ブログ再開します!まずは自己紹介から!幼少期編 | サーフィンは人生そのもの

サーフィンは人生そのもの

「サーフィンを始めて自分の人生が変わったな」って心の底から思ってるんだけど、「サーフィンは人生そのもの」だよっていう想いを、ここで語ってみようかなと思う

プロサーファー秋元香那として、アラフォーママとして今までの経験やリアルな日常などなどを綴っていこうと思っています。


わたしのお話が少しでもみなさんのお役に立てたり、みなさんの励みになればとても嬉しいです。


まずはわたしのことを知ってもらうため自己紹介をしていきますね。

今回は幼少期のこと。


山形県で1981年/昭和56年12月21日1:00頃、2900gくらいで次女として誕生しました。二つ上の姉がいます。


母は、貴女は赤ちゃんの頃は本当におっぱいをよく飲む子だった、2歳くらいでは、ご飯を食べた後ちょっとすると、ご飯は?ご飯まだ?と、もっと食べたいアピールをしていたと聞いています。さっき食べたばっかりでしょう。と、志村けんさんのコントのようなことをやっていたみたい笑 とにかくご飯が大好きだったそう。


小さい頃は?小さい頃も?とても好奇心旺盛なお転婆で、幼稚園ではもっぱら外で男の子たちと遊んでいた方が多かったような気がします。もちろん女の子ともたくさん遊んでいましたよ。ピアノを弾いてみたり、なんとかごっこをしてみたり、たくさん本を読んでいた記憶があります。


5歳からは水泳を始めました。父が元水泳部だった事もあってか、身体にもいいという事で姉と一緒に通い始めたんだと思います。

スイミングクラブでは進級テストというのがあったのですが、小学校2年生くらいの時、平泳ぎがどうにも苦手で、5、6回落ちまくり、流石に親に「次落ちたらやめなさい」と言われ、やめたくないもんだから必死でがんばりましたね。そして見事合格!その後は順調に合格し続け、選手コースにまで登り詰めました。得意種目は背泳ぎ。選手生活のスタートとなりました。

水泳大会にはとにかくよく出場しました。クラブ対抗の大会や市や県の大会。

市の大会では優勝や新記録樹立の連続、ほぼ負け知らずだった気がします。ですが、県大会となるとなかなか勝てませんでしたね。小学校4年生の時の県大会ではコンマ数秒の差で2位でとても悔しい思いをしました。5、6年生の時は4位5位とかだったと思います。Jr.オリンピックという小学生の全国大会を目指して頑張っていたのですがなかなか芽が出ませんでした。

負けず嫌いで、負けてはよく泣いていましたね。負けて悔しい分、練習もよくがんばっていました。友達に会えるのも楽しく、みんなで練習するのが好きでした。


水泳をがんばる傍ら、小学校で吹奏楽部にも入りました。コレは完全に姉の真似です。姉がやってるからわたしもやりたい!と小学校3年生の時に入部。吹奏楽だけでなく、マーチングバンドをやっており、これがまたすごく強い部だったようで、ほぼ毎日のように暗くなるまで練習、顧問の野口先生とても厳しかったな。そして小学校4年生の時、日々の厳しい練習の成果が実を結び、全国大会出場が決定!優勝こそ逃したものの、みんなで行った神戸は本当に楽しかった。マーチングバンドでは嬉し泣きも悔し泣きもたくさんしたいい思い出。


ところで、今ふと疑問に思ったが、水泳と吹奏楽の2足の草鞋、どうやっていたんだろう?!全然記憶にないけど、母がうまいことやってくれていたのかもしれない。


小学生の夏休みといえば海。父の実家が山形でも海の方だったので毎年1週間~10日くらい海で過ごしていました。海と言っても、ビーチで遊ぶのではなく、由良海岸の白山島(はくさんじま)という小さな島へ橋を歩いて渡り、シュノーケリングやカニを捕まえたりして遊んでいましたね。


水泳と海、本当に小さい頃から“水”に慣れ親しんでいたんだなと思います。


こういう経験が後の「プロサーファーになる」にも繋がっていったんだなぁと思っています。


さて、今回はこの辺で。

次回は中学高校のお話。


最後まで読んでいただきありがとうございました♡

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