.A)』(西城秀樹)
⑧『銀河鉄道999』(ゴダイゴ)
⑨『きみの朝』(岸田智史)
⑩『チャンピオン』(アリス)
この年(1979年)は、サザン、ゴダイゴ、アリス、などの、所謂「ニューミュージック」勢のヒット曲が多かったのだが、
そんな中、並み居る「ニューミュージック」勢を抑え、「ザ・ベストテン」で年間総合1位になったのが、小林幸子『おもいで酒』であった。
前述の通り、小林幸子『おもいで酒』は、サザンの『いとしのエリー』がヒットしていた時、オリコン1位になっていたが、
「ザ・ベストテン」の年間総合ランキングでも、サザンの『いとしのエリー』を抑え、小林幸子の『おもいで酒』が年間1位となったのである。
渥美二郎が歌った『夢追い酒』は、「ザ・ベストテン」では年間総合2位、オリコンでは年間総合1位という大ヒット曲となったが、
この頃は、演歌もポップスと同様に人気が有り、「ザ・ベストテン」でも、しばしば上位を占めていた。
やがて、演歌はポップスやニュー・ミュージックに押されてしまうのだが、この頃は、演歌もまだまだ根強い人気が有った。
水谷豊は、自らが主演していた『熱中時代』というドラマの主題歌『カリフォルニア・コレクション』を歌い、大ヒットさせたが、
当時、水谷豊は俳優としても人気急上昇中であり、その勢いに乗って、歌手としても大ヒット曲を飛ばした。
後の大俳優・水谷豊も、若き日には「ザ・ベストテン」で『カリフォルニア・コレクション』を毎週のように歌う、人気歌手でもあった。
デビュー当時のサザンのライバルで、世良公則が率いるツイストも、
この年(1979年)、『燃えろいい女』という大ヒット曲を出した。
しかし、ツイストはこの後、人気は下降して行く事となった。
やはり、どんな人気バンドでも、ヒット曲を出し続けて行くのは難しいという事であろう。
1979(昭和54)年といえば、何と言っても、やはりゴダイゴが大旋風を巻き起こした年である。
ゴダイゴは、『銀河鉄道999』(「ザ・ベストテン」年間総合8位)、『ガンダーラ』(「ザ・ベストテン」年間総合15位)、『モンキー・マジック』(「ザ・ベストテン」年間総合24位)と、いずれもテレビ番組の主題歌として大ヒット曲を連発したが、この頃、日本で最も人気の有るバンドはゴダイゴだったと言って差し支えないであろう。
ゴダイゴに次ぐ、もう一つの人気バンド、アリスも、
この年(1978年)、『チャンピオン』(「ザ・ベストテン」年間総合10位)という大ヒット曲を出した。
アリスも、この頃は飛ぶ鳥を落とす勢いだったが、ゴダイゴ、アリス、サザンオールスターズが、1979(昭和54)年の日本の音楽界を沸かせたバンドであった。
1972(昭和47)年、グレープという2人組でデビューしていた、さだまさしであるが、1976(昭和51)年にグレープは解散し、さだまさしはソロ活動を開始した。
そして、この年(1979年)さだまさしは、『関白宣言』(「ザ・ベストテン」年間総合6位)という大ヒット曲を出した。
さだまさしも、「ニューミュージック」畑で活躍し、人気歌手の仲間入りを果たした。
1979(昭和54)年を象徴する大ヒット曲といえば、何と言っても、西城秀樹の『YOUNG MAN(Y.M.C.A)』であろう。
前述の通り、『YOUNG MAN(Y.M.C.A)』は「ザ・ベストテン」で史上初の「満点」を獲得するなど、爆発的な大ヒットとなったが(「ザ・ベストテン」では年間総合7位)、
元々、前年(1978年)にヴィレッジ・ピープルが歌った洋楽のカバー曲だった『YOUNG MAN(Y.M.C.A)』を、西城秀樹がパワフルに歌い上げ、まさに西城秀樹の代表曲となった。
桑田佳祐の「同学年」の西城秀樹が、まさに強烈な輝きを放っていた。
この年(1979年)の異色のヒット曲といえば、松坂慶子の『愛の水中花』が印象深い。
元々、松坂慶子が主演していた『水中花』というドラマの主題歌を、松坂慶子自身が歌った曲であるが、『愛の水中花』は、作家・五木寛之が作詞した曲である。
そして、松坂慶子が何故か劇中でバニーガールの衣装で歌うという演出が有った。
そして、松坂慶子の『愛の水中花』は大ヒットし、
当時27歳の松坂慶子は、歌手として「ザ・ベストテン」や「夜ヒット」などの歌番組の出演し、セクシーな衣装で『愛の水中花』を披露した。
