阪急・宝塚・東宝を作った男、小林一三の生涯(3~4)の補足 ~大逆事件と明治大学野球部誕生~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

小林一三が三井銀行を退職し、三井銀行大阪支店時代の上司・岩下清周の引きにより、

1910(明治43)年に、箕面有馬電気鉄道(後の阪急電鉄)を設立した頃の時代背景について、少し触れておく事とする。

日露戦争が終結し、日本とロシアの関係が改善する一方、日米関係は悪化した。

 

また、1910(明治43)年には日韓併合が行われたが、その前年(1909年)には伊藤博文が暗殺された。

そして、1910(明治43)年には、日本中を震撼させた大逆事件が起こった。

そのように、世の中が騒然とした状況の中、明治大学野球部が誕生したのである。

 

(1910(明治43)年に起こった大逆事件を報じる新聞記事)

 

<日韓併合への道>

 

朝鮮半島への権益拡大を目指す日本は、

日露戦争の最中である1904(明治37)年9月、第1次日韓協約を締結し、

日本は韓国の外交権を制限し、財政の指導権を握った。

 

更に、1905(明治38)年には、日米の間で桂・タフト協定が結ばれ、

日本の韓国保護国化と、アメリカのフィリピン支配を、相互に承認すると、

同年(1905年)には日英同盟を改訂し、日本はイギリスにも韓国保護国化を承認させた。

 

(桂・タフト協定を結んだ、桂太郎(右)と、ウィリアム・タフト

 

米英両国の承認を背景として、同年(1905年)11月、第2次日韓協約が締結され、

日本は韓国の外交権を奪うと、漢城(ソウル)に統監府を置き、初代統監には伊藤博文が就任した。

 

(初代内閣総理大臣にして、韓国統監府の初代統監・伊藤博文。後に安重根により暗殺)

 

また、日本の満州進出が本格化し、

1906(明治39)年には、関東州(旅順・大連を含む、遼東半島南端の租借地)を統治する関東都督府が設置され、

大連に半官半民の南満州鉄道株式会社(満鉄)も設立された。

更に、日露戦争の戦勝の結果、日本がロシアから獲得した長春-旅順間の旧東清鉄道に加え、鉄道沿線の炭鉱も経営した。

 

南満州鉄道(満鉄)特急あじあ号

 

日本とロシアの関係は改善されたが、アメリカは日本の南満州進出に神経を尖らせ、

日米関係は急速に悪化した。

1906年には、アメリカで急激に排日運動が高まった事も、その一因とされる。

 

日本に野球を伝えた国・アメリカとの関係が悪化してしまったのに対し、

第2次日英同盟協約や、4次にわたる日露協約(1907~1916年)で、

日本は英国やロシアとの関係を深め、朝鮮や満州の経営を国際的に承認させる戦略を取った。

 

1907(明治40)年6月には、韓国の皇帝・高宗が、オランダのハーグで開かれた、第2回万国平和会議に密使を派遣し、

日本の統監府設置に抗議しようとしたが、列強に無視されるという、ハーグ密使事件が起きた。

 

(ハーグ密使事件を起こした、韓国の皇帝・高宗(左))

 

すると、同年(1907年)7月には、第3次日韓協約が締結され、

日本は皇帝・高宗を退位させると、韓国の内政権も獲得した。

こうして、日本は韓国を事実上、保護国化して行ったが、

 

(日韓併合により、初代総督に就任した寺内正毅

 

1909(明治42)年には、韓国国内で義兵闘争が激化し、日本は軍隊を増派してこれを鎮圧。

その最中、同年(1909年)10月には前統監・伊藤博文がハルビンで安重根に暗殺された。

伊藤博文は、完全な日韓併合には反対の立場だったとされているが、

翌1910(明治43)年には、日韓併合条約が結ばれ、日韓併合が行われた。

なお、初代総督には寺内正毅が就任している。

 

 

<社会主義運動の発展~安部磯雄と幸徳秋水>

 

日本国内では、急速な近代化に伴い、労働者の権利の保護を求めるための社会運動が激化していた。

1897(明治30)年の労働組合期成会の結成(片山潜らが参加)を皮切りに、

翌1898(明治31)年には、片山潜、幸徳秋水、後に早稲田大学野球部の初代部長となる安部磯雄らを中心に、

社会問題研究会を発展させた社会主義研究会が結成された。

 

(社会主義運動に積極的に関わり、後に早稲田大学野球部初代部長となった安部磯雄

 

(1910(明治43)年、大逆事件の首謀者として逮捕、後に死刑が執行された幸徳秋水

 

更に、社会主義研究会は、1900(明治33)年に社会主義協会と改称され、

より活発に活動を行なうようになった。

これに対し、同年(1900年)、第2次山県有朋内閣は、治安警察法を制定し、労働運動の取り締まりを強化。

労働組合期成会は会員が減少し、自然消滅した。

 

(1900(明治33)年、治安警察法を制定し、社会主義運動を取り締まった山県有朋

 

そして、1901(明治34)年、片山潜、幸徳秋水、安部磯雄、木下尚江らは、

日本初の社会主義政党・社会民主党を結成したが、治安警察法により、翌日に解散させられた。

安部磯雄は、このように積極的に社会主義運動に関わる一方、早稲田大学の教授として、学生達の指導にあたった。

安部磯雄の人柄は、学生達に敬愛され、同年(1901年)に早稲田大学野球部が創部された際に、初代部長に就任している。

 

