阪急・宝塚・東宝を作った男、小林一三の生涯(その1)の補足 ~日清戦争と、慶應義塾野球部誕生~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

今回の記事は、阪急グループ、宝塚歌劇団、東宝グループの生みの親・小林一三の生涯について書いているが、

小林一三が三井銀行で働き、やがて、後の阪急電鉄を創設した時代というのは、

ちょうど日本が近代化に向けて邁進し、日清戦争(1894~1895年)日露戦争(1904~1905年)という大きな戦争を経験した時代と重なっている。

 

今回は、「小林一三の生涯(その1)」で書ききれなかった、この頃の時代背景というものに、少し触れておく事としたい。

(若き日の小林一三の写真)

 

<日清戦争の時代>

 

阪急グループ、宝塚歌劇団、東宝グループの生みの親・小林一三は、

1892(明治25)年に慶應義塾を卒業すると、

1893(明治26)年に、三井銀行の大阪支店に就職したが、

 

1894(明治27)年、一三が新米銀行員として働き、現金輸送中に、危うく金を盗まれそうになっていた(?)頃、

朝鮮半島への権益拡大を狙う日本と、清国との間で日清戦争が勃発した。

 

 

 

明治維新により、アジアの中でいち早く近代化に成功していた日本は、軍備の面で清国を圧倒しており、

日清戦争は、日本の圧勝に終わった。

翌1895(明治28)年、岩下清周が三井銀行の大阪支店の支配人に赴任した年、

日本と清国の間で下関条約(日本全権:伊藤博文、清国全権:李鴻章)が締結されたが、

 

日清戦争終結の講和会議で、下関条約が締結)

 

(日本の全権大使:伊藤博文

 

(清国の全権大使:李鴻章

 

日本が清国から獲得した遼東半島は、ロシア・フランス・ドイツの列強による、

所謂「三国干渉」により、返還させられた。

 

(当時の風刺画。朝鮮の利権を争う日本と清国を、ロシアが虎視眈々と狙っている)

 

この事は、日本のロシアに対する敵愾心を生み(当時の日本人の間にで「臥薪嘗胆」という言葉が流行った)、

10年後の、日露戦争の遠因となった。

 

なお、岩下清周が、積極的に当時のベンチャー企業への融資を行なったという事には既に触れたが、

日清戦争の勃発で、軍需産業の特需で大儲けした、藤田組の藤田傳三郎が、

日清戦争が終わった後に、景気が冷え込んでしまい、会社がにっちもさっちも行かなくなっていた際に、

岩下が、三井銀行の本社の裁量を仰がず、独断で巨額の融資を行なったというエピソードが、

『経世済民の男』でも描かれている。

 

小林一三の、三井銀行大阪支店時代の上司・岩下清周

 

(藤田組の藤田傳三郎

 

小林一三の生涯は、このように、近代日本の激動の時代と重なっているのである。

 

 

<慶應義塾野球部の誕生>

 

なお、小林一三を語る上で、どうしても外せないのが、小林一三と野球との関わりである。

一三は、今に残る宝塚歌劇団東宝グループの生みの親として、大変有名だが、

彼は、その生涯で野球にも深く関わっている。

 

一三と野球との関わりについては、後に詳しく触れる事として、

ここでは、一三慶應義塾で学んでいた頃は、ちょうど、慶應義塾野球部の黎明期と重なっている、

という事について、記しておく事とする。

 

明治維新の直後、アメリカから日本にベースボール(野球)が伝来し、

まず最初に、旧制第一高等学校(一高)で野球が盛んとなった。

そして、一高に野球部が創部され、暫くは一高の黄金時代が続いた。

 

その後、東京の各校の間でも野球熱が高まり、相次いで野球部が創部されたが、

一三が、福澤諭吉が塾長を務める慶應義塾に入学した1888(明治21)年という、まさにその年に、

慶應義塾に、三田ベースボール倶楽部が誕生した。

 

慶應義塾の創立者・福澤諭吉

 

この三田ベースボール倶楽部が、今日まで続く慶應義塾大学野球部の源流であるが、

一三慶應義塾を卒業した1892(明治25)年、三田ベースボール倶楽部は、

この年に発足した慶應義塾体育会の傘下となり、正式に、慶應義塾体育会野球部が創部された。

 

同好会的な要素が強かった三田ベースボール倶楽部が、正式に体育会の野球部となったわけだが、

現在の東京六大学の野球部の中で、慶應義塾の野球部の創部は、最も古いという事になる(東大のルーツ、旧制一高野球部を除く)。

 

そして、誕生したばかりの慶應義塾野球部は、翌1893(明治26)年6月19日には、

当時全盛を誇っていた一高を、初対戦で破るという大金星を挙げた。

こうして、慶應義塾野球部は、強豪として名を馳せる事となった。

 

(創部当時の慶應義塾野球部と、本拠地の三田綱町グラウンド)

 

このように、一三慶應義塾で学んでいたのと同時期に、

慶應義塾に野球部が誕生したというのも、後の彼の生涯を思えば、誠に興味深い事である。

 

という事で、「小林一三の生涯(その1)」の補足について、いくつか書いておいたが、

次回は、いよいよ小林一三が起業家として、後の阪急電鉄を生み出した頃の物語について、書き進める事としたい。