慎ましく生きろ?【Q&A】 | 幸せ感じよう★ by保志乃詩青

幸せ感じよう★ by保志乃詩青

宇宙人魂の感覚を生かして 皆様の幸せへのお手伝いしています♪
《リーディングセッション・ブレスレット、霊的感覚開花・調整、各種ご相談》

『どんな問題にも 完璧な決断は ないと 知るべきです』(by アーニー・ゼリンスキー)

 

.。.:*・゚+.。.:*・゚+.。.:*・゚+.。.:*・゚+.。.:*・゚+.。.:*・゚+

 

 

お久しぶりに、ご質問頂きました。

私なりの回答ですが、ご了承を。

 

(現実的なお話も含まれているため、ご自分と向き合うのがまだしんどい方は、「今は読まない」という選択もアリです)

 

 

※長文です。

*~*~*~*~*~*~*~*~

 

 

<Q>できないことはないと信じる宇宙人が
発達障害で脳機能的に無理な部分があるのは
身の丈(能力の制限)を思い知り現世は
障害者として慎ましく生きろという
課題と思われますか?

 

 

<A>ご質問ありがとうございます幸

 

ん~、私の考えとしては、

「そうは思わない」です。

(「慎ましく」のニュアンスにも依りますけど)

 

 

「発達障害で無理な部分があるのなら、

身の丈(能力の制限)を十二分に堪能し、

それを生かし、もっとハジケてしまおうwww」

って感じでしょうかはっふーん

 

『制限は、それを超えるためにある』by詩青。

 

 

 

 

なんと言うのかな…、

うん…、

身の丈(能力の制限)は、

それなりに弁える(認識・理解する)必要はある

かと思っています。

 

障害は「障害」として、真正面から受け止める。

 

だって、事実だしw

できないモンは「できない」しwwww

無理なモンは「無理」だしwwww

 

障害者本人が一番、自分が散々努力して苦労してきたこと分かってるわけで、「どんなに努力しても、どうにもできなかった」ということも、嫌になるくらい感じているわけで、そこは一旦、自分自身で「できない」と認めないことには、前には進めんのです。ココロも休まらんのです)

 

 

 

で、そうやって、

身の丈(能力の制限)をしっかり受け止めた上で、

「じゃあどうすればそれをカバーできるか」

ということを、考えていけばいいかな、と。

 

 

それは、「誤魔化す」「隠す」って言うんじゃなくて、

「その障害に必要なサポートは何なのか」を、

現実的に考えていくっていう意味。

 

 

「これ以上はどうにも自分一人じゃ無理だ」と理解したなら、

後は、

「どうやったらそれをサポートしてもらえるか」とか、

「それによって起きるトラブルの可能性」も、

それなりに考えていく必要あるだろうし。

 

「サポートしてくれる人」のことまで

考えていけるなら、なおヨシだよね。

 

 

 

だからと言って、

肩見せまい想いしながら生きる必要はなくて、

 

 

ただ、発達障害に限らずですけど、

 

欠点だの汚点だの(?)あれば、

それなりに、周りの人にカバーしてもらったり、

フォローしてもらったり、助けてもらったり、

そういう場面って、やっぱりあるので、

 

いくら自分が望んで障害者になったわけじゃなくても、

「ありがとう」という気持ちを持っていると、

人とのコミュニケーションはうまく流れやすくなりますよねにこっ

 

 

そういう意味での「慎ましく」は、

それなりに必要なことだと思っています。

 

 

(知っている発達障害の人の中には、「ありがとうが分からない」という人、複数いました。「感謝の気持ちが分からない」んだそうです。発達障害に限らず、そういう人は、常に『誰か』を『ネガティブに』意識しており、「思う存分自分の好きなように生きる」「誰にも気兼ねなくやりたいことをやる」という経験が少ないような気がします。辛さや苦しみのほうが心を占める割合が大きいのかもしれません)

 

 

 

 

あとね、

制限(障害)ある中にも

「楽しみ」「歓び」って、あるんですよね。

 

