【チコちゃん&サザン紅白出場記念】サザン(桑田佳祐)紅白事件簿と、横浜大洋ホエールズ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

NHKの人気番組「チコちゃんに叱られる」の人気キャラクター、チコちゃんと、サザンオールスターズが、

今年(2018年)のNHK「紅白歌合戦」に出場する事が決定したが、

 

今回はそれを記念して、サザンと桑田佳祐が紅白に出場した年と、

チコちゃん自身が大好きだと公言している大洋ホエールズ⇒横浜(DeNAベイスターズ)が、

その年にどんな戦いぶりを見せたかについて、振り返ってみる事としたい。

 

 

サザン桑田佳祐が、紅白でどのようなパフォーマンスを見せて来たのか、

そして、大洋⇒横浜(DeNA)が、如何にして戦って来たのか、

まずは、サザン『いとしのエリー』を引っ提げ、初めて紅白に出場した1979(昭和54)年から、ご覧頂こう。

 

 

<1979(昭和54)年、サザンが『いとしのエリー』で紅白初出場!!>

 

1979(昭和54)年、サザンオールスターズは、名曲『いとしのエリー』を発表、

『いとしのエリー』は大ヒットを記録し、サザンは音楽的にも高い評価を受けるようになった。

そして、サザンは勢いに乗り、大ヒット曲『いとしのエリー』を引っ提げ、紅白歌合戦への初出場を果たした。

 

この年のサザンは、多忙を極め、ボーカルの桑田佳祐も、歌番組やコンサート・ツアーで歌いまくっていたため、

大晦日を迎える頃には、完全に声が潰れてしまっていたとの事である。

桑田も、紅白当日まで、「紅白、出るの辞めようかな」とまで考えていたそうだが、

紅白当日の朝、桑田は奇跡的に声が出るようになり、サザンは、無事に紅白に出場する事が出来た。

 

(1979(昭和54)年、初の紅白歌合戦出場で『いとしのエリー』を歌う桑田佳祐(サザンオールスターズ)

 

そして、サザンは紅白の舞台で『いとしのエリー』を披露したが、

この時は、サザンはお揃いの衣装(ジャンパー)を着て、とても真面目に歌っており、

特に何か騒動を起こしたわけではなかった。

 

 

なお、この年の紅白では、1972(昭和47)年を最後に、紅白の舞台から遠ざかっていた美空ひばりが、

特別枠で出演し、7年振りに紅白の舞台に帰って来た事でも話題になった。

 

<1979(昭和54)年、横浜移転2年目の大洋、15年振りの2位確保!!>

 

 

前年の1978(昭和53)年に、本拠地を川崎球場から、新装成った横浜スタジアムへと移転した大洋は、

横浜大洋ホエールズとして、新たなスタートを切った。

新生・横浜大洋ホエールズ(以下、大洋と称す)、横浜移転初年度の1978(昭和53)年こそ4位に終わったが、

横浜移転2年目の1979(昭和54)年の大洋は、1964(昭和39)年以来、15年振りに2位の座を確保した(優勝は広島)。

 

(1978(昭和53)年当時の、まだヒゲが無い斉藤明夫投手)

 

(1978(昭和53)年に大洋に入団した遠藤一彦投手。入団当時はメガネをかけていた)

 

2年目の遠藤一彦投手が12勝12敗8セーブの成績で、中日・藤沢公也投手と、最後まで新人王を争い、

プロ3年目の斉藤明夫投手も11勝を挙げ、投手陣を引っ張ったが、

遠藤一彦斉藤明夫の両エースは、以後、大洋の投手陣の大黒柱となった。

また、ミヤーンが打率.346で、大洋の球団史上初の首位打者を獲得した。

 

(1979(昭和54)年、大洋の球団史上初の首位打者を獲得した、ミヤーン

 

大洋の別当薫監督(慶応OB)は、この年限りで退任したが、

別当薫監督は、監督生活20年で通算1237勝を挙げ、多くの名選手を育て上げたものの、

遂に、優勝には届かずに監督生活を終える事となった。

 

(1979(昭和54)年限りで退任した、別当薫監督

 

<1982(昭和57)年、サザンが『チャコの海岸物語』で2度目の紅白出場!大事件を巻き起こす>

 

1982(昭和57)年、サザンは『チャコの海岸物語』が大ヒットし、

サザンは3年振りの紅白出場を果たした。

 

