先日(12/11)、映画『ボヘミアン・ラプソディ』の、2度目の鑑賞を行なった。
最初に見た時は、その時の感動の余韻もそのままに、
当ブログで「『ボヘミアン・ラプソディ』と法政黄金時代」という記事を書かせて頂いたが、
今回は、映画『ボヘミアン・ラプソディ』の2度目の鑑賞の感想と、
この映画のクライマックスである、「ライヴ・エイド」が開催された、1985(昭和60)年という年にスポットを当てて、書いてみたい。
1985(昭和60)年という年は、色々な意味で、エポックメイキングな出来事が起こった年であった。
その象徴ともいうべき出来事が、「ライヴ・エイド」の開催と、プロ野球の阪神タイガースの21年振りの優勝、
そして、東京六大学野球の慶応野球部の57年振りの無敗優勝達成だった。
<映画『ボヘミアン・ラプソディ』を読み解くキーワード ~「家族」とは何か>
映画『ボヘミアン・ラプソディ』は、世界的バンド、QUEEN(クイーン)の事績を、
ボーカルのフレディ・マーキュリーの視点を中心に描いた作品である。
QUEEN(クイーン)は、フレディ・マーキュリー(ボーカル)、ブライアン・メイ(ギター)、ロジャー・テイラー(ドラム)、ジョン・ディーコン(ベース)という、
個性豊かで、才能溢れる4人により結成され、ロックバンドという枠には収まりきらない、その豊かな音楽性と、斬新なサウンド、
そして、唯一無二ともいうべき、フレディの抜群の歌唱力などが相俟って、1970~1980年代にかけて、世界の頂点を極めた、
まさに世界的なスーパースターという存在だった。
しかし、映画『ボヘミアン・ラプソディ』では、QUEEN(クイーン)が物凄い勢いで、スーパースターへの階段を駆け上がって行く一方、
フレディの、徐々に心の闇が深まって行く様子が、赤裸々に描かれている。
フレディには、メアリー・オースティンという恋人が居り、2人は永遠の愛を誓い、事実上の婚姻関係にあった。
映画『ボヘミアン・ラプソディ』では、フレディのメアリーに対する愛情の深さが、きめ細やかに描かれている。
フレディが、恋人のメアリーに指輪をプレゼントして、
フレディが「左手の薬指に付けて。結婚しよう」と、メアリーにプロポーズする場面は、実に感動的だった。
そして、その指輪は、どんな事が有っても絶対に外さないで欲しいと、フレディはメアリーに告げていた。
しかし、後年フレディは、メアリーに対し、「僕は、両性愛者だ」と告白し、
メアリーが、「いいえ、貴方は同性愛者よ」と答え、二人は、泣く泣く破局したという場面が出て来る。
メアリーにとって辛いのは、愛するフレディは、別に何か悪い事をしたわけではないのに、
別れなければならない、という事であった。
そして、フレディもまた、愛するメアリーとの別れは、大きな痛手となった。
フレディにとって救いだったのは、それ以降もメアリーとの友人関係は続き、
折に触れて、メアリーがフレディを良い方向に導いてくれる事だったのだが、
フレディには、強く望んでも、どうしても得られない物が有った。
それは、家族である。
QUEEN(クイーン)が世界的な名声を得て、豪邸に住むようになったフレディだが、
ロジャーを家に招いて、食事でもどうかと言っても、ロジャーは、
「ごめん、妻と子供が待ってるから」と言って、帰ってしまう。
「そうか、そうだよな。また今度な」と言うフレディだったが、その顔には寂しさが浮かんでいた。
その後、自宅に大勢の人を招いて、乱痴気騒ぎの大パーティーを開いても、
QUEEN(クイーン)のメンバー達は、やがて、妻や家族が待っている家へ帰ってしまうのである。
いくら、取り巻きが大勢居たとしても、家庭を持たないフレディの寂しさは、どうしても拭えないものであった。
そして、遂に、「ソロ活動をやらないか」という、高額な契約金のオファーが来た時、
悩んだ末に、フレディは契約書にサインをしてしまうのである。
しかも、QUEEN(クイーン)のメンバーには黙ったままサインしてしまったものだから、
