『どんな問題にも 完璧な決断は ないと 知るべきです』(by アーニー・ゼリンスキー)
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お久しぶりに、ご質問頂きました。
私なりの回答ですが、ご了承を。
(現実的なお話も含まれているため、ご自分と向き合うのがまだしんどい方は、「今は読まない」という選択もアリです)
※長文です。
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<Q>できないことはないと信じる宇宙人が
発達障害で脳機能的に無理な部分があるのは
身の丈(能力の制限)を思い知り現世は
障害者として慎ましく生きろという
課題と思われますか?
<A>ご質問ありがとうございます
ん~、私の考えとしては、
「そうは思わない」です。
(「慎ましく」のニュアンスにも依りますけど)
「発達障害で無理な部分があるのなら、
身の丈(能力の制限)を十二分に堪能し、
それを生かし、もっとハジケてしまおうwww」
って感じでしょうか
『制限は、それを超えるためにある』by詩青。
なんと言うのかな…、
うん…、
身の丈(能力の制限)は、
それなりに弁える(認識・理解する)必要はある
かと思っています。
障害は「障害」として、真正面から受け止める。
だって、事実だしw
できないモンは「できない」しwwww
無理なモンは「無理」だしwwww
(障害者本人が一番、自分が散々努力して苦労してきたこと分かってるわけで、「どんなに努力しても、どうにもできなかった」ということも、嫌になるくらい感じているわけで、そこは一旦、自分自身で「できない」と認めないことには、前には進めんのです。ココロも休まらんのです)
で、そうやって、
身の丈(能力の制限)をしっかり受け止めた上で、
「じゃあどうすればそれをカバーできるか」
ということを、考えていけばいいかな、と。
それは、「誤魔化す」「隠す」って言うんじゃなくて、
「その障害に必要なサポートは何なのか」を、
現実的に考えていく、っていう意味。
「これ以上はどうにも自分一人じゃ無理だ」と理解したなら、
後は、
「どうやったらそれをサポートしてもらえるか」とか、
「それによって起きるトラブルの可能性」も、
それなりに考えていく必要あるだろうし。
「サポートしてくれる人」のことまで
考えていけるなら、なおヨシだよね。
だからと言って、
肩見せまい想いしながら生きる必要はなくて、
ただ、発達障害に限らずですけど、
欠点だの汚点だの(?)あれば、
それなりに、周りの人にカバーしてもらったり、
フォローしてもらったり、助けてもらったり、
そういう場面って、やっぱりあるので、
いくら自分が望んで障害者になったわけじゃなくても、
「ありがとう」という気持ちを持っていると、
人とのコミュニケーションはうまく流れやすくなりますよね
そういう意味での「慎ましく」は、
それなりに必要なことだと思っています。
(知っている発達障害の人の中には、「ありがとうが分からない」という人、複数いました。「感謝の気持ちが分からない」んだそうです。発達障害に限らず、そういう人は、常に『誰か』を『ネガティブに』意識しており、「思う存分自分の好きなように生きる」「誰にも気兼ねなくやりたいことをやる」という経験が少ないような気がします。辛さや苦しみのほうが心を占める割合が大きいのかもしれません)
あとね、
制限(障害)ある中にも
「楽しみ」「歓び」って、あるんですよね。
それを知るための<制限>だと、
私は思っています。
人に迷惑かけまくって、
ようやく人のありがたみも分かる。
生きるって素晴らしいと気付く。
また、それに気付くためには、
「迷惑をかけること」であり、
「迷惑かけた」と気付く(受け入れる)ことであり、
「それが≪生きる≫ということ」だと、気付くこと、
「それが≪生かされている≫ということ」
「ありがたいこと」
だと、私は思うのです。
(罪悪感に逃げるのは違う、とも思う)
で、「障害を生かす」とは、
「障害がなければできないこと」をしてゆくこと。
一般人にはできないこと、
山ほどできるわけだから、
そっちを重点的に愉しむってのも、
ありだと思います
ちなみに、
この件(ご質問)について
上に問い合わせ(?)したところ、
『障害者は≪悪≫ではないぞよ。
≪罪≫でもないぞよ。
≪歓び≫であるぞ。
歓びと共に障害を選んだそなた、
制限なきあの世のつまらなさを知る者。
障害によって、成し得ていること、
はよう気付きなされ。受け入れなされ。
命の根源は全て「愛」じゃよ』
…だそうですw
個人的に考えているのは、
例えば障害によって人と衝突することも、
一般では有り得ない苦労や大変さがあることも、
「御霊磨きには障害はベスト!」とも思う部分あって、
まぁだからと言って、
自分からハードな環境を選ぶ必要もないと思うので、
わざわざ適応に難しい一般社会に無理して入るより、
それなりに理解のある環境で生きるとか、
そういうサポートを受けるほうが、
生きている歓びとか幸せは感じやすい気がする。
で、もし
「どうにも一般社会に入りたい!」と思うのなら、
理解されない部分だとか、困難な部分とかは、
ある程度目はつぶっていく必要あるんじゃないかと。。。
(障害のない人には、その辛さや苦しみは伝わりづらい、というのは確か。馴染めないのも致し方ない部分と思う。見てる世界も違えば、生きてる環境や価値観だって、違うと思うから)
障害あるなしに関わらず、
お金あるなし、能力あるなしに関わらず、
どこで何をしていても、
幸せも苦労もそれなりにあるとは思うけど、
「自分がどのように生きたいか(在りたいか)」
によっては、
その「苦」も「苦じゃない」んですよ。
単なる「歓びへの通り道」になってるだけだから。
そうなると、
「慎ましく生きること」も、
「障害があることそのもの」も、
単純に≪歓び≫でしかないのかもしれませんね。
『障害者は、「何もできない人」じゃない』
「部分的にできないことがある」だけで、
むしろそれをカバーするかのごとく、
飛び抜けて「できること」もあるもんだ。
それを隠して慎ましく…って言うなら、
「それは違うよ」と、私は思う。
うまくいかない時もあるし、
失敗続きなこともあるかもしれん。
でも「できること」を生かす環境や場を選ぶこと、
理解者を見つけていくことで、自分自身も「生きる」と思う。
どうにもできないことを、
「できるフリ」していたって、疲れるだけだよ。
無理しないで、「等身大の自分」で。
『そのままの自分』を、愛していこう。
障害があったって、
どんなにポンコツだって、
「私は私」。
誰にも代わりなど、できない。
「私」は「唯一無二の存在」、なのだから。
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