サザンは、紅白のリハーサルでは、ごく普通に歌い、衣装も大人しいものだったらしいが、

紅白の本番のステージで、サザンは大騒動を巻き起こした。

 

(1982(昭和57)年、サザンオールスターズ『チャコの海岸物語』で2度目の紅白出場。大騒動を巻き起こす)

 

ボーカルの桑田は、顔を白塗りにして、サザンのメンバーは羽織袴に制帽という、壮士スタイルで登場(原由子は、ピンクの着物の衣装で登場)したが、これは事前のリハーサルとは全く違う物だったという。

 

 

そして、『チャコの海岸物語』の演奏が始まり、桑田が歌い始めると、

桑田は、「有り難うございます」とか「(お客様は)神様です」などと、歌の合間に、明らかに三波春夫と思われるような台詞を連発した。

そして、間奏の時に、桑田「私達は、放送禁止なども数多くございますが、こうして、いけしゃあしゃあとNHKに出させて頂いております。とにかく皆さん、受信料を払いましょう!裏番組はビデオで見ましょう!」というMC(?)を行なった。

 

 

勿論、こんな台詞は段取りには全く無く、NHKも大慌てしたようだが、何しろ紅白は生放送なので、止めようがない。

結局、サザンは紅白のステージを所狭しと暴れ回り、サザンの2度目の紅白の舞台は終わった。

この桑田とサザンのパフォーマンスは、大変な物議を醸したが、お仕着せの段取りなんかやらねえ!という、ロック魂というか、

パンクの精神が、この時のサザンには有ったと思われる。

この時のサザンの映像を見ると、桑田の歌いっぷりは、忌野清志郎を彷彿とさせるものが有り、いつもの桑田とは明らかに違っていたのであった。

 

<1982(昭和57)年、関根潤三監督1年目の大洋、序盤に旋風を巻き起こす!!>

 

前年の1981(昭和56)年、大洋はダントツ最下位に終わり、特に巨人には4勝20敗2分と大敗し、

「横浜大洋銀行」と揶揄されてしまう程、弱かった。

その責任を取って土井淳監督(明治OB)が退任し、1982(昭和57)年からは関根潤三監督(法政OB)が就任。

 

(1982(昭和57)年、大洋の監督に就任した関根潤三

 

すると、大洋は開幕当初、7勝4敗1分と好スタートを切り、序盤は首位に立つなど、セ・リーグに旋風を起こした。

結局、中盤以降は失速し、大洋は最終的には5位に終わったものの、

エース・遠藤一彦が、ライバルの江川卓(巨人)に初めて投げ勝つなど11勝を挙げ、

抑えに転向した斉藤明夫が、日本新記録(当時)の30セーブを挙げ、規定投球回数にも達して最優秀防御率も獲得、

長崎啓二(法政OB)打率.351首位打者を獲得するなど、大洋にとっては実り多いシーズンだったと言って良い。

 

(1982(昭和57)年、初めて江川卓に投げ勝ち、11勝を挙げた、遠藤一彦

 

(1982(昭和57)年、30セーブの新記録(当時)を作った、斉藤明夫

 

(1982(昭和57)年、初の首位打者を獲得した、長崎啓二

 

<1983(昭和58)年、サザンが『東京シャッフル』で3度目の紅白出場!!>

 

前年(1982年)の紅白で、大騒動を巻き起こし、暫くNHKに出入り禁止となっていたサザンは、

1年後の紅白に、3度目の出場を果たした。

大騒動を起こしたとはいえ、当時のサザンの人気はNHKとしても無視出来ないものだったという事だろう。

 

そして、サザンは紅白のステージで『東京シャッフル』を歌ったが、

サザンはバンドで演奏したのではなく、全員でマイクを持って歌う、

かつてのピンキーとキラーズのようなスタイルのステージを見せた。

 

(1983(昭和58)年、サザンオールスターズ『東京シャッフル』で3度目の紅白出場)

 

しかし、この年のサザンには『東京シャッフル』よりも、『ボディ・スペシャルⅡ』というヒット曲が有り、

どう考えても『ボディ・スペシャルⅡ』の方が、この年のサザンの代表曲には相応しかったと思われるが、

過激な歌詞の『ボディ・スペシャルⅡ』は、NHKには相応しくないと判断されたのか、

結局は『東京シャッフル』に落ち着いたようである。

 

