【チコちゃん&サザン紅白出場記念】サザン(桑田佳祐)紅白事件簿と、横浜ベイスターズ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1983(昭和58)年の『東京シャッフル』での出場を最後に、紅白歌合戦の舞台から暫く遠ざかったサザンオールスターズと、

1992(平成4)年を最後に、大洋ホエールズとしての歴史に幕を閉じると、1993(平成5)年からは横浜ベイスターズとして新たなスタートを切った、横浜。

 

その両者の歩みを、1993(平成5)年~以降のベイスターズ時代を軸に、振り返ってみる事としたい。

 

<1998(平成10)年、サザンのデビュー20周年で、ベストアルバム『海のYeah!』が大ヒット!そして2000(平成22)年、『TSUNAMI』が爆発的大ヒット!!>

 

サザンオールスターズは、紅白の舞台に登場しなくなってからも、

1989(平成元)年以降、横浜アリーナで毎年のように年越しライブを開催し、

その模様は、毎年TBSで生中継され、新たなファン拡大に寄与した。

 

(1998年、サザンオールスターズのデビュー20周年記念でリリースされたベストアルバム『海のYeah!』

 

サザンのコンサート・ツアーは、年々大規模となり、まさにサザンは国民的バンドの名をほしいままにしたが、

1998(平成10)年6月25日には、サザンはデビュー20周年を記念し、ベストアルバム『海のYeah!』をリリースした。

『海のYeah!』は、サザンのデビュー曲『勝手にシンドバッド』から、当時の最新のヒット曲『愛の言霊』まで、

サザンの歴代のヒット曲を、ほぼ年代順に並べているが、

『海のYeah!』は、これ1枚聞けば、サザンの有名な名曲は、ほぼ大掴み出来るという、サザンの歴史を知るには最適なアルバムである。

 

『海のYeah!』は、そのお得感が大ウケし、約355万枚を売り上げるという、超特大のヒットとなった。

これは、サザン史上、全てのシングル・アルバムの中で、最高セールスとなっているが、

今からサザンを聞きたいけど、何から聞けば良いかわからないという方は、まずは『海のYeah!』をお聞き頂くよう、私も強くお勧めしたい。

 

(2000年、サザンオールスターズ史上、最大のヒット曲となった『TSUNAMI』

 

そして、20世紀最後の年の2000(平成12)年、サザンは名曲『TSUNAMI』をリリースしたが、

リリースされるや否や、『TSUNAMI』は爆発的な大ヒットを記録した。

『TSUNAMI』は売れに売れて、約293万枚という売り上げを記録したが、

これは、オリコン調べで、日本のシングルの売り上げでは、

『およげたいやきくん』(子門真人)約453万枚、

『女のみち』(宮史郎とぴんからトリオ)約325万枚に次いで、

歴代3位という大記録となっている。

 

サザンは、まさに『TSUNAMI』で金字塔を打ち立てたが、

実は私は、1999(平成11)年の大晦日、横浜アリーナでの年越しライブで、『TSUNAMI』の初披露の場に立ち会っている。

その時は、サザンらしい、本当に素晴らしいバラード曲だなと思い、感動したのだが、

それでも、まさかあんなに売れるとは、想像もしていなかったものである。

ともあれ、『TSUNAMI』の大ヒットは、デビュー20年以上、第一線で活躍して来た、サザンの底力も見せ付けるものであったと言って良い。

 

<1998(平成10)年、遂に横浜ベイスターズが38年振りの優勝!!>

 

1993(平成5)年に、新生・横浜ベイスターズとして新たなスタートを切った後、

ベイスターズは徐々に力を付け、1998(平成10)年、横浜ベイスターズは、前身の大洋ホエールズが1960(昭和35)年に優勝して以来、遂に悲願の38年振りの優勝を達成した。

 

 

 

権藤博監督の下、自由奔放なノビノビ野球で、「ハマの大魔神」佐々木主浩という絶対的な抑え投手を中心に、

石井琢朗-波留敏夫-鈴木尚典-ロバート・ローズ-駒田徳広-佐伯貴弘(中根仁との併用)-谷繁元信-進藤達哉「マシンガン打線」が炸裂した。

なお、この時のベイスターズのメンバーは、今でもスラスラと空(そら)で名前が出てくるほど、強烈に印象に残っている。恐らく、この先、一生忘れる事は無いであろう。

 

「ハマの大魔神」佐々木主浩

 

 

 

そして、野村弘樹、斎藤隆、三浦大輔、川村丈夫、戸叶尚らの先発投手陣と、島田直也、五十嵐英樹、横山道哉、阿波野秀幸らの中継ぎ投手陣も奮闘し、

投打がガッチリ噛み合った横浜ベイスターズは、リーグ優勝の勢いそのままに、日本シリーズでも西武を4勝2敗で破り、38年振りの日本一まで駆け上がった。

 

 

 