ブライアン、ロジャー、ジョンの3人は、激怒した。
「QUEEN(クイーン)は、家族じゃなかったのか」と言うロジャーに対し、
フレディは、「君らには家族が居る。でも、僕には居ない」と、
家族というものを持たないフレディは、所詮はQUEEN(クイーン)は仕事仲間で、
本当の家族ではない、という趣旨の事を言ってしまうのである。
「それを言っちゃあ、おしまいよ」という話だが、
ここで、QUEEN(クイーン)は、解散こそ免れたものの、一旦はバラバラになってしまった。
あれだけの結束を誇った、QUEEN(クイーン)の絆が壊れてしまう、この場面は、見ていてとても辛いものだった。
<「家族」の再生 ~フレディ、本当に大切な物に気付く!!>
しかし、QUEEN(クイーン)を飛び出し、ソロ活動を始めたものの、
フレディは曲作りに行き詰まり、音楽活動は全く上手く行かない。
取り巻きはいるものの、その連中は、実はフレディの事を気にかけているのではなく、
フレディの富と名声が目当てで集まって来るような輩であった。
そんな様子を見かねたメアリーが、フレディに、
「貴方は、こんな所に居てはダメ。みんな(QUEEN)の所に戻らないと。貴方は、愛されてるのよ。でも、ここの人達は、誰も貴方を気にかけてはいない」と、諭した。
そして、フレディはQUEEN(クイーン)に戻る事を決意し、
QUEEN(クイーン)のメンバーと再会し、頭を下げて、また一緒にやりたいと告げた。
「僕は、クソ野郎だった。本当に悪かった。怒って当然だよな。でも、またみんなと一緒にやりたいんだ。やっぱりQUEEN(クイーン)は家族だ。家族なら、時には喧嘩もするけど、やっぱり一緒に居るべき存在だ。その事に、ようやく気が付いた」
と、フレディは謝罪し、自分にとって、QUEEN(クイーン)は家族のような存在だと告げた。
ブライアン、ロジャー、ジョンの3人も、最終的にはフレディの謝罪を受け入れ、
QUEEN(クイーン)は活動する事になった。
それは、世界的なチャリティー・コンサート「ライヴ・エイド」(1985年)に、QUEEN(クイーン)として出演するためでもあった…。
<映画『ボヘミアン・ラプソディ』は、「家族」の再生の物語>
QUEEN(クイーン)に戻ったフレディだが、実はエイズという病に冒されていた。
その事をフレディから告げられ、3人はショックを受けるが、フレディは、
「同情はやめてくれ。俺は、みんなと最高のステージを作りたいんだ。自分が何者なのかは、自分が決める。俺は、パフォーマーとして、この世に生まれて来たんだ」と言い、QUEEN(クイーン)で最高のステージを作り上げようと、宣言した。
そして、結束を取り戻したQUEEN(クイーン)は、ライヴ・エイドでは、伝説的な最高なパフォーマンスを見せたのであった。
練習では今一つだったフレディの歌声も、本番のステージでは絶好調で、最初は不安気だった、ブライアン、ロジャー、ジョンの3人も、
ホッと安心したような笑顔を見せた。
そして、最高に弾けたパフォーマンスを見せるフレディを、3人は本当に嬉しそうな表情で見守っていた。
それは、フレディは自分達の誇りであり、俺達は、最高の家族だと言っているような表情に見えた。
更に、フレディにはQUEEN(クイーン)だけではなく、実家で見守る両親と妹という、本当の家族も居り、
フレディは、家族に向かって、カメラに向かってキスをするという約束も果たして見せた。
また、ステージの舞台袖では、メアリーや、ジム・ハットン(フレディのパートナー)など、愛する人達も見守っていた。
こうして、フレディは、QUEEN(クイーン)のメンバーや愛する人達に見守られながら、
ライヴ・エイドで、QUEEN(クイーン)は見事に最高のステージをやってのけたのだが、
ライヴの素晴らしさは勿論、フレディが大切な人々との絆を取り戻すという、その非常にストレートなメッセージ性が、この映画には有り、