人気女優が、ここまで「視聴者サービス」をするのかと、当時の世間の人々は驚いたようだが、当の松坂慶子自身は、「人気歌手」としての役割を、大いに楽しんでいたという。
とにかく、松坂慶子の『愛の水中花』は、強烈な印象が有った。
ジュディ・オングの『魅せられて』は、「ザ・ベストテン」では年間総合11位、オリコンでは年間総合2位の大ヒットとなったが、『魅せられて』は、この年(1979年)の日本レコード大賞を受賞した。
ジュディ・オングは、大きな鳥の羽のような白い衣装を着て、『魅せられて』を歌っていたが、楽曲もさる事ながら、この衣装のインパクトは絶大であり、まさにテレビ時代に相応しい大ヒット曲だったと言って良い。
<テレビには全く出演しなかった甲斐バンド、『HERO(ヒーローになる時、それは今)』を大ヒットさせる>
これまで見て来た通り、当時は「ザ・ベストテン」など、テレビの歌番組、音楽番組が花盛りであり、
そこから、テレビとの相乗効果で大ヒット曲が次々に生まれていたが、
そんな中、甲斐よしひろ率いる甲斐バンドは、テレビには全く出演せず、ライブ活動が中心だった。
その甲斐バンドが、この年(1979年)『HERO(ヒーローになる時、それは今)』という大ヒットを飛ばしたのは、痛快だった。
このように、当時は「敢えて、テレビには出ない」事で、根強いファンを掴むバンドも居たのである。
このように、1979(昭和54)年も、多種多彩なヒット曲が生まれていた。
<1979(昭和54)年、広島VS近鉄の日本シリーズで、伝説の名場面「江夏の21球」が誕生!!>
1979(昭和54)年のプロ野球は、セ・リーグでは、古葉竹識監督率いる広島東洋カープが、
赤ヘルブームで初優勝した1975(昭和50)年以来、4年振りの優勝を飾り、
パ・リーグでは、西本幸雄監督率いる近鉄バファローズが、球団創立30年目で、初優勝を達成した。
広島は、抑えの切り札となっていた江夏豊と、北別府学、池谷公二郎らの投手陣を、捕手の水沼四郎がよくリードし、
高橋慶彦、山本浩二(法政OB)、衣笠祥雄、ライトル、ギャレット、水谷実雄、三村敏之らの打線が打ちまくり、投打がガッチリ噛み合った優勝だった。
一方、近鉄は、ヤクルトから移籍して来たマニエルを中心に、
平野光泰、小川亨(立教OB)、佐々木恭介、栗橋茂、羽田耕一、梨田昌孝、石渡茂の、強力「いてまえ打線」と、
大エース・鈴木啓示、山口哲治らを中心とした投手陣がよく頑張り、その個性的なメンバーを西本幸雄監督が、よく束ねた。
そして、近鉄は前期優勝を果たすと、プレーオフでは後期優勝の阪急ブレーブスを3連勝で破り(当時のパ・リーグは、前後期制だった)、
見事、近鉄が悲願の初優勝を達成したのである(近鉄は、12球団で最後の初優勝だった)。
こうして迎えた、「広島VS近鉄」の日本シリーズは、3勝3敗で迎えた、最終の第7戦、
広島が4-3と1点リードして迎えた9回裏、広島の抑えの切り札・江夏豊が、無死満塁の大ピンチを招いた。
しかし、江夏豊-水沼四郎のバッテリーは、ここから踏ん張り、石渡茂のスクイズを見破って、ウエストボールでスクイズを阻止するなど、見事にこの大ピンチを切り抜け、広島に初の日本一の座をもたらした。
なお、この9回裏の江夏と水沼のバッテリーと、広島と近鉄の各選手達の濃密な心理戦を、
後日、丹念で詳細な取材により、一編の記事に仕上げたのが、山際淳司の『江夏の21球』である。
『江夏の21球』は、文藝春秋により発行された、スポーツ雑誌『NUMBER(ナンバー)』の創刊号に掲載されたが、
スポーツの、ある一場面を切り取り、その当事者達の心理などの内面に迫る、スポーツ・ライティングという手法は、
この『江夏の21球』の山際淳司により確立されたものである。山際淳司は、スポーツ・ライターの元祖として、伝説的な存在となった。
一方、伝説となった「江夏の21球」の「引き立て役」に甘んじてしまった、
近鉄バファローズ・西本幸雄監督は、今回が通算7度目(大毎で1度、阪急で5度、近鉄で1度)の日本シリーズ出場だったが、
西本監督は、その7度の日本シリーズ全てで敗退という結果となった。
今回は、「日本一」まで、本当に「あと一歩」に迫ったが、またしても西本監督は悲願の「日本一」の座に、手が届かなかった。
試合後、西本監督は無念の表情で、勝者の広島の歓喜のシーンと、表彰式を見詰めていたが、果たして西本監督は、どんな心境だったのであろうか。
(つづく)