まさに、1998(平成10)年は、横浜ベイスターズにとって最高の1年であり、

私も、ベイスターズ優勝の感激は、本当に忘れる事は出来ない、最高の思い出である。

しかし、この後、ベイスターズは長い長い暗黒時代を迎える事となってしまった。

 

<2008(平成20)年、サザンがデビュー30周年で無期限活動休止>

 

2008(平成20)年、サザンオールスターズは、デビュー30周年で、無期限活動休止を発表した。

当初、東スポが「サザン解散か!?」とスッパ抜いたが、サザンは解散こそしなかったものの、

サザンは無期限活動休止という、限りなく解散に近い、重大な選択をした。

 

 

サザンは30周年記念シングル『I AM YOUR SINGER』のリリースと、8月の日産スタジアムでの「真夏の大感謝祭LIVE」を最後に、サザンとしての活動に、一旦、幕を下ろした。

この時、桑田佳祐はサザンの活動再開をするとしても、本当に長い期間を空けるつもりだったというが、

この後、桑田を人生最大の危機が襲う事となった。

 

 

 

 

<横浜ベイスターズ、ドン底の暗黒時代…。三浦大輔ただ一人が奮闘。そして2012(平成24)年にはDeNAに球団譲渡>

 

横浜ベイスターズは、1998(平成10)年の優勝の後、優勝メンバーが一人、また一人とチームを去って行き、

優勝の4年後の2002(平成14)年には49勝86敗5分(勝率.363)で、ダントツ最下位に転落した。

翌2003(平成15)年には更に成績が悪化、45勝94敗1分(勝率.324)という悲惨な成績で、2年連続最下位。

翌2004(平成16)年にも最下位で、3年連続最下位に沈むなど、1998(平成10)年の優勝の後、横浜は、アッという間に弱体化した。

 

(ベイスターズ一筋で投げ続けた三浦大輔

 

ベイスターズは、2002(平成14)~2012(平成24)年の11年間で、最下位が9回という、まさにドン底の暗黒時代を迎え、

2008(平成20)~2010(平成22)年には3年連続90敗以上という体たらくである。

この悲惨な暗黒時代で、ただ一人、チームを支え、健闘したのが、1998年の優勝メンバーの一人、三浦大輔投手である。

この時期のベイスターズには、三浦以外、頼れる投手が誰一人居らず、そんな状況で、三浦はひたすら投げ続けた。

 

 

三浦大輔は、2016(平成28)年を最後に引退し、通算172勝184敗という成績を残したが、

弱いベイスターズ一筋で、24年間、エースとして投げ続けてくれた三浦は、ベイスターズ・ファンにとって、特別な存在である。

なお、2012(平成24)年からは、ベイスターズの親会社はDeNAとなり、新たに横浜DeNAベイスターズという名称となった。

なお、横浜DeNAベイスターズの初代監督は、巨人OBの中畑清である。

 

 

<2010(平成22)年、桑田佳祐が食道癌の手術、そして紅白歌合戦で復活!!>

 

2010(平成22)年、桑田佳祐が初期の食道癌で、暫く活動を休止するという、衝撃的なニュースが発表された。

全国のサザンファンは、皆一様に大ショックを受けたが(勿論、私もそうだった)、桑田の病状回復を祈り、皆、一心に祈った。

そして、全国のサザンファンの祈りが天に通じたのか、8月2日、桑田の食道癌の手術は無事に成功し、桑田は22日には無事に退院した。

 

 

その後、桑田は驚異的なスピードで健康を回復させ、

同年(2010)年12月31日、桑田佳祐は、NHK「紅白歌合戦」に、ソロとして特別出演し、

『それ行けベイビー!』『本当は怖い愛とロマンス』という、2曲の新曲を披露した。

桑田が、紅白の舞台に遂に帰って来たが、桑田にとっては、あの『東京シャッフル』以来、27年振りの紅白の舞台であり、

手術後、桑田の初めての公の舞台への登場が、この紅白であった。

桑田の元気そうな姿を見て、全国のサザンファンは皆、ホッと胸をなで下ろしたものである。

 

 

(2010年の紅白歌合戦で、桑田佳祐が復活!!)

 

<2010(平成22)年、横浜ベイスターズに筒香嘉智が入団!!>

 

2010(平成22)年、横浜高校時代に甲子園で大活躍した筒香嘉智が、

暗黒時代真っ只中で、ドン底だった横浜ベイスターズに入団した。

 

同年(2010)年10月7日の阪神戦で、筒香プロ初本塁打を放ち、大器の片鱗を見せたが、

後に、チコちゃんが大ファンとなる筒香は、この年、まだようやくプロ野球選手としての第一歩を歩み出したばかりであった。

しかし、期待の新人・筒香の初本塁打は、当時の横浜ファンにとって、一筋の希望の光だったのである。

 

 

 

 

(横浜DeNAベイスターズ編につづく)