それこそが、映画『ボヘミアン・ラプソディ』が、ここまで多くの人達に絶賛されている要因ではないかと、私は思った。
映画『ボヘミアン・ラプソディ』とは、「家族」の再生の物語であり、
この映画には、人と人との絆を描いた、普遍的な素晴らしさが有るという事を、私は2度目の鑑賞を通して、再確認したものである。
<1985(昭和60)年、阪神タイガースが21年振り優勝!!>
ところで、ライヴ・エイドが開催された1985(昭和60)年という年、
日本のプロ野球で、阪神タイガースが、実に21年振りの優勝を達成し、世間をアッと言わせた。
(1985(昭和60)年、阪神タイガースが21年振りの優勝)
ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布(早稲田OB)という、超強力クリーンアップトリオは、
4/17の甲子園球場での巨人戦で、槙原寛己投手から、バックスクリーン3連発という、球史に残る、ド派手な活躍を見せた。
1番の真弓明信が34本塁打、3番のランディ・バースが打率.350 54本塁打 134打点で三冠王、4番の掛布雅之が40本塁打、5番の岡田彰布が35本塁打など、超強力打線で、他球団を粉砕した。
(1985(昭和60)年4月17日、ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布が、伝説の「バックスクリーン3連発」を放つ)
(バース、掛布、岡田の超強力クリーンアップが大爆発し、阪神優勝の原動力に)
(1番打者の真弓明信も34本塁打で、阪神優勝に大きく貢献)
この年の阪神タイガースの快進撃は、日本中に大フィーバーを巻き起こし、虎フィーバーは社会現象となったが、
10/16、マジック1の阪神は、神宮球場のヤクルト戦で5-5の引き分けで、遂に21年振りの優勝を決めた。
例年、お家騒動でゴタゴタする事が多かった阪神は、1985(昭和60)年には、吉田義男監督を中心に、まさに家族のような一致団結ぶりであり、その結束力こそが、優勝の最大の要因だったと思われる。
(1985年10月16日、神宮球場に集結した阪神ファンが、球場全体を占拠。21年振りの阪神優勝を祝福)
そして、その勢いは最後まで衰えず、阪神は日本シリーズでも西武ライオンズを4勝2敗で破り、
見事、阪神は球団史上初の日本一に輝いたのであった。
(1985(昭和60)年、阪神タイガースは球団史上初の日本一)
<1985(昭和60)年秋、慶応が57年振りの無敗優勝!!>
その1985(昭和60)年秋、東京六大学野球では、慶応が初戦に引き分けた後、破竹の10連勝で、
見事、1928(昭和3)年秋の10戦全勝以来、実に57年振りという10勝無敗優勝を達成した。
(1985(昭和60年)秋、慶応は57年振りの10勝無敗優勝を達成)
(1985(昭和60)年秋の慶応の優勝メンバー)
慶応は、1972(昭和47)年秋の優勝(三連覇)を最後に、実に13年も優勝から遠ざかっており、
1980年代前半は、東大と最下位争いをするまでに低迷したが(慶応は1977年春と1981年春には最下位に転落)、
1985(昭和60)年秋、慶応は1年生エース・志村亮のシーズン5勝という快投もあり、
遂に長い眠りから醒め、見事に13年振りの優勝、57年振りの無敗優勝を達成したのだった。
(1年生エース・志村亮(右端)は1985年秋の早慶1回戦で満塁ホームランを放った)
慶応は、1928(昭和3)年秋、全勝優勝を記念して、ストッキングに白線を1本入れ、
以後、全勝優勝を達成するごとに1本ずつ加える事となっていたが、
この1985(昭和60)年秋、遂に57年振りに2本目の白線が入った。
(1985(昭和60)年秋、慶応のユニフォームのストッキングに、57年振りに2本目の白線が入った(右))
このシーズンの慶応優勝の要因もまた、何が何でも優勝するという、一致団結した結束力にあった事は、論を待たないところである。