1906(明治39)年には、日本の全ての社会主義者が大同団結し、日本社会党が結成されたが、

当初は、安部磯雄・木下尚江らの穏健なキリスト教社会主義が優勢だったものの、

徐々に、幸徳秋水らの直接行動派が主流となって行った。

日本社会党は、日本初の合法的社会主義政党ではあったが、1907(明治40)年には、これまた治安警察法により解散させられた。

 

このように、幸徳秋水は過激な社会主義者として、完全に政府や警察に目を付けられる存在であった。

 

 

<1910(明治43)年、大逆事件が発生>

 

1910(明治43)年、幸徳秋水の一派、菅野スガ、宮下太吉らは、明治天皇暗殺を企てたとして、

長野県山中で爆弾実験を行なっているのを探知され、逮捕された。

これを機に、首謀者とされる幸徳秋水も逮捕され、事件に関与したとされる数百人も一斉に逮捕された。

 

(1910(明治43)年、大逆事件により逮捕された、菅野スガ

 

そして、天皇暗殺を企てたという大逆罪が適用され、幸徳秋水ら24人に死刑判決が下されたが、

裁判は、大審院で非公開で1回しか開かれず、幸徳秋水、菅野スガら12人は翌1911(明治44)年に死刑が執行された(12人は、無期懲役に減刑)。

 

幸徳秋水菅野スガは、一時、内縁関係にあった。二人とも大逆事件で逮捕され、死刑が執行された)

 

これが、世間を震撼させた大逆事件の顛末であるが、

刑場の露と消えた幸徳秋水と、この後、学生野球の父として長く活躍した安部磯雄は、一時は同じ団体で活動をした仲であった。

幸徳秋水安部磯雄の運命は、このようにハッキリと明暗が分かれてしまったが、

要するに、幸徳秋水の過激な思想が、当局に目を付けられ、睨まれていたため、このような結果になってしまったと思われる。

 

 

<1910年、明治大学野球部が誕生>

 

1906(明治39)年、早慶戦が両校の応援団による応援合戦の過熱が原因で、中止に追い込まれた後、

早慶両校の関係は全く断絶し、以後、20年の長きにわたり、早慶戦は中断されてしまうのだが、

その間に台頭したのが、新興の明治大学野球部である。

 

明治大学では、1906(明治39)年頃、校内に野球チームが出来たとの記録が有るが、

これは、同好会的な要素が強く、明治大学当局には、正式には認められていなかった。

 

その後、大逆事件が起きたのと同じ1910(明治43)年、明治大学分校(商科と予科)の学生達が野球チームを結成し、同じく、有志により野球チームを結成していた中央大学と、現在の東京駅前に有った三菱ヶ原で試合を行なったが、

明治大学は、中央大学に1-2で敗れてしまった。

 

中央大学に敗れたリベンジを期して、今度は、全明治大学の学生達から選抜チームが作られ、

明治大学は中央大学に再戦を挑み、今度は、明治が3-1で中央に勝利した。

これが、明治大学野球部の名が初めて文献に登場する、記念すべき初試合である。

 

その後、明治大学内海弘蔵教授と、学友会の佐竹官二が、正式な野球部創部について、理事会に熱心に説いて回ったが、

当初、理事会では野球部創部に反対の空気が強かった。

しかし、内海弘蔵教授は、明治大学の創設者である岸本辰雄学長に直談判すると、

岸本辰雄学長は、内海弘蔵教授の熱意に打たれ、野球部創部の許可を与えた。

 

明治大学の創立者・岸本辰雄

 

こうして、内海弘蔵教授と佐竹官二の熱意と、岸本辰雄学長の英断により、

1910(明治43)年、明治大学野球部は創部された。

 

(1910(明治43)年、創部当時の明治大学野球部

 

明治大学野球部は、このように難産の末に産声を上げたのだが、

慶応OBの青木泰一をコーチに迎え、チーム強化を図った。

そして、同年(1910)年9月10日、明治は慶応と試合を行なったが、

これが、明治大学野球部の記念すべき公式戦第1号である。

 

明治大学野球部創部に尽力した、明治大学内海弘蔵教授)

 

なお、明治大学野球部の初代監督は、前述の佐竹官二で、初代野球部長は内海弘蔵、初代主将は中津川源吾捕手であるが、

内海弘蔵教授は東大ボート部の出身で、初代監督・佐竹官二慶応のボート部出身であった。

 

明治大学野球部は、ボート部出身の二人の見事なオール捌きにより、野球界に船出したという事になるが、

この二人が居なかったら、もしかしたら明治大学の野球部誕生は無かったかもしれないし、

有ったとしても、今とは違った形になっていた可能性も有る。

 

そして、この時に明治大学野球部が誕生していなかったら、後の東京六大学野球も生まれていなかったかもしれない(※東京六大学野球誕生における明治の役割は非常に大きかったのだが、その事については、別の機会で述べる予定である)。

そう考えると、内海弘蔵佐竹官二の功績は、特筆大書すべきであろう。