それを知るための<制限>だと、

私は思っています。

 

 

 

人に迷惑かけまくって、

ようやく人のありがたみも分かる。

生きるって素晴らしいと気付く。

 

また、それに気付くためには、

「迷惑をかけること」であり、

「迷惑かけた」と気付く(受け入れる)ことであり、

 

「それが≪生きる≫ということ」だと、気付くこと、

「それが≪生かされている≫ということ」

「ありがたいこと」

だと、私は思うのです。

 

(罪悪感に逃げるのは違う、とも思う)

 

 

 

で、「障害を生かす」とは、

「障害がなければできないこと」をしてゆくこと。

 

一般人にはできないこと、

山ほどできるわけだから、

そっちを重点的に愉しむってのも、

ありだと思いますにこっ

 

 

 

 

ちなみに、

この件(ご質問)について

上に問い合わせ(?)したところ、

 

おじいちゃん障害者は≪悪≫ではないぞよ。

≪罪≫でもないぞよ。

≪歓び≫であるぞ。

歓びと共に障害を選んだそなた、

制限なきあの世のつまらなさを知る者。

障害によって、成し得ていること、

はよう気付きなされ。受け入れなされ。

命の根源は全て「愛」じゃよ』

 

 

…だそうですw

 

 

 

 

個人的に考えているのは、

 

例えば障害によって人と衝突することも、

一般では有り得ない苦労や大変さがあることも、

「御霊磨きには障害はベスト!」とも思う部分あって、

 

まぁだからと言って、

自分からハードな環境を選ぶ必要もないと思うので、

 

わざわざ適応に難しい一般社会に無理して入るより、

それなりに理解のある環境で生きるとか、

そういうサポートを受けるほうが、

生きている歓びとか幸せは感じやすい気がする。

 

で、もし

「どうにも一般社会に入りたい!」と思うのなら、

理解されない部分だとか、困難な部分とかは、

ある程度目はつぶっていく必要あるんじゃないかと。。。

 

(障害のない人には、その辛さや苦しみは伝わりづらい、というのは確か。馴染めないのも致し方ない部分と思う。見てる世界も違えば、生きてる環境や価値観だって、違うと思うから)

 

 

 

障害あるなしに関わらず、

お金あるなし、能力あるなしに関わらず、

どこで何をしていても、

幸せも苦労もそれなりにあるとは思うけど、

 

「自分がどのように生きたいか(在りたいか)」

によっては、

その「苦」も「苦じゃない」んですよ。

単なる「歓びへの通り道」になってるだけだから。

 

 

そうなると、

「慎ましく生きること」も、

「障害があることそのもの」も、

 

単純に≪歓び≫でしかないのかもしれませんね。

 

 

 

 

『障害者は、「何もできない人」じゃない』

 

「部分的にできないことがある」だけで、

むしろそれをカバーするかのごとく、

飛び抜けて「できること」もあるもんだ。

 

それを隠して慎ましく…って言うなら、

「それは違うよ」と、私は思う。

 

 

うまくいかない時もあるし、

失敗続きなこともあるかもしれん。

 

でも「できること」を生かす環境や場を選ぶこと、

理解者を見つけていくことで、自分自身も「生きる」と思う。

 

 

どうにもできないことを、

「できるフリ」していたって、疲れるだけだよ。

 

無理しないで、「等身大の自分」で。

『そのままの自分』を、愛していこう。

 

 

障害があったって、

どんなにポンコツだって、

「私は私」。

 

誰にも代わりなど、できない。

 

「私」は「唯一無二の存在」、なのだから。

 

 

 

━─━─ショップからのお知らせ─━─━

★ご予約承り中!★

≪11月限定対面個人セッション≫

 *~*~*~*~*~*~*~* 

★輝く未来をあなたと共に★

↑画像クリックで詳細ページへ↑

゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚ ゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚ 

保志乃詩青ショップ

『hoshi no uta~地球(ホシ)のうた~』

http://hoshino.uta3.jp/

━─━─━─━─━─━─━─━─━