しかし、これ以降も『ボディ・スペシャルⅡ』は、サザンのコンサートでも頻繁に披露された一方、

『東京シャッフル』は、殆んど歌われていない。

桑田としても、もしかしたら紅白の曲の選考には不満が有ったのかもしれない。

ともあれ、この1983(昭和58)年を最後に、サザンは長らく、紅白のステージからは遠ざかる事となった。

 

<1983(昭和58)年、大洋は4年振りAクラス(3位)確保!!平松政次が通算200勝を達成!!>

 

1983(昭和58)年、関根潤三監督体制2年目の大洋は、

前年(1982年)とは逆に、前半戦は最下位と低迷したものの、

後半戦から大きく巻き返し、大洋は結局は3位で、4年振りのAクラスの座を確保した。

 

(1983(昭和58)年、初の沢村賞を受賞した遠藤一彦

 

その原動力となったのは、18勝9敗の成績で、初の沢村賞を受賞した、大エース・遠藤一彦の力投と、

高木豊、長崎啓二、トレーシーという3人の3割打者と、

この年にロッテから移籍した、リー兄弟の弟、レオン・リーの30本塁打という強力打線の活躍であった。

また、1983(昭和58)年は、長年大洋を支えたエース・平松政次通算200勝を達成するという、嬉しいニュースも有った。

 

(1983(昭和58)年、ロッテから大洋に移籍し、30本塁打と活躍したレオン・リー

 

(1983(昭和58)年、通算200勝を達成した平松政次

 

大洋は5位⇒3位と上昇し、次は優勝をと期待されたが、

翌1984(昭和59)年は、遠藤一彦17勝2年連続最多勝を獲得したものの、

それ以外の投手陣が壊滅状態で、大洋は再び最下位に転落し、関根監督は退陣に追い込まれた。

なお、1984(昭和59)年限りで、平松政次も現役を引退した。

 

 

<1991(平成3)年、原由子が『花咲く旅路』で紅白出場!大洋ホエールズの歴史は1992(平成4)年限りで幕を閉じる>

 

サザンは1983(昭和58)年を最後に、紅白には出なくなったが、

1989(平成元)年には、横浜アリーナで、サザンは初めて年越しライブを開催した。

初の年越しライブは、TBSで生中継され、大盛況の内に終わったが、

以後、サザンは毎年、横浜アリーナで年越しライブを行なう事が恒例となった。

 

(1989(平成元)年以降、サザンオールスターズ横浜アリーナでの年越しライブは恒例行事となった)

 

なお、1991(平成3)年には、原由子『花咲く旅路』で、初めてソロとして紅白出場を果たしたが、

サザンオールスターズとしての出場ではなかったものの、サザン関係者としては久々の紅白出場であった。

 

(1991(平成3)年、原由子『花咲く旅路』で、ソロとして紅白初出場)

 

そして、横浜大洋ホエールズは、1992(平成4)年を最後に、その歴史に幕を閉じ、

翌1993(平成5)年からは横浜ベイスターズと改称し、新たなスタートを切る事となった(1992年、大洋のラストシーズンは5位)。

 

(1992年10月7日、引退試合(大洋ホエールズのラストゲーム)で胴上げされる遠藤一彦

 

なお、遠藤一彦も1992(平成4)年限りで現役引退したが、

遠藤の現役生活は、ちょうど横浜大洋ホエールズの期間(1978~1992年)と、全く重なっており、

まさに、遠藤は横浜大洋を象徴する存在だったと言えよう。

また、遠藤の引退試合(大洋ホエールズのラストゲーム)で、この年(1992年)に入団した三浦大輔(後に、ハマの番長と称された)がプロ初登板を果たしているが、

まさに、ホエールズ⇒ベイスターズのエースが交代した、象徴的な出来事であった。

 

(※ちなみに、遠藤一彦の引退試合(1992年10月7日 横浜スタジアムの大洋-巨人戦。試合は巨人が1-0で勝利)で、遠藤を送る曲として横浜スタジアムで流れていたのは、長渕剛『乾杯』であった)

 

 

 

そして、横浜ベイスターズ元年の1993(平成5)年には、

斉藤明夫も現役引退し、これで遠藤・斉藤の両エースの時代は、

名実共に終わりを告げた。

 

 

 

 

(「サザン(桑田佳祐)紅白事件簿と、横浜ベイスターズ